第3話 蜘蛛と蛍ー長慶と久秀 二
さわさわ---と夏の風が麻の几帳を揺らした。長慶は、じっとりと汗に濡れた額を手の甲で拭った。
遠くで、邯鄲の鳴く声が聞こえた。
肩でひとつふたつ、大きな息をして、身体を起こそうとするが---力が上手く入らない。
床に伏すようになって、どれくらい経つだろう。気怠さは日増しに酷くなり、目を開いていても、眼に映る景色は朧に霞んで、現のものとは思えない。
―殿、お目覚めでございますか?―
侍女が遠慮がちに室内を覗きこむ。
―耳盥をお持ちしました。お身体をお拭きしましょ。―
―頼むわ---。―
細い、途切れそうな息で、長慶は手を延べた。年若い薄紅の頬をした侍女に手を預け、身体を起こしてもらう。よく肉がついて、滑らかな肌は夏の陽を弾いて、艶めいている。
―命婦は、幾つになった?―
冷やした布で、首、肩、背中を手際よく拭っていく侍女に、言葉をかける。
彼女は、汗で解れた髷の毛を丁寧に撫で付けて、ふんわり、応えた。
―十九にございます。―
―ほうかぁ---えぇのう。―
がっくりと落とした肩は、ひどく痩せている。
ここしばらく、食も喉を通らず、水を含むことも億劫だった。
―夢をな、見ていた。―
ぽつり、と長慶の唇が呟いた。
―夢?―
―そうや。蛍をな、見ていた。―
長慶は、阿波の生まれである。山河の美しい土地だった。吉野川---という、大きな緩やかな川の近くに、長慶の生まれた館はあった。
清らかな水を満々と湛えた傍らの河原は広々として、白い玉石にはいつも光が降り注いでいた。
周囲には花樹草木がふんだんに生い茂り、春の桜、秋の紅葉もそれは見事なものだった。
中でも、夏、露を帯びた草の上を、淡い光を放ちながら、沢山の蛍が飛び交うさまを母や弟達と眺めるのが好きだった。
―そりゃあ、見事なもんやで---。小さな光の粒が、そこら一面に点いたり消えたり---ふわふわ舞い踊ってな---この世のもんとは思えん眺めやった---。―
十一の歳に、被官している父に伴われて、故郷を離れた。畿内の館に住み、やがて将軍の御所にも上がるようになった。
公家の女官だった母に似て、長慶は品の良い見栄えのする男だった。京の都にいても、人の目を引いた。
と同時に、長慶は、自由な男でもあった。物や人が盛んに行き交い、様々な異国の新しいものが溢れる堺の街が、この上なく好きだった。
―生きておるなぁ、この町は---。―
いつしか、この町は長慶の憧れになった。この国をこういう自由な国にしたかった。
しかし、長慶の住む武家の社会は旧弊で窮屈で、新しいものを取り入れようとする長慶達の思いは、様々に阻まれた。父を叔父を殺され、長慶自身も、何度も生命を奪われかけた。
古い武家社会の象徴である将軍家を京都から追い、新しい政(まつりごと)の仕組みを作ろうとする長慶の試みは幾度もの争いを招き、長慶はその度に刀を取らねばならなかった。
―わしは、戦は好きやない。力で治める世は殺伐としてて、嫌や。---―
権謀術数に疲れた長慶を慰めてくれたのは、茶の湯だった。静かな茶室の侘びた空間の中で、身分も立場もなく、客と主人が心を尽くして向き合う---その自由さが好きだった。
当代の一番の茶人に師事を乞い、妹も商人ながら、将来有望な会合衆の茶人に嫁がせた。
千宗易というその男は、長慶の良き友でもあった。
―市中の山居、言いましてな---―
町家の中庭にしつらえられた架空の山河は、長慶の心の内の故郷をいたく刺激した。
―帰りたい---のぅ。―
畿内の政権を確立し、天下を治める長慶に、既に自由は無かった。
長慶は、疲れていた。愛する息子を落馬という不幸な事故で失い、頼みにしていた弟も病で逝った。
それでも---
―殿は、天下人でございましょう。心弱いことを申されますな。私めがお側におりますゆえ---。―
忠義の固まりのような三好家の執事は、いつも慇懃な、しかし押し潰すように、そのかさつく声で窘めた。
松永久秀というその男が、長慶は怖かった。元服してすぐに側に着くようになった父の右記(ゆうひつ)であるその男は、極めて有能だった。舌を巻くほどに頭の切れる、同時に清濁を問わない働きぶりで三好家を盛り立ててきた。
―しかし---―
暗い、眼をしていた。
底なしの闇をみるような恐ろしさがあった。
そして、その瞳が、滑るような絡みつくような眼差しで見詰めている。
長慶は、言葉にならない空恐ろしさを感じていた。
久秀の視線に合うと、自分が、蜘蛛の巣に囚われた羽虫のように感じた。
じわじわと絡め取られ、食らい尽くされる---そんな気がした。
息子の義興が亡くなり、弟が亡くなる---その度に、その酷薄なだが妙に赤いその唇に薄笑いが浮かんでいるように思えた。
今ひとりの弟、冬康が謀叛を起こそうとしている---そう言われた時、―まさか―と思った。思いながら、久秀の暗い、強い眼差しに抗しきれず、冬康を討たせてしまった。讒言とわかっていて否定しきれなかった。
―怖ゃ---。―
と思いながら、いつも抗えなかった。長慶を故郷から引き離し、家族や身内から引き離し---久秀は笑みを浮かべて両手を拡げる。
―私が、お側におりますゆえ---。―
長慶は、もはやその視線に耐えきれなかった。
病んで、尚、心は言い様の無い恐怖に囚われていた。
―早ぅ逝きたい---。―
長慶は、ますます熱を帯びる夏の夕暮れにもがいていた。早くこの肉体を去って、蛍になりたい。
蛍となって、故郷の山河を自由に飛びたい---。
その妄想の中に、唐突に、あのかさついた声が囁いた。
―私が、わが籠の中にて愛でてしんぜましょう。---―
長慶は、はっ---と目を開けて、辺りを見た。
近習が部屋の辺に座し、深々と頭を下げて、告げた。
―松永弾正さま、お見えでございます。---―
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