ハンドルを握るのは教習所以来だった。普通に生きていれば、右の親指の位置に置かれたザラザラとした赤いボタンを押すことはない。


 市民生活センターの駐車場で、リクはハンナの帰りを待っている。会場から次々に姿を現す若い夫婦たちの表情はリクを怯えさせた。


 もしその中にひと組でも浮かれた表情の夫婦がいれば、ハンナが面倒を持ち帰る可能性は確実に低くなる。リクとハンナは今日もオートミールを買って、ハンナの落胆をなぐさめて、そして3ヶ月後にまたここに来るに違いない。


 出産希望者リストからの抽選は、はじめ電子的に行われていた。しかしその不正を疑う声の強さにすぐに敗北した。第3回には物理的な手法による抽選がはじまり、それを希望する夫婦はその会場に揃って足を運ぶようになった。


 ハンナもそうした人々の一人だ。しかしパートナーが会場に入ることを望まないという点では、特殊な存在ではある。


 リクはハンドルを握りなおしてみる。どうにもしっくりこない。


——もしハンナが笑顔で現れたとして……


 砂の渦を巻いて、つむじ風が吹き抜ける。無機質な市民生活センターの外観を見ながら、もうリクは何度もそれを考えていた。


 その問題はいつも目の前にあり続けた。


 スーパーボールの試合のようなものだ。いつでも見続けていたし、リクはそのグラウンドのすぐ横にずっと立ってきた。スーパーヒーローや同級生たちのプレイを、あこがれと興奮とわずかな嫉妬しっととともに見続けていた。


 だがその時は突然やって来る。ボールが飛んできて、チームメイトの叫ぶような声が聞こえる。


「こっちだ!」

「ヘイ!」

「いけ!」


 ずっと立つことはないと思っていたグラウンドの上で、ボールを抱えて、そこから見る光景は何もかも違っている。敵意を持って大男が突っ込んでくる。ジョーイは投げられる距離にいるのか? そもそも今はどのフォーメーションで……


 思考がスパークして、足が硬直する。あんな感覚は味わったことがなかった。ボールを放った後、試合がどうなったのかは覚えていない。若き日のリクの記憶にあるのは、ロッカールームで崩れ落ちる自分だけだった。


 右手の深爪のせい。

 赤いボタンの上で、今日も親指は荒れていた。


 コンコン


 窓がノックされて、ハンナが戻ってきたことに気がついた。ドアのロックを解除する。


「ぼーっとしてたよ、ごめん。帰りはショッピングモールに……」


「驚いて、リク」


 サイドシートに座ったハンナの表情は、明るかった。


「嘘だろ」


「当選! 私たち、子供が産めるの! 信じられる!?」


 ハンナは両手を広げてリクに飛びかかる。その頬ずりとキスを受け入れると、リクはその頭を強く抱いた。


 感慨かんがいを共有するためではない。自らの不安と戸惑いに満ちた表情を、彼女に見られないためだった。

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