第8話 日常

 翌朝、新しい週が始まり俺は出社するために支度をしていた。


「お弁当を作ってあげられればよかったのですが……」


 湊夏さんがすまなそうにしている。


「いいよ、それも俺のせいだし」


 そう言って笑って見せたものの、本来の湊夏さんの作った弁当が食べられないのはさすがに残念だ。


「練習するので、期待していてください」


「うん、期待してる」


 玄関まで見送ってくれる湊夏さん。

 外に出て振り返ると、目が合い思わず唇が目に入る。


 少しかがんで顔を近づけようとしたところで、居間からニヤニヤしながらこっちを見ているジャーフィンが見えた。

 こ、これは気まずい……。


 だが固まっている俺の視線で状況を理解したのか、湊夏さんが顔を寄せてきて唇が触れ合う。


 ジャーフィンがヤレヤレといった感じで肩をすくめているのが見える。

 このままこうしていたいような、照れ臭くてこの場をすぐに離れたいような。


「お仕事がんばってくださいね」

 

 そうだ、もう一人ではないんだ。

 これは引き締めていかないとな。


「うん、行ってきます」


「行ってらっしゃい」



 仕事場は朝会で復帰祝いの拍手をもらった以外は一見いつも通り。

 でもしばしば俺の怪我に対する気遣いを感じるのは嬉しい限りだ。

 そうした同僚たちの助けもあり、仕事も滞りなく進められた。


 昼食の時間は同僚に誘われて近くの定食屋へ出向く。

 入院中に見舞いに来てくれたメンバーから、湊夏さんの話題が出て盛り上がってしまった時は少し困った。

 馴れ初めを聞かれても答えようがなく、生返事でごまかすしかなかった。

 この辺、設定を煮詰めておかないとまずいかもしれない。


 午後もいつもと変わらず平穏にすぎていった。

 やがて定時になると仕事場のみんなに背中を押されるように退社する。



 最寄り駅で降りると自宅までまっすぐ戻る。

 そういえば今までなら途中のコンビニで立ち読みしたり、弁当を買ったりしてたなぁ。


 アパートの部屋の玄関脇の窓から明かりが漏れているのがわかる。

 今までは帰る部屋があればそれでいいと思っていたけれど、そこで待っている人がいるというのは格別の安心感がある。


 階段を登ると部屋の中が何やら騒がしい。

 玄関のドアを開けるとジャーフィンが飛び出して俺の背後に隠れる。


「あんた、助けなさい!」


 続いて皿と箸を持った湊夏さん。


「あら大悟、おかえりなさい。早かったですね」


「どうしたの?」


「ジャーフィンが料理の練習に協力してくれると言うので」


 ああ、なるほど。

 俺を盾にしたジャーフィンが背後で叫ぶ。


「冗談じゃないわよ!!そんなの100%毒入りの毒見じゃない!フル装填の拳銃でするロシアンルーレットじゃない!!」


 うんうん、わかるわかる。


「大丈夫だよ。お料理研究会の主人公は原作では割とすぐに料理が上手くなるんだから。そうだな、2巻ぐらいで?」


「わけわかんない!だったらあんたが食べなさいよ!」


「いやいや、俺は明日も仕事があるから」


「なんなのよ、それ!!」


 猛るジャーフィンの手を湊夏さんが掴んだ。


「さあジャーフィン、協力してください。一口だけでいいですから」


 マッドサイエンティストのごとき形相で湊夏さんが迫る。


「い、いやー!!」


 湊夏さんの手を振り払い玄関から逃げ去るジャーフィンの悲鳴。

 すぐさま湊夏さんもお皿と箸を持ったままジャーフィンを追って飛び出していった。

 さらばジャーフィン、君の尊い犠牲は無駄にはしない。

 玄関は開けっ放しだけど、まあすぐ戻ってくるでしょ。

 あと近所迷惑だから、静かにね。


 当面はこれがうちの日常風景になるのかな。

 それも楽しそうだと思いながら居間に入ると、テーブルの上にジャーフィンが連れていた黒猫が座っている。


「そういえばお前、なんて名前だっけ?」


 腰を掛け一息ついて猫に聞いてみる。

 もちろん答えがあるはずもないけれど、黒猫は俺の目をじっと見てしっぽをパタパタ振っている。


「お前っていつもどこにいるんだ?」


 頭を撫でようと手を伸ばすと、スルリと脇を駆け抜けて玄関から出て行ってしまった。

 嫌われてるのかなぁ。


 入れ替わりに湊夏さんとジャーフィンが戻ってきた。

 ジャーフィンは戻ってきたというより、湊夏さんに連行されてきたというべきか。


「うう……、口の中がヌルヌルネバネバして変な味がする……」


 湊夏さんの料理はまだ食べられないようだ。


「ジャーフィン、猫が出て行っちゃったぞ」


「そう?まあそのうち帰ってくるでしょー」


 あれ?そういう感じなの?結構ドライだな。


「あの猫、名前はなんていうの?」


「305」


「え?」


「305よ。別にあたしのペットとかじゃないから」


 それじゃ一体?


「簡単にいえば組織のお目付役よ。まあ実際には組織なんてないんだけど。本当ならあいつが組織の指令を仲介するのよ」


「そうなんだ」


 猫が指令を仲介?まあ元を正せば俺の妄想からできた設定な訳だけど、不思議な話だなぁ。


 その夜はジャーフィンの肉じゃがに味噌汁が振舞われた。

 一人でいた時には考えられなかった家庭的な食卓。

 湊夏さんには申し訳ないが、ジャーフィンがいてくれて本当に助かる。


 このジャーフィンの料理が上手い設定は俺が考えたのだろうか?

 ジャーフィンに関してそこまで詳細な設定をしたとはどうにも思えない。

 猫の件と言いどうも俺の能力にはフワッとしたイメージをかなり補完する機能もある気がする。

 その機能がどんな風にどのくらい働くのか、謎は多いな。



 その夜、俺は暗闇の中で目を覚ました。

 ベッドの中、隣では湊夏さんの寝息。

 何か体が重い。

 誰かの声が聞こえる。


「終わった訳ではないぞ」


 なんだって?

 見ると、胸の上に黒い影のようなものが。目を凝らすと305が座っていた。


「今の、お前か?」


 だが305は答えず部屋の奥の暗闇に消えていった。

 ……。

 いや、猫が答えるわけないじゃないか。


「どうかしましたか?」


 いつのまにか湊夏さんが目を覚ましていた。


「ごめん、起こしちゃった?305が胸の上に寝てたから」


 あの声は気のせいだろう。

 きっとそうに違いない。

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