第6話 序 終


 ずっと昔。

 それこそ、西暦という暦の範囲の外、私達の時代の人間が紀元前と括っている時代。

 一人の英雄が放った言葉がある。

賽は投げられたアーレア・ヤクタ・エスト

 きっと、ヒューマンレポート計画も、そういう言葉を使う段階に入っているのだろう。

 成るように成るとか、後戻りはできないとか。

 引用した言葉の時代に合わせると、ルビコン川を渡ったのだ。

 要するに、ノアの箱舟のエンジンに火がくべられたのだ。月より僅かに遠い位置にあるノアの箱舟が噴出する推進エネルギーは、昼であっても地球から見ることができる。

 うっすらと、白い影から伸びる二つの尾のような光がそれだ。

 その白い影というのがノアの箱舟そのもので、新聞で得た情報によると、方舟はビート板のような形をしているという。

 それが点火したということは、出航の一週間前に差し掛かったというわけだ。

 既に、仙元市には残すところ僅かとなった乗船者がピストン輸送で送られていき、乗船者リストと睨めっこする政府の職員が十数名いる程度になってしまっていた。


 つまり、私とカナエの共同生活が始まって1ヶ月近く経過したというわけだ。

 結局、あれから私とカナエは、私が元々住んでいたアパートに住むこととなった。

 既に電気やガス、水道などのライフラインは停止しており、そちらの安定供給の構築に追われる毎日だった。

「毎日毎日、捨て置かれたコンビニからミネラルウォーターを持ってくるのも面倒くさいしな」

 カナエはそう言って、どこかの書店から持ち出したサバイバル本に書いてあった簡易的な浄水器を作ったが、結局それは、精製される浄水の量があまりにも微量で使われなかった。

 ほかにも、お湯のシャワーを浴びるためにいろいろ試行錯誤を繰り返してみたり、近所の家庭菜園の土地に閉店したホームセンターから選んだ野菜の種を植えたりした。

 それは、私にとって、楽しいと思える活動だった。

 それが積み重なれば積み重なるほど、私は空を見上げることもなくなっていった。


「ナナ。朝飯出来たぞ」

 ジャージ姿のまま日課の家庭菜園の水やりを終えて帰宅すると、カセットコンロと土鍋を使って炊飯する方法を近頃覚えたカナエが、納豆と缶詰の魚の煮物を一緒に食卓に出していた。

「ありがとう。……今日はどうする?」

「まずは午前中、ミネラルウォーターを探しに行って、必要分確保してから……そうだな、そろそろ食料品以外も揃えた方がいいか」

「……生活用品?確かに、畑ももう少し拡張したいし、鍬とかシャベルとか欲しいかも」

「すっかりハマってんな…。いや、それもいいけどさ、医薬品だよ。いざという時の備えは必要だろ?」

「風邪薬とか?確かに、今の内に回収した方がいいかも。この街の残留組が私達二人だけって決まったわけじゃないし」

「じゃあ、薬局と……それから病院だな。包帯とか、消毒用のアルコールとか、怪我や病気に対して汎用性の高いものを優先的に回収していくか」

 病気も怪我も、医者がいなくなるこの世界ではどちらも命取りだ。

 共同生活が始まって、数度程、書店を物色した。そこでサバイバル術が書かれた本だったり、食用のキノコや木の実を判別するための図鑑を何冊か見繕って持ち帰ってきていた。その中で、家庭の医学という、それこそ図鑑のような分厚い本を持ち帰ったのだが、昨晩カナエはそれを読んでいたような記憶がある。

 きっと、今日の提案もその影響だろう。

 

 駅前には、大きな総合病院がある。

 今はもぬけの殻だが、かつては平日休日問わず、人が多く出入りしていた。

 大桐おおきり総合病院。

 地名でもなく、個人名でもないので、この大桐という名前が何を由来に付けられたのか分からない。

 だが、院長である弓削正孝という初老の男性は、私でも知っているくらいの有名人で、息子が市議会議員だとか、日本の政治家に対して莫大な献金をして懇意の人物を総理大臣にしたとか、そういう話は知っている。

「ちょっと昔なら、マスコミが不当な金銭の受け渡しだとかでバッシングしてたんだろうな」

 当然、病院の鍵は閉められている。

 カナエは入り口のガラスを割るために駐車場から鉄製のポールを手にしてそう言った。

 彼女のいう通りだろう。ヒューマンレポート計画の発表までの、人類の世の中に対する姿勢など、所詮その程度のものだった。

 ゆるりと近づく終焉を前に、不正だとか不義だとか、そういったものを正す行動を取ることすらしなかった。

 カナエが思い切り鉄製ポールをドアに投げつけると、ヒビが入るだけで、割れることはなかった。

 今度は私がポールを拾い上げ、叩きつけると、ヒビの中心から、ガラスが砕けた。

 残った破片に気をつけながら中に入り込む。何故か、ガラス張りのドアの向こうは、二重にシャッターが降ろされており、鍵もかかっていなかったのでそれを上げると、私は異様な雰囲気に気づいた。


「なんだ……?何があった?」

 私の後ろからカナエがそんなことを言った。

 外からは見えなかったロビーは、革張りのソファーが砕かれ、車椅子が何台も床に捨て置かれていた。

 ――なにか、暴動のようなものがあったように。

 受付奥の棚からはファインダーやフォルダーが散乱したように落ちているし、床には何かを引きずったような、痕がある。

「これ――血か?」

 院内は暗く、リノリウムの床の上の引きずった痕が、私には黒い何かにしか見えなかったが、屈んで床に視線を向けたカナエは、指先で軽く触れてから、そんなことを言った。

 持ってきた懐中電灯で照らすと、確かに黒っぽい赤色だった。

 それが、病棟の奥へと続いている。

「なんか……ホラー映画みたいだね」

「どうする?一旦出るか?なんかヤバそうだぞ」

 カナエは不審に思ってはいるが恐怖はしていないようだった。

 確かに、中がこれだけ荒れていれば目当てのものも手に入りにくいだろう。




「ちょっと待って……あれ、なんだろ」

 私は、そこで、人影のようなものが見えた気がした。

 背丈や肩幅などの体格から、成人男性くらいだろうか。

 人影が見えたのは病院の外。

 私たちがガラスを破って来たドアの向こうに、チラリと見えた。

「ん……?誰かいるな」

 カナエは私の言葉を理解すると、無警戒に近づく。

 私も慌てて跡を追って、病院の外へと出る形となった。

 濃紺のスーツ姿の、男だった。年頃は、30歳前後だろうか。

 無線機のようなもので仕切りに誰かと連絡を取り合っている様子が伺えたが、彼が私達を見つけると、小走りで駆け寄って来た。

「すみませんが、貴女は、氷川カナエ様では?」

「……?はい。そうですけど」

 カナエには心当たりのない人間らしい。

 思い切り訝しげな表情を隠そうともせずに男を憮然と見ているが、対してその男は、カナエの言葉に笑みを浮かべる。


 そして、彼は、彼女にとって、

 救済となる言葉を伝えた。


「氷川カナエ様。ノアの箱舟の部屋に空きが出ましたので、乗船許可が下りました。これから政府のヒューマンレポート計画担当官を載せるための国内最終便が出ますので、どうぞこちらへ」


 カナエは、思わず私の方を見た。

 私は、彼女がどんな気持ちなのか分からない。

 ――だが、なんでだろう。

 他の人が乗船することに対する気持ちは「どうでもいい」といった無関心さが強かったが、カナエに関しては、私は素直に心の底から、我が事のように嬉しい気持ちがある。

 だが、同時に、モヤモヤした、遠い昔に感じた気持ちも湧き上がり、それの正体は掴めなかった。

「ナナ……」

 カナエは僅かに唇の端を震わせている。

「おめでとう、カナエ」

「ナナ……?」

 いけない。

 直感的に私は思った。

 一月の間、彼女と寝食をともにしてわかったことがある。

 彼女は、とても優しい人間だということだ。優しいから、何度も裏切られて、そして、人を寄せ付けなくなった。

 不良という表現は、彼女を知った私にとってはもはや適さない言葉だと思うが、少なくとも周囲の学生と違う価値観のもとで、大人に反抗する道を選んだのは、きっとその優しい性格によって裏切られた過去から学んだ結果なのだろう。

 だが、三つ子の魂百までという言葉があるように、人の根本的な部分というのは、変わらないものだ。

 だからカナエは、その優しさ故に、今苦しんでいる。

 見当違いな罪悪感が彼女の心を苛んでいる。


 ――共に生き伸びようと約束した友人を裏切って、一人だけ生存の道を歩む。


 そんなことを考えているのだろう。

 今にも泣きそうな表情で、手に取るようにわかってしまった。

「カナエ……アタシ、行かねぇから」

「何言ってんの?ナナ」

「お前…一人ぼっちになっちまう」

 だけど、カナエは後悔するのだろう。

 ――カナエはそういう人だから。

 ――だから私も、そういう人優しい人にならなければ。

「カナエ……正直言ってさ。私は人が嫌いなんだよ。ノアの箱舟が地球を出ていけば、私は一人になれる。それが楽しみで仕方がなかった。カナエと過ごした時間は短ったけど、一緒にいたのは貴女に同情しただけだよ」

「ナナ……?何言ってるんだよ……」

「憐れな哀れなカナエ。本当は誰よりも生きたかったのに選ばれなかった可哀想なカナエ。だから、私は同情した。だけど、ほら、選ばれたんだよ。こんな所に残っても、カナエも私も後悔する。私は一人が好き。カナエはずっと先まで生きていきたい。カナエがノアの箱舟に乗ることは、ほら、私達二人にとって、どちらも望ましい結果になる」

「……なんだよ、それ」

 カナエは唇を震わせている。

 それは怒りなのか、悲しみなのか。

 それとも私に対する失望かもしれない。

「巫山戯んなよ、テメェ……」

「巫山戯てるのはカナエでしょ?乗りなよ。貴女が地球を出ていけば私はようやく一人で過ごせる。やっと、清々する」

「……そうか。ナナ、アンタは、そういう、考えなんだな」

 カナエに背を向けて、私たち二人のやり取りを気まずそうに眺めていた職員に向き直る。

「そういうわけなんで、カナエを連れてとっととこの街を出て行ってくださいませんか?」

 わざとらしく恭しく言うと、彼女を見送ることもせず、背を向けて歩き出した。

 カナエが、何かを呟いたようにも聞こえたが、既に私の耳には届かなかった。

  


 一人になることを。

 孤独を。

 何度も味わってきた私だが、こんなに心が騒つく選択は初めての経験であった。


 ――そうして私は一つ理解した。

 滅びゆく星の中で、緩慢な死を待つばかりの身になって。

 一つだけ、自分のことが理解できた。


 ああ、やっぱり。

 ――私は、私のことを、私が思うより、好きじゃないんだ。

 そうでなければ、折角手にした親友をこうも冷たく突き放したりはしない。


 こうして、誰もいなくなった街での私の生活は始まったのだった。


 世界は回る。

 私の為でも、貴方の為でもなく。彼女の為でも、彼の為でもない。

 行き過ぎた無政府主義者が抱える個人主義的弁論のように。

 愚劣極まる蒙昧な狂信者達に対して嘲るように瀆聖な言葉を口走る狷介な無神論者のように。

 世界はそう在れかしと言わんばかりに回り続けるのだ。

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