第19話
それにしてもまかろんの座るCテーブルである。まるで通夜のような盛り下がりぶりはなんだ。誰も彼もが押し黙り、心地悪さを紛らわすように酒を煽っている。辛気臭い。先程帰っていった鮒さん達(2%増でも気にせずというか気付かず会計なされた)がいなくなったらもうびっくりするほど静かだ。
わざわざ予約まで入れて暗い酒を飲みに来たのかあいつら。
そう。Cテーブルの逆は鮒さん達同様、営業前から席をリザーブしていた連中なのである。数は四。指名はまかろんのみであり、本来であれば他にもキャストが着くはずなのだが、なぜだか一人で相手をしているのはそういう指定なのだろうか。だとしたら、随分と……
「あのお客様、みんなまかろんに喰われた連中なんだよねぇ……しかも、全員所帯持ちで家庭が崩壊してる連中」
「え?」
待機していたところに声をかけてきたのはアロマである。客が途絶え茶を挽いる折の事で、余程手持ち無沙汰と見える。本来真偽不明のゴシップなど一蹴に伏すところではあるが、無闇に角を立てる必要もなし、一時、耳を傾けてやるが調和というものだろう。よかろう。聞いてやる。
「へぇ。本当に」
よし。自然に関心のある体を示せたぞ。秘密の共有は仲間意識の発芽に繋がる。別段仲良しとなるつもりはないが険悪よりは大分いい。これを機に親睦を深めるとしようか。
「……なぁんか、興味なさそうだね」
「……!」
しまった。本音が漏れてしまっていたか。
「……あまりキャストのプライベートに触れるなとのお達しがありまして」
「ふぅん」
誤魔化せただろうか……
「まぁどうでもいいんだけね、客席にいる連中、なんか結託して当て付けのつもりで来たらしいんだけど、そんな卑屈な仕返し、あの女に通じるはずないのにねぇ」
よし。機嫌は損ねなかったようだ。なぁに。このアロマ。単に暇で不服を拗らせて愚痴をこぼしたくなったのだ。毒を吐き出す相手など耳がついていれば誰でもよいのである。
「まぁ、黙ってて金入るんだから楽なものだくらいの事は思ってるかもしれませんね」
取り直し言葉を投げる。話す相手は誰でもいいとはいえ、一、二回はキャッチボールはせねばやはり気分は良くないだろうしこちらも罪悪の感に尾を引く。どのような場、どのような人種であれコミュニケーションは必要不可欠。対話なくして円滑な人間関係は築き得ない。
「どころか愉しんでるよ絶対。自分が人生をぶっ壊してやった男どもががん首揃えてノコノコやってきてるんだからお笑いぐさよ」
ほぅら乗ってきた。ここから一気に名誉挽回だ。客商売で培ってきたトーク術、今こそ披露する時ぞ!(もっぱらキッチンばかりやっていたが)
「しかし、わざわざ来たのに怒鳴り声どころか嫌味の一つもないみたいですね。ずっと黙って酒飲んでますよあの人達」
「そりゃあキャバ嬢に骨抜きされるような連中がそんな気概あるわけないって。今でも内心、まかろんが靡いてくるかもしれないなんて思ってるんだから」
「そんなものですかねぇ」
「そんなものよ。だいたい……」
「お喋りはその辺りで。上尾さん。無駄話しをするならお客様としていらしてください」
「……失礼。これより職務に当たる」
「頼みますよ。江見さんだけでら、心許ないですから」
「了解した」
梵め。小うるさい事を言いおって。おかげで話し半分で終わってしまったどはないか。
……いや、これでいいのか。あれ以上話しを続けても上手く運べる自信もなし。早々に業務に戻れたのを幸いと思った方がいいだろう。女の相手は神経を使う。働いていた方がまだ気が楽だ。
「それではアロマさん。叱られてしまいましたので失礼します」
退散退散。残り僅かな営業時間を頑張ろう。しかしアロマの言が本当だとすれば、やはり……
「江見君、狙われてるから気をつけた方がいいよ」
「……!」
パフュームの残り香と共に耳打たれた一言は俺の予想を確信に変えた。
やはりそうなのだ。あのどんよりとした沈黙が揺蕩う席で酒を嗜むまかろんこそが、梵が言っていた店に巣食うサロメであったのだ。
これは困ったな。
やはり江見は新たなる標的として選ばれたのだ。まかろんは、昨日やらかしにやらかした結果弱りに弱った心に漬け込みあの馬鹿が付くような純粋さを持つ愚図もといマイペースな青年を堕落させんと企てているのだ。これは止めねばなるまい。それが同じ志を持つ者の務め。悪しき道に踏み外す前に軌道を修正するのが俺の役目であろう。
が、しかし。しかしである。やはり事は男女の問題。口を挟もうか考えると生じる抵抗が易々と覆るわけもなく地団駄。踏み抜く二の足。江見に「あの女こそ我らを堕落の使徒とした元凶。即刻関わりを絶て」と厳を含ますは至極簡単。だがその後はどうだ。一度言ってしまえば取り返しの付かぬ沙汰となるは明白。口論。不和。仲違い。全てが無に帰す致命的な亀裂を産もう。それこそまかろんの思う壺ではないか。
とはいえこのままにしておけばいずれ江見は歯牙にかかる。それが臨時勤務中だけならばよいが、末長くとなれば当然学祭の企画運営にも支障が生じ、ゆくゆく瓦解頓挫は免れぬ事態となろう。つまりは八方塞がりである。面倒が起こる前に打開策を講じなければ先はない。
あぁまったく考えねばならぬ事が多い!
本来学祭とは無関係な案件まで抱えねばならないとはつくづく不条理である。
「すいませーん」
くそ! 時間も人も足りない!
「ちょっと、すみませーん!」
いったいどうしたらいいのだ! せめて一週間……いや三日あれば……!
「すいませーん!」
どうすればいい……何ができる……今俺が打てる最善の策は……
「ねぇ! ちょっと!」
中々煮詰まらぬ課題の山につい業務を忘れてしまった。時間にすれば数秒の事であったが、その僅かに空いた忘我によってどうやら耳が閉じられてしまっていたらしい。意識を取り戻した瞬間、待っていたのは……
「ちょっと呼んでるんだけど! そこのボーイ! 早く来てよ!」
店内方々に突き刺さるヒステリックな金切り声。静まる談笑。視線が集まるのは声の発生源であるまかろんと不手際をしでかした俺の姿である。
やらかした! すぐに向かわねば!
「申し訳ありません。お伺いします」
C席に走り跪く。まったく、だから俺は俺という奴が信用できんのだ。何かあるとすぐ思考に没入し周りが見えなくなる。ともかく平謝りをして何とか場を取り持とう。なぁに相手も子供ではないのだ。少なくとも、客の前では平穏に……
「はぁ? 散々無視しといて今更なに言ってるの? 舐めてる?」
あ、これはいかん。
まかろんの怒声を聞いた俺は彼女の怒りが消火困難である事を直感した。もはや原因などどうでもよく、ただ憤怒し暴言を吐きたいだけの状態となっているのだ。いわゆるヒステリーである。
「やる気ないなら辞めなよ。目障りだよ。無能じゃ務まらないからね」
「申し訳ありません」
「謝って済むと思ってる!? あんたは私の仕事を邪魔してるんだよ!? 金がかかってるの分かる!?」
「大変失礼いたしました。今後はこのような事がないよう……」
「今後があると思ってるの? クビだよクビクビ。使えない人間はいらないの。さっさと出て行きなよ無能。目障りだから」
「……」
まぁ呆けていた俺が悪いのだが、それを置いてもここまで言う筋合いがこの女にあるだろうか。いやない。そもそも業務怠慢はこいつの方だろう。如何に客に問題があろうとも黙って酒を飲んでいるだけで(しかもゲストドリンクを勝手に注いで飲んでいる)時給が発生しているのだぞ。それを棚に置いて偉そうに垂れる。実に鬱陶しい。甲高い声が不快感を増大させる。
まったく感情に任せて言いたい事を行ってくれる。クビか。結構な事ではないか。むしろ好都合よ。なんなら、今からお前の頬を引っ叩いてる公僕の世話になってやろうか。
喉からスルリと出てきそうな売り言葉。もはやこのまま自棄を起こしてしまった方が楽になろう。
だがそんな事はしない。何せ相手は猿同然の下等な女だ。同じ土俵に上がれば人間としての沽券に関わる。こちらが折れてやらねばならないだろう。それに任期満了の五百万は是が非でも欲しいのだ。リスクを犯している以上、斯様なつまらぬ事で幕引きとするわけにはいかん。我慢だ。ここを耐えねば男ではないぞ俺よ。
「聞いてんの!? 早く出ていって! 仕事の邪魔!」
「申し訳ありません。なんとか許していただけないでしょうか」
「はぁ? 無能はいらないっていってるじゃん!」
無能無能と馬鹿の一つ覚えのように。どうやらこの女の中では無能が最もダメージのある罵倒として認識されているようだ。裏を返せば一番刺さるワードが無能という言葉という事。きっと誰かにそう言われ続けて胸に深い傷を負ったのだろう。可哀想に。同情を禁じ得んな。
「至らぬ点は努力いたします。どうか、働かせていただけないでしょうか」
「だから無能な奴雇ったってしょうがないでしょ! 馬鹿なの!?」
そもそも雇用に関してはお前がどうにかできる問題ではないのだがな……
「まかろんさん。申し訳ありません。上尾さんには私から言っておきますので、ここは一つ、折れていただけないでしょうか」
ここで梵の登場である。
まったく、遅いじゃないか。女社長などという大層な肩書に恥ずかしいだろう。
「でもオーナー。こんな無能……」
はい出ました無能のワード。
「どうぞお願いします。ここは穏便に済ませていただきますと助かります」
腰が低い。その強かさ、見習いたいものだな。
「……分かりました。ただ、今回限りです」
「ありがとうございます」
やれやれ。やっと落着か。まったくとんだ災難だった。
「それと、こいつ無理なので私のテーブルには江見君をつけてください。これからずっと!」
あ、ふーん。そうくるかぁ……
「分かりました。そのように致します」
あ、そっかぁ……致しちゃうかぁそのように。
……
クソ! なんとかせねば!
店内に談笑が戻った頃、俺は改めて自らの迂闊を悔み時間の流れを憎んだ。
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