第22話
夜になると江見はいつものように迷走した。気が利かぬオペレーションに単純なミスの連発。最初と比べると頻度はまだ少なくなったがそれでも目には余る。これでよく金がもらえるなと思えなくもない。
だがそんな頓痴気に半ば安心している自分がいる。
昼での悶着の後、俺は出歯亀を江見に打ち明ける事ができず白々しくいつも通りに接している自分に幾らかの罪悪感を抱いていた。自らの罪をひた隠し他を責めるような卑劣が俺を苦しめるのだ。耶蘇曰く、罪を犯した事のない人間だけが石を投げよ。である。明確な罪を犯した俺には江見を誹る資格などない。というより、奴がしでかした失態を見過ごす事により俺は自責と罪の意識から救われるような気がするのだ。
なんたる矮小卑屈。これでは匹夫そのものではないか。
分かっちゃいるけどやめられない。酒飲みがつい晩酌をしてしまうように、小人の独りよがりな贖罪もまたアルコールと同様に依存を起こすのである。
さしずめアトメントホリックか。フォーギブネス。ルターの問答に罪の許しを得よとあったが、確かに祈るだけでいくらか気は紛れるものだ。欺瞞であるのは疑いようもないが……
「あぁ! すみません!」
自罪と軽薄な良心の騒めきは素っ頓狂な謝罪とグラスが粉砕される音に掻き消された。江見め。やらかしたな。
駆けつけてみれば薄いライトで輝くガラス編と蹲る江見。どうやら空いたデキャンタとロックグラスを落としてしまったらしい。昨日ようやくホールに出られるようになったというのにこれである。派手にやらかしてくれたものだが、やってしまったものは致し方なし。そこは水に流すとして、問題は……
「失礼いたしましたお客様。お怪我はございませんでしょうか」
「あんた何今頃きてんのよ! 早く片付けなさいよ!」
「……申し訳ございません」
やらかしたのがあのまかろんのテーブルだったという事である。
「本当に無能なのになんで生きてるの? 死ねばいいのに」
客の前でよくもまぁそれだけの暴言が吐けるものだ。よく見てみろ。橋田さん(常連)がドン引きしているではないか。ヒステリーやなじりはまだ許せるが態度や言葉の節々に育ちの悪さが現れていてるのは許容され難い。下品な女は好かれんぞ。そのままでは若さしかない使い捨ての娼婦だ。改めるがいい。
口が裂けても言えぬ文句を内々に積み重ね粛々と片付けを行う。まかろんの所業は腹立たしいといえば腹立たしいがもう慣れた。結局こいつは男を隷属させたいだけの哀れな人間なのだ。そう思えば溜飲は下がり憐みが湧く。そもそも、発端は以前、俺がこいつのオーダーを意図したものではないが無視してしまったのが原因だ。致し方なし。それにどうせ短い付き合い故、忍んでいれば収まる一件。あえて荒立てる必要はない。
「……すみません」
裏へ戻る江見が周りに聞こえぬよう小さく言葉を落としていった。本来であれば失態を演じた本人である江見が片付けなければいけない問題であるが、それをやるとまかろんが激怒する為、奴にはやらかしても後処理をするなと含ませてある。例の悶着以来、江見はまかろんの専属となり江見のミスは全て俺に返ってくるという具合となっていた。それに対して江見は大層申し訳なさそうにしていたし、現に俺も、いかに慣れたといっても、たまに理性を失いまかろんに手をあげてしまいそうになっていたが、今となってはこの理不尽が江見への不信のエクスキューズとなっているようで、多少ではあるが、救われる思いがしている。
「早くしなさいよ愚図! 掃除もできないの!?」
「申し訳ありません」
その暴言で罪の意識が消えていく。これも欺瞞だが、ありがとうまかろん。だが地獄へ落ちろ。
怒りと感謝が均衡する妙な心境に至った絶妙なメンタルバランスは俺を一歩大人にしてくれる。
これは試練だ。試練を乗り切れば俺は俺の望む俺に近付けるのだ。だから頑張れ俺。未来は今日をどう生きるかによって明暗が別れるんだぞ俺。
胸の中で己を鼓舞しホールを離れて裏へ。取り除いたガラス片を捨てて、拾う際にできた傷を塞ぐ為に
「大変ですねぇ上尾さん。僕、アレ無理っす」
本日付で勤務する事になった播磨君は笑いながらそう軽口を叩いた。アレとはまかろんの事であろう。ボーイ経験者らしく、如何にもな風態と余裕のある様子で頼もしいが、俺が苦手な部類の人間だ。
「俺もだいぶ無理だよ」
「ですよねー」
言葉少なく返事をし、ホールへ出ていった播磨君を見送り絆創膏を貼る。やれやれだ。できれば水仕事は控えたいところだが……
「……」
洗い場に積まれた食器とグラスを見ると溜息しか出ない。本日梵は遅れて出てくるらしいので洗い物はしばらくは俺か江見か播磨君が処理しなければならぬタスクとなっているが、江見は要領が悪くマルチな働きは期待できないし播磨君はどうも裏方の作業をやりたがらない。したがって俺がやらねばならぬのは明白であるが、かといって新人の播磨君や江見を軸にホール業務を行うのも不安である。まかろんさえいなければ上手く運ぶというのに、まったく忌々しい。
「上尾さん。G席のお客様お会計です」
「了解」
あぁ。息を吐くどころかスタックを消化する暇もない。
不満を抱えながら再びホールへ駆け足。伝票を確認しG席へ向かう。しかしこの客、一人で二十万も使っているがどういう輩だろうか。
いやらしい好奇心だが、どれ、少し覗いてみるか。
「失礼いたします。本日二十五万でございます」
割増した伝票とトレーを渡す際にチラリと拝む。暗いながらに分かる端正な顔立ち。皺はあるが弛みはない。いい歳の取り方をしている。着こなしたスーツは上物であり、所々に厚みが出ているあたり引き締まった体躯である事が見て取れる。そして時計は恐らくブレゲだ。いつかは欲しいと憧れカタログを見ていたブランド。これ一つで家が建つレベルの代物である。
こいつ、生まれがいいな。
そう思うのは高額なものを身に付けているからではない。超一流を着こなしながらも所作に一切の嫌味がないからである。見惚れてしまうほどの数寄ぶりにも関わらず涼とした立ち振る舞いは見事の一言。貴族の出と言っても信じてしまいそうだ。
「はいはい。お支払いね。カードでいい?」
「はい。もちろんでございます」
「ならよろしくね。それにしても君、いい働きするね。根性もありそうだし、中々の人材だよ」
「いえ、そんな……」
客がボーイに話をする時は大体クレームかイチャモンなのだが、この男は違うらしい。さすが金持ち。心に余裕がある。
「うちの従業員を甘やかさないでくださいね。先生」
そういうのは梵であった。いつの間にやらご出勤なされたらしい。
「やぁ
「言うほどでもないですよ。この方、まだまだ女心が分かっていませんから」
手厳しい意見だが事実として受け入れよう。
「まったく、君にかかったら大概の男はかたなしだな」
豪快に笑う先生の目配に合わせて出されたカードを受け取る。おぉ。外資系のプラチナカード。ステレオタイプなブルジョワジーを感じさせてくれるな。
「頼むよ」
「はい」
梵と談笑しながらも俺への気配りを忘れないあたり、本当にできた人間なのだろう。いやはや感服。歳を取ったら俺も、あぁなりたいものだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます