第1469話 引き寄せられていきました



「……」

「あ、そ、その! わ、私はですね。タクミさんに抱き締められると、本当に、幸せなんです。幸せというのは、こういう事なのかと、思ってしまうんです! それこそ、寝るのが遅くなってしまって、ぼんやりした朝も、ちょっとだけ気持ちがささくれだっている夜も……タ、タクミさんに抱き締めらると、全部どこかに行って……」

「う、うん。わかった。クレアの気持ちはわかったよ。だから少し落ち着こうか……?」


 俺はどう言葉を掛ければと考えていただけなんだけど、沈黙に耐えかねたクレアが思いの丈をぶちまけ始めた。

 恥ずかしさが頂点に達したのかもしれない……上限はあったようだ。

 顔を背けたままだけど、顔や首だけでなく肌の出ているところは全て赤くなっているクレアが、矢継ぎ早に詰まりながらも言い募るのを、肩に手を置いて落ち着くよう促す。


「はっ!? は、はい……スゥ……はぁ……」


 俺に触れられてか、ビクッと体を硬直させたクレアが、ゆっくりと肩の力を抜いて深呼吸。

 まだまだ冷静じゃないとは思うけど、少しくらいは落ち着けたかな?


「その、なんて言ったらいいのかわからないけど、うん。ありがとうクレア。おかげで、苦しい気持ちや辛い気持ちは全部吹っ飛んで、幸せな気持ちになれたよ」


 あの不思議な感覚、状況的には頭が煮立ってしまってもおかしくないような状態ではあったけど、それでも凄く安らぐ気持ち。

 嫌な気持ちは全てどこかへ飛び去って、ただただ幸せを実感していた。

 安らぎと一緒にあの時感じていた、心から湧き立つような気持ちは間違いなく、幸せな気持ちと言うのだろう。


「本当に、クレアのおかげでさっきまで感じていた、どことなく息苦しいような気持ちも、全部なくなったよ。ありがとう」


 突然の事で驚いたけど、俺のためと衝動的であってもそうしてくれた、クレアの気持ちに感謝し、少しでも落ち着いてくれたらと思い言葉を続けた。

 それと同時に、どういう反応をされるのかという不安がありながらも、顔を背けているクレアの髪に指を絡ませ、さっきやってくれていたように優しく撫で下ろす。


「タ、タクミさん……」


 顔をこちらに戻したクレアは、瞳を潤ませながらも少しトロンとしているように見える。

 髪を撫でるのは、嫌じゃなかったみたいだな、良かった。

 安心する内心とは別に、クレアを見て跳ね上がる鼓動と共に目が離せなくなる。

 なんだろう、これは……クレアと俺の間に、引力でも発生したかのように、今は赤くなっている透き通った肌。


 潤んでいる瞳。

 それから、ほんの少しだけ隙間が空いている、柔らかそうな唇。

 それら全てから目が……いや、俺の意識そのものが離せない。


「クレア」

「タクミ、さん……」


 自然と口から出たクレアの名。

 それに応えるように、クレアの口からも俺の名が。

 ゆっくり、ゆっくりとお互いの顔が近くなっていく。

 鼓動が激しくなり、口から出るんじゃないかとか、クレアに聞こえるんじゃないか……なんて頭の片隅で考えていたけど、それだけでは引き寄せられる引力みたいな物に逆らう事はできない。


 その引力のようなものは、俺とクレアの間で発生しているのだろうか? それとも、クレアかもしくは俺か。

 お互いの顔が近付いて行く……俺の右手は、クレアの髪を絡め捕ったまま。

 クレアの右手が俺の左手を捕えて、指と指を絡ませる。

 左手は俺の頬に。


 お互いの手の動きが無意識なのを示すように、見つめ合ったままゆっくり、ゆっくりと近付いて行く。

 鼻が触れ合う程の距離になった時、クレアが目を閉じた。

 ゆっくり、ゆっくり……数分、数時間、永遠ではないかと思えるくらいの時間を経て、重なり合う二つの影。


「ん……」

「んぅ……」


 そうして、重なる二人の唇。

 柔らかさとか、レモンの味だとか、そんな事は関係なく、ただただ重なって離れない俺とクレア。

 繋がる二人の心……確信できる、俺とクレアは今同じ事を考えていると。

『このまま、時間が止まればいいのに……』と――。





 ――どれくらいの時間が経ったのか、よくわからないけどいつの間にか完全に日が落ち、外は暗くなっていた。

 執務室の扉をノックする音が聞こえ、慌てて離れる俺とクレア……どれくらいあぁしていたかはわからないけど、多分実際には数分くらいかなと思う。


「失礼します……どうかされましたか?」

「あ、いえ……なんでもありません」

「気にしないで」


 入室の許可を出して、入って来たのはアルフレットさん。

 ライラさんは、まだテオ君と一緒かな。

 俺達の様子を見て、首を傾げるアルフレットさんに俺もクレアも誤魔化すように、苦笑しながら返した。


「……そういう事にしておきましょう」


 何かを察した様子のアルフレットさんが、俺達から視線を逸らしながらそう言った。

 具体的な事はわからなくても、何かがあった事は一目瞭然だよな。

 クレアの顔は真っ赤だし……多分俺も、頬どころか全身が熱を持ったみたいに暑いから、赤くなっているだろうし。

 あと、仕事を手伝ってもらっていた時とは違って、俺とクレアの間に妙な空間があるというか不自然に離れてもいるからな。


 ……執務机の両端に別れて座っているなんて、何かあったと言っているようなものだ。

 書類は、机の中央に集められているのに。

 クレアさんは、恥ずかしさに耐えるように両手で自分の頬を包んで俯いているし。


「え、えーと……アルフレットさん、どうしたんですか? 追加の仕事、というわけではないみたいですけど」


 気恥ずかしい空気を変えるように、アルフレットさんに用件を聞く……早口になってしまったのはご愛嬌だ。

 アルフレットさんは書類を持っていたりはしないので、追加を持ってきたわけではないだろう。


「夕食の支度が整いましたので、主様とクレア様をお呼びに参りました。レオ様も、リーザお嬢様達と共に戻って来ておられます」


 主様、というのはエッケンハルトさんが一緒にいる時限定にしたはずなんだけど……とりあえず、呼び慣れるために今日はこのままみたいだ。

 今更ながらに、旦那様の方がまだマシだったなと思い、いっそ戻してもいいかと相談した意味を失くしてしまいたくなった。

 せっかく決めた事だけど、近いうちにまた相談しようそうしよう――。



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