第9話 酷薄
「……重機を手に入れよう」
「突然何を言い出したんですか?」
川から水を引くにしても、アスファルトが舗装されている地面の上を通る以上シャベルやスコップで整地していくのは無理だとわかった私は、私と透がいつも過ごしている用務員や警備員用の宿直室に戻るなり、そう口にした。
「今は手で水を撒いてるけど、正直これ毎日やるだけで相当水の無駄になるからね」
宿直室では、透が私の分の昼食を用意している最中で、カセットコンロで米を炊飯していた。
最近は使える食材の種類も減り、献立を考えるのが一苦労だと零していた透ではあったが、私の予想に反して彼女は料理上手であった。
「時間の無駄でもありますしね。野菜もいいですけど、収穫の時期が決まってますから、今の内に保存食を集めるだけ集めた方がいいかもしれませんよ」
「確かにねぇ……」
「それに、私、図書館の本で見たんですけど、車に使われているガソリンって、通常、放置していれば3年ほどで使い物にならなくなるらしいですよ。動く内に、この街に留まるか、とか、回収できる物資の回収を急いだほうがいいかもしれませんね」
さらりと、しかし、私にとってはとんでもなく重要なことを透はなんてことなく言い放った。
つまり、先延ばしにしていた、もっと都会へ移住するという判断は、少なくとも3年以内に下さなければならないということである。
(……もしかしたら、昨日見たコンビニから物資を回収した人も、既に何処かへ移動したのかもしれない)
そう考えると気が楽になる気がしたが、同時に、いつまで仙元市に留まるかという問題も出てくる。
「透、仙元市に居続けるのは反対?」
「この環境じゃ、長くはない命ですから。正直言って、どちらでも構いません。ですが、仙元市を出るとすれば、もっと都会へ行くのですか?」
「うん。やっぱり、仙元市じゃいつか保存食は無くなるかもしれないし、都会ならもっと便利な資材があるかもしれないしね」
「ですが、長い目で見て、都会の保存食が枯渇したらどうします?それなら、自給自足が確立できる、森とか山の方がいいとは思いますが……」
透は既に長く生きることを諦めている。
彼女の言葉の端々からは、自身の命を長くて後一年もないだろうと推測していることがわかる。
私は彼女に諦めて欲しくないし、生きる希望を見出して欲しかった。もしかしたら奇跡的に、腫瘍の肥大化が止まり、普通の人間とはいかなくとも、死が横たわるような病状からは解放されるかもしれない。
だが、それは無責任な言葉だ。
だが、自分の命が長くないと悟った上で、透は私にそんな提案をしてきたのだ。
長い目で見て。
そんな慣用句を彼女に使わせた私は、どんなに無配慮な人間だろう。
「ううん。やっぱり、暫くはここにいるよ。厳しい状況になってから、考えようか」
ともあれ話を戻すと重機だ。
ユンボルなんかがあるとありがたいのだが、
「そもそも操縦できるんですか?イメージですけど、ああいうのって普通の車の数倍は難しそうだと思いますが」
確かに、透の言うことはもっともだ。
とはいえ手作業というのは不可能に近い。
「あ、用水路引くならこういうのはどうです?」
と、透は思いついた様に、声をあげた。
「ほら、あの流しそうめんの要領で……」
「木樋を使うってこと?」
「まぁ木製じゃなくても……、たとえば、もうホームセンターから長いパイプとか持ってきてここまで水を引くのはどうですか?」
「確かにそれだと、校庭の菜園に水路を引くだけで良さそうだね……でも、自然流下って方法を考えると、結構上流の方から持ってこないとダメかな」
本屋からくすねてきた地図を広げる。スマホが普及した昨今でも紙の地図というのは無くならないものらしく、今の私にとっては有り難い代物だ。
ご丁寧に等高線が記されているタイプのもので、縮尺と高度を計算しながら何となく水の確保ができそうな地点を割り出す。
「となると、ここだね」
ポイントを指でさす。
仙元高校は幸いなことに住宅地を少し外れた場所に建っているので、山の方の水源を利用すれば家屋に邪魔をされずに水を供給できそうだ。
「一回現地に行ってみないとなんとも言えませんが……500メートルくらい離れてますねぇ」
透は何気なく言ったつもりかもしれないが、私は透が外出したいのだと暗に伝えていることが分かった。
(……あんまり、無理させたくないんだけど)
500メートル位なら、ここから坂道とはいえ、そんなに体力も使わないはずだ。
本人の言によれば、激しい運動や頭への強い衝撃さえなければ、常人と同じように動けるらしいが。
(やっぱり、私の我儘だけど、透には少しでも長く生きて、側にいてほしい)
実に独善的で、自分勝手な望みだと、私は思う。
だけど、これは毒だ。
カナエが私の心の弱い部分に塗り込んだ、甘い毒。
孤独に恐怖してしまう。
そんな、人間なら誰もが生まれ持っているはずの、当たり前の毒を、私は仕込まれてしまっていた。
ここ数年、四季というものがなくなり、年がら年中温暖と酷暑の狭間を行ったり来たりしているのが現状だ。
北極だか南極だかの氷が溶けてしまった上、追い討ちをかけるように地球規模の地殻変動により頻発する地震と共に地面が沈み込んでいくのが、ヒューマンレポートを実行せざるを得なくなった要因である海面上昇の原因だという。
暑さのせいで止めどなく流れる哺乳類の汗が海面上昇の真の原因なのではないかと、出来の悪いジョークのような想像をしてしまうほどに、今日はいつにも増して太陽がその能力を惜しげもなく発揮していた。
いつも遠出する際は、車で移動していたせいか、たかが500メートルと侮ってしまったが、大河に注ぐ支流の一つが湧き出る小山であっても、息が上がってしまっていた。
当然、私の後ろについてくる透も、額に汗を流していた。
「大丈夫?休憩いれようか」
「こんな……学校の裏山を、一息に登れないほど、私は虚弱じゃありませんよ」
意地を張っているのか、それとも、いつもの彼女なりの自虐的な冗談なのか。
その判断はつかないが、やはり、彼女としては私に気を遣わせたくないのだろう。
だからこそ、私は敢えて、彼女の細い腕を取った。
「ねぇ、透。私はね、一人に慣れてたんだよ」
すっかり息の上がりきった透は最初、顔を上げるだけだったが、袖で汗を拭った後、リュックに入れていた水を飲むと、困ったようにキョトンとした顔を向けた。
「でもね、ちょっと色々あってね。一人は寂しい、一人はやだなって、そんなこと考えるようになってしまったんだ」
「そりゃ、誰だってそうですよ。最初から一人が好きな人なんて、そう多くはいないと思いますよ。一人が好きだって言う人は大抵、最初からそうだったわけじゃないんですよ」
「透、私はこれから透にすごく酷いことを言ってしまう。
どんなに苦しくても、どんなに嫌になっても、未来を犠牲にして今を生きないで欲しい。一年でも、一ヶ月でも。ううん、一秒でも長く。この、狭くなった人間の世界で、そして、広過ぎる私達の世界で、一緒に生きて欲しいんだよ」
「……本当に、それって、酷い要求です。いつ死ぬかもわからない病人に、それも、まともな医療施設なんてないような世界で、言っていい言葉じゃありません」
それでも私は、生きることを諦めないで欲しかった。
偽善ですらない、私のただの我儘に、透は呆れただろうか。
だけど、私の言葉で少しでも、彼女が私一人に多くのことを任せてしまっているという引け目と罪悪感を緩和できれば、それでよかった。
「透……、ごめんね。やっぱり、こんなこと」
無神経だったかな。
私より年下の透に、こんなこと言うべきではなかったかもしれない。
数秒の沈黙の後に、私はやはり少しだけ後悔して、そんなこと言いかけると、透の右腕を掴んだ私の手に、透が左手を重ねた。
「ですが、ナナさん。そんなこと、言ってくれたのは、多分あなたが初めてです」
どちらかが、というわけでもなく、私と透は自然と手を繋いでいた。
木陰を探して、大樹の根元に座り込んでも、その手が解かれることはなかった。
要するに。
出会った初日に透が見せたような、年相応の甘え方を、再び私に示してくれたのだった。
「ナナさん。私、本当はもっと早く死ぬべきだったのではないかと、ずっと思ってたんです」
「……聞いてもいいの?」
「ええ。私、ナナさんとなら、生きていけるような、そんな気がしていますので」
だから、と。
透は少し寂しそうな目で空を見た。
「以前も言ったように、私は9歳の誕生日を迎えられないって言われてました。それが発覚したのが、7歳の時で、未だに憶えているのが、両親が泣きながら私を抱きとめたことです。ごめんね、ごめんね、って。両親が悪い訳でもないのに、ずっと謝っていたのを憶えています」
それから、両親は大抵の人間が体験するよりも早く訪れる別れを見越して、目一杯、私を愛してくれました。
透は、懐かしむように目を細める。だが視線は、空を見たままだ。
そして、なんだろうか。
(何となくだけど、透のこの表情や口調が、昔の私に似ている気がする)
「ですが、知っての通り、私は9歳の誕生日どころか、今も尚、こうして生き続けてしまっています。
それは、どういうことか、分かりますか?」
「えと……やっぱり、両親は喜んでくれたんじゃないの?」
「いいえ、その逆ですよ。私の病状を遅らせるための処置や入院費は、決して普通のサラリーマンである父が賄えるような金額ではなかったんです。もちろん、予定されていた私の命日までならば、父はどうにか支払えたのでしょうが……」
そこからは、お決まりの話ですよ。
自嘲するような、いや、自傷するような笑みを浮かべると透は私の方にその小さな頭を乗せた。
「11歳の時でした。どうにかして、私の入院費や治療費を払おうとガムシャラに働き詰めていた父が過労死してしまったんです。
母は、そんな父の死の原因である私を当然疎ましく思ったのでしょうし、事実、私に対して罵詈雑言を浴びせるようになりました。
流石に、虐待とかはありませんでしたが、父が生きていた頃には三日に一度は見舞いに来てくれた母も、ついには、来なくなってしまいました。そこで私は思ったんです」
(ああ、そうだ。確かに似ている。カナエと会う前の、私だ。私は何をしても、誰といても。何一つとして良い結果などとは無縁なのだと、そう信じ込んでいた、あの頃の私だ)
私は気がつくと、透を抱きしめていた。
カナエがそうしてくれたように、私も透のことを本当の意味で救いたいと。
そう思ったのだろう。
透は突然の抱擁に驚いたように身体を硬直させたが、私を受け入れるように、徐々に私の身体に体重を預けていく。
「私は死んで然るべき人間なんだって。そう思っていたんです。だから、正直言って、あの時、病院を抜け出したのは、あのまま病院に残れば、きっと他の置いていかれる患者達の足を引っ張ってしまう。
だからこそ、どこかで一人で、死んでしまおうと。誰にも認知されずに死ぬ事が、私に出来るささやかな贖罪だと、そう思ったんです」
私の胸元に何か湿ったような感触を感じた。顔が隠れて見えないが、
(泣いている……。透、泣いてるんだ)
それだけ、悲痛な思いをしたのだろう。
私は透の背中に回した腕に力を込めて、優しく頷く。
「ですが、ナナさんに出会った。一人じゃ生きていけないから、一緒に生きていて欲しい。そう言われた時、私は、私の命の意味を理解したんです。
どうせなら、死ぬまでの時間を、こんな私を必要としてくれるこの人に使おうって。そういう風に、考えたんです」
「透、それは違うよ。命に意味なんてない。命をどう使おうかなんて、個人の自由だし、その自由は誰にも侵害されちゃいけないんだ。
少しでも長く私といて欲しいって言った私が言うのもおかしいけどね、命の在り方を決めるのは、哲学者でも宗教家でもないんだ」
「……はい。ですから、私も決めました。私の命の在り方。私が私自身で、ちゃんと。
長く生きて欲しいなんていう言葉、私の両親ですら言わなかったんですよ。命が尽きる未来を悲しみながらも受け入れて、せめて、生きている間は幸せなようにって、愛してくれた年月も、今思えば、諦めでしかなかったんです。
本当は私は生きたかった。
普通の人達と同じように、生きたかった。現実的にそれが無理であっても、私は……、私はっ……!
それを両親に望んで欲しかったんですよ……。
諦めないで欲しかった、受け入れないで欲しかった。両親が望んでくれれば、どんなに醜くても、私は死にたくない、と、泣き叫べたんです」
(大人の履き違えた優しさと、身勝手さで、透は)
きっと子供の頃から、本当の望みを言えなかったのだろう。
いや望みですらない、ただの癇癪にも近い、生の感情を封印されていたのだ。
「だから、私に長生きして欲しいって、そんなことを言ってくれたナナさんと、少しでも長く居られるように、生きていきます。これが、私の命の在り方です」
それに、と。
透は泣き腫らした目で、悪戯っぽく笑いながら、付け足すように言った。
「こんな死にかけの私なんかよりもずっと放って置けない寂しがりやのナナさんを、さっさと死んでしまって一人になんて、出来ませんよ」
それは強がりとわかっていても、虚勢だとわかっていても。
私達の、精一杯の約束だった。
ヒューマン・レポート オモイカネ @omoikane6264
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