第30話
結局江見は姿を見せず出勤の時間となった。いつものテナントへと到着した重厚な装いのドアを開ける。タイムカードはまだ幼い。自主的な早出は叱責懲罰の対象となる(ケチくさい)。スタッフは俺と
「珍しいですね。お一人でご出勤なさるなんて。喧嘩でもなされましたか?」
こいつ、恐らく分かっていて聞いているな。
意地の悪い事情を浮かべる梵を苦々しく睨みながら「そんなところだ」と答える。嘘をついても仕方がない。それに仲違いは店にとってもリスクとなるわけだから報告義務むあるだろう。なれば下手に誤魔化すのは下策である。
……違うな。
そう違う。俺は誰かに打ち明けたかったのだ。江見との間に生じた不協和を口に出して、一と時の気楽に逃げたいのだ。惰弱千万。得手勝手な精神。度し難い低俗さである。
「一緒にいる時間がながければそんな事もあるかもしれませんね」
それを察したのか梵の暖簾に腕押しな対応。だがそれが逆に欲望を刺激する。
だが述べるわけにはいかんな。
「……それもそうだ」
吐き出したい欲求をグッと堪える。ここで口にしてしまうのはそれこそ精神的な向上心のない馬鹿の所業。差し出された碗を掻き込むような下品な真似はしたくない。沈黙は金。黙っているのが男というもの。無闇に私情を口にするべきではなく、慎まなくてはならない。
「……」
「……」
「……」
「……」
「存外、無口な方ですね」
「?」
「いえいいです。忘れてください」
梵め。おかしな事を言う。俺は普段からそんなに口は聞かんだろうに。それとも話しをしてほしかったのだろうか。普段から馴れ合う素振りなどおくびにも出さないあいつが? そんなわけはないだろう。ただ俺が喋る口実を探しているから都合よく解釈してしまいたくなるだけだ。愚かなり。梵はもう仕事に入った。今更愚痴めいた語りなど証文の出し遅れ。未練たらしく望むものでなし。不甲斐ないぞ。いい加減にしろ。
思考を一旦リセットし業務に勤しむ。出勤時刻まではまだあるが何かに没頭せずにはいられない。情緒が不安定だ。今までにない経験に、落ち着かない。
あ、誰か来た。
高まる緊張。誰だ。江見か?
「おはようございます」
聞こえる挨拶。返さねば。
「おはようございます!」
「え! なに!?」
しまった。声の調整をしくじった。
しかし相手はマカロンか。ならいいか。いや、よかったよかった。まだ話しができる人間だ。彼女が相手とあらば、多少の失態なら大目にみよう。
「ちょっとビックリしたんだけど。どうしたの急に……」
「すみません」
「いいけど。なにかあったの? なんか悩んでるみたいな顔してるよ?」
お見通しか。どうしよう。事情を話してしまおうか……あ、いかんな。まだ愚痴に未練がある。我慢我慢。口は災いの元だぞ。
「上尾さん。江見さんと喧嘩していらっしゃるんですって。それで様子がおかしいみたいですよ」
……梵め。ベラベラと喋ってくれる。
「あ、そうなの?」
「はい……まぁ……」
「あ、それで今日一人でいるんだ。えー何があったの? 喧嘩なんかする感じゃないからビックリ。ちょっと聞かせてよ」
グイグイとくるな……この人は素面でもこんな感じか。恐らくデリカシーがやや足りないのだろう。悪く言えばおばさん気質がある。しかしこれは渡りに船……
「そのあたりでやめてあげてくださいチワワさん。上尾さんったら落ち込んでらっしゃるみたいで、さっきも全然お話ししてくれなかったんですよ。そっとしといてあげましょう」
「そうなんだ……いやぁ案外線が細いねぇ」
「……」
言いたい事は山ほどあるが何を言っても墓穴を掘りそうなのでやめておく。クソ、機を逸した。梵め、嫌な奴だ。いつかバチが当たるぞ。
「そうそう上尾さん。言うまでもないのですが、仕事には私情を挟まないでくださいね」
「分かっている。心配するな。責務は果たす」
「頼もしいですね。では、時間となりましたので、どうぞタイムカードを押してください」
一々うるさい奴だ。誰が業務を乱すか。俺を舐めるな。喧嘩如きで迷走するわけが……
「おはようございます」
不覚! 今来るか江見め!
「おはようございます!」
しまった。声の調整をしくじった。
それにしても始業間際に出勤ときたか。いいご身分だな江見。なんならアウトだぞ。自覚はないのか自覚は。
「……」
「……」
目が合うも無視。そんなにか。今日の沙汰はそこまでの事態か江見よ。俺はそうまでお前の逆鱗に触れ怒髪天を突く思いをさせてしまったか。逆に申し訳ない。
だがやはり引っかかる。何故という困惑。あまりに急すぎる不信感。今朝だって口論ともいえぬような小さなすれ違いがあっただけではないか。積もり積もった感情が爆発したとしても、普通ならばまずは対話を試みるものではないか。それをあいつは「ビラ配り代わってください」くらいの文句しかつけてこなかったし、終いにはどこかへ去っていく始末。で、ようやく顔を合わせたらこれだ。もはや話し合いの余地などないのではないか。奴とはもう金輪際口をきく事なく絶縁となり、どこかですれ違っても知らぬ顔をして通り過ぎるのが自然の成り行きとして相応しいのではないだろうか。あぁこんな事で胸がモヤとするのが辛い。奴との関係を無かった事にできればどれだけ気楽になれるだろうか。これは愛別離苦か怨憎会苦か。いやはや堪らん。救いが欲しい。
いや、甘えるなよ。奴とは対話を持ってして事を収めると決意したではないか。
気弱になっている。静かな水面に波が打つような感覚。許容し難い。
バイトで発生した客との問題とは質の違う対人関係に心が戸惑っている。罵詈雑言を浴びせられるよりも心胆が痛むのはどういうわけか。この気持ちは怒りというより悲しみに近い。
悲しみ? 俺が?
とんでもない話だ。この俺が無視をされて泣きべそをかきたいだと。馬鹿をいえ! いくらなんでもそれはない! ただ単に経験のない事象に対して解決策が浮かばず五里霧中の難に遭っているだけに過ぎない! 仕事だ仕事! 仕事をするのだ! 没頭に至り不安を排すのだ! らしくもない煩いなど一蹴にしてやろう! 今日も一日頑張るぞ!
「あ、上尾さん」
「はい!」
しまった。声の調整をしくじった。
何の用だ梵。
「本日ご予約されている諸星様なのですが、是非に上尾さんに担当していただきたいとの事ですのでお願いしますね」
「諸星? 知らん名前だが、誰だ」
「ご覧になれば分かりますよ。お得意様ですので、くれぐれも粗相などなさらぬように」
「よく分からんが心得た。いつも通りに接客させていただく」
「それでかまいません。お時間は二十二時からとなっていますから、休憩を含めお仕事は済ませておいてくださいね」
「了解だ」
わけの分からん任を任されてしまった。どこの馬の骨とも知らん人間の世話をせねばならんとは不本意このうえないが仕事とあれば是非もない。全霊をもって挑ませていただこう。
「……」
変わらず江見は黙ったままだが、なぁに気になるものか。結局俺は感情で動く人間。矛先の向きが変われば返って冷静となり軋轢などどうでもよくなるだろう。そうなれば平常心となり難なく声もかけれよう。いつもの俺なら大丈夫だ。不覚はない。
もっとも、江見の方はどうか知らん。もしかしたら思い詰めが心身を害しておりしくじりを重ねる可能性もある。そうなれば話すどころではなくまたヘソを曲げてしまうのではないだろうか。それは困るな。いや、そんな事より……
もしそうであれば助けてやろうか。
優位に立ちたいとか当て付けなどではなく、純粋に、奴が困っていたら協力をしたいと思う。
この感情を友情と呼ぶのかどうか。俺にはまだ分からない。だが、退っ引きならない間柄となってしまったのは確かなようである。あぁ、難儀なものだ。
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