先生は必要なのでしょうか?




さて、ここで自主企画に話を戻します。


皆様、カクにあたって先生と呼べる方はいらっしゃいますか。

実際、師事するばかりではなく、書籍、放送媒体やネットを通してでも大丈夫です。

参考にする思想を持つ方、学校の先生、恩師、尊敬する作家、憧れる有名人、家族、友達、細かいことは言いません。


自主企画に参加していただいた作品の中には、迷い、もがき、解答に向かうため苦痛にまみれるものが見受けられました。


実際、作者様ご自身も苦しみ、作品を通し自問自答される気配も感じました。

気のせいかもしれません。妄想かもしれませんが、お付き合いいただけると幸いです。


何故、先生と呼ぶのか。


何故、人を殺してはいけないのか。傷付けてはいけないのか。嘘を吐いてはいけないのか。だましてはいけないのか。イジメはいけないのか。自殺をしてはいけないのか。


何故、目上の人を敬う必要があるのか。後輩を指導しなければならない必要があるのか。勤勉である必要があるのか。礼儀と節度を重んじる必要があるのか。人と人、環境や自然との調和を保つ必要があるのか。


何故、憲法・法律を守らなければならないのか。家族を守らなければならないのか。家を守らなければならないのか。墓を守らなければならないのか。国を守らなければならないのか。


生とは、死とは、魂とは何か。


昔は、これらの問いに答えてくれる先生がいました。学問もありました。


しかし今、それらは行くところに行かないと触れられません。


昔は、誰もが触れられました。


しかし今、自覚し自らの意志で向かわなければ触れられません。


現代社会は、端末一つあれば老若男女を問わず、洪水のように溢れ、奔流に似た情報に飛び込むことになります。

手に入れた情報が精査できず、真偽も判断できない。取捨選択もかなわない。誰に問い掛けるべきなのかも分からない。


迷うのは、指針や支柱がないからです。教えてもらうのを待つのではなく、情報を選び取る時代になっているのです。


そこで、頼れる先生がいらっしゃる、迷い苦しみを支えて下さる先生を見つけたとします。

疑いなく、与えられる情報を浴び続け鵜呑みをするのも良いかもしれません。共感するのもアリでしょう。そこは問いません。


しかし、クリティカルシンキングを用いるのも悪くはないと思うのです。


納得して乾燥し干からびた後、濃縮された一滴の作品が生み出される原液なり、輝き続ける結晶になるのならば、それが本望ならかまいません。


選択する自由とでも申しましょうか。自由の定義や有効範囲は定めませんが、面白いことを思い出しました。


国を捨て、全てから背を向け、法律にも囚われない人間でも、たった一つだけ自由にならないことがある。

例えアウトローになったとしても、自分自身に縛られている以上、自由にはなれない。解き放たれることはない。

と、

ある日、誰かが口にした言葉です。


話が盛大に反れてしまいましたが、

どちらにせよ、我々は環境によって触れた情報に言動や思考は形成されます。

人という種に連なり、受け継がれた遺伝子の奇跡に影響される部分もありますが、なにより重要なのは培われた経験則によるものです。

そばに居る相手によっても、それはそれは変わるものです。


親を恨み、相手を妬み、置かれた環境を嫌悪し、自身を否定しても現状は変わりません。変化があるとするならば、より深く沈み飲み込まれ、気付いた頃には抜け出せず、切望する結果へ至ることは難しくなるのではないでしょうか。


ただし、これだけは明確ですし素人でも断言できます。


教えを請う謙虚さを忘れてはいけません。感謝を忘れてはいけません。


それと、重ねた時間と経験には無駄など一つもありません。失敗も不正解もありません。生きているだけで何かと活用できるものです。


生きているだけで、大正解の大成功なのです。



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