第2話 蜘蛛と蛍ー長慶と久秀 一

どこかで、鐘がひとつ、ご――んと鳴った。

―六つ時か---―

 松永久秀は、つぃ---と首を巡らせた。格子越しの空は茜に染まり、他は何も見えない。

―血の色は、もっと紅い---。―


 久秀は、しゅんしゅんと鳴る、茶釜を見た。古天平蜘蛛---世に名高い茶器の妖しげな蠢きに一時、見惚れ、そして、指先を伸ばし、蓋を取った。

 柄杓でゆっくりと湯を掬い、茶碗に注ぐ。

 主とともに堺の高名な茶人に師事し、歳月を重ねて会得した作法は、やはり見事だった。

 しゃしゃ---と茶筅を使う音だけが、静まった茶室の内に零れる。

 床の間には、おだまきが一枝、白磁の瓶から首を延べている。軸は墨で黒々と記された小野篁の和歌---真筆と聞くが、定かではない。

 久秀は、微かに膝を揺らし、瑞やかな浅緑の茶を満たした黒天目を、音もなく客の座に勧めた。

 そこには---紫の綸子の布に載せられた小さな骨がひとつ---。

 久秀は、そちらに身体を向け、ひそ---と呟いた。

―殿との茶会も、これで終いやもしれませぬ。―

 骨は、何も語らず、白々とそこにあった。


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 久秀が、『その方』と初めて会ったのは、三好家に右記(ゆうひつ)として仕え始めたばかりのことだった。

 身分は低いが、並々ならぬ才気がある―と評判の摂津の土豪の倅が、将軍家の執政にあたる細川家の被官、三好家に奉公するようになって、はや三月。

 目から鼻に抜けるような、才に長けた久秀は、主の覚えもめでたく、早々に嫡子と目通りすることになった。

「長慶じゃ。わしは阿波の田舎者ゆえ、世事には疎い。お前が扶すけてやってくれ。」

 平伏していた顔を上げると、可愛らし気な公達が切れ長の眼で、じっと久秀を見た。そして、たおやかに、にっこりと笑った。

 久秀は、一瞬にして心を奪われた。

 久秀は、元来、『美しいもの』が何より好きだった。そして自分の卑しい質が何より嫌いだった。所作も筆も、人一倍努力して、自分でも満足できる『美しさ』に至るまで、必死に磨いた。

 目の前に座す、十二才の若き公達は、まさに美しかった。すっと延びた背、白磁の肌にうっすらと紅をはいたような頬、わずかに受け口めいた唇は桃花のようだ。その花弁がひらりと開いて、久秀に微笑みかけた。

―長慶じゃ。よろしゅう頼む。―

―は---。―

 久秀は、蛙のごとくその場に突っ伏して、さわさわと風の鳴るような声を聞いた。

 久秀は、それから一層に精進した。主君親子とともに、将軍のもてなしの席にも臨めるほどに身を磨きあげた。

 ただ常に側にあれるよう、他の誰よりも近くにあれるよう、智も技も芸も磨いた。


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 その頃、畿内は荒れていた。将軍と執政の細川家とは、いかようにも折り合いが悪く、将軍親子を近江に追い払い、実権を握らんとした事もあった。

 そして、その主家たる細川家と三好家の関係も日に日に悪くなっていった。

 そのような日々の続くなか、長慶の父、三好家の当主が、暗殺された。

 蒼白になり、ふるふると震える長慶の手を握りしめて、「仇を射たれませ」と励ました。白い、指の長い滑らかな手だった。ゴツゴツと節くれだった浅黒い自分の手が恥ずかしかった。


 露に濡れた睫毛をしばたたかせて頷く、潤んだ瞳があまりにも可憐だった。


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 三好長慶は、君主としては実に有能だった。公達然としたはんなりとした容姿にそぐわないほど、戦も強く、治世にも長けていた。

 久秀は、眩しく仰ぐばかりだった。

 実際のところ、『三好家』は強固だった。阿波の本領を弟がしっかり守り、長慶は憂いなく畿内の統治に専念できた。

 だが、その『御家』の強固さは、久秀と長慶を隔てる厚い壁でもあった。

 松永久秀が、三好家の執事として、実権を握るには、その『壁』が邪魔だった。何より、長慶と自分の間に立ち塞がる親しい者達が憎かった。


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 久秀は、大和に所領を与えられた時、失意を禁じ得なかった。活気のある摂津や山城と異なり、古の時の中に沈んだようなこの土地に埋もれるのか---と呆然とした。それ以上に、長慶と引き離された---と悔しがった。長慶以外の者達には、重臣ではあるが、信頼されていない---ことを悟った。身分の低さが呪わしかった。


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 大和には、寺や古社が多い。至るところ塚だらけである。まともに城を作るには、塚を壊すしかない。

―祟られようぞ。―

と口々に言われたが、そのようなことを怖れる久秀ではなかった。

―祟りがある、と言うのなら---―

 久秀は、はた、と気づいた。そして、ある社に祈願に通いつめるようになった---。

 武運長久を祈る---のでは無い。呪詛---であった。

―自らと長慶を隔てるものを滅せよ---―

 せめてもの気晴らしでもあった。


 その祈願は、成就するはずでは無かった。---が、長慶の愛息、義興が落馬によって早逝、頼みにしていた弟も病に倒れた。

―もしや、これは---―

と思った。

 うち続く不運に、長慶は病を発していた。久秀は、その病に、日々生気を失っていく長慶の姿に胸を痛めた。が、それ以上に、悲運を嘆き、もの狂いのように心を痛める長慶の様は、それまで以上に心を惹いた。

 血の気を失った青ざめた頬も、宙を泳ぐ生気を失った瞳も、---まるで人形のような長慶の横顔を眺めながら、久秀は、内心でうっとりとしていた。

―病んでまで、貴方はこんなにも美しい---。―

 何より嬉しかったのは、病に苦しむ長慶は、他の誰よりも久秀に縋った。

 日増しに痩せていく指を握りしめながら、ひとりひとり邪魔者を消し去っていく快感に酔い痴れた。

 一番邪魔だった、安宅冬康も、讒言を重ねて葬り去った。

 

 そして---長慶は、病み衰えて、死んだ。久秀は、自分の腕の中で、もはや虚ろとなった亡骸を掻き抱きながら、―このまま持ち去りたい----―と心底から思った。

 しかし、そのようなことは叶う筈もなく---久秀は、荼毘に伏され埋葬された長慶の遺骨から、こっそり喉仏の骨を持ち去り、ここ信貴山の城に隠した。 


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―あれから、幾年が経ちましたかのぅ。---―

 久秀は、ず---と茶を喫しながら呟いた。

 久秀は、あれからもずっと『美しいもの』を追い求め続けた。畿内がどれほど混乱しようと、悪行を重ねようと、久秀にはなんの後悔も悔恨も無かった。

 誰にも執着もなく、思いを掛ける事もなかった。

 長慶の娘である妻の産んだ子は、自分に似ており、だが長慶の血を受けていると思えば、愛おしかった。

 長慶の孫、義継には、長慶の面影を見て、これを扶けようとは思った。


―なれど、全て紛い物で御座いましたな---。―


 『美しいもの』はすでに絶え果ててしまった。いや、自らの手で「壊して」しまった。


 ―わしは、こんなにも老いて、なおも醜うなりましたわ。―

 久秀は、皺だらけになった己が手をじっと見た。この手で掴みたかったのは、何だったろうか---―


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「殿!」


 やにわに外が騒がしくなった。


「信長の軍勢が、近づいているよしにございます。」


―来たか---下郎が。―


 力を恃みに造る世は、殺伐として、美しゅうない---そう言って、仄かな憂い顔で呟いた長慶の面影をふと思い出した。


―浄土の殿を、地獄の底から仰ぎ奉る---―


 一本の情念の糸をその指に絡みつかせる黒い蜘蛛となり、地獄の底から這い出して、再び会いまみえん---―


 久秀は、真っ白な骨を丁寧に包み直し、懐深くしまって、ゆらり---と立ち上がった。


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 平蜘蛛の茶釜とともに、爆死するまで、あと三日。

 盲執に生きた男の最期の時が近づいていた。

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