夢幻泡影

葛城 惶

第1話 流星ー元親と秀吉

 「ささ、此方へ入られよ。」

 秀吉は、節くれだった指で、元親を聚楽第の屋敷の一室に招き入れた。

 そこは、屋敷のうちでも、特別な一室らしく、広間や他の大名達の暮らす棟、女達の住む奥御殿とも遠く隔たっていた。

 供に付いてきたのは、大野治長ただひとり---だが、それも元親の腰のものを預かると、早々に控えの間に消えた。

 元親は、長身をやや屈めるようにして、室内に足を踏み入れた。

 そこは、まるで異国だった。虎の皮の敷物、湾曲した脚の優美な卓と椅子---花鳥の精巧な透かしが施された紫檀のそれは、先頃の出兵の折りに誰かが献上品として持ち帰ったものだろう。他にも時を刻むカラクリやら、異国の壺やらが所狭しと並んでいる。

―宝物の部屋か---。―

 あたりを見回しながら、元親は呟いた。この部屋の主は、小柄な身体をひょこひょこと動かし、だぶついた金蘭の羽織の袖をもてあましながら、螺鈿の棚からギヤマンの瓶と杯を取り出した。

「まずは一献。」

 赤紫の酒が注がれ、枯れた樫の枝のような手が、元親に勧める。

「西洋の酒でな、『わいん』とか言うそうじゃ。長生きの薬と聞いておる。ささ---。」

 元親がくいっ---と空けると、皺だらけの目元が、に---と笑う。

 「美味かろう?せんだってな、伊達の小僧に振る舞ってやったら、たったの一杯で、小娘のように顔を真っ赤にしとったわ。」

 「伊達殿は下戸ですからな---。」

 「うむ。それもヤツの可愛いところよ。」

 秀吉は、今一度、酒を注ぎ、元親に勧めた。

 「太閤殿下は、伊達殿がお可愛いようで---」

 「うむ。若造がな、精一杯背伸びをして、わしらに追い付かんと足掻いておる。それが可愛い。」

 「お年の頃は、真田の御次男と同じくらいではありませんでしたかな?」

 「うむ。真田は真田で可愛げがあるがの。ちくと違う。真田はまっすぐで、一本気な所が良いが、つまらん。」

 秀吉は、ニヤリと笑った。

 「伊達の小僧は、なんとか我らを驚かそうと、奇抜な事を考えては、得意気になっとる。面白い。---しかも嫌味がない。」

 秀吉は扇子で口許を隠して囁いた。

―三成や治長には出来ぬ芸当じゃ。―

 元親は、苦笑いを禁じ得なかった。真面目ぶった三成の苦虫を噛み潰したような青白い顔が目に浮かんだ。

 「それで、殿下は伊達殿をお許しになったのですか?」

 元親の問いに秀吉は、自らの酒を干し、もう一杯---と元親に催促しながら言った。

「わしは才のある者が好きじゃ。他に無いものを持ったものに憧れる。」

 秀吉は、手の甲で口を拭って言った。

 「わしは、『憧れ』の強い男でのう。自分に無いものを持っているものに憧れる。

 苦労して奉公して、戦場を泥まみれになって走って、遂には天下を手に入れたが、それでも手に入らない物もある。」

 ふ---と、秀吉の面差しに影が走った。

 「お市さまのことですか---」

それもある。---と秀吉は、頷いた。

 「わしは、誰よりも大殿に、信長公に憧れていた。しかし、信長公の目指していた天下布武---を成し遂げてはみたが、やはりわしは、信長公にはなれなんだ。---やはり、憧れは憧れでしかない。だから、わしは、『憧れる』ものは、手に入れるではなく、傍らに置いて眺めることにしたのじゃ。」

 元親は、秀吉の眼差しが、じっ---と自分を見ていることに気付いた。

 「では、殿下は、伊達殿を眺めて仔犬のように愛でて楽しんでおられるわけですな。」

 「ありゃぁ猫じゃろ。たまに爪を出そうとするゆえ、油断ならん。---が、可愛い。」

―はぁ成る程---。―と元親は思った。そして、冗談混じりに秀吉に言った。

 「私をお赦しなされたのも、眺めて楽しまれるためですかな。」

 「そうじゃ。」と秀吉は、あっけらかんと言った。

 「そなたからは、異国の匂いがする。そなたがいると異国の風を感じる。」

 秀吉は、じぃっと、元親の眼を見た。端から見ると気付きづらいが、元親の瞳は濃い紫色をしていた。色の薄い茶色の髪、彫りの深い鼻筋の通った細面の顔---長身で手足の長い体躯は、この時代の日本人にはまず無い---西洋の絵画に見たような容姿をしていた。

 「私の祖先は大陸から渡ってきた者達ですから---」

 元親は、苦笑した。長曽我部氏の祖先は、『秦氏』。聖徳太子の時代に大陸の弓月国から渡ってきた。その国が何処にあるのかはもはや分からないが、一族は代を重ねても、一向に「日本人らしく」はならなかった。

 時折、浜に流れ着く異国の男女を庇護して、婚姻してきたせいかもしれない。

 「羨ましいかぎりじゃ---。」

 秀吉はぼそりと呟いた。秀吉は、同じ時代の人間から見ても小柄である。若い時から貧しく、身を削るようにして生きてきた---その苦労が身に染み付いて、同じ歳の元親よりも十歳も老けてみえる。


 「だが、それだけではない。」

 秀吉は、ふと何かを思い出したように立ち上がり、ごそごそとあたりを探ると、細長い錦の袋を取り出し、元親に手渡した。

 「胡弓じゃ。大陸の土産じゃが、そなた弾けると聞いた。」

 元親は、掲げあげ、口紐を解いた。

 「二胡ですな。---いい品です。」

 「弾けるか。」

 「は---多少は。」

 元親の長いしなやかな指が弓を手挟み、膝の上に抱かえた胴にあてた。 

 ゆっくりと引くと、たおやかな、だがどこか切なげな音色が零れた。

 「弾いてくれ。---そして教えてくれ。光秀殿は、何故、大殿を討った---?。」

 秀吉は、呻くように言った。

 「わしには、わからんのじゃ。共に大殿に見いだされ、仕えてきた光秀殿が、何故に、大殿に刃を向けたのじゃ---お主なら知っていよう。---いや、お主しか知らぬやもしれぬ。」

 ぴくりと、元親の指が震えた。

 「親しい友であったお主しか知らぬ---本当の光秀殿の心を教えてくれ。」

 秀吉の言葉も、かすかに---だが震えていた。

元親は、静かに口を開いた。

 「見る夢が違ごうていたのです---。太閤殿下と光秀殿は、同じく信長様に仕えながら、全く違う夢を見ていた。---光秀殿は、天下が欲しいと思ってはおりませなんだ。」

 元親は黄昏にかすかに浮かび上がった三日月を仰いだ。ゆるりとした音色が、薄紫の空に溶けていく。

「どういうことじゃ?」

「長い話になりますが---」

「聞かせてくれ。」

 白南風が、頬をかすめた。山梔子の白々とした花が、揺れた。

「さて、何からお話致しましょうか---。」

 元親は、ゆるゆると弦を震わせながら、言った。

 秀吉は、椅子にもたれ、片手で白くなりかかった髯を撫でながら応えた。

 「そうじゃな---。光秀殿は、どんな夢を見ておったのじゃ?---そなたとは、いつ出会うた?---殿のお側に仕えることになった頃には、光秀殿ははや四十に手が届く歳になっておったゆえ---才があるのは、確かだったが、知らぬ事も多い。わしには、腹の裡を明かしてくれはせんかったしな---。」

 ふふ---と小さく元親は笑った。

 「あの方は、誰にも、お心うちはお見せにならなかったでしょう。無論、信長さまは、見抜いておいでではありましたでしょうが---」

 ぴくりと、秀吉の眉が、動いた。

 「元親、勿体ぶらんで早ぅ話せ。---光秀殿は、何故、大殿に刃を向けた。」

 「急かされますな---。」

 元親はまた、風の行方をまさぐるように眼差しを彼方に投げた。

 「光秀殿の真のお名は---進士彦太郎光秀殿---。」

 「しんし---?」

 「左様、御所の供御方のお家のお生まれでございます。」

 「御所---というと、足利将軍の直臣であったというのか。」

 「左様にございます。」

 光秀が生まれた頃、将軍足利義晴と執政の細川家、その被官、三好長慶と厳しく対立し、畿内は争乱の最中にあった。

 光秀の叔父、進士賢光が三好長慶の暗殺に失敗し、一族に累が及ぶのを怖れた父、光綱は子らとともに京を出て、美濃の遠縁のもとに身を隠した---という。

 明智---というのは、土岐氏の傍流でもある遠縁の名である、という。

 「その後---義晴様が近江の朽木谷にお逃れになったことを知った光綱殿は、光秀殿と共に朽木谷に向い、かつての通り、将軍家にご奉公されていたとか---。」

 やがて、将軍義晴がみまかり、嫡子義輝が将軍職に就いたが---やはり、住まいは朽木谷のままだった。

 「太閤殿下は、信長公が憧れであったと仰せでございましたが---」

 元親は、ひた---と手を止めて、紫微星を仰いだ。

 「光秀殿の憧れは、義輝さまでございました。」

 足利義輝は、大層な美丈夫であったという。足利家にしては、珍しく武道に秀で、三好軍と互角の戦いを展開していた。三好長慶の死後、京都を奪還した義輝は、再び京都の御所で、権威を取り戻そうとしていた。

 元親が光秀と出会ったのは、そんな頃だった。

 四国の三好の反駁を押さえるために、土佐の長曽我部の助力を乞いたい---と光秀が土佐を訪れた。

 元親は、共通の敵、三好に対抗すべく、光秀の血縁の女性を妻に娶り、その連携を強化した。


 「光秀殿は、実に細やかで端正な方でした。義輝殿が御所に戻られ、供御方として、刀を包丁に持ち直して、本来の奉仕に励める。---光秀にとっては、一番幸福な日々でございましたでしょう。---」

 しかし、その安泰も束の間、将軍義輝は、御所を急襲した三好三人衆と松永久秀の凶刃に薨れた。

 「折り悪しく、光秀殿が堺へ出向いていた折りのことでございました。」

 光秀の嘆きは、一方ならぬものだった---という。

 「そして---、弟君の義昭さまを還俗させて、将軍職を継いでいただく---そのために余生を捧げようと決意なされたのです。」

 秀吉は、くぃ---と手酌で酒を煽った。

 「それは、分からぬではない。光秀殿は、元々、義昭殿を将軍として上洛させるために、大殿に仕えたのだからな---。」

 だが、しかし、義昭は一度は上洛を果たしたものの、信長への翻意を顕にしたために、京を逐われた。

 「だが、何故に義昭殿が殿に逐われた際に離反せなんだのか?」

 「義昭さまは、義輝さまではございませぬから---。」

 器が違う---と光秀は思った。それでも見捨て切れなかった。

 「信長公は、ご自身に仕えておいででありながら、その心に、別な夢を、別な憧れを抱いていることが許せぬのだ---と光秀殿は仰っておりました。」

 ふぅ---と秀吉が大きくため息をついた。元親は、注がれた酒を干して、続けた。

 「光秀殿が、本能寺に向かわれた時、殿下が中国攻めに向かっておいででした。」

 「うむ。光秀殿は大殿に命じられて、わしの援軍に来られるはずじゃった。」

 元親は、指をしならせ、また弓を取った。切ない儚げな曲調がさらに切なく響いた。

 「義昭さまは---毛利家に身を寄せておいででした。その毛利攻めに加担することは---。」

 ―自身で自分の夢を断ち切れ---―信長の命は、光秀を追い詰めた。

 「公家方の宴席での叱責---毛利攻め---信長公は、光秀殿に『過去の自分』を全て捨て去って、自分だけを仰ぎ見ることを求められたのです。」

 秀吉は、うぅむ---と唸った。自身にとっては信長が全てだった。だから、さほど苦になるようなことは無かったが、確かに、異常に嫉妬深いところはあった。自分以外の神仏を人々が仰ぐことすら許せず、自ら『第六天魔王』を称したくらいだ。他化自在天---人々が仰ぐものは、全て信長に帰着せねばならなかった。

 「では、お主は光秀殿が命じられたのが、わしの援軍ではなく、柴田殿の援軍であったなら、大殿に刃を向けることは無かった---というのか?」

 秀吉は眉根を吊り上げて言った。

 「それは、分かりませぬ。ただ先年、手取川で上杉勢と対峙した時には、光秀殿は総大将ではなかった。かつて面識のあった謙信公に勝てるとはお思いでなかったでしょうし、よしんば、謙信公の刃に倒れても、本望という気持ちもあったやもしれませぬ。」

 ギリギリ---と歯軋りをして、秀吉は、言った。

 「だが、謙信は既に病で死んでいた。」

 「---故に、もはや光秀殿の夢は叶うことの無い夢となり申した。---自身が信長公にとって替わらぬ限り--。」

 しかし、かつて共に幕府再興の夢を見た朋輩、細川藤孝や筒井順慶はその夢を捨て去っていた。義昭では将軍は務まらぬ---と見限っていた。

 「光秀殿の最後の願いは、義昭殿のお生命を繋ぐこと---。」

 「つまり、大殿に異変あらば、わしが中国攻めを放り出して取って返す---と。」

 元親は、黙って頷いた。  

 秀吉は大きくため息をついた、そして元親をじっ---と見て言った。

 「そればかりではあるまい---。」

 元親の表情がふ---と変わった。

 「光秀殿はそなたを助けたかった。---いや、そなたを殺したくなかった。--」

 中国攻めが成功していたら、次に向かう先は『四国』---間違いなく、光秀を攻め手の大将としただろう。自らのために、光秀が親しい友を刃にかける---ことを希んで---。


 「結局---」

 秀吉はふらりと立ち上がった。

 「大殿は『賭け』に負けたのじゃな---。」

『是非に及ばず』---信長はその一言を残して果てた。希んでも得られないものもある---その事実を最後の最後に突き付けられ、潔く認めた---ということか---と秀吉は、ふっと信長が秀吉に近づいた気がした。


 「のぅ、元親---。」

 秀吉は、縁側にとす---と腰を下ろした。

 「そなたの夢を、わしは奪ってしまった。四国統一の夢も---信親殿も---。」

 もたげた首をぐるりと巡らせて、秀吉の眼が、元親を見た。九州攻めで、元親の嫡子は、総大将の仙石秀久の無能のために命を落とした。

「わしを恨まぬのか---。」

「恨んだところで、信親は還りませぬ。」

 元親は、二胡を奏でる手を止めず、呟くように言った。

 「鬼であった私は信親とともに死にもうした。----ここにおるは脱け殻に過ぎませぬ。」

 「それは困る。」

 秀吉は、口を尖らせて言った。

 「わしは、そなたの猛る様が見たい。鬼と言われたその腕を今一度、わしのために奮ってくれぬか---。」


 元親は寂しく微笑んだ。

「折りがありますれば---」


 星がひとつ、流れた。

 ふたりが逝く、少し前の初夏のことだった。

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