2話 神は働きたくない
四ッ谷にある雑居ビルの共用トイレ。
ここが本日の、原木梨愛の戦場である。
男子便器の前に立った梨愛の風格はまるで槍術を極めし者。
瞑想にふけた後、梨愛は烈火のごとくデッキブラシを突いた。
一撃の速さは雷の閃光、しかし陶器製の便器は易易と弾き返す。
そして瞬きを許さない連撃、連撃、連撃の嵐。疾風怒濤の幕劇、梨愛と相対するモノとの壮絶な闘い、ついに終焉が訪れた!
――ぽてっ。
宙に放り出されたガムの塊が落下した。
その動かぬ敗者を見た梨愛は、拳を天に突き上げて会心の喜びを表した。
「まったくオシッコしてガムを吐き捨てるってどんだけ腐った魂の持ち主なのかしら」
「それはもう原木さんといい勝負ではないでしょうか」
浮ついた正義感を剥がすその柔和な声に梨愛はビクリと反応。
そして壊れかけのゼンマイ人形のように振り向くと、そこには満面の笑みで青筋を立てる御手洗がいた。
「み、御手洗さーんお疲れさまでーす。あらやだ今の見てました?」
と梨愛が取り繕うと御手洗の顔は真顔になり。
「原木さん」
「はい?」
「私、言いましたよね」
「何を、でしょうか……?」
禁句であった。
御手洗はみるみると表情筋に地殻変動を起こし、眉間のあたりに険しい山脈を造成した。
梨愛はその時御手洗が作った鬼のような形相をこう評した。
顔でオーディンさま殺せる。と。
「あれほど、あれほど!お客さまの備品は丁重に扱うようにって注意しましたよね?」
「そ、そうでしたかね」
「そうでしたかね、じゃないですよ!先週、鳥の足跡みたいなものを壁に書き込んでクライアントに謝り倒したのはどなたでしたっけ」
「鳥の足跡とは失礼な御手洗さん!あれはルーン文字ですよ。梨愛たちアース神族はお友達になりたい相手の家の壁に、とびっきりの【エオロー】を描くんです」
またですかと御手洗はため息。
「懲りずに神さま設定ですか。原木さんいい加減に大人になりましょう。それは落書きをアートだと言い張る自称アーティストと変わりないじゃないですか」
「むむ。この人間め」とポツリと呟くと御手洗は耳に手を当ててよく聞こえないのジェスチャー。
「何ですか原木さん。反論があるならハッキリと言いましょう。私はあなたの話を聞く準備ができています」
飽くまでも鷹揚な姿勢を見せる御手洗に、梨愛は屈辱的な哀しみを憶える。
ユグドラシィールの大樹を越え、虹の橋ビフレストを渡って侵攻してきた人間軍。
仲間は殺され建物は破壊され金品は奪われ、そして……。
梨愛たちアース神族は故郷を追い出された。
神の王オーディンの命令であるブリュニーの
梨愛は少しばかり疲れていた。
「
「……すみません。自省して問題点解決のため全力で取り組みますって……あれ?」
「?」
「何かわいこぶって首を傾げてるんですか!」
「てへ」
「働いてください原木さん!」
ヴァルハラ・メンテナンスの原木梨愛といえば、仕事をサボることで有名であるが、仕事を覚えないことでも有名であった。
「さあ原木さん、今度こそ男子便器の掃除に取り掛かりましょうってまたデッキブラシ使うんかい!」
「え?だってこれなら汚れないですし、何より安全に掃除ができますよ?」
「原木さん教えたはずです。清掃の基本は適材適所、つまり使用する場所と道具の関係は常にイコールの関係であって個人の思いが反映するような不等号の関係ではないと」
「デッキブラシの方が効率的じゃないですか。トイレブラシでは顔や体が汚れないか心配ですし、あとデッキブラシより短いので何度も何度も動かさなければならないので疲れてしまいます」
「そうですねデッキブラシはさぞ使いやすいことでしょう。作業者にかかる負担を軽減できる道具ではないでしょうか」
梨愛は勝ち誇った顔をした。しかしその表情も「ただし!」という御手洗の荒い牽制があるまでの間。
「それはこの次以降も担当が原木さんであったら、の話です」
「ど、どういう事ですか」
「本来デッキブラシは床面をゴシゴシ擦る道具です。なのに原木さんはそれで便器を磨こうとしている」
「……何がいけないのでしょうか」
「原木さんしらばっくれるのはおやめなさい。もうお分かりなのでしょう?つまり、デッキブラシと便器は清掃の基本であるイコールの関係ではないのです!」
「うぐっ!」
「ウチの会社はローテーション制です。次回は必ず、別の人間が担当します。今回、原木さんがデッキブラシで便器を擦ったとしてもし傷がついたらどうなると思います?答えはそこに尿が染み込み、それが尿石となり臭いが発生するです……もうおわかりでしょう。あなた、この次の作業者以降に大きな負担を強いるつもりですか!?」
「ぎゃあああヴァルハラ・ロジック!」
このあと梨愛はみっちりと指導を受けた。
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