リクの目覚めは憂鬱だった。胸のあたりに屈辱くつじょく羞恥しゅうちが渦巻いている。


 無防備な寝姿を今日もさらしていたはずのハンナは、すでにベッドを後にしていた。肌に触れる布の感触すら、今朝のリクには鬱陶うっとおしい。


 ボールを渡されて、誰もがすぐに走り出せるわけではない。


 親指の逆剥さかむけをひとつまみ取る。

 こんなものに原因を押し付けられるほど、リクは子供ではなくなっていた。


 リクの性的不能インポテンツを、ハンナは責めなかった。


「あなたの気持ちを知らないわけじゃない。けど、私が今日喜んでるってことはわかってほしいの」


 ハンナの体を抱いて、リクはただ二つの言葉を繰り返した。


「すまない」「愛してる」


 そうして頭をでられて眠ったハンナがどんな夢を見て、どんな心地で目覚めたのか、想像することは難しい。


 ダイニングテーブルには幸いにしてさよならの置き手紙はなかった。代わりにキッチンから鼻歌交じりに彼女は姿を現した。その手にはオートミールの箱と合成ミルクのボトル。


「おはようございます、あ・な・た」


 その調子に、リクの表情もようやくゆるむ。


「おはよう、愛してるマイ・ラヴ


「ふふっ。気にしなくていいの。だって、あんなに愛してるって言ってくれたの、いつ以来?」


 手際よく食器を並べると、オートミールを自分の分だけガシャガシャと盛る。


「食べるでしょ?」


 差し出された箱を受け取り、ミルクを注ぐハンナの姿を見る。彼女はそう長くない髪を耳に掛け直して、早速一口目を運ぶ。


 リクはその向かいに置かれた食器を引いて、ハンナの隣に座った。


「どうしたの?」


「いや。好きだなと思って」


「へ? なにが?」


「誤解してたよ」


 オートミールをガシャガシャと盛ると、同じように合成ミルクをかける。いつもなら使いすぎないように注意するが、今日はのようになみなみと注いだ。ハンナはもちろんそれをとがめない。


「自然なんだ」


「自然? それ合成だけど?」


「ミルクのことじゃない。子供のことだよ。子供を産むのに理由が必要な状況だと思い込んでた。だから君が理由を必死に探して、と交流してるんだとね」


 ハンナがブックマークしている『出産を望む女性の会』は、たしかにそういうコミュニティに違いなかった。

 現実から目を逸らし、子供の体験することになる文明の衰退を想像せず、ただ子供が欲しいというを貫こうとする身勝手なコミュニティ。


 しかしそれは一面の真実しか捉えていない。


「本当は理由なんていらないんだ。愛しているなら、子供がいたっていいだろ? 君のワガママでもないし、僕の満足のためでもない。もちろん、人類を存続させるためでも、文明が滅ぶのを体験させるためでもない」


「そうね、自然かも。オートミールがふやけるのと同じで」


「おっと」


 慌ててひとすくいし、口へ運ぶ。

 まだガリガリと砕けて、リクの頭蓋を振動させた。


「名前、決めてるの」


「そうなの?」


「男の子ならラウリ、女の子ならティーナ」


「いいね、賛成だ」


 リクはハンナの頭を撫で、二人は目を合わせて微笑みあった。

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