——人類の時代が終わると考えたことが?


「バカなことを言うんじゃない」


 若き日のリクが鼻で笑う。かたわらに抱えたボールの縫い目に砂埃すなぼこりが染み付いている。右手の深爪は地区大会で負けたあの日のリクに違いなかった。


「バカなこと? そうか、お前はまだ知らないのか……」


 リクは少年の両肩に手を伸ばす。


「いいか、たったの8年だ。8年後に世界は大きく変わる。人類の時代はそれから20年のうちには……」


 そこまで口にして、リクはそれが夢だと気がついた。だいたい過去の自分に話しかけられるわけがない。


「……そうか、俺は後悔してるのか」


 両手には汗がにじんでいる。少年時代のリクの姿はどこかに消え、どことも知れない蒸し暑い部屋の中に立っていた。


「ねえ」


 声に振り返ると、ハンナが立っている。


「ハンナ……すまない、なんだか酷い夢を……」


 ハンナはリクの腰に腕を回す。そのまま瞬き一つしない目でリクを見つめ、その手を静かに股に伸ばす。


「ハンナ、今はそんな気分じゃ……」


「今は? ずっとでしょ?」


 部屋は巨大な陰唇に変わる。その粘液がグロテスクに滴ると、リクを頭から食らった。あの甘酸っぱい淫楽の香りに喉は詰まり、窒息しそうになる。


「違う、違うんだ……」




「リク?」


 ハンナが覗き込んでいた。全身を酷い汗が覆っている。ハンナの後ろには見慣れた天井が控えていた。


「大丈夫? うなされてたけど」


「……酷い夢だった」


 肩首が痛むような気がした。全身の筋肉を弛緩しかんさせて深呼吸する。


 ハンナはベッドを降り、ウォーターサーバーを起動する。


「思い出したくもない?」


「そうだな」


「じゃあ聞かないでおくけど、カウンセラーがもうかるのも仕方ないって感じね」


 ハンナはコップを差し出した。冷たい水がのどに心地よい。


「時代病さ。文明が滅びるなんて、経験したことないから」


「大衆メディア病じゃなくて? 全部嘘かもしれないでしょ? ウォーターサーバーも使えるし」


 使用制限はあるけどな……そんな言葉を水とともに飲み込む。サーバーに表示された赤い数字はもう63しか残っていない。次の給水日を考えれば、こんなに汗をかいている場合ではない。


「……その議論はなしだ。まだ眠れる時間だろう、ハンナ?」


 南米に落ちた隕石が事実かどうかなど、遠く海を隔てた土地のベッドで議論して結論が出るはずもない。リクにしてみれば隕石はまぎれもない事実だったが、ハンナはそれを誰かのでっち上げた嘘だと考えていた。あの地震も、煙に閉ざされた日々も、そして食料危機と急激な気候変動でさえ……。


「そうね、深夜3時。あなたがうなされなければ寝ていたはずの時間」


「そういう言い方はよしてくれよ」


「……そうね。ごめんなさい。眠りましょ。次はいい夢が見られるように」


 口づけをすると、二人は目を閉じる。


 明日へと一歩進むことは、滅びへと進むことだった。しかし滅亡へと沈みゆく日常は、あまりに静かすぎる。その静けさは危機感すら抱かせることもなく、絶え間ない明日が続くようにすら感じさせていた。


 その穏やかさがハンナに幻想を抱かせたとして、ハンナを責めることはできない。


 だから彼女がに自らを載せたとしても、それは責められたことではない。


 彼女は自らの子供に人類の滅亡を経験させたい狂人なのではなく、この穏やかな沈没に気づいていないとびきりの楽天家なのだ。


 寝つきのいいハンナの無防備な寝姿に、リクは静かに背を向ける。

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