第28話
多少の酒は残っていたが問題なく久方振りの自室で爽快な朝を迎え心機一転の笑顔を振り撒く所存とし学祭執行本部へやってきたわけだがそこには目を疑う光景が前衛アートのように堂々と築き上げられていた。
……江見だな
そう江見だ。俺がいつも使っている寝袋に篭りうんうんとうなされながら浅く眠る男が江見である。
いったいどうしたというのか。いつもならばもう少し後に迷惑な声量で「おはようございます」と耳を塞がせにくるというのにまさかのアンブッシュ。それもかなり無礼講な出で立ちである。狼藉甚だしく怒りさえ湧く。なんなんだいったい。何があったというのだ。
しかもこいつ……!
作業机に封が開いた缶チューハイが一本。昨日まではなかった物体がさも「以前からいました」という風に厚かましくも鎮座している。質実剛健を掲げる本校では言うまでもなく飲酒と酒類の持ち込みは禁止である。見つかれば重くはないにしろ罰則があり学祭に影響する可能性が高い。それを理解しているのだろうかこいつは。
事情を聞かねばならないな。
怒り心頭極まるが一旦留意を下げよう。江見とてまるきり脳が不足しているわけではない。自棄か自暴か知らぬが昨夜の俺と同じく酒に飲まれたい時もあるだろうから、まずは事の次第を伺うべきだ。その上で是非の秤を見てくれよう。
「起きろ! 朝だ!」
起床の合図を出してやると江見のやつ寝袋のまま飛び起き池から跳ね上がった鯉のようにビチビチとくねった。なんだなんだ愉快ではないか。朝から笑わせてくれる。笑わせてもらったが、罪は問うぞ!
「あ、上尾さんですか。おはようございます」
呑気なやつだ。それとも寝ぼけているのだろうか。
「おはようございますじゃない。なんだこの有様は」
「あ、すみません。昨日ちょっと飲みすぎちゃいまして……」
飲み過ぎ? チューハイ一缶でか?
義心に囚われる俺をよそに寝袋から離脱する江見。その状態は
お前……まさか……
「……あ!」
俺の視線に気付いたのか江見はすかさず上体を隠した。だがお前、その反応は……
「み、見ましたか……?」
「そりゃお前……」
「そうですか……」
「まぁ、子供じゃないんだし、別にそれはいいんだが……」
馬鹿か俺は。問題はそこじゃないだろう。
「酒だ。お前、この部屋で酒を飲んだろう。大学敷地内での飲酒は禁止だと知らんわけではあるまい」
「それは知ってますが、僕らはもうキャバクラで働いているんですよ? 今更そんな些細な規則を気にしても……」
……こいつ!
開き直りおった! それになんだその言い草は! 俺はそうした、一人殺すも二人殺すも同じというような論調が一番嫌いなのだ!
「夜の商売はやむなき事! だが貴様の飲酒はせねばならなかったのか!? 違うだろ!」
「……」
弁明すらしないか。反省しているのか、それとも……
「別に、これくらいバレないですよ。そんなに怒らなくたっていいじゃないですか」
まさかの不貞腐れ! なんだいったい! 怒りよりも浮かぶ疑問! 江見よ! お前はそんな人間だったか!?
「ところで上尾さん。今日なんですが、ビラ配り、代わっていただけませんか?」
「は?」
混乱倍増。まさかの業務代々安。このタイミングで? ますます理解が追いつかない。
「ですから、ビラ配りを代わっていただけないかなと」
なんだなんだいったい藪から棒に。まぁもはや金の人を得るだけの状況故、元より一緒に配るつもりでいたからいいが。
「それは別に構わんが、お前は何をするんだ?」
「学祭の企画に関して全然聞かされていないので、そのチェックをしたいなと」
「……俺が信用できないか?」
「そんな事は言ってないです。というより、信用してないのは上尾さんの方じゃないんですか?」
なんだとこいつ!
……
いや、その通りだ。昨晩アロマに言われたように、俺は無自覚のうちに他人を見下す悪癖があるのだ。江見においてもその例に漏れず心のどこかで軽視していたように思える。いかんな。自覚がない。自分が奴に何を思い、何を感じたか分からないのだ。
「……」
反論の仕様がない。俺は黙りこくり江見の瞳を見る事しかできなかった。澄んだ両眼が痛い程真っ直ぐにこちらを突き刺す。
「……分かった。では、俺は執行部員募集のチラシを配ってこよう。企画案も煮詰まっていて後の問題は金と人員ばかりだ。戻ってくるまでに確認をしておくといい」
「……」
無視か。まぁいい。学祭の準備に関してはお前が誘ってきたというのにその態度はどうなのだろうかという不満がないわけでもないが許してやる。おっと。また他者を下に見るような思考が出てしまったな。だが今回は仕方あるまい。何せこの不協和は争いの様相。俺の根幹を成す闘争心が日和る事を許さないのだ。それに体力仕事を任せきりにしてしまっていたのも事実。責任の一端はあろう。冷静なうちに折れておくのが得策。
「昼頃に戻る」
チラシを持って外に出る。存外日射しが暑くジメとした湿気がまとわりつく。これは骨が折れそうだなと思うと、この中でずっと作業を続けていた江見に対して幾らかの同情と哀れみが浮かんだ。とはいえ、やるからにはそんな感傷は無関係。万事全力だ。センチメンタルに絆されやる気なく突っ立ていては何ともならない。仕事だ仕事。やるべき事をやらねば。さぁ意気や揚々。配るぞ! チラシ!
「どうぞー学祭執行部員募集してまーす」
……
「学祭執行部員募集してまーすどうぞー」
……
「募集してまーすどうぞー学祭執行部院ー」
……
……
……
びっくりするほど食い付きが悪い!
というよりむしろ避けられている節さえある。いや、これは明らかに忌避されているな。道行く人がわざわざと道を回り、こちらを見てはヒソヒソと声を潜めているのだ。江見め。チラシ配りの時に何をやらかしたらこうも唾棄を催されるというのど。
「あれでしょ? ネットとかで募集してたやつ……」
「そうみたい。リテラシーないのかなぁ……」
……
なるほど。御知恵拝借版か。そりゃまぁ一人が見れば拡散するだろうな。それにあいつの事だ。他にも掲示板やSNSに投稿しているかも知れん。
これは思ったより難儀な事になりそうだ。
どうやら事態は思ったよりも深刻。まずはイメージの払拭をせねばなるまい。
しかしどうすればよいか。人付き合いなどろくにしてこなかった俺には荷が重い課題だし、奴らの言う事も真っ当。下手をすれば炎上の沙汰だ。面白半分で近寄るのはあるとしても自ら飛び込み火傷したい者などそうはいない。一度広まった悪評を好評に変えるなど至難である。
マイナスからのスタートか……あぁ、困難。まったく江見め。勢いだけで余計な事を……おや? あれは……
案山子となっているところに見慣れた顔が登場。こちらにノシと歩み近付き、如何にも声をかけてきますよといった様相。
カナブンか。何か用だろうか。
ゼミ以外で顔を合わせても会釈すら渋るような人間が珍しい。何を言う気か。皮肉か? 嫌味か?
「お、なんだ。学祭やるなんて聞いていたが、君が主導だったのか」
気色悪上機嫌。なんだなあまり好意が持てぬな……
中年特有の嫌悪感増し増しな破顔に一瞬躊躇うも気を引き締めて応対を始める。
「いえ。言い出しは江見という男です」
「なるほど知らん生徒だ。ところで、計画は煮詰まっているのかな? 実行できそうかな?」
グイグイくるな。なんだいったい。
「人と金と時間の問題はありますが、順調です」
「そうか。結構! 頑張りたまえ!」
去って行った……なんなんだいったい……
声高にわざとらしく激笑して失せたカナブンを見送るといよいよ人の気配が消えていった。講義が始まる時間だ。当然である。
結局俺は一枚も捌けなかったビラを丸々持って執行本部へと戻る事にした。いや、情けない……
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