第5話

 帰宅したのは21時過ぎだった。

 頼まれたのは城崎さんの民宿だけだったのに、何故だか「次は丸野の店」「次は坂村のボロ宿」と、どんどん仕事が増えていき、最終的に「いやお疲れさん。飯食ってけ」と、大量の魚料理と酒をご馳走になったのである。おかげで一日が終わってしまった。確かに嫌々机に向かって何やら作業するよりはいいだろうと思ったがさすがに拘束時間が長過ぎだ。次からは付き合いも少し考えねばなるまい。まぁ、考えたところで安請け合い癖が治るとも思えないが。


 とはいえ、動いていた方が気持ち的に楽にはなった。あれやこれやと考えるより、無心で肉体労働に勤しんでいた方が性に合っているのだろう。

 あれはできるだろうか。これはできないだろうとウジウジ考えているより心が落ちつく。元より思案するのは苦手なのだ。意地とヤケクソ気味の努力で大学まで上がったが、地元で機械油にまみれていた方が余程俺らしいとも思う。何を悩む事なく1日を終え、自然と時流に流されて死んでいくのがどれだけ気楽か知らない。そういえば一時期組み立てのアルバイトをしていたがあれはよかった。どこからともなく流れてくる部品と部品を繋ぎ合わせてどこぞへと流していくのである。つまらぬ情報がいっさいない閉鎖された空間で次々と同一の工程を繰り返す安心感といったらない。不安も不振もなく不乱に従事できる仕事が如何に尊いか。憂慮する事態が発生しないというのはそれだけで価値ある仕事である。

 では、そんな仕事に就けば良いのではないかと人は思うだろうがそうもいかない。何せ俺の心には皇帝が鎮座している。単純作業を下に見るつもりはないが、やはり安穏とした生活を許されぬ事が容易に想像できるのだ。

 本来であれば自衛官か警察官となり闘争の中に身を置くはずだったのだが腕の傷でそれが叶わなくなった今、代わりとなるに相応しい誇りと名誉ある職に勤めなくては生涯悔やみ続ける事となるであろう。そんな人生は、誠堪え難い。

 なれば目指すは官僚か政治家だろうが、向かうにあたってはどうしても尻込みしてしまう。確かにそこそこ偏差値の高い大学に属してはいるが所詮そこそこ。本質的には無能な俺が国政に携わる一流と超一流の人間達に敵うとも混ざれるとも思えず、やる前から薄い希望が溜息と共に出ていってしまう。それに、陰謀渦巻く権力の坩堝などそれこそ性に合わない。制服に袖を通し汗を流す現場作業が一番いいのだ。あぁ、腕の怪我さえなければ、あの時もっと落ち着いていればと、たらればの虚しさに砂を食む思いである。


 いや、いかん。寝よう。


 酒が入るとどうしても陰が入る。よくない兆候だ。元来楽観的とは言い難い性格だが、それにしたって卑屈が過ぎる。ネガティヴなどクソの役にも立たんというのに、深みに入ると抜け出せないから始末に悪い。こういう時はもう一切を忘れて朝まで床にこもるしかない。酔いも宵のうちばかり。朝になればスッキリ爽快。その為にも、早く寝てしまおう。


‭ 俺は風呂も入らず歯だけ磨いて寝支度を整えるとだらしもなく下着だけになって敷いた布団に包まれた。暗闇の中で聞こえる隣室の生活音がどこか暖く、また恋しくもあったが、そんな感情も微睡みに呑まれて朝には消えていた。


 いつもより早く起きた朝は気怠く昨夜の酒がまだ残っているような気もしたがインスタントコーヒーを飲むうちに忘れてしまった。軽くシャワーを浴びて服を着て、いつもの時間に部屋を出る。本日はゼミ。カナブンに小声を言われるかもしれないと、少し気が落ちる。




 大学に到着し、教室に行くといつもの面子と顔を合わせる。挨拶をするくらいの仲でろくに会話もなく、各々が好きなように時間を潰しゼミの開始を待つ。特に面白味のない時間。名前しか知らない希薄な関係の人間の群れは動物園で見る珍獣とさほど変わらず、俺もまた奴らにそう思われているに違いない。俺達はただカナブンの話を聞き、まとめ、論文を書くためだけに集まった烏合であり、それ以上の関わりは持ち得ないのだ。


「はい。おはようさん」


 それはカナブンから見てもきっと変わらぬだろう。入って挨拶をした瞬間から興味なさ気に視線を投げる様は「お前らの顔はもう飽きた」とでもいいたそうである。


「それでは、先日皆さんから提出していただいた近代におけるイスラム教徒の多様性に関するレポートですが……」



 今にも眠りそうな声で始まるレポート品評と課題はカナブンのやる気と連動し欠伸を噛み締める努力さえ馬鹿馬鹿しくなるほど退屈な時間であった。どうでもいい時にはハイテンションで喋り続けるくせに駄目な時はとことん駄目な奴だ。人に物を教える態度としては三流。なってない。







「……では、以上までの点を踏まえて、各自もう一度まとめてきてください。それでは本日は解散。少々早いがさようなら」




 そうして終了20分前にゼミは閉幕となった。

 ゼミでの研究については教授に権限が与えられており、独自性と逸脱しない範囲での自由は認められていたがさすがに怠慢が過ぎるのではないだろうかと少々の失意を吐き出す。

 しかし他の連中は得したと言わんばかりの上機嫌で部屋を後にしていく。空いた時間で早めに遊びにでもいくのだろうか。結構な事だ。授業料を払っている親が不便でならない。もっとも、カナブンに言わせればそれこそが若い時代の正しい生き方なのだから、奴らは師の意思を明確に汲み取り引き継いでいるわけだ。成る程優秀ではないか。俺には真似できそうにない。


「やぁ。君も早く行きなさい。せっかく時間ができたんだから妙な悩みなど忘れて不埒の限りを尽くすといい」


 これである。いやはや恐れ入った。返却されたB評価のレポートを読み返していたのだ。普通アドバイスなりなんなりとするだろう。


「あいにくですが……」


 返事をするにも文句を付けるも着席したままでは失礼だろうと立ち上がりそう言うと、カナブンは肩を落とした。あからさまな落胆の様相にさしもの俺も堪忍袋の緒が少し緩む。曲がりなりにも教育に携わる者の態度ではない。


「愚俗的な行為なんてのは、そんなに重要ですかね。昨日にも仰っていましたが、やはり僕には分からないです」


 議論覚悟の反論。攻めの姿勢。


 が。


「分からぬのなら実際にやってみて確かめてみるといい。できぬなら文句を言うな。実践なくして結果を語るのは阿呆のやる事だよ君」


 乾いた笑いを上げたカナブンは俺の肩を叩き退室していった。まさに肩透かし。振り上げた拳の行方が迷子となり血が湧く。おのれカナブン。


 だが正論ではある。人のあれこれに対し知識だけでケチをつけるというのも狭量かつ不寛容。何につけても経験はしてみるべきだろう。しかし今日日の若者のように快楽を貪り刹那に傾倒するなどという浅はかは拒絶対象。若さに任せて恥を捨てるなどできようものか。そんな愚行をしようものなら、例の言葉が響くに決まっている。絶対にためにならん。


 相反する自我と思想。優先すべきは果たしてどちらか。いや、むしろ、如何にしてもカナブンの言い分に抗えるかを考えてしまっている。俺にはやはり、軟派な真似は……いやいやしかし、それでは……


 考えがまとまらず腰を下ろす。ギシと軋む椅子の音が物悲しい。詩の朗読会やオペラ鑑賞にでも行ってみるかと思案するも、何となく肌に合わない気がしてならない。ならば乗馬や弓などどうだろうかとスマートフォンで検索するも、場所が意外に少なくどれも遠方である。行けなくはないがそこまでして行きたくはない。つまり、結局興味がないのだ。琴線に触れねばやる気も起きぬというもの。万事為体ばんじていたらく。倦怠感だけがのし掛かる。


 スマートフォンの表示はいつの間にか御知恵拝借版を写していた。

 つらつらとくだらぬ書き込みを目で追っては乾いた笑いを浮かべる自分が滑稽に思える。終いには、また▲▲大学執行部とやらが投稿した内容を見る始末。結局なにもできぬではないかと自嘲。あぁ、これは聞こえてくるな。ラインハルトのあの言葉が……


「あ……」


 突如開いた部屋の扉。


 立つは一人の男。見たところ幼さ抜け切らぬ1.2学年の風体。手には大量に積み上がった半紙を持っている。



「すみません。空き教室かと……」


 あたふたとし半紙を数枚落とす男を前に時計を確認すると、もう授業時間が終わっていた。チャイムを聞き逃していたか……また無駄に過ごしてしまった。


「いや、すまない。俺が勝手に居座っていただけだ。すぐに退く」


 改めて立ち上がり俺は落ちた半紙を拾って机に置いてやったのだが、その際、デカデカと書かれた文言に目を疑った。





 ▲▲大学学祭執行部員募集中


 


 半紙には確かに、そう記載されている。



「お前か!」



 俺は思わずそう叫んでしまった。

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