第7話 貴賤無き偽善
夜中だというのに、やけに明るいのは今日が満月というだけでは理由として弱い。
ノアの箱舟が、航行をスタートしたのだ。
その巨大な船体を動かす推進機構は、私には詳しい説明ができないが、やはりそれなりのエネルギーやパワーが必要だそうで、それらが放出されると、地上は夜中だというのに夜明けのような明るさが街を覆っていた。
仙元高校の屋上から、私はそれを眺めていた。
恐らく、残留組の殆どは、彼らが地球から離れていくのを見守っているのだろう。
どのような気持ちで、見送っているのか。
怒りや悲しみ、恨みや妬み。
或いは、私のように、どこかすっきりとした気持ちで見送っている者もいるかもしれない。
カナエの真似をして、私の家に置きっぱなしだった彼女のタバコを咥えながら、一通り見続けると、私は屋内へと戻って行った。
結局、私が住んでいたアパートに住み続けることを、私はやめた。
たったひと月、されど私にとっては、幼少の頃以来初めてとなる誰かとの共同生活だったのだ。
それも、両親から見捨てられて以来、初めて、心の底から信頼し合える関係になりたいと思える相手とのだ。
幸せを知るから苦しくなる。
それは知っていたつもりだった。
彼女のあの表情。
最後の最後に選ばれて、そして私が立ち去る瞬間のあの表情が、忘れられなかった。
カナエはきっと、本当に心の奥底から、私のことを考えてくれたのだろう。
だが、私を憐れんで、私の元に残ってしまえば、きっと彼女は後悔する。
しかし、彼女と共に暮らした時間の中で、カナエは、自身で正しいと思ったことを愚直なまでに信じる癖があると知った。
だからこそ、カナエは船に乗船しても後悔するだろう。彼女の罪ではないはずの罪悪感を感じてしまうのだろう。
だから、どちらを選んでも後悔するのなら。
せめて。
私を選んだことで後悔して欲しくなかったのだ。
つまるところ、自分勝手な選択だったのだ。
彼女の意思に関係なく。
私を選んだことを後悔して欲しくない一心で、最後の最後に彼女に冷たくしてしまった。
(嘘はついたけど、本当の事も言った)
ノアの箱舟にカナエが乗るということは。
私にとってもカナエにとっても。
それが最良の選択であったことは、私は自信を持って断言できるのだから。
人の居ない校内というのは、意外と快適な環境であった。
家庭菜園する場所も器具もそろっているし、暇になれば図書室へ行けば大量の本がある。
校内の端にある、夜間警備員用の詰所は畳が敷いてあり簡単な台所もついていて、生活スペースにするにはちょうど良かった。
ノアが去ってから、2週間が経った。
今のところはまだ、街のスーパーやコンビニ跡地にある保存食で生きていけるが、その内、完全な自給自足になるため、早目に対策を考えなくてはいけない。
私は、L字形の校舎に囲われるように広がるグラウンドを見下ろす。
(ここ一面に腐葉土でも敷き詰めれば、私1人分の野菜なら収穫できるかな)
とはいえ、それは、かなりの重労働だ。
元々、園芸部が使っていた敷地面積では、食いつないでいけないのも目に見えている。
グラウンド一面を全て使うかどうかはともかく、まずは生活を安定させることをしなければ。
一番危ういのは飲料水の確保だ。
毎日自転車でペットボトル水を校舎まで運んでいるが、それもいつまで保つか。
今のところは、街中で物資を漁っていても、人の気配を感じたことはない。
何日かに分けて保存食を運び出したコンビニも、私が居ない間に誰かが立ち入った形跡もない。
となると、やはり。
「この街の残留組は、私、一人、かぁ…」
これまで、一人であることに苦痛を感じなかった。それどころか、誰かと一緒にいる方が苦痛であったはずなのに、この胸に去来する気持ちは、やはり。
「カナエの所為だよね……」
私は、孤独に再び慣れることができるのだろうか。
そして、私は孤独と再び仲良くなれることを、望んでいるのだろうか。
それとも、恐れているのか。
最早、私以外誰もいないこの街で、そんなことを考えても詮無いことだが、それでも、私は思考を止めない。
結局、寂しさを紛らわす方法なんてものは、何かを考えることしかないのかもしれない。
「むぅ……っと!」
思い立ったが吉日。
というわけではないが、以前から目星をつけていた軽トラックに乗り込んで、その日は運転の練習をしていた。
交通ルールなんてものは覚えなくていいし、精密な技術も必要としない。
対向車もいなければ、信号なんてものもない道を走れればいいだけなのだから。
とはいえ、存外に難しいものだ。
世の中の大人は殆ど車の運転をこなせていた事に、今更ながら感心しつつ、どうにか2時間ほどである程度は動かせるようになった。
早速、私は自転車で向かうには遠いホームセンター跡地へと向かうことにした。
目的は、レンガブロックと土、それから植物用の栄養剤に野菜やら果物の種を構内へと運び入れるためだ。
ガランとした駐車場に、堂々と店の前で車を停めると、入り口にあった台車を押して店内へと入る。
「先に……レンガブロックかな」
グラウンドを丸々レンガで囲むのだ。生半可な量じゃ足りないはずだ。
種類は統一しないとしても、2、3軒は回らなくては集まらないだろう。
「……毎日この作業しても、このホームセンターのレンガと土を全部運ぶのに、一人じゃ2週間はかかりそうだ」
とはいえ、手持ち無沙汰になって暇になるよりは有り難い。
軽トラックの荷台に土とレンガを積み込むという重労働をこなすと、ついでに途中のコンビニに寄って水と缶詰、それからインスタント食品を助手席に乗せれるだけ持ち帰る。
再び車を走らせる。
運転にもなれてきたのか、周囲の景色にもようやく目を配る余裕も出てきた。
そこで、私は気がついた。
「カラスとネズミが多くなってきてる……病気に気をつけなきゃ」
路上には今までよりも多くの数のカラスが我が物顔で餌を啄ばんでいるし、ネズミが走るのをよく見かけるようになった。
今は適当に床に積んでいるだけの食料の保管方法についても、考える必要がある。
やるべきことは山積みだ。
ふと、仙元高校へと続く坂道の途中で、何かが動いたのが見えた。
思わずプレーキペダルを踏み、目を凝らす。
「……人?」
動いて見えたのは、一軒家のベランダで干されているタオルだったが、明らかに干し始めてから数分と経っていない。
水が滴り落ちている。
脱水機能を持つ洗濯機も動かないのだから、手洗いならば水が滴っているのは自然だが、なによりも。
「この家に、人が住んでいる?」
築10年とない、雰囲気としては洋風の一軒家だ。小さな庭付きの二階建ての戸建て。地方都市の住宅地にはよく見かけるタイプの家だ。
私は一度、車のエンジンを切ると、その家の方へと近づいた。
生活音は、聞こえてこない。
だが、誰かが今もここに住んでいる。
それだけは、ハッキリと分かった。
(どうするべきか)
かつてカナエの言っていたことを思い出す。
--残留組の多くは世間一般に許されざる犯罪を犯した犯罪者たち。
即ち、信用してはいけないどころか、関わってはいけない人種と出会ってしまう可能性の方が高いのである。
と、瞬間、家の中で大きな音がした。
ガラスの割れるような音と、何か大きなものが倒れるような音だ。
私は恐る恐る、玄関の戸を開ける。
「………」
女の子が、息を荒くして、倒れ込んでいた。
年齢は、小学生高学年から中学生くらいの間だろうか。
意識を失っているが、小さな身体が不規則な呼吸と鳴動して脈打つように撓んでいる。
滝のような汗が全身から噴き出しており、素人目から見ても、危うい状態だということがわかる。
外傷は、見たところ無い。
(ということは、この子は病気か何かで倒れてしまっているのか……)
果たして私は、どう対応するのが正解だったのだろう。
しかし、こんな今にも死んでしまいそうなほど衰弱している子どもを放っておけるほど、出来た人間ではない。
私の知識や、この環境下で、彼女を完全に救ってやれるとは到底思えないが、それでも何かしなくてはいけない。
半端な優しさは、彼女にとって、苦しさを増長させるだけの結果になると知っててもなお、私は彼女を担ぎ上げた。
やはり、私は人間として、少なくとも正常な判断を出来ないほどには不出来なのだ。
保健室のベッドに寝かせると、水とタオルを用意して、彼女の様子を見守った。
時折、滲み出る汗をタオルで拭いて、様子を見守る。保健室には、当然ながら、彼女の容体を軽くしてやれるような医薬品は置いていない。
その為、危惧した通り、彼女の苦しむ姿を見守るしか手立てはなかった。
彼女をベットに寝かせて、6時間ほど経った頃、ようやく彼女の寝息が安らかなものに変わった。
乱れた呼吸も、苦痛に歪んだ顔もなくなり、本当にただ寝ているだけのようになった。
すっかり室内は闇の帳が下りて、彼女の顔も視認出来ないほどになっている。
私は、横のベッドで一夜を過ごすことにした。
いつのまにか寝てしまっていたらしい。
目を覚ますと、朝日が私の顔に差し込んでいた。
隣のベッドを見るが既にもぬけの殻で、昨日臥せっていた彼女はどこかへ行ってしまったらしい。
そう思った瞬間、何か違和を感じた。
腹部を誰かに触られているような感覚とともに、やけに毛布の中が温い。
毛布の中を覗き込んでみると、私のお腹を枕にして寝息を立てる先ほどの少女がいた。
人恋しかったのか、それとも、別の理由か。
それは私が知る由も無いが、彼女起こさないように、ベッドから出る。
二人分の朝食のために、缶詰とインスタントの味噌汁を取りに行く私の足取りは、何故だか軽かった。
「……あの」
お湯を沸かして、味噌汁の入った紙コップと缶詰をお盆に乗せて保健室に戻ると、彼女は目を覚ましていた。
私が声をかけるよりも先に、おずおずと、彼女は口を開いた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「驚いたよ。まさか、私以外にもこの街に残留組がいたなんて」
私は事務机の上に盆を置くと、ようやく自分の迂闊さを悟った。
昨日、倒れている彼女を見たときは、体調の悪さのため、顔色が優れていないと思っていただけだったのだが、こうして改めて顔を見ると、異様な程に彼女の肌は白い。
まるで、色素がないようにも見える。
次いで、髪の色だ。
顔立ちからして日本人なのだろうが、栗色の毛は、根元が白くなっている。
彼女の元々の髪色は白色なのだ。恐らく、彼女はそれを染めて隠している。
瞳の色は金色に輝いてるのも、彼女の特異体質の一つなのだろう。
「私、小柿透っていいます」
「私は相模ナナ。分かってると思うけど、残留組」
「私も、そうみたい、です。でも、良かった。一人でどうしようかと思ってたんです……」
大人びた口調の透は心の底から安堵したような笑顔を浮かべ、そこで私はようやく、彼女の年相応の印象を受け取ることができた。
そこで、ふと、あることを思い出す。
そう。
ノアの箱舟の乗船権利は、15歳以下の子供であるならば、無条件で与えられるということだ。
背丈もそうだが、顔立ちも幼い彼女が私と同年代とは到底考えられない。
精々が、中学生程度のものだ。
見た目通りに彼女の年齢を予想するのなら、11歳程度、と言ったところか。
「私も、一人じゃ不安だったよ。ね、まだ、中学生位だよね?」
「え、あ、はい。13歳です」
「……なんでノアの方舟には乗らなかったの?」
「……乗船権利が無かったからです」
彼女が見た目と変わりない年齢であることを告げると同時に、一つの矛盾が浮かび上がる。
彼女は自らの意思で乗船を拒否した訳ではなく、そもそも権利を与えられていないのだ。それは、国際連合が提示した乗船条件と矛盾する。
「……私だけじゃなく、多くの人が乗船権を与えられませんでした」
「多くの人?」
「ええ。大桐総合病院に入院していた重篤者は全員、権利を与えられなかったんです」
大桐総合病院。
その名前を聞いた時、荒れた建物内や、リノリウムの床に広がる乾いた血痕を思い出した。
しかし、彼女の言うことにも、一理ある。
少し考えればわかることだ。
「透析患者とか、寝たきりとかだと、ノアの箱舟までの長距離移動は出来ない。それを考えると、政府の打った案として、安楽死はあった……のか」
しかし、その私の予測を越えて仕舞えば、それは凄惨な出来事にも等しい。
「……たしかに、それもあったかもしれません。ですが、それ以外の患者も、強制的に安楽死を強要されたんです」
彼女の言葉は、軽々と、私の想像もしたくないような吐き気を催す事実を告げている。
「例えば、すぐには死なないけど、治療法の確立していない病を持つ人間とか、治療は出来るけど莫大な費用がかかってしまうとか」
「……」
「清算です。これを機に、良い機会だから。そんな程度の感情で、私達は切り捨てられました」
「だけど、そんなの、報道されてないし、家族が黙っているはずない」
「そうです。だから、我々の家族には、私達からノアの箱舟に乗れない、乗らないと告げるように強要されたのですよ。地球で朽ちていく。みんなの足を引っ張るから、私はここに残るよ。そうやって、家族や友人を説得出来ないと、彼らの乗船権を剥奪すると、脅されたんです」
なんという。
私は絶句した。
なんという非道であろう。
私は、この年端もいかない少女を、それも、何らかの病を負うこの少女、どうして一人置いて去っていけるのか、その気持ちが理解できなかった。
私が特別優しい人間というわけではない。
当たり前の感性である。
「……透」
私は彼女の名前を呼ぶと、用意した朝食を食べるように促した。
彼女がゆっくりと食事に手をつけるのを見守ってから、私も食べ始める。
小さな口で鰯の缶詰の中身を咀嚼する透を見ながら、私は考える。
(……しかし、何故そうまでして、乗船者を減らしたのか。[理由]はある。だが、同時に、そこまで躍起になる必要もないはずだ)
そもそも、前提の段階でおかしいのだ。
統計など知りもしないが、前科を持つ人間だけでゆうに2万人を超えるはずである。
国際連盟が規定した、乗船不許可の条件だけで、切り捨てる人数はクリアできるはずなのだ。それを、労働力の確保だとか、程の良い言い訳で反故にし、代わりに、子供を棄てるといのは、何か理由があるのかだろうか。
すでに詮無いことについて思考を巡らせると、朝食に手をつけない私に対して透が不思議そうな視線を送った。
「ん、ごめんね。考えごとしてた。ところで、言いにくいとは思うんだけど、透はどんな病気なの?」
彼女の病状を把握しておけば、治療は出来ずとも、ある程度の対処はできるかもしれない。
私はそんな考えで口にすると、透は薄い唇を紙ナプキンで拭き取りながらなんてことないように言った。
「脳の病気です」
「……」
「腫瘍のようなものができて、色んな神経が圧迫されてるらしいです。例えば、私は今、色覚がないんです。全部が、モノクロに見えてます」
透の言葉に、彼女に対して失礼ではあるが、この生きるか死ぬかというサバイバルにも等しい状況においては、病状は大したことないのだと、ホッとした。
しかし、彼女は言葉を続ける。
「腫瘍は肥大化を続けていて、私は9歳の誕生日を迎えられないと言われてました。ですが、今もこうして生き長らえています。つまり……いつ死んでもおかしくはないという状況なんです」
「………それ、は」
「勿論、治療できるのであればしたのですが、出来ませんでした。ただ、腫瘍の肥大化を遅めるだけしかできません。その内、記憶障害になって、言語野が破損して喋れなくなり、やがて、死ぬそうです」
「……頭、触っていいの?」
「え?あ、強い刺激でなければ、問題ないですけど」
私は、何となく、彼女の頭を撫でた。
初めは擽ったそうに目を細めた彼女だったが、華奢な身体を丸めて、私に身を委ねた。
「頑張ろうね。透。この世界で、やり切ったっていえる人生を、謳歌しよう」
「……変わってますね、ナナさんは」
「そうだね。透からしたら立場が逆だって言いたくなるかもしれないけどさ。私は今、誰かと一緒じゃなきゃ、生きてけないんだよ」
「……奇遇ですね。私も、一人じゃ生きるのが難しい身体なんです」
透は、冗談交じりに言うと、私たちは二人して声を上げて笑いあった。
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