第3話

 まあ、やはり一度は噛むよな。


「申し訳ありません。お客様の名前を噛んでしまうなんて……」

「まあまあ、槻沢くんはまだ一度目のお客様ですし」


 名前を噛まれるのはこの十五年間で何度も経験しているので、むしろこんな名前でこちらが申し訳なくなる。

 だが禾森がフォローするのもなんか違くないか? 別に言わんけども。


「店主さんの方針でね。このお店に一度来た人は顔を覚えて、二度来てくれた人は名前を尋ねる。三度目からは名前で迎える、って決まりらしいんだ。槻沢くんは私の紹介だから名前も一緒にね。私はまだ紬さんとしか会ったことがないんだけど」


 ふむ、まあ古い建物だ。昔から地域に密着した販売活動を行ってきたのだろう。

 店主の方針、ということはこの紬という女性は店主ではなかったのか。どうりで若すぎると思った。


「わたしは店主の姪で、紬と言います。叔父は腰を痛めてしまっているので、こうして時間がある時によく店番をして、叔父には養生してもらっています。既に就職先が決まって暇なものですから」

「今日もまた色々と見させてもらいますね」


 就職……大学生か。

 俺が軽く頭を下げると、禾森は俺の腕を引いて店の奥へと引っ張っていく。強引な奴め。


「ごゆっくり……」


 俺たちを見送り、手元の本に目を落とした所で本棚の角を曲がり、紬さんが俺の視界から消えた。


「こっちだ」


 禾森が言っていたこの本屋の気になる点。たしか『変化する一角』とか言っていたか。

 道すがらに聞いておけばよかったな。せっかく来たのだからゆっくり店内を見たかった。

 体は連行されるがまま、首だけを動かして本棚に目を向ける。

 背表紙に統一性はない。出版社で分けられているわけではないらしい。となると棚分けと並び順は著者名か、それともジャンルか、はたまた規則性もなく乱雑に放り込まれただけか。

 本棚の角には背もたれのない小さなスツールが置かれており、入り口からは見えなかったが数人の客がそれぞれ腰かけて黙々と本のページを捲っていた。

 立ち読みどころか座り読みも歓迎とは。うん、悪くない店だ。


「今日は……また変わっているね」


 禾森が立ち止まったのはちょうど入り口の左端に置かれたレジカウンターの対角線の角だった。

 本棚の角同様、スツールが置かれている。

 スツールの左右を囲む本棚を見れば、陳列には途中で見た本棚との差異はない。一段に十冊程度が収められ、一段に一冊だけ表紙が見えるように置かれている。

 POPなどは見当たらないが、表紙を見せているのはかつての話題作か、店主のおすすめか。それとも俺には分からないが単に色合いを重視しているだけなのかもしれない。

 並んでいるのは小説が多いがそのジャンルはバラバラ。恋愛、歴史、ピカレスクにミステリ、児童向けの冒険活劇。他にもエッセイや写真集、図鑑、埃が積もってるわけでも放置されて本が傷んでる様子もないが、一目見ただけでは無作為で乱雑に並べているように思える。新刊コーナーというわけでもなさそうだ。


「初めて来た俺には何処がどう変わっているのか分からん」

「私が来るのはこれで六回目だ。編入直前の土曜、編入した後、先週の月曜、木曜、金曜、そして今週の月曜、火曜──昨日と今日だ。その六回」

「大層気に入ったんだな」

「それも勿論ある。この一角の本棚はその六度の内、四度も並べられている本の種類が変わっているんだ。最初の土曜から月曜、月曜から木曜、木曜から金曜、金曜から火曜でね。棚替えにしても頻度がおかしいと思わないかい?」


 だから『変化する一角』か。そのまんまだな。

 さて、適当に流して終わらせるつもりだったが、気づいたことをあえて黙っているほど俺も薄情ではない。


「その謎ならすぐに解明できるぞ」

「今の話だけでもう分かったのかいっ?」

「ああ。店員に聞けばいい」

「……」


 じっとりとした目つきで睨みつけられた。


「もう聞いたよ。秘密だそうだ。だから気になって君に頼んでいるんだ」


 秘密ねえ。

 確かに隠されると気になるというのが人情。だがそれに俺を巻き込まないでほしい。

 それに今日初めて店に来て、初めてこの一角を見た俺では手がかりが少なすぎる。

 入れ替わる本に何らかの規則性があるのか、並べられた本に何かのメッセージ性があるのか、そういった可能性を探ることは今回だけでは不可能だ。

 だがかといってそれを正直に言えば連日引っ張って来られることになりかねない。それは避けたい。

 この店の雰囲気は俺にとっても好ましいものだが、それとこれとは話が別だ。本屋は毎日通うものではない。


「分かった。まずは情報が欲しい」

「何でも聞いてくれ。前回まで並んでいた本も記憶してある」

「二つの本棚で百五十冊以上はあるぞ……」

「入れ替わっているのは全てというわけじゃないんだ。だとしても変化にすぐ気付く程度には入れ替えられている」


 だとしても四回分の変化を記憶しているというのは驚きだ。俺は覚えようとも思わん。


「あー、それも後で聞く。まずは自分の目で色々と見て回りたい」


 そう言い出せば禾森も手がかりになりそうなものを探してくると言い、店内で別行動となった。

 よし、これでゆっくりと見て回れる。後は手がかりが少なすぎてこれでは推理するのは不可能だ、と言えばいい。

 禾森がこれまで並んでいた本の種類まで記憶しているのならそれを聞いて、それでも分からないと言えば流石に諦めるだろう。

 前回は禾森自身のことだったから答え合わせも出来たが、今回は紬さんが答えてくれない以上、真実を確かめる方法などないのだ。そんなものに頭を使うのは時間の無駄だ。

 隣の列に移り、『変化する一角』以外の棚にじっくりと目を向けるとどうやらジャンルと著者名で分類されているようだ。

 この棚は実用書の類……うん、ここは見ていてもつまらんな。小説の棚に行こう。

 移動する途中の棚に「探している本があればお気軽に店員までお尋ねください。著者名や出版社だけでなくジャンルや本の作風、雰囲気からでもご紹介します」と筆文字で張り紙がされていた。

 俺は本の著者をあまり気にせず、シリーズ物でもなければ覚えていないから雰囲気でも紹介してくれるというのはありがたい。今日は見て回るだけにするつもりだが、次に来ることがあれば是非紹介してもらおう。

 そのまま何となく背表紙を目でなぞりながら店内を回っていると、見覚えのあるタイトルが並んでいた。

 中学時代に読破した推理小説のシリーズだ。一巻の叙述トリックが秀逸で、続刊も読んでいたが叙述トリックが使われていたのは一巻だけだった。他も面白かったのだが、あのどんでん返し感を味わえなかったのが残念だ。


「おお、新作が出ていたのか」


 綺麗に終わっていたからあれが最終巻だと思っていたが、まだ続いていたらしい。しかも見覚えのないタイトルが三冊も。

 もしかするとその中でまた叙述トリックが使われているかもしれない。これは気になる。

 手に取ってみると古本にも関わらず帯まで付いている。「あの島での惨劇再び、あなたは再び騙される」。一巻と同じ舞台のようだ。しかもこの煽り文句は期待してもいいかもしれない。

 当時は叙述トリックだと知らずに読んだからこその驚きもあったが、叙述トリックだと疑って読むとまた違った見方が出来るだろう。

 ……禾森が店内を調べている間、最初の触りだけなら読んでいてもいいか。

 手近が空いていなかったので『変化する一角』のスツールへと戻り、腰かける。

 シリーズの途中から買うというのもあれだし、店には申し訳ないが明日図書室で探してみよう。また別の本を買うのでそれで許してほしい。




 ◇◆◇◆




 島での殺人は以前と同じ状況で起きた。一巻ではまだ登場していなかった助手が探偵から聞いていた過去の事件を思い出し、前回そのトリックを見破るきっかけとなった手がかり、痕跡を探すが、今回はその痕跡がまるで残っていない。

 冒頭から一巻のセルフオマージュが多く見受けられ、懐かしい気持ちになるな。発刊日を見てみると記憶に残っていた前作の発刊から数年の間があり、この著者にとって再出発の本だったのかもしれない。

 さて、一巻の展開をなぞっているのなら次は密室殺人が起きるはずだが、


「あ……いらっしゃいませ、美空ちゃん」


 紬さんの声が聞こえ、顔を上げる。いかん、つい懐かしくなって物語に没入してしまった。思い出補正というやつか。

 結構時間が経っているかもしれない、慌てて周囲を見渡すが禾森の姿は見えない。まだ調査の途中か? それならもう少しだけ読んでいても……、


「……手がかりは見つかったかい? 槻沢くん……」

「うぉわっ!?」


 なにっ、どこだっ!?

 姿は見えんのに突然、禾森の声だけが聞こえてきて思わず叫んでしまう。やってしまった……だが注目を浴びてる様子はない。来店した時に近くに座っていた客が居ないのと、店の角だったのが幸いしたらしい。


「……心臓に悪いからやめてくれ」


 禾森の姿を探して視線を彷徨わせるとすぐに目が合った。

 斜め前にある本棚の向こう側、本が収まっている棚の隙間、背の高い本と低い本の間に出来たスペースからこちらを覗いていた。


「随分と熱心に読んでいたじゃないか……その本に重大な手がかりでも隠されていたのかな……?」


 普段よりも随分と低い声。明らかに怒っていた。

 ……さて、選択肢は二つ。素直に謝るか、誤魔化すか。

 誤魔化そう。


「この本自体には手がかりは隠されていない。そもそも俺が読んでいたのは手がかりを探していたわけではない」

「つまりただじっくりと本を読みこんでいた、と?」

「違う。心外だ。俺がこの本を読んでいたのは集中力を高めるためだ。今回の件は難題だ。手がかりは少ない、または巧妙に隠されていて見つけられない。そんな中、ただ考えているだけでは閃きは生まれない。だから俺は本を読み、物語に没入することで集中力を高めていたんだ。おかげで頭は冴えている」

「ほうっ、つまり何か分かったってことだねっ?」


 良し。誤魔化せた。

 当然、何も分かってはいない。


「それは……」


 一つ嘘を吐けばそれを隠す為にまた嘘を吐かなくてはならない。

 流石にこんなことを言っておきながら何も分かりませんでした、じゃ納得してくれないだろうな。

 頭が冴えているというのは嘘ではない。今の俺ならば適当な推理をでっちあげることも可能なはずだ。


「ねえ。話してるだけならそこ、どいてほしいんだけど」

「ん、ああっ、すいません」


 と、脳細胞が働き出したところで横から声を掛けられて思考が中断してしまう。

 不機嫌な声の主を見上げれば、金髪の禾森とは別のセーラー服姿の女性が腕を組んで俺を見下ろしていた。

 片手に持ったスマホには使用感を著しく損なうだろう大きなクマのキーホルダーが吊られ、腕にはアクセサリー、爪には派手なネイルが施されている彼女こそ、以前百々原が話していた今時女子というやつなのかもしれない。

 その風貌はこの本屋には相応しくないようにも思えるが、本も読まずに話している俺たちの方が今は相応しくない。

 謝罪し、速やかに立ち上がって席を譲る。禾森も覗くのをやめたのか、空いた本棚の隙間の遠くにはカウンターが見え、紬さんにも声が聞こえたのか、此方に視線を向けているのが分かった。

 俺が席を立つと彼女は入れ替わりで席に着き、左右の本棚を見回した後、スマホをバッグにしまい、少し手を彷徨わせてから小鳥の写真集を手に取った。

 スマホをいじりだすのであれば俺も気分が良くないが、座り読みとはいえ本を読む彼女の方がまともな客。話しかけてきたのは禾森とはいえ、言い訳のしようもない。

 少し居辛くもなった。帰るか。


「禾森、今日はもういいだろう」

「ん……そうだね、分かった」


 禾森も反省しているのか、素直に頷いた。

 本を戻し、本棚を抜け、入り口に向かう。背後からは写真集を流し読みしているであろう、ページをぱらぱらと捲る音が聞こえてくる。


「紬さん、今日は帰ります」

「はい。ありがとうございました。禾森さんの好きそうな本が入ったらお伝えしますね」

「ありがとうございます。騒がしくしてしまってすいません」

「いいえ。お気になさらず。あまり静かすぎても落ち着きませんから」


 言葉通り、紬さんが俺たちの騒ぎを気にしているようには見えない。むしろ入って来た時よりも機嫌が良さそうに見える……物静かそうなタイプだから文句を言えないだけかもだが。


「つきにきっ……つきぬきざわさんも、またいらして下さい。読まれていた本の雰囲気が好きなら、ご紹介できる作品もありますから」

「ありがとうございます。今度来る時はおすすめを買わせてもらいます」


 禾森は丁寧な所作で礼をして、俺は来た時と同じように軽く頭を下げた。

 入る時とは逆に俺が先に扉を抜けて、禾森が後に続く。

 外に出ると夕日はまだ眩しい。笹野平高校の運動部はまだまだ活動を続けているだろう。だが俺が帰るにはもう良い時間だ。

 眩しさに目を細め、振り返った窓ガラスの向こうには本を片手に遠くを見つめる紬さんの横顔。夕日に照らされた嗚紋堂はより趣深く、ノスタルジーな気持ちに浸れそうだ。


「それで槻沢くん、何に気付いたのか、教えてほしいなっ」


 嗚紋堂を出てすぐに禾森は俺の前に待ちきれない様子で催促してきた。

 どうしてこんな些細なことでそんなにも目を輝かせられるのか。


「その前に禾森、この店はさっきの女性のような客も良く来るのか?」

「ああ、美空さんと呼ばれていた人だね。彼女は私も何度か見かけているよ。だけど彼女のような華やかさを持つ女性は他には見た覚えはないな。私や綴子さんのように笹野平高校の生徒も利用しているけど、顧客のほとんどは近所の御年配者だ」

「そうか」


 まあ確かに、ご老人たちの世間話会場と化している方が、この店の雰囲気にはあっているのかもしれない。

 先程の彼女ほどではないが、俺たちのような学生の方が浮いている。近寄りがたい店構えも相まって、学生にとっては知る人ぞ知る、というやつだろう。


「うん。それじゃあ槻沢くん」


 静かな口調だが、輝いた瞳でこちらを覗き込む禾森に耳と尻尾を幻視する。

 そんな禾森を手で制する。気分は犬の躾……というより猛獣使いか。


「禾森。それを語るには時間が足りない」

「え?」

「少し急がないと次の電車に間に合わんのだ」

「……むぅ。逃げようとしてないかい?」

「しとらん、しとらん」


 逃げられるものなら逃げたいがな。

 だがまだ火曜日だ。今週は後三日も登校しなくてはならない。帰る時間が遅くなれば残り三日を通う気力がその分だけ失われてしまう。


「分かった。それじゃあまた明日、放課後に」

「……ああ」


 駅へと道が分かれる交差点で、とりあえずは納得してくれた禾森は小さく手を上げた。

 俺も釣られて手を上げ返して、信号が青に変わった横断歩道を渡る禾森を見送った。

 また明日、と言われるのは今日が初めてだな。俺の考えてもいない推理こじつけを聞く為の約束だが。


「なにか、それらしいものを考えておくか」

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