第20話
懸念を他所に学祭の準備進行は殊の外順調に進んでいた。
執行本部に寝泊まりするようなり無駄な時間が省けた結果、企画書はそれはもう見事なできとなり商店街の関係者を集めて開かれた説明会も上々(以前アエギュプトスに鮒さんと来た人間が町内のお偉方だったのは大きかった)。やるべき事はまだまだ多々あるが確実に一つ一つ消化できている。当初は無理だ不可能だと諦め半分だったがやってみると案外なんとかなるものである。諸々問題がないわけではないが進捗良好。不本意ながら始まったキャバクラ店員の労働も本日とうとう二週間が経ち、
今宵はめでたき日である。カーテンを貼っていないプレハブから射す太陽光が神々しい。まるで俺を祝福しているかのようではないか。
どれ、トーストでも齧ろうか。
気分が良いと胃も快調である。寝袋から這い出て伸びをすれば心身共に絶好調。朝食の準備も滞りなく。アウトレットで仕切れたトースターにパンを二つ入れ焼き上がるまで待つ時間のなんと満たされている事か。忙しくとも物事が順調であれば疲れよりも先に気力に溢れる。人生に張りが生まれるのだ。ワーカホリックも悪い事ばかりではない。
あと二週間で労役も終わる。そうすれば五百万。喉元過ぎればというが確かにあっという間であった。後はもう消化試合といっても過言ではない残りの勤務をこなすだけ。俺個人に関してはさして問題なし。そう、俺の事"のみ"関しては……
いかん。思い出してしまった。
上機嫌に水が注された想いをした。
確かに俺は問題がない。が、しかし……
「おはようございます! 上尾さん! 本日もいい朝ですね! あっ!」
「……」
早朝に登場し入り口の段差で盛大に転倒したのは江見である。今日も今日とて騒がしい。
まったく朝から騒音を撒き散らしてくれる。登り調子だったメンタルが途端に下落していき頭痛までしてきた。
「すみません。転んじゃいました」
「気をつけろ」
見れば分かる。いちいち報告せんでよろしい。
頭をおさえ、はにかむ江見。「ご愛敬」とでも言いた気な様子に漏れるため息。限度を超えた間抜けは笑止千万。この与太郎、まかろんに粉をかけられて以来空回りが酷くなっている。歩行者信号を無視しそうになるし側溝に落ちるし勤務中も些細なミスが目立つ。しかも彼の女と何か進展があるとも思えないところがなんとも道化めいていてるのだ。一人相撲を取る姿は哀れを通り越し滑稽の一言。それでもなお舞い上がり続けられる能天気はには呆れて物も言えない。
色恋で平常心を失うとは未熟。
心中そう思わなくはない。
しかし、恋愛の酔い方を知らない俺が批判するのも奴と同じく滑稽。助言をしてやってもいいのだが一を知って十を知った気になり一見に如かない百聞を聞かせるのも説得力なく下品。まぁ業務に関しては口煩く説教めいた苦言を述べてはいるが、果たしてどこまで奴の日本晴れな脳髄に入っているかは定かではなく、不毛の感がある。また、実のところ俺もまだまだ至らぬ点というか、不徳な部分があるようなのであまり強くは言えない。なにをどうすればいいのか皆目分からぬが、せっかく働いているのだから後学の為に改善をしたい所存である。江見にはっきりとした文句を突きつけてやるのはその後だ。
まぁ、パンも食べられないほど切迫しているわけでなし。残り僅かな時間で、可能な限り改めていこうではないか。
決意を新たに意気揚々。明日を照らす来光に希望を抱き、ポジティブなる展望を掲げていこう。
「あ、パン! 上尾さん、パンを食べていらっしゃる! いーなー! 僕も食べたいなーパン!」
「……好きにしろ」
「やったー! ありがとうございます!」
意気も目標もない人生というのは楽なのか苦なのか。嬉しそうにパンをトースターに投入する江見を見ながら俺は思案を重ねるが、馬鹿らしくなってすぐにPCの電源を入れた。
無駄なリソースを割いている場合ではない。さぁ、やるぞ……!
と、息巻いたみたがやはり企画ばかりを練っていても駄目な事に気付かされた。できた事といえば学祭における地元商店の出店場所の詰めと予算調整くらいなもので、必要な実施活動と協力の要請には人が足りないのである。今日も今日とて江見にチラシ配りをしてもらっているが一向に学祭運営を希望する者は現れない。運動部は仕方ないとして、文化部やフリーの学生まで興味を持たないものだろうか。二年、三年ならともかく、新入生なら一人くらいアニメのような大学生活を夢見る馬鹿が話しを聞きにきそうなものだが……
よもや江見のやつ、待遇に不満を抱きサボタージュに勤しんでいるのではあるまいな。
疑心暗鬼は器の小ささの証か。さりとてこれほど人が来ないのも不審。江見の事だから人が忌避するような勧誘をしていないとも言い切れないが、このところの挙動を鑑みるに完全なる信頼はできない。女に惚けて現を抜かす腑抜けっぷりを発揮するのもあり得る。
ここはやむなし。憲兵のようで気はのらぬが現場視察といこうではないか。
PCをスリープにして起立。サビの取れた扉を開けて、雑草の消えた道に踏み出せば風がそより。春の温もりから時折灼熱の気配を感ずる陽の高い時間。一年に一度しかない季節が移り変わっていく様は嬉しくもありなんだかもったいなくも感じる。一枚、また一枚と若さのページがめくられていく中で俺はどのような人生を刻む事ができるのだろうか。そもそも、こうしてなし崩し的に江見に付き合っている時間は無駄なのではないかと、やはり、つい、悩んでしまう。
これは、江見が本当に手を抜いていたら……
突如として諦める覚悟が生まれた気がした。
毒を喰らわば皿まで。されど、発案者にその気がなければ致し方ない。もし江見がビラ配りを怠っていれば、その時はもう辞めてしまおう。そうなったら旅にでもでようか。目的も目標もないが、恐らく疲れ切ってしまうだろうから、一時でもいいから現実から離れ、徒労と終わった二週間を忘れてしまいたい。
惰弱な精神からくる逃避願望に想いを馳せながら江見がビラを配布しているはずの位置に到着。姿はなし。トイレだろうか。それとも小休止だろうか。そうであってくれと思う反面、まったく仕事をしていないでほしいとも願ってしまっている自分に気がつく。朝の快調が嘘のように気分が沈んでいる。人を、仮にも歩みを共にする者を信じられない自分に、嫌悪を抱く。
「卿はそれでいいのか」
自身に後ろめたさを感じた時、俺の中でその言葉が伝わる。ラインハルトの声で問われる自ずの問題はいつだって答えが決まっていた。
いいわけがかい。
と。
だが今回は違う。いささか度量のキャパシティを超えてしまったようで自らの狭心を痛感する次第なのである。この喩え用のない無力感、無気力感といったらもう堪えようがなく、怒りとも悲しみともつかない不可思議な波動にすっかりと参ってしまっているのだ。想えば江見に対してはややヒステリー気味であった。奴との人間関係の構築において、知らず知らずに俺の脆い部分が露呈してしまっていたようである。抑制していた生の人格が現れどうにも難儀な心諸を抱えてしまっている。
初恋を覚えた生娘か俺は。
なんとも気色悪いと思いつつも、俺は胸に湧いた邪念を払えない。人付き合いとは、難しいものだ。
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