二
——人類の時代が終わると考えたことが?
「バカなことを言うんじゃない」
若き日のリクが鼻で笑う。
「バカなこと? そうか、お前はまだ知らないのか……」
リクは少年の両肩に手を伸ばす。
「いいか、たったの8年だ。8年後に世界は大きく変わる。人類の時代はそれから20年のうちには……」
そこまで口にして、リクはそれが夢だと気がついた。だいたい過去の自分に話しかけられるわけがない。
「……そうか、俺は後悔してるのか」
両手には汗が
「ねえ」
声に振り返ると、ハンナが立っている。
「ハンナ……すまない、なんだか酷い夢を……」
ハンナはリクの腰に腕を回す。そのまま瞬き一つしない目でリクを見つめ、その手を静かに股に伸ばす。
「ハンナ、今はそんな気分じゃ……」
「今は? ずっとでしょ?」
部屋は巨大な陰唇に変わる。その粘液がグロテスクに滴ると、リクを頭から食らった。あの甘酸っぱい淫楽の香りに喉は詰まり、窒息しそうになる。
「違う、違うんだ……」
「リク?」
ハンナが覗き込んでいた。全身を酷い汗が覆っている。ハンナの後ろには見慣れた天井が控えていた。
「大丈夫? うなされてたけど」
「……酷い夢だった」
肩首が痛むような気がした。全身の筋肉を
ハンナはベッドを降り、ウォーターサーバーを起動する。
「思い出したくもない?」
「そうだな」
「じゃあ聞かないでおくけど、カウンセラーが
ハンナはコップを差し出した。冷たい水が
「時代病さ。文明が滅びるなんて、経験したことないから」
「大衆メディア病じゃなくて? 全部嘘かもしれないでしょ? ウォーターサーバーも使えるし」
使用制限はあるけどな……そんな言葉を水とともに飲み込む。サーバーに表示された赤い数字はもう63しか残っていない。次の給水日を考えれば、こんなに汗をかいている場合ではない。
「……その議論はなしだ。まだ眠れる時間だろう、ハンナ?」
南米に落ちた隕石が事実かどうかなど、遠く海を隔てた土地のベッドで議論して結論が出るはずもない。リクにしてみれば隕石はまぎれもない事実だったが、ハンナはそれを誰かのでっち上げた嘘だと考えていた。あの地震も、煙に閉ざされた日々も、そして食料危機と急激な気候変動でさえ……。
「そうね、深夜3時。あなたがうなされなければ寝ていたはずの時間」
「そういう言い方はよしてくれよ」
「……そうね。ごめんなさい。眠りましょ。次はいい夢が見られるように」
口づけをすると、二人は目を閉じる。
明日へと一歩進むことは、滅びへと進むことだった。しかし滅亡へと沈みゆく日常は、あまりに静かすぎる。その静けさは危機感すら抱かせることもなく、絶え間ない明日が続くようにすら感じさせていた。
その穏やかさがハンナに幻想を抱かせたとして、ハンナを責めることはできない。
だから彼女が出産志願者リストに自らを載せたとしても、それは責められたことではない。
彼女は自らの子供に人類の滅亡を経験させたい狂人なのではなく、この穏やかな沈没に気づいていないとびきりの楽天家なのだ。
寝つきのいいハンナの無防備な寝姿に、リクは静かに背を向ける。
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