第31話
開店し作業は順調。店内騒々しく満員御礼の盛況。江見に気をかける暇などない多忙ぶりだが当人がそつなく業務にあたっている為俺の出る幕はない。やらかすかもと思っていると返って何事もない起こらないマーフィーの法則めいた現象はままある。それならそれで結構。異常なしに越した事はない。平和が一番である。
とはいえこの繁忙ぶりはどうしたものか。二十二時までには仕事を終わらせておけとのお達しだがそんな事が可能なのだろうか。時は既に21時を過ぎて久しい。如何に人が入ったとはいえようやく適切な数が揃ったに過ぎない。慢性的な人員不足は続いたままだ。今日の具合からして必要人数はギリギリ。それを置いて俺が他の客にかまけるなど江見と播磨君が許すであろうか。今の関係を鑑みると江見に無理を承知で「頼む」とも言いえないし、播磨君は確実に「無理です」と突っぱねるだろう。解決策がまるで浮かばぬまま針が進み焦らされる。さて、どうすべきか……
いや、オーナー命令だ。これはやらねばなるまい。無理にでも播磨君に頼み、江見に伝えてもらおう。
なんと冷静で的確な判断。梵の命とあらば播磨君も納得せざるをえないだろうし、江見と接する事なくスムーズに個人タスクに移行できる最善手。間接伝達万々歳ではないか!
そんなわけにいくか! 余計に拗れてしまうだけだ!
そうだ。不仲な相手から人伝に何かを頼まれるなど不信しか生まない。こういう時こそ直接話しをつけねばならないものだろう。
今江見は……トイレ誘導中か。あんな仕事でも最初はできなかったが、成長したな……
……そうじゃない。感心している場合ではないぞ。奴の誘導が終わったところで用件を伝えねば。多忙で後が詰まっているのは好都合。必要最低限の話題で切り抜ける事が可能だ。繁盛していてよかった。二言三言を交わすだけの時間しかないのが今は逆にありがたい。状況と時間を考えれば奴も私を押すしかあるまい。まさに理想的なタイミング!
それでは堂々と待たせてもらおうか。
時間は幾許もないが焦る事はない。グラスでも洗いながら(相変わらず播磨君は水仕事をやらない!)、江見のオペレーションが一段落するのを高みの見物とさせてもらおうか。
「ちょっとそこの。ちゃんと仕事しろよ無能。なに遊んでるの?」
いきなりの暴言。しかも対象は明らかに俺。こんな事を言う人間は一人しかいない。そう。まかろんである。
「聞いてんの? 働けって言ってんの」
どう見ても働いているだろう。それともバックの仕事は遊びとでも勘違いしているのだろうか。さては貴様、水や電気は勝手に供給されるものだと信じてやまない阿呆の類だな?
「と、申されましても、何をしたら……」
とはいえ一応お伺いはしておくか。向こうにも筋の通る言い分があるやもしれん。それを聞かずして非難するのは狭心といえるだろう。
「はぁ? 本当に無能だよね。ホールに出ろって言ってんのよ。なに江見君と新人にだけ働かせてるわけ? 偉そうにバック篭ってなにしてるの?」
筋なんぞなかった。とんだクソ理論だ。
グラス洗浄をしないと酒が出せんだろう。そんな事も分からんか。だいたいさっきまで俺もホールに出ていただろうに。お前の目は節穴か間抜け。
「申し訳ございません。グラスを洗ったすぐに出ます」
言いたい事はあるが言えば面倒どころか戦争になりかねん。どうせ残り少ない付き合いだ。好きにさせてやる。
「あんたっていっつも感じ悪いよね。何事も上から目線で偉そうで。なんなの? 自分は特別なつもり?」
痛いところを突く。こいつもアロマと同じ事を言うのか……だが貴様に関しては腫物扱として平身低頭を心掛けていたし、なんなら貴様の方が無駄に威をかけてきたではないか。がたがたと言われる筋合いはない。
「申し訳ありません。そんなつもりはないのですが」
口では詫びを入れておくが断じて承服はしていない。いつもいつも鬱陶しくてまいる。本当にこいつだけは苦手だ。いつも怒り狂っては仕様がなく、こいつは一日一怒の目標でも立てているのだろうかと唐無稽な妄想に花咲かせて慰みにしなければいられぬほどである。一同口を開けば満足するまで喋らせておくしかないのだから厄介だ。
「そんなだから江見君にも愛想つかされるって分かんない?」
はいはいそうです……なんだと?
「江見が関係あるんですか?」
「……っ」
しまった。思わぬ名前が出でつい威圧してしまった。
「……なにその目つき。苛つく」
すまん。そんなつもりはなかったんだが怯えさせてしまったようだ。そこは素直に謝りたい。いや謝りたいではない。謝らなければ。
「すみません」
「すいませんじゃねーよ! お前如きがなんで私に反抗しようとしてんの? 馬鹿じゃない?」
「そんなつもりはないんですが……」
「じゃあどういうつもりだよ! 殺すぞ!」
おぉ。物騒な言葉を使う。どのように殺していただけるか詳しく伺いたいくらいだが、これ以上拗らせても仕方がない。平謝りに徹するとしよう。
「すいま……」
おざなりに頭を下げようとした時目に入る人影。それは紛れもなく奴だった。
江見……
トイレの誘導を終えたのだろう。客が使い終わったお絞りを捨てにバックまでやってきたのだ。
「あ、江見君! 聞いてよ! こいつ、ずっとサボってるんだよ!? ありえないよね!?」
なんだこいつ。いきなり江見に同意をもとめるとは。まぁいい。言ってやれ江見。お前の口から「それは違う」と!
「……そうですね」
なんだと? こいつ、今なんと……
「サボるのは、よくないです」
お前江見! まかろんを肯定するのか!?
「だよね! よくないよね! そう言ってたもんね!」
「……」
言っていた? まかろんと江見が言葉を交わしていたのか? いつの間にそんな話しを……
……あ。
察する。今朝の痴態。こいつの下腹部にあった鬱血は……
「ねぇ江見君。私、こいつ嫌い! 江見君も、そう思うでしょ? 嫌いでしょう!?」
「……」
……なるほど。サロメめ、江見の首を銀の皿に乗せるつもりか。おかしいとは思っていたが、今朝から急に態度が豹変したのはそういう事であったか。純な男の貞操を奪い手駒とするとは極悪なる所業。刺されても文句は言えぬぞ。
「ねぇ江見君。言ってやりなよ。嫌いだって。いつも偉そうにしてるくせに、自分は何もしないクズだって、昨晩教えてくれた事、本人に言っちゃいなよ!」
もうお前が全部言っているだろう。しかし、多少盛ってはいるだろうが、不満を口にしたのは恐らく事実。内容も変わらぬだろう。そうか。そんな風に思っていたのか。いや、仕方ない。俺は俺でも気付かぬうちに人を下に見ていた。江見にもまかろんにも申し訳ないと思う。あろまに聞かされなかったらそれが分からないままだったし、今も憤慨して二人とも殴っていたかも知れん。それを考えると、俺には恨む筋も嘆く権利もない。ただただ俺自身の不徳が今返ってきているに過ぎないのだ。反省せねばなるまいな。
「……江見」
「……」
無視か。だが、それもよかろう。元より期待はしていない。今までぞんざいに扱っていたのだ。口を聞いてくれぬのも無理はないだろう。ただ、自己満足かもしれないが、これだけは聞いてほしい。
「……すまなかった。俺は、お前を随分と馬鹿にしてしまっていたようだ」
「……!」
頭を下げると目頭が熱くなった。それは屈辱からでも理不尽からでもない。江見に対しての贖罪の気持ちが、俺の感情を震わせ涙腺を緩めたのである。
「……上尾さん!」
江見が叫ぶ。その声は大きく、恐らく客席にまで聞こえたであろう。騒がしかった店内に、静寂が広がった。
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