第4話 その人の名は

 初対面の、しかもこんな絵に描いたような、俺の妄想の限界に挑んだような美少女に、俺はいきなり名前を呼ばれた。

 苗字じゃなく、名前。

 『さん』とか『君』とか、あるいはその他敬称の類もつけない、名前。

 つまりそういう非常に親密な間柄の場合のみに使われる、呼び捨てという行為。

 いや、別にそこまで極まってるとは限らないかもしれないけれど、とにかくそういう特別な関係を表している可能性が統計上非常に高く有意な傾向であると……


「大悟、どうしました?」


 少し訝しむような、不安なような、そんな目つきで彼女は俺を見ながら再び声をかけた。


「え……あ……いや……」


 彼女の何でもない一言がいちいち俺にとって衝撃となり、俺は上ずった声でしどろもどろな反応をしてしまう。


 ボクシングで言ったらストレート?いや、不意打ち的なところはフック?まあボクシングはよく知らないんだけど。


 思考がそんなどうでもいい蛇行を繰り返している間にも、彼女の表情はますます曇っていく。


「気分が悪いのですか?頭痛がしますか?」


 ……。

 ああ、そうか。

 彼女は心配しているんだ。


「いや、大丈夫、だよ」


 舌をもつれさせながら発したその言葉はちゃんと彼女に届いただろうか。


「そうですか、それは良かった」


 俺の顔を覗き込んでいる彼女の曇った表情は、一瞬の間を置いた後まるでコインを裏返したかのようにパッと明るくなった。

 ていうか、近いよ。


 彼女はベッド脇の椅子に座り直し、言葉を続けた。


「目覚めたばかりで多少の混乱があると思いますので、まずは現状の説明をしましょう」


 そう言うと彼女は言葉通りに俺の今の状況を説明し始める。

 つまり俺がイベント帰りに交通事故にあったこと、近くの救急病院に運ばれたこと、全身軽度の打撲と右足の骨折があるがそれ以外は現時点で特に問題ないこと。


 そして俺の帰りを待っていた彼女のもとへ電話があり慌てて病院へ来たこと、二日間俺が目を覚まさず不安だったこと。


 ……。

 いやちょっと待って。

 いまのはおかしくなかった?

 俺、独身。彼女なし。一人暮らし。

 主食はカップ麺とか袋麺とか、レトルト食品とか、コンビニ弁当とか。あとちょっと自炊。

 いずれにせよ基本は一人飯。


 つまり彼女がアパートの部屋で帰りを待っていた、という話とは致命的な齟齬がある。


「俺の帰りを待ってた?」


 思わず疑問が口をついて出た。


「はい、待っていました。嫁としては当然のことと思います」


 嫁。嫁って言った、今?

 よめ、女偏に家と書くあの『嫁』?


「嫁?」


 また思考がそのまま口に出てしまう。

 狼狽が極まると思考と発言の間にある水門が駄々開きになるらしい。


「はい、嫁です」


 そして彼女は彼女で何の躊躇も疑問も混乱もなくそれを肯定する。

 でも、だって、しかし……。


「でも俺、君の名前も知らないよ!」


 俺は思わず少し大きな声を出してしまった。

 だが彼女は全く動じることもなく、冷静に答えた。


「ああ、そういえば自己紹介がまだでしたね。私の名前は伊勢原 湊夏そうか。あなたが創造したあなたの嫁です」



 湊夏……さんが言うには彼女は俺の『能力』で創り出されたんだそうだ。

 彼女は2日前の夜、つまり俺がまさにトラックにはねられたあの日、俺によって創り出されたらしい。


 『創り出された』のは話を聞く限り、ちょうど俺がトラックに跳ねられた時刻に一致するようだ。

 つまり神様のもとに呼び出されたのもちょうどその時刻で、あの変な空間にいた間は現世での時間はほとんど経過していないらしい。


 じゃあ、あの夢は本当だったんだろうか。


 彼女が万が一何らかの怪しげな人物、美人局とかそういったもの?である可能性も疑わないではなかった。

 だが話を聞いている限り、彼女自身が言っているような人物でなければ他人ではどうやっても知りえない情報を知っているし、どうやらそういった心配は無用なようだ。


 ……いや、だからといって彼女が謎の存在であることには変わりないな。


 俺が創り出したって?

 つまり彼女は俺の妄想の産物?

 自分で希望しておいてなんだけど、神様からもらった特殊能力とはいえ人を一人妄想から創り出しちゃうって、色々ヤバイ能力じゃないだろうか?


 神様は『現世を混乱させるのはまずい』と言ってなかっただろうか。でもこの能力はすでに十分に混乱させる気がする。

 ほんとに大丈夫なの?神様。


 ただ彼女自身は、なんていうか見た目は俺の妄想の極致を描いたような美少女だが、行動はごく普通の女の子だった。

 それに俺の嫁を自称するだけあって甲斐甲斐しく俺の世話を焼いてくれる。

 少し喋り方が硬いというか丁寧すぎるところも、病院で数日を過ごすうちにそういうものだと思えてくる。

 俺は自分でも驚くほどすんなり彼女を受け入れていた。



 骨折は少しヒビが入った程度のもので、リハビリもせいぜい松葉杖の使い方のレクチャーと練習程度で、湊夏さんの付き添いもあったので全く苦にはならなかった。

 入院中は退屈する、なんて話を聞くがそんなことはまったくない。

 幸せすぎて怖いってこういう事を言うのだろうか?


 ……。

 なんだろう、この充実ぶりは。

 これ、あとでなにか致命的なものを支払わなきゃいけないやつじゃないですよね、神様?

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