第2話
「は……?」
突然の禾森の告白に俺は口をぽかんと開いたかなり間抜けな顔をしていたはずだ。
綴子さんは頬に手をあて、まあっ、と上品な驚き方をしていた。
そして下手人、禾森のなかは真剣な眼差しで俺を見つめている。どうにか言葉の意味を咀嚼しようと考えながら、禾森の瞳から目が離れない、むしろ吸い込まれていくように見つめて──いや違うっ、こいつがぐいぐいと近づいて来ている!
「い、意味が分からんっ」
テーブルを掴みつつ、椅子ごと体をのけ反らせて禾森から逃れた。
視線を逸らし、語勢を強めることで冷静になれ、と自身に言い聞かせる。
なんだっ、こいつは一体何を言っているんだっ?
「ああ、すまない。たしかに脈絡がなかった。状況も把握できないままでは君でも推理は出来ないね」
「そ、そうだ。あまりに脈絡がなさすぎる! 俺とお前はたかが一週間足らずの付き合いなんだぞっ!?」
「うん、そうだね。最初の出会いがとても印象深かったから、私としたことがつい順序も踏まずにこんなことを」
吊り橋効果だかストックホルム症候群だかは知らんが、それは心理学的に何らかの説明がつく精神作用であって、有体に言えばそれは勘違いだ。突然こんなことを言われても俺には到底受け入れられるものではない。友人関係になるのとはわけが違うのだ。
「学校の裏手にある古い本屋を知っているかい?」
「本屋……?」
「ああ。編入前に学校で手続きを済ませた後、この辺りをぐるりと散策してね。その時に見かけて、何度か足を運んでいるんだ。ノスタルジーな気持ちになる、良い本屋だよ」
なにか認識に齟齬がある。そう、何か勘違いをしている。それも今後も思い出すのも恨めしい、己の恥部となるような勘違いを。
「その本屋で気になる点があってね。君の力を貸してほしいんだ」
そら見たことか。
「……また俺にこじつけを披露しろとでも言うつもりか」
まだろくに本を読み進めてもいないのに、疲労感が襲って来る。
今日はもうさっさと帰ろう。
「こじつけだなんて。私は君の推理を聞かせてほしいんだ。『
「断る。俺は探偵でもなんでもない。以前はたまたま口を滑らせたこじつけが当たっただけ。次に見当違いなことを言って恥をかくのは御免だ」
「別に大勢の前で犯人を指名しろというわけじゃない。披露する相手は私だけ、仮に間違っていたとしてもそれを恥だと思う必要はない」
「そもそも俺が考える必要性がないと言ってるんだ」
禾森は真剣な面持ちではあるが、そこに使命感や義務感、正義感は感じられず、切迫した様子も、義憤に駆られているということもない。
本屋と言っていたが、この件は何らかの犯罪や悪意のある事件はなく、ただの禾森の好奇心を刺激する何かがあったというだけだろう。事件であればそれこそ俺の出る幕ではないが、そうでなくとも俺が頭を使う必要はない。
「必要性はないかもしれないが……だけれど」
これでもはっきりと拒絶の意思を示したつもりだが、まだ粘るか。
どんな言葉で説得するつもりかは知らんが、俺は頷かんぞ。少なくとも今日、あんな紛らわしい言い回しをした禾森の言葉に従うのは気に入らない。
「ツッキーくん、禾森さんが困っているんだから力を貸してあげたら?」
「俺が力になれるとは思えません」
綴子さんは禾森の味方……当然か。
禾森が非効率的な奇行する変人だということを説明していなかったのが仇になった。
今からでも遅くない、こいつが図書室でいつも何をしているのかを説明すれば、今回のこともわざわざ俺が手伝う必要はないと分かってくれるはず。
「それに禾森さんの言っている本屋さんは素敵な所よ。知らないのなら一度行ってみてほしいの。きっとツッキーくんも気に入るし、今後の為になると思うの」
「そう、笹野平に通っていてあの店を知らないなんて勿体ないと思うよ。これを機会に一度寄ってみてほしいんだ」
だが二対一。多勢に無勢、孤立無援。三人しかいない今日の図書室ではこれ以上の決は取れない。
ここで意固地になって、今後図書室に居辛くなるのも困る。それにその本屋に向かう理由が俺のこじつけの披露から店の紹介に変わっている。これなら「これはとてつもない難題だ。いやまったく、俺にはまるでわからないなー。だけど良い店だー」と思考を放棄しても強くは出られないだろう。仕方ない。
「……分かった。行くだけ行ってやる。そこまで言われて気にならないと言えば嘘になる」
「『変化する一角』の謎がかい?」
「そのノスタルジーな本屋が、だ」
◇◆◇◆
図書委員として残った綴子さんに「次に図書室に来た時にどうだったか教えてね」と見送られ、俺たちは鞄を持って図書室を出た。
その本屋はすぐ近くだそうだが、一度校門を出た後でまた戻って来るというのは気が進まないからな。
「今日はこっちからでいいのか?」
「裏手と言っても少し分かりづらいからね。場所が分からなくて右往左往するというのは効率的ではないだろう?」
禾森に効率を語られてもな。だが賛成だ。
それに薄々気付いてはいたが、放課後に入り三十分もすれば用事がないものは友人との会話もそこそこに帰宅、または校外での遊びの為に下校し、部活動に所属しているものはそれぞれの活動場所に入っている。
運動部の掛け声や点在する部室からの物音、人気は多く感じられるが、下校する生徒を気にはしないだろう。
グラウンドの脇を抜けた先にある正門であれば気付く者もいるかもしれないが、裏門からであればその心配もない。
誰とも鉢合わせることもなくあっけなく玄関を出て、裏門へと向かう。禾森が前を、俺はその三歩後ろを。
「薄々気付いてはいたけれど、案外人目につかないものだね。次からは一緒に帰ろうか?」
だとすると面倒な遠回りをしてまで下校時間をずらしていたのは俺以上に図書室以外での接触嫌っていたからかと思えば、あっさりと禾森はそう提案した。
「俺は電車だぞ」
「私は人間だ」
「……おい」
あまりにも雑で人を小馬鹿にした返事に俺も声が低くなる。小学生みたいな揚げ足取りをするな。
「冗談だよ。私は駅とは反対方向でね、残念だ。帰れるのは玄関までかな」
こちらを振り向き、楽しげに笑った後で残念そうには見えない口調で返答される。
変人という評価は揺るがないが、大人びた容姿と口調をしているくせに、時折妙に子供じみたことを言う。こいつの性格はよくわからん。
「別にいいんじゃないか、今まで通りで。もし見られて面倒なことになるのが嫌なのはお互い様だろ。遠回りが面倒だっていうのならそれでも構わないが」
「そうだね……うん、今まで通りでいい」
既に前を向いている禾森の表情は見えないが、妙に声色が弾んでいた気がする。やはりよくわからん。
それから互いに無言のまま五分ほど歩き、鋭角的なT字路に差し掛かった所で禾森が足を止めた。
此処だよ、と店を見上げる禾森の視線を追えば「嗚紋堂」という白地に一文字ずつ茶色で記されたパネルが三枚掲げられている、が張りついたツタと色あせた文字のせいで一見するとこの木造建築は廃屋のようにも見える。
店が分かりづらいと言っていたのは立地のことではなかったらしい。
窓を覗くとガラスのすぐ向こうには店員であろう、レジ前に座る女性の姿が見えた。背格好からは若く見えるが、横顔は西日が反射して見えない。客が居るかは疑わしいが、とにかく人は居るらしい。
「
「それはまた……趣深い名前で」
なるほど。ノスタルジー。
「古書を主に取り扱っているけれど最近になって新書も扱うようになったそうだよ。ただ新書の方はまだハードカバーしか置いてないそうだけど」
古本屋か。まあ納得の店構えではあるし、入り口に「古書、一冊からでも買取。店主」という明朝体で書かれた張り紙が出されていた。
しかし禾森はこの廃屋と見紛う店に一人で入ったのか? だとすると中々の度胸だ。少なくとも俺は今日連れて来られなければ一生入る機会はなかっただろう。
「さ、入ろうか」
「ああ」
禾森がスライド式の扉に手を掛けるとガラララとこれまたノスタルジックな音を立てた。そういえば子供の頃に良く行っていた駄菓子屋もこんな扉だった気がする。
一歩、店内に踏み込むと床は打ちっぱなしのざらついたコンクリート。外から見て想像したよりも奥行きと天井の高さがあり、想像していたよりも広く感じる。
天井のおよそ七割近く、二メートル半ぐらいまで本棚が届き、本が敷き詰められていた。電球の輝度が強いのか、店内は明るく、四方を本棚に囲まれていてもそれほど圧迫感はない。
流石に図書室ほどの広さはないが、本に囲まれている、という感覚はこちらの方が圧倒的に強い。本の虫などと呼ばれるような人々からすれば此処は天国に思えるのではないか。
「……いらっしゃいませ」
店構えから年配者が店主だと想像していたが、やはり俺たちに声を掛けてきた店員はかなり若い女性だった。
木製のカウンター越しに窺える特徴は禾森ほどではないがセミロング程度の長さの黒髪に赤いフレームの眼鏡。手に持った厚めの本。まさに文学少女と言った風貌だ。
「ああ、ええと……禾森さんですね。こんにちは」
「こんにちは、
「今日は学校のお友達と一緒なんですね」
「ええ。良い店だから紹介したくて連れて来ました、槻沢くんです」
禾森はその店主(推定)と軽い挨拶を交わしているが、既に互いの名前を知り合っている仲なのか。まだ転校してきて一週間だぞ? 毎日通い詰めていたわけでもないだろうし……溶け込んでいる、という評価は改めねばならないのかもしれん。
「どうも」
「はい、いらっしゃいませ。……ちゅきぬき……んんっ、つき、ぬきざわ、さん」
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