第3話

 放課後、自身の所属する弓道部の道場に向かう百々原を見送り──転校生が入部してくれないかと騒いでいた──図書室へと向かう。

 そういえば転校生の名前も言っていたが忘れた。舌を噛みそうな名前だった気がする。人の事は言えないが。

 笹野平高校は部活への入部は強制ではない。特にやりたい事もない俺にはありがたい話で、帰宅部に甘んじている。正直、時間は持て余し気味だが今更部活に充てるつもりもない。

 こうして放課後に図書室を訪れるのも珍しくはなく、俺と同じような考えなのか、放課後の図書室は昼休みと違い、数人の先客が居た。


「ツッキーくん、いらっしゃい」


 カウンター越しに迎えてくれた綴子さんに会釈して、昼休みに本を戻したカウンター横の本棚に向かう。

 ……本がない。借りられたのか。綴子さんを見れば苦笑して奥の席を指差した。

 女子生徒が一人、通学用鞄をテーブルに置いて空間を広々と使っていた。その手には俺が読んでいた本と、片手にはスマホ。読書が進んでいるようには見えない。

 友達を待つ為の時間潰しだろうか。意識はスマホに集中している。あの様子だと借りて家で読むつもりもないだろう。それほど長時間待っているとも思えないし、彼女の待ち人が早く来る事を祈って待つことにする。

 代わりに隣の本を手に取る。『圧力鍋で作る簡単時短レシピ!』。……家に圧力鍋はあったはずだし、これでいいか。

 さっきまで教科書とにらめっこしていたんだ。料理の写真でも眺めていた方が脳には優しい。

 ただ写真が載っていると実際に作った際の出来栄えと比較してどうにも実物が写真ほど美味そうに見えないのが難点だ。


「料理、自分でも結構するの?」


 三人で訪れていたもう一組の利用者たちが会話を始め、図書室内が騒がしいとは言わないまでも静謐とは言い難い空間になったのを見計らって、綴子さんが話しかけてくる。

 以前、注意しないのかと尋ねたら俺が気になるなら注意するけれど、と返された。本人的には静かなら読書を楽しみ、賑やかならその雰囲気を楽しむから気にならないのだという。


「まあ、親が仕事でほとんど留守にしてるので。実質一人暮らしみたいなものです」

「へえー、少し羨ましいなぁ」

「気楽ではありますけど、やっぱり家事は面倒くさいですよ」


 特に食生活の面は疎かになりがちだ。それが分かっているのか、時々親から野菜が送られてくる。腐らせるわけにもいかないので、食材が残っている間は料理らしい料理をして消費しなくてはならない。そうでない時は所謂男の料理という奴だ。

 この本がレパートリーを増やしてくれればと思ったが、今のやる気を家にまで持ち帰れるかは不明である。


「でも家事の苦労を分かってくれる男の子って結構ポイント高いと思うな。うちのお母さんは休みは家事をしない人だから、土日は私の担当だけど大変だもん」

「ただ俺一人ですからね。誰に気を遣うわけでもないので、全部に共感できるかというと疑問です」


 洗濯なんて数日分をまとめてやるし、風呂もシャワーだけで済ませる事も多い。

 自分の為の家事と誰かの為の家事ではまた違う。

 いつのまにかカウンターから身を乗り出してレシピ本を覗く綴子さんとどれが一番簡単かを話していると連絡があったのか、女子生徒が本を返して退室していく。

 それを見た三人組も丁度いい時間と思ったのか、連れ立って図書室を出て行った。

 俺も目当ての本を借りて今日は帰ろうかと思った時、生徒たちと入れ違いで司書の更識先生が現れた。


「綴子さん、ちょっと手を貸してくれる?」

「はい。あ、ツッキーくん、それ借りていくよね?」

「戻って来てからでいいですよ。急いでるわけでもないですし」


 確保だけはしておいて、その間にページの残り少ないレシピ本を読み終えてしまおう。

 そう言うと綴子さんはほわわんとした笑みを浮かべた。


「わかったー。ありがとねー」

「ごめんなさい。少し借りていくわね。十五分くらいで戻れると思うから、もし他に利用者が来たら伝えておいてもらえるかしら?」

「分かりました」


 手伝いを申し出ようとも思ったが、あの様子だと力仕事ではないだろう。

 今から利用者が来るとも思えないし、名ばかりの留守番を務めるとする。

 図書室の番人が去り、静謐に包まれた室内。静かなのは嫌いではないが、一人で本の山の中に取り残されるというのは少し落ち着かない。

 綴子さんと言葉を交わしながら読み進めていたレシピも、一人で写真を眺めるだけでは五分と経たずに読み終えてしまった。……家までどころか、図書室の外にもやる気は持って帰れそうにない。

 レシピ本を元の位置に戻し、入れ替わりで目当ての恋愛小説を手に取る。

 あのレシピ本もこの小説も図書委員が選出したおすすめ図書らしいが、綴子さんはどれを選んだのだろうか。どちらもイメージに合っている気もするし、どちらでもない気がする。

 意味もなく最後のページを捲る。発刊は十二年前。貸出カードを抜き出してみると一番古い名前は七年前、俺は八人目になるようだ。利用者の少なさが窺える。

 また中途半端に切れるのも面白くない。これは借りて、家でのんびり読むとしよう。

 そう決めて貸出カードに名前と学年、日付を記入しておく。後はこれを綴子さんに渡せばいい。

 ぼんやりと電球を見上げていると静謐に思えた図書室にもグラウンドから運動部の声が届いているのが分かった。だからどうというわけではないが。

 そうして暫くぼーっとしていると相変わらず建付けの悪い騒音を立て、扉が開く。そんなに長く電球を見上げていたのかと思って時計に目をやれば、まだ綴子さんたちが出て行って十分も経っていない。

 

「失礼します」


 随分早いですね、と声を掛けようとすると、見えたのは扉を閉める見慣れない女生徒の後ろ姿──そもそも見慣れた女子生徒なんてクラスメートと綴子さんぐらいしかいないが──利用者だったらしい。図書室で本も読まずに天井の染みを数える変な奴と思われたかもしれない。


「あー、当番は先生に呼ばれて別の仕事をしてる。もし本を借りるならそれからにしてほしいそうだ」


 上履きの色は俺と同じ緑。一年生ならばと敬語は使わずに告げた。


「そう。でも大丈夫。借りに来たわけではないから」


 振り返った女生徒を見て、思わず言葉に詰まった。


「──そう、か」


 同時に彼女が噂の転校生なのだと納得する。

 腰まで届きそうな黒髪。凛々しく整った顔。恐らく校則に則った長さであろう膝下のスカート。着崩すでもなくきっちりと着用されたセーラー服。

 全校生徒の写真を並べて、最も『大和撫子』の単語と関連深い生徒を選びなさい、という設問があれば全員一致のサービス問題と化すであろう、そんな生徒が入り口に立っていた。

 正直な所、驚いた。興味がないというのは本心だったが、一日中転校生の話題をそこかしこで聞いて、容姿に関しての期待値というのは上がっていた。実際目の当たりにすれば勝手に期待して、勝手に納得するものだと思っていたが。

 噂になるのも頷ける。一年生たちが取り戻した多少の落ち着きを乱してしまうのも仕方ない話だ。ゆっくりと停滞を始めた学生生活において彼女の存在は劇薬だったのだろう。

 美人というのは居る所には居るものだと身勝手な感心を抱き、つい本棚を眺める彼女の背を追ってしまった。

 これはあまりよろしくない。転校初日から図書室を訪れるなんて余程の本好きか、或いは放課後になってもやまない転校生への追及や部活の勧誘に嫌気が差して避難してきたか。どちらにせよ無関心を決め込むべきだ。彼女ほどではないが、俺も今日は騒がしさから逃れるために此処を利用しているのだから。

 そう、思っていたのだが。

 入り口傍の本棚、彼女はその一番上、左端の本を背と手を伸ばして引き出した。

 その本棚は学校史や百科事典、その他辞書や目録各種が収められた、滅多に人の手が触れる事のない棚だ。

 彼女が手にしたのは恐らく学校史だろう。本そのものは彼女の背に隠れて見えないが、抜かれて一冊分が空いた棚を見ると、その隙間から相当な分厚さである事が分かる。

 その相当分厚いだろう本を手に取り、捲る音がしたかと思うとすぐに戻し、その隣の学校史を手に取った。

 パラリ。

 スッ。

 パラリ。

 スッ。

 パラリ。

 スッ。

 一度だけ捲る音がして、戻して隣へ。

 捲り、戻し、隣。

 捲り、戻し、隣。

 そんな奇行としか思えない行動に、何をしてるんだこいつは? という疑問符で脳内が満たされる。いや口に出すわけでもないのだから白状すると、若干引いている。

 先程まで電球を見上げるだけだった俺が言えたことではないが、それにしても俺以上の生産性のない奇行である。

 美人を奇行に走らせる事で何らかのバランスを取ろうという世界のシステムなのだろうか。

 そんな俺を尻目に彼女の奇行は続く。俺には想像もつかない程の速読家なのでは、とも考えたが耳を澄ましても本を捲る音は一冊につき一度しか聞こえない。

 ……考えても無駄だ。関わる事がないだろう、と思っていた相手が関わらないようにしようという相手に変わっただけ。そう考えて今は綴子さんの帰還を待つ事にした。


「少し聞いてもいいかな」


 した、のだが。あちらから話しかけられてしまった。

 行動はともかく言動に関してはエキセントリックなものはなく、無視するわけにもいかない。


「……なにか?」

「もしも明日、一年生に編入生が入って来るとしたら、何組に編入すると思う?」

「……心理テストか?」


 質問の意図が読めない。前言撤回で言動もエキセントリックなのだろうか。

 つい不愛想な返事になってしまったが、彼女はそれを気にした様子もなく言葉を重ねた。


「そういうわけじゃない。ただ聞いてみたくてね」

「……C組以外だろう。編入生が連日で同じクラスに入るとは思えん」

「では今日の編入生が元々の在校生と仮定したらどうだろう」


 意味が分からん。

 だがその瞳からは揶揄する意図は感じられない。その逆だ。

 彼女の瞳には野生の肉食獣のような鋭さと無垢ではない、けれど俗世に染まっていない純粋さが宿っている……ように思える。


「分からん」


 教員が何かしらの基準を持って決めるんだろう。それか編入生の性別によっては各クラスの男女比か。俺はそのどちらも知らんから答えようがない。

 またしても不愛想な俺の返答だったが、彼女は僅かに笑みを浮かべたように見えた。……分からん。やはりからかっているのか?


「編入初日でストレスでも溜まってるのか知らないが、からかうなら別の相手にしてくれ」


 野次馬をしていた連中は喜ぶのかもしれんが、理由も意図も分からん質問をされて一人で納得して笑われるのは面白くないし、何処か値踏みするようにこちらを見てくる相手と会話するのは面倒だ。


「ああ、すまない。気を悪くしたなら謝る。朝から無駄な会話ばかりで少し疲れてね。からかっているつもりはないんだ」


 ただ面倒くさがっているのと、さっきの奇行で警戒してるだけだけどな。

 しかし、どうやらこの編入生、見た目とは裏腹に口は悪いらしい。


「編入前から抱えていた疑問をようやく解消出来ると思っていたのに、質問すれば聞いていないことまで答えられてしまいそうだったから。けれど君は最低限の返答だけをしてくれて、ようやく落ち着いて会話出来る相手が見つかったと思ったんだ」


 浮かんだ彼女の笑みは苦笑というには生温く、失笑というほどには厳しくない。

 けれど柔和な笑みこそが似つかわしい容姿の彼女のその笑みは不思議と良く似合っていた。


「疑問?」

「ああ。その為にもう一つだけ、質問に答えてほしい」


 笑みが浮かんだのはほんの一瞬で、すぐにまた彼女の表情は凛々しさを取り戻した。

 真剣な眼差しについ姿勢を正してしまう。いや、次もまたとんちんかんな質問が出るのかもしれない、と身構えたというのが正しいか。


「私が編入すると聞いた時、君は何組だと思った?」

「……C組だろうな」


 俺が編入生の存在を知ったのは今朝、C組に入るという情報と同時だった。

 だが、仮に前もって編入生が来る、という話を聞いていれば、ああ、C組なのだろうな、と思っていたはずだ。


「そうか、ありがとう」


 確信と納得を得た様子の彼女の姿に、ようやく質問と行動の意図が推測出来た……が、目の前の彼女が変人という評価が俺の中で不動のものとして下る。

 また本棚に手を伸ばした彼女の背に、呆れた声を掛けた。


「本を借りていたとは限らんぞ」

「……どういう意味だい?」


 背を向けたままの彼女の表情がどう変化したのかは分からない。

 声を掛けた後で、彼女が好んだ必要最低限の返答の域を越えてしまったか、と気付く。別に違うクラスの編入生からの評価が下がったところで痛くもかゆくもない。


「いや、すまん。余計な事を言った。どうぞ続けてくれ」


 だが俺とて嫌われてまで彼女の行動を止める理由はない。直前に最低限の返答を好むとわざわざ言っていた、それも初対面の相手ならなおさらだ。


「いいや、そちらこそ続けてくれ。私のさっきの質問から、どうして私の行動を止めようと思ったのか。私が何をしていると思ったのか」


 俺に向き直り、伸ばした手を戻し、腕を組んで片手を顎に当てる、考える人のポーズ……いや探偵のポーズと呼んだ方がしっくりくるか。


「君の推理を聞かせてほしいな」


 しかし、推理を披露を求められたのは俺の方だった。

 探偵のポーズで俺を見る彼女の口角は上がり、今度ははっきりとした笑みを作り出していた。年相応ともかわいらしいとも言えない、獰猛な笑みではあったが。

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