第32話
さすがにうるさ過ぎだろう。
江見の一声を人知れず軽く非難するも頭は下げたまま。何があっても謝意の姿勢を崩してはならない。
「やめてください! 悪いのは……悪いのは僕なんです!」
「はぁ?」
予想外といった風にまかろんが怒気を込めた息を漏らした。先までの媚びた声色は梅雨と消え、般若の唸りを挙げている。ここでようやく頭を上げてまかろんを見てみると予想以上の形相。まさに妖怪変化の類。魑魅魍魎。これでは真蛇になれ果ててしまうのではないだろうか。
しかし、なぜ……
「なんで江見君が悪いの? 昨日話したじゃん。全部こいつが悪いって。苛つくよねって。ねぇ」
そう。そこ。いったい何をもってして自分を悪いと評すのか。気になるところではある。
「それは……」
たじろぐ江見。何やら尋常ではない狼狽ぶりだがさもありなん。初心で純情な男が貞操を奪われれば負い目を感じるだろう。まともに言い分を述べられるはずもない。
「ねぇ江見君。私の言ってる事、分かるよね?」
おぉ怖い。さすが店にスタッフが寄り付かない原因を作った女だ。脅し方が板についている。
「……」
かわいそうに。江見は強張ってしまって声が出ない様子。恐らく喉が締まり息をするのも難儀している事だろう。俺も空手をやり始めたばかりの時の組手は似たような感じだった。緊張と恐怖で臓腑の底から硬くなっていき細胞一つ一つが凍りついたように停止してしまって指先すらも動かせなくなるのだ。このまま相手の圧に呑まれるとそれはもう必敗。情けなく棒立に尽くすサンドバッグの完成である。これでは意思の示しようがない。
江見よ。お前はどうしたいのだ。
目が合ったのでアイコンタクトを試みる。伝わらぬだろうが伝えたいこの想い。俺の事はいい。恨もうが嫌おうが構わない。元は俺自身の不徳が撒いた種故反論の仕様もない。
しかし。しかしだ。立てた(かどうかは知らんが)操を折られ脅迫めいた同調を迫られたままでお前はいいのか。意を申し立てるのに誰かの傀儡となってしまっていいのか。それは自我の殺害。お前が怒りを向けている事情そのもの。それこそ本末転倒な事態であろう。
江見よ。お前はお前の意思と言葉で俺を罵倒し殴りつけるべきだ。まかろんの手に落ち、命じられるままに牙を向けたのであればただの犬に過ぎない。自由意思も尊厳も存在しない木偶だ。作られた感情で動く下郎となってもお前はいいのか。
「まかろんさん」
「……なぁに?」
果たして何を述べる。どう答える。
「……まかろんさん。昨夜はすみませんでした! お酒を飲んでいたとはいえ、その……あんな事までしてしまって……本当に申し訳ありません!」
「ちょ!」
慌てるまかろん。それも当然。江見の大迫力な謝罪は音量全開で客席まで聞こえている事であろう。店が店。キャストとスタッフの秘事が筒抜けで許されるわけがない。
「江見くん! ちょ、江見!」
愉快だ。たまらなく面白い。まかろんめ。いい喜劇を提供するではないか。
何やら妙な姿勢で固まるまかろんには思考の混線が見られる。脳の処理回線がパンクし誤作動を起こしているのだろう。滑稽な事だ。このまじっくり見学と洒落込みたいところだが、さて。そうはいかんだろうな。
「それは、どちらからお誘いになったのですか?」
背後から声。凍てつくような冷たさを感じさせる無機質な問い掛け。先のまかろんから感じたのは狂乱による畏怖だったが、こちらは刃が喉元にヌッと当てられたような、理知があるからこそ生じる怖れである。
まぁ、それはくるだろうな……これだけ騒いでいたら……
影のように現れたのは言うまでもなく
「っ! オーナー……」
まかろんの顔が青ざめていく。黙認されていた悪行が露見してしまったのだから心胆も縮むだろう。しかしこんな形で晒されるとは、間抜けなオチがついたな。
「どちらからですか。まかろんさん」
鋭い目つきで見据える梵にまかろんらなんと返すか。
「……江見君からです」
まぁそう言うだろうな。奴にしてみれば今回もそれ以前の沙汰も単なるお遊び。厳罰や注意などを受けるのは慮外の事。今まで上手くやっていただけに処罰はなんとしても避けたいところであろう。
「なるほど。江見さん。それは事実ですか?」
まかろんの言をもって落着としないか。大したものだ。普通ならば真相はどうあれ江見を潰して終わりだろうに。梵の公平ぶりには頭が下がる。
「……」
「……」
「江見さん?」
「……」
それに対して江見は沈黙の一手。YESと答えれば御法度に触れるとして500万が消える可能性があり、NOと答えればまかろんが責められる問いである。奴の性格からしていずれも望まぬ結末を迎えるかもしれない選択。だが黙っているだけで解決できるほど梵は甘くないだろう。すぐに絶対に口を開かねばならぬようになる。その窮地を如何にして切り抜けるのか。
見せてもらおうか。貴様の流儀を。
実のところ少し面白いと思ってしまっている自分がいる。あの鈍臭く要領の悪い江見がどう対処するのか好奇心が湧くのだ。対岸の火事を見物するが如き性格の悪さではあるが、なぁにどうせ奴とは一蓮托生。どちらに転んでもどうせ巻き込まれるのだからこれくらいの愉悦は許してもらいたい。故に、さぁ江見。出すのだ。答えを!
「……」
「だんまりですか。感心しませんね。何も言わなければ解決するなんて思わないでください。そうですね……もし、貴方がまかろんさんを自らの意思で誘い関係を持ったとお認めになれば、こちらも相応の対処をしなければなりません。逆に、違うと言うのであれば考慮の後に改めて結論をお出しします。さぁ、どうですか? 答えてください」
助け舟を出したな。否認さえすれば不問にすると明からさま言っているのだ。頭が不足している江見とてそれが分からぬはずはない。これは早々に決まりだな。まぁ今こうしている間に播磨君一人がギリギリで仕事をこなしているわけである。オーナーである梵としては、こんなくだらない問題はさっさと終わらせたいところであろう。
「……そういう事をした事実は確かです。どちらが誘ったとかは関係なく、やってしまった事に対しては責任は取らなければなりません」
「……」
「……駄目、でしょうか」
「……分かりました。そこまで仰るのであれば百万円お支払いいただきます。できますか?」
なんという無理な要望。そもそも法に触れそうな気がするがいいのかそんな事を言って。脅しのつもりだろうが、一度吐いたからには取り返しはつかないぞ。
「……」
「払えますか? 即金で」
凄まじい威圧感。迫られたら俺でさえ萎縮してしまいそうな重圧。江見は意思を貫けるだろうか。
「……分かりました。お支払いします」
「……本当にそれでいいんですね? 今ならまだお話を聞きますよ?」
「はい」
含みを持たせた梵の甘言を一蹴。即断の二つ返事。これは中々のもの。俺の思うところは一つ。
よく言った!
思わず感動が声に出てしまいそうだ! よくぞ吐いた唾を呑まなんだ! 見せるではないか男気! なよとして頼りなかったがいざという時に覇気を出すとは大した度胸! 面白い! 俺は今、初めてお前を侮りなしに認められた!
ならば俺も報いねばなるまい!
「梵」
「なんですか」
声が低い。心なしか苛としているように見えるのは不本意な結末となった為か。だがまぁそんな事はどうでもいい。お前の憤りなど江見の覚悟に比べれば些細な事。俺は気にせず、俺がしたい事をさせてもらう。
「その百万。俺が肩代わりしよう」
「……」
「上尾さん! そんな、駄目ですよ!」
「いいのだ。元はといえば俺の不徳が招いた事態。言わば元凶。日々しっかりと仕事に身が入っていればまかろんさんも気の迷いが生じず変わらぬ毎日を送れていたに違いないからな。ならば、俺だけなんの痛手もなしというのは筋が通らない。志あって蓄えていた金だが(これは嘘だが)、だからこそ差し出すに相応しい価値が出る。まかろんさんは恥をかいた。お前は頭を下げた。そして俺は金を払う。これできっちり痛み分け。遺恨は残らない。いかがですか。まかろんさん。」
「……」
黙ってうなずくまかろん。それが賢明だ。自分でも言い分が苦しい事は分かるが、ともかくここは勢いで押し切ろう。当人同士が納得すれば梵も口は出さぬだろうし、何よりもう時間がない。予約のある二十二時もとうに過ぎているのだ。さっさと仕事を始めねばならぬ。
「駄目です。上尾さんは払っちゃ駄目です。駄目」
お、食い下がるか江見よ。空気を読め。
「いや、いいんだ。それが一番いいんだ」
「駄目です。駄目なんです」
「いや、だからな?」
面倒だな! なんだというのだ!
「いいから! ここはもうこれでいいから!」
「駄目なんです! 上尾さん! 僕はまかろんさんが言ったように、内心貴方に対して不満を持っていました! でも今朝、貴方が作成した資料やスケジュールを見て分かったんです! この人は本当に真摯に取り組んでくれているって! その時僕は恥ずかしくなりました! 小さくて、愚かで、自分勝手で……そんな自分が許せないんです! だから上尾さん! お金は、僕が払わなきゃ駄目なんです!」
「……」
大きな声でよくもまぁそんな恥ずかしい事を言えるものだ。いやはや、頭が青春している人間というのは扱い難いな。だが、そこまで思い詰めているとは想像できんかった。なるほど。それならば無碍にはできん。では如何様に処置しようか……そうだ。梵だ。そもそも百万出せなどと言った貴様が悪いのだ。この場、なんとかいたせ。
「……」
「……」
そっぽを向かれた。「貴方達で勝手にやってください」と言わんばかりの冷めた表情。さてはこいつ、どうでもよくなっているな。
「では、お金をおろしてきます」
「あ、待て」
「待ちません!」
ATMでは一括でおろせないし連続手続きは場合によっては通報されるぞ!
そうじゃない! 止めねば!
「ちょいとお邪魔しますよ」
江見が駆け出そうとした瞬間。入り口から一人の男が現れた。
「先生……」
男を見て梵がそう言った。「先生」と呼ばれるその人間は、質の良いスーツを着こなし腕にはブレゲを付けたナイスミドル。育ちの良さが嫌でも分かる、あの男であった。
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