第17話
休憩から上がると瞬く間に時間が過ぎ、ついには閉店のお時間とあいなった。最後の客は半ば意識なく無理やり帰らせたが、終業は終業である。
「本日はお疲れ様でした」
時間の経過は早く感じたが出勤したのは随分前に感じる不可思議。慣れないうちは厳しい仕事になりそうだ。毎日この疲れ切った状態で帰らなければならないと思うとゲンナリとしてしまうな。キャストは送迎車に乗りさようならだというのにボーイには電車賃しか支給されないとはケチなものだ。だいたい終電は過ぎている。
「初日にしては中々……いえ、十分過ぎる働きでした。残りの期間も是非この調子でお願いいたします」
……労いの言葉があるだけでもよしとするか。これにて本日の営業は終了。掃除も明日の開店前に行なえばいいし、今日は早く帰って休もう。本題である学祭の方も進めねばならないしな。いや、それよりも運営本部の掃除が先か。明日の昼まで雑草刈りと江見の書いたプレハブの落書き消しを行わなければならない。その後に時間が空けば、営業開始の時間までに企画書の練り直しといったところか。
……時間が惜しいな。
運営本部で寝泊まりできるよう算段を立てるか。IHコンロと調理道具と寝袋と……シャワー室の利用許可はおりるだろうか……無理そうだな。あの鉄面皮が許すとは思えん。まぁ一応聞いてみて駄目なら銭湯でも使うか。回数券があったはずだしそれほど高くもならんだろ。いらぬ出費だがなんとかなる額。落ち着いたらまたバイトでも……
「では、こちら少ないですが日当です。明日は16時頃にお越しください」
あぁすまぬ。これで出費がまかなえ……なに!? 日当!?
「500万払うの給料まで払うのか!?」
「協賛の額は契約金。これは労働の対価です。お気になさらず」
「な……」
「なにか?」
「いや……」
なんと豪気な。女にしておくには惜しい逸材よ。これは俺も負けてはいられん。早々に人生の意義を見出し追いつかねば。あぁしかしくそ! 時間が足りない! 誰だ学祭を手伝うなどといった馬鹿は! 俺だ! 自縄自縛! 歯痒い!
「……ありがたく受け取っておこう」
何しろ貰えるものは貰っておこう。地獄の沙汰もなんとやら。あって困るものでなし、ありがたく本部の運営費(修繕費・雑務)に使わせていただこうではないか。江見もできないながら頑張った事だし、この待遇は恐悦の至りであろう。
うん。そうだろう。そうに違いない。だから黙って受け取れよ江見。それは正当な対価だからな? しのごの言わずに「ありがとうございます」だぞ?
「あの……」
俯いて何をほざくつもりだ江見。余計な事は言わなくていいぞ江見。謝意だけ伝えればいいんだぞ江見。
「すみません……僕はいただけません……」
「……」
「……」
……
……やはりか。
言うと思った。たまにいるんだこういう奴が。気持ちは分かるが、しかし……
「……江見さん」
厳しくなる江見の口調。背筋まで伸びてしまいそうだ。
「はい」
「貴方は日当の受け取りを拒否し、失態を許されようとしているのですか?」
「あ、え、いや……」
厳し言葉だ。だが正しい言葉でもある。
「江見さん」
「……はい」
「お金を受け取ろうが受け取らまいが、貴方のしでかした事は消えませんし許されません。対価の拒否はミスの免罪とはなり得ないのです。故に仕事での失態は仕事で返してください。このお金はその為のもの。支払った分だけの働きを、貴方はする義務が生じます。このお金が過分というのであれば、それに見合う仕事をしてください」
「……」
「分かりましたか?」
「は、はい……」
「結構。それでは明日、遅刻しないように。さようなら」
有無を言わせぬ正論と解散の号令。これでは引き下がる他ない。
「了解。お先に失礼する」
声を失った江見に代わりに適当に勤め終えの礼を致し2人仲良く店を出た。ここは退散が正解。居座って舌を交わしても仕様のない幕。無意味な行動は慎みたい。
「さて、終わりだ。明日も朝から働くぞ。本部へ8時に集合だ」
「……はい」
軽口を叩くも空気は重い。こういうのは苦手だ。得意な人間などそういないだろうが。
居た堪れず江見から目を背けるように周りの様子観察する。
繁華街の輝きは失せ始め人の姿も疎ら。時折見かける人間は一重に酒の毒に当てられ痴気を露わにしている。享楽の残骸だけが残った下賎な街はようやく微睡みを捉えたかのようで静寂を取り戻しつつある。
そんな中を男同士で歩いていると遊女の帰りだと勘繰られても仕方がないような気がしてきた。
赤の他人にふしだらと思われたら不愉快だな。さっさと帰ろう。
そもそも労働によって身体は重く心は淀んでいる。寝なければ心身の健全が保てない。江見の奴もそんな状態だろう。一晩寝ればいくらかマシになるはずだ。早くいつもの調子を取り戻してほしい。
「……今日はすみませんでした」
ふいにしょげた声の謝罪が飛んできた。
やはり、はじめての労働が大分堪えたとみえ語気に芯がない。蚊の飛ぶようなというより蚊の羽ばたきで飛んでいきそうな弱々しさである。
「……仕事の事か?」
分かりきった事を聞いたなと思った。
「はい……僕、全然役に立たなくって……」
「……」
うぅむ。確かにこの愚鈍がいきなり水商売というのは難度が高かったやもしれん。
殊に女というのは男に聡明さと愚昧さ。勤勉さと怠慢さ。謙虚さと傲慢さ。善性と悪性を男に望む。混沌としていて、それでいて秩序を持って接せなければ認めぬ難儀な生き物だ。そんな生物が蠢く世界にチェリーめいた人間がいきなり飛び込めば洗礼も受けよう(江見の場合それ以前の問題として論外の烙印を押されてしまった風にも思えるが)。
しかし、適正もあるが何よりエクスペリエンス。やってみなければ何事もできぬまま。成長というのは苦難苦境の中、痛みを伴って始めて始まるものであるから進むしかない。
実のところ、やるからには何か得てほしいと妙な親心も出てきてしまっている。可能ならば僅かでも前向きな心持ちで挑んでほしい。
自信というか、やる気の出る気の利いた台詞でも吐ければいいのだが……
「……」
「……」
駄目だ。思いつかん。こういう時いかんな俺は。激励も甘言も何も出てこん。
「……」
「……」
「……」
「……」
嗚咽が聞こえる。すまん。俺は、お前に何と言ったらいいか……
「……」
「……」
……
「……まぁ……」
「……?」
「明日から、また頑張ろう」
「……はい……はい……」
あぁいかん。本気で泣き始めてしまった。気持ちは分かるが……しかし……
「泣くのは、今だけにしておけ。男だからな」
こんな事しか言えんのか俺は……まったく人心を扱う資格がないな……
「……はい……すみません……」
あぁ……江見め、ハンカチまで取り出して本格的に……おや?
「江見。何か落ちたぞ?」
「え?」
ポケットからハンカチ取り出した瞬間ヒラリと落ちた紙片。なんだこれはっと……うん?
街灯に照らされそれにはメモと連絡先と思われる文字列。どれどれ。内容は……
江見さん。色々大変でしたが、ガンバッてください!
まかろん。
……拾った紙には、丸く、下手な字で、確かにそう書かれていた。
「……マジか」
「え、なんですか? え? え?」
涙を流し困惑する江見と紙幣を見比べる。
そっかぁ…あるのかぁ……こんな事……
「上尾さん? 上尾さん? なんですか? どうしたんですか? それなんですか? ねぇ? ねぇ!?」
「……」
まぁ……そんな事も……あるか……
「上尾さん……上尾さん!?」
なるほど。なんとなく察したぞまかろんの正体。梵のあの言葉はそういう意味であったか。
しかし、だからといって……
「かーみーおーさーん!?」
あぁ、夜が更けていく……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます