1話 原木梨愛

 原木ばらき梨愛りあはいつもこんな夢を見ている。


 幻想と呼ぶに相応しい淡く光る霞の空。

 神界アスガルトに架かる虹の橋ビフレストを、梨愛は鼻歌交じりのけんけんぱで渡っていた。


 薄い霧が立ち込め、まだまだ終わりの見えない七色の弧を汗水垂らして進むと、次々に鳥や動物が梨愛と戯れていった。

 アールヴという妖精族が喉が乾いていないかとハチミツを分け与えてくれた。


 視線の端で朽ちた人間の骸を見た。


 やがて薄っすらと懐かしの神界アスガルトが見え、梨愛は大気圏を突き抜けるような有頂天に。ちょうど霧も晴れた。


 梨愛はラストスパートにとちょっと大きめに飛んだ。

 しかし運の悪いことにその着地で、虹の橋が割れ、梨愛は真っ逆さまに落ちてしまった。人間の骸と一緒に。


「働いてください原木さん!」






 御手洗みたらい誠人まことは今日も怒鳴った。


「始業時間はとっくに過ぎていますよ、原木ばらきさん!」


 2022年4月、新宿にある雑居ビルの屋上。

 周りは高層ビル群に囲まれ、日照権は既に消滅。しかし唯一、陽の当たる場所が休憩スペースのボロっちいベンチだった。

 そこで毎朝、朝礼にも出ず、作業着のままおヘソ丸出しで日光浴をするのが清掃会社『ヴァルハラ・メンテナンス』の女性従業員、今年で3年目に突入した原木ばらき梨愛りあのルーティンである。

 そしてその梨愛のダメっぷりを叱りつけるのが上司である御手洗の日課であった。


 狸寝入りの梨愛は内心でいつもの調子だと高笑いをしていた。


 そしていかに粘って粘って粘り尽くして仕事をする時間を減らそうか、サボる算段をシミュレーションしていた。


 目鼻立ちの麗しい美の彫刻とも呼ぶべき上品で実直そうな顔立ちの梨愛。しかしそこからは想像もつかない愚か者である。

 ベンチから垂れる漆黒の絹糸かと見間違えるほどの美しい髪が、泣いているようにビル風に揺れていた。


 さて御手洗はカンカンだ。


「今この時間も給料が発生しているのですよ、いい加減に起きなさい!」


 入社して3日もしない内にサボり癖を発露したダメ社員を、大卒5年目の御手洗は毎日毎日叱りつけているが暖簾の方がまだ手応えがあると思える程、効果はまるで無かった。


 日課は第2フェイズへと移行した。

 通常はおたまとフライパンか目覚まし時計が主流であるが、今日は秘密兵器を持ってきた。


 フラワークリーン。

 摩擦による静電気で埃を吸着させる清掃用具である。


「これが仕事中でなければ魅力的な人なのですが・・・・・・」


 美しい女性が白い肌を存分に晒している事に御手洗の男性としての本能がチラついたものの、そこは上司を前にしてナメた真似をする彼女の勤務態度である。


 御手洗の理性が本能を上回るのは容易いことであった。


「ちょっと失礼」


 と御手洗は梨愛の顔を、もふもふのフラワーでさわっと撫でつけた。


「きゃ!」


 こしょばゆさから跳ね起こした美貌へ、御手洗は攻撃の手を緩めなかった。


 さわ。

 さわさわさわ。

 さわさわさわさわ。


「なに!?なに!?くすぐったいくすぐったい!御手洗さんやめ、やめてぇ、ぎゃっ!」


 どすんと大きな音を立てて、梨愛はベンチから落ちた。

 身動きひとつしない梨愛へ御手洗は最終フェイズに移行。

 白い歯が嫌味な笑顔で締めの一言を放った。


「さあ今日という今日は原木さん!しゃきっと仕事をしましょう。あなたにはトイレを担当してもらいますからね!」


 梨愛は白旗を上げた。


「・・・・・・承知しました」


「確保まで1分46秒。およそ3分程の記録更新です」


 と腕時計に目を遣りながら御手洗は言った。

 時間にして5分以内のターゲット制圧は御手洗史上、最速である。

 平均で10分は粘って動かない梨愛を最小限の手間で陥落させた事で、御手洗の気分は雨上がりの空のように晴れやかに。

 それからすっかりおとなしくなった梨愛を紳士っぽく促し、本日の現場に向かうのであった。


 原木梨愛がぼそっと呟く。


「なんで神さまがこんなとこで働かなきゃいけないのよ。働きたくなんかないの。やってらんないわよ」


 清掃業は4K。つまり、きつい、汚い、危険、給料が低い職種である。この日、戦闘の神である戦乙女ヴァルキュリアこと原木梨愛が入社してから通算で300回目の連行であった。

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