第4話もゆるおもひを

【かくとだに えやはいぶきのさしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを】


「これは平安中期の歌人、中古三十六歌仙の一人である藤原実方が女性に初めて贈った歌。百人一首にも選ばれていますね。」

 古典の教師で担任の深沢が、視線を生徒から教科書へと移し、黒板に向かう。

 彩佳あやかは便覧を開く。

「かくとだに…さしも知らじな…」

 印象的な部分だけ、ざわめく教室で気付かれないくらいの声で、口の中で呟く。

 斜め前に座る巧真たくまの髪が揺れた。一重の瞼を閉じた横顔が現れる。

 眠っている。


『知らじな 燃ゆる思ひを』

『あなたは知らないでしょう、燃えるような私の思いを』


 シャーペンを持った手が、勝手に動いていた。


 一目惚れ、というには長すぎる。けれども、『長い友情から育まれた』というには短すぎる。そもそも、友情と呼ぶにも不足がある。

 入学して、つまり出会ってからたったの二ヶ月、『最低限の事務連絡』よりかは会話している。でも、それ以上でもそれ以下でもない。ちょっと仲の良いかもしれない、クラスメイト。

 和歌と共に描かれた、シャーペン書きの巧真の横顔を、彩佳は丁寧に消した。


「やべ、寝ちゃってた。」

 肩痛い、と手で押さえながら、巧真は彩佳の方を向いた。

「彩佳さん、ノート見せて。」

 写真撮ってすぐ返すから、と巧真ははにかみながらスマホのカメラアプリを起動させる。

 いいよ、と彩佳はノートを巧真に向けた。さっき書いた、巧真の横顔と和歌を消したとき跡が残っているのに気がついた。

 消した跡が、バレませんように。彩佳の握りしめた手は汗ばみ始めた。

「よし、ありがとう。」

 撮り終えると、巧真はそそくさと前を向いてしまった。



 放課後、ぼんやりと巧真のことが頭に残ったまま、彩佳は部活の活動場所である美術室に向かった。

「彩佳ちゃん、新しいの始めるの?」

 水張りをしていると、後ろからひかりに声をかけられた。

「うん、作品展までの期間を考えたら、始めた方が良いかなって。」

と振り向いて答える。

 結崎高校の美術部には、入部した一年生はまず植物の素描を行い、校内に展示する、という伝統がある。

「まあ時間もないしね。私もそろそろ始めようかな。」

 ひかりは彩佳に背中を向け、リュックを下ろした。



「あやちゃん、巧真くんのこと気になってるでしょ。」

 電車を待つ間、一緒になった真奈美まなみに問われた。

「巧真くんのお姉ちゃんとはピアノ教室が一緒だったの。巧真くんとも前から顔見知りで。」

と真奈美は続ける。

「いや、その……。」

 どう答えていいのか、と彩佳は口ごもる。

「言わなきゃ伝わらないんじゃないかな?」

 巧真くんはこういうのに敏いタイプじゃなさそうだから。

 そう言って真奈美は笑う。

「巧真くんの方でも、多分あやちゃんと仲良くしたいと思ってると思うんだけど。」



 巧真の姿を思い浮かべながら、下書きを終えたパネルに絵筆を走らせる。濃くもなく、薄くもない、頭の中だけにある世界が現れていく。

 背景は情熱的に、燃えるような熱量を表すように、もどかしさを込めて描く。真ん中にいるのは、制服を着て目を閉じた高校生の女の子。胸の前で組まれた手には、彼女が想う男子の後ろ姿を描く。


 彩佳は筆を置いた。

 顧問の三浦は音もなく彩佳に後ろに立つ。

「うん、いいねぇ。」

 三浦はうんうん、と満足げにうなずく。



 彩佳の作品、『もゆるおもひを』の完成。

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