第16話
時計を見ると針は17時30分を指している。
そろそろかな……
開店準備を終えて江見とマニュアルを確認していたのだがそれも終わりとなろう。なぜならば……
「おはようございまーす……」
来た! お嬢様だ! 金で嬌声を売る夜のカナリアのご登場だ! そしてこちらも挨拶を返さねばなるまい! ハッタリをかますためにも
「おはようござ……」
「おはぁよぉぉぉぉございまぁぁぁぁぁす!」
響き渡る奇声! 江見である!
これには出勤したキャストも思わず仰け反り「ひぃ」と悲鳴を上げる。元気はいいがそれでは威嚇だ。加減しろ。
「ビックリした……なに? なにこれ?」
仰天するのもやむなし。江見は早くもマイナスポイントが加算した事だろう。負数が加算され減数。紛らわしい。小学生の時分を思い出す。
「……ごめんなさいアロマさん。この人新しくボーイやってもらう事になったんだけど慣れてなくって……こっちの大きい人は多分大丈夫だから……」
大きい人とか多分大丈夫とか説明が雑で失礼だな。まぁいいが……
「本日よりお世話になります。上尾です。よろしくお願いします」
「お、お願いします……」
……
歯切れの悪い挨拶に舌打ちを堪える。
江見め。余計な事をしてくれた。初手の失敗は尾を引くというのに。
「江見さん。緊張するのは分かりますが女の子がビックリしてしまいますから、もう少し声を控えてください」
「はい! 静かにいたします!」
十分うるさいぞ江見。だがまぁ、しかし、物は考えようだ。この江見、鈍臭いが顔はいい。それも女受けしそうなベイビィフェイス。美顔と愚鈍のギャップは中々に刺さるやもしれん。なんだかんだで顔がいい奴は特だ。チヤホヤとされ最終的には囲いの鳥が如く愛でられる可能性もあるだろう。そうなれば天職ではないか。やったな江見! 見通しが立たない人生に一縷の希望と巧妙が差したぞ!
と、なればよかったのだが残念。現実は悲しい程に厳しかった。
「ちょっと! トイレに人いるじゃん! なんでちゃんと伝えてくれないの!」
「すみません!」
「キャストドリンク水だったんだけどどういうつもり!? 私には飲むなって事!?」
「申し訳ありません!」
「アルコール強過ぎなんですけど!? あんた適当にやってない!? 客はともかくこっちの酒はちゃんと作って!」
「大変失礼いたしましたぁ!」
「……」
一仕事終えた女どもから浴びせられる文句の嵐。客席に聞こえないギリギリの声量なのが恐ろしい。
「江見さん。気をつけてくださいね。これ以上はちょっと看過できなくなりますから」
「は、はい! 気をつけます!」
あぁこれも恐ろしい。梵が怒っている。
高慢ちきで鼻持ちならない女から出る怒気のなんと威圧的な事か。見ている分には面白いが。
「上尾さんもボサッとしてないでホールをちゃんと見てください。D席の氷がそろそろです。気をつけて」
「……了解」
俺に当たられても困るのだがな。薮蛇を突きたくはないから黙ってはいるが感情的な態度は控えていただきたいものだ。だいたい怒り心頭で冷静な判断もできていないのではないだろうか。D席の氷ならさっき交換したばかり……
あ。
確認し状況を把握。対応の必要あり。動かねば。
「江見。アイス。至急頼む」
「あ、はい」
まさか本当に替え時とは。D席の客は予約でまかろん(源氏名)を指名していた事からきっと常連なのだろう。客の癖を理解しているに違いなく、それを読み判断するのは可能である。しかしホールに出てもいないのにタイミングを測れるのは見事な業前。個人だけではなく店全体の空気を読まねばできない芸当である。やるではないか。
口だけではないか。面白い。
少しばかり愉快な気持ちになり盛り付けの終わった氷を持っていく。
仕事のできる人間は好きだ。これもラインハルトが持つ人材コレクターな側面に影響されたのかもしれんが、職務で光る人間というのは魅力的に映るものである。女としてはともかく、人間としては逸材だろう。
「失礼いたします」
馬鹿な考えを巡らせながら氷を客席へ提供。店が暗くてよかった。多分俺は今ニヤついている。
「お、来た来た! 待ってたんだよ氷!」
待ってましたと勇む客の卓を見て少し驚くアイスペールがほぼ空になっているのだ。どういう飲み方したらそんな短期間でなくなるのだろうか。
訝しむ俺の前で客は「へっへっへ」とおもむろに氷を掴み、追いかけるようにして安いウィスキーを流し込んでいった。なるほどそういう事か。けったいな飲み方をする。
「丸山さんの飲み方やっぱり可愛い〜ボトル入れる?」
「そうだな! 兄ちゃん! ターキー一本空けてくれ! あと氷な!」
「私も頼んでいい?」
「当たり前だろう!? 好きなもの飲め!」
「ありがとうございます〜。じゃあサザンカンフォートもお願〜い」
「……かしこまりした」
あんな雑な売込みでボトルを入れるものなのか……夜の街はよく分からんな……
「D席ボトル入りました。ターキー一本。あとアイスとキャストドリンクでサザンカンフォートお願いします」
「分かりました」
なんだ?
聞こえたのは女の声である。梵だ。梵の声だ。なぜ梵が立っているのだ? バックには先までいた江見の姿は消え、梵が立っているのである。なんだ、早くも解雇か?
「江見さんは少し休憩していただいています。帰ってきたら、貴方も10分程度休んでください」
読心したかのような返答。手間は省けていいが可愛げのない。まるで管理されているようだ。いや実際されているのだが、気に入らない。
「そうか。助かる」
しかし疲れはあった。
店も落ち着いてきて小休止するには丁度いい頃合い。こちらとしてもありがたい申し出である。素直に受けよう。
だがそうなるとこいつは休まないのか? 10分程度なら問題ないとは思うが、いなくなると少し困るな……どれ、聞いてみるか。
「お前は休憩しないのか?」
「大したことはしていませんのでいりません。それに、働くのは好きですから」
言うではないか。さすが女社長だ。気骨気概が違う。
「ところでまかろんさん。問題なさそうだった?」
「? 問題とは?」
異な事を言う。まかろんがどうしたというのか。
「何もなければ結構です。はい。ターキーとアイスとサザンカンフォート。よろしくお願いしますね」
「了解した」
はっきりとしないな……気になる……
あぁ、いかん。考える暇はないな。仕事をせねば。
手際よく作られたロングカクテルから炭酸の気泡が割れていきほのかに香る。実に美味そうだ。バーテンダーでもやっていたのだろうか。機会があったら作ってもらおう……
何を考えているんだ馬鹿馬鹿しい。やめやめそういう妄想は。妙な下心があると思われでもしたら心外の極み。浅はかな友達意識など持たぬようにせねばな。
小さく被りを振ってドリンクが乗ったトレーを持つ。邪念はいかん。忘れよう。配膳配膳……
「お待たせしました」
「おぅ! ありがとう!」
運んできたオーダーを並べテーブルから去る。まかろんの甘く高い声と丸山とかいう客の野太い笑いが妙に気色悪いがじきに慣れるだろう。
……
やはり気になる。梵の思わせぶりなあの台詞。いったいまかろんに何かあるのか。確かに妙な感じはするが……
……
「上尾さん。休憩どうぞ」
梵の声で我に帰る。いかん。呆けていた。
「しばらくは私がホールに出ますのでご心配なく」
そうか。お前がホールに出るか。まぁ、そうだろうな。
「了解した。では、少しの間よろしく頼む」
「はい。どうぞごゆっくり」
考えても仕方がないな。
どうせ分からんのだ。無駄な事に脳のリソースを使うのはやめよう。
「お前まじふざけんなよ!」
「すみません!」
休憩から上がった途端に江見はまた怒られているのか……
俺は泣きそうな声を上げる江見を尻目に非常階段へ向かった。これも社会勉強だ。励むべし。
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