第2話絶えなば絶えね

「ねぇ菜央なお、数学教えてくんね?」

 教科書を片手に、瑛治えいじは菜央の机に手を置いた。

「ここんとこ、よくわからなくて…」

美咲みさきさんに聞けばいいじゃん。」

 教科書をめくる瑛治を横目に、ぼそりと菜央は言う。

「美咲は理系科目苦手だし、やっぱり勉強なら菜央だと思ってさ。それに…」

「悪いけど、私用事あるから。」

 菜央はリュックを背負って、教室を出た。


 大きな自習室のある、菜央の行きつけの市民図書館までは、学校から歩いて十五分ほどだ。平日はほぼ毎日欠かさず通っているため、顔なじみの職員も多い。来るのが早かったせいか、菜央の他には大学生らしき二人がいるだけだった。

 いつも使う自習室のいちばん端の机に、菜央はリュックを置いた。筆記用具や問題集を出し、勉強を始める。


 大学生のうちの片方が、隣の大学生に甘ったるい声を出す。隣の大学生も甘い声で答える。

 恋人同士なのか、と菜央は冷めた気分で横目でちらりと見る。



「瑛治はいいよな、美人の彼女がいてさ。」

 瑛治と同じバスケ部の男子が教室でそう言ったのは、夏休みが始まる直前、最高気温が三十度を越えた日だった。


 菜央の全身が、ぴきん、と凍った。

 心臓が、時間が、すべてが止まったような気がした。


 いつから付き合ってるの?うちの学校の子?

 瑛治のファンの女子達はきゃあきゃあ騒ぎだす。


「菜央は気にならないの、瑛治くんの彼女さん。」

 優乃ゆのは菜央の机の前に立って言った。

「それとも、菜央知ってるの?」

 菜央は問題を解く手を止めずに首を横に振る。

「えー、私気になるなぁ。」

 優乃は振り返って、クラスメートに囲まれる瑛治を見た。


「気にならないわけないじゃん。」

 何でも知ってる幼なじみ、それが菜央と瑛治だった。保育園に通っていたときから、ずっとそう。中学生のころだって、菜央は瑛治の家庭教師代わりだった。

 それなのに。


 彼女。

 瑛治の、彼女。

 噂で、加佐伊高校のバスケ部の、『美咲』という子だと聞いた。


 いつ出会ったの?どっちから告白したの?


 本当は、聞きたくてたまらなかった。

「メンヘラみたい、そんなの。」

 誰にも聞かれないように呟いた。



「やっぱりここにいた。」

 後ろから聞き慣れた声が聞こえて、思わず振り返った。

「菜央はよくここにいるって、後藤が言ってたから。」

 菜央は、自然と緩んでくる口元を引き締めるのに必死だった。

「さっき言ってた数学?」

「うん。……用事、大丈夫?」

 菜央は笑顔でうなずいた。


「わかんないの、どこ?」

「これ、数Aの宿題の。」

「ここは重複順列だから、かけ算使うでしょ?」

「あ、そうか。」

「Pの計算は覚えてる?」

「始めの数から、一になるまでかけ算…?」

 中学のときのように、菜央は瑛治の家庭教師になって、瑛治に勉強を教えている。

 今だけは、瑛治に彼女ができる前、菜央が瑛治に恋する前、昔みたいな何でも知ってる幼なじみでいられる気がした。


「マジでありがとう!助かった!」

 瑛治はリュックからファミリー用の大きな袋からチョコレートを三粒出して、菜央に握らせた。

「これで授業で当てられても大丈夫だね。」

「それ言うなって!この前当てられたとき、マジでわからなくて困ったんだから!」

 言い返す瑛治に、ごめんごめん、と菜央は笑う。


 そういえば、と、ふと思い出し口を開いた。

「瑛治、学校にいたときに『それに』って何か言いかけたよね。何だったの?」

 瑛治はぱっと顔を赤らめた。

「え、何?」

「いや、その…。」


「美咲に数学教えられるようになりたいと思ってさ…。」

 瑛治ははにかんで言った。


「そっか。」

 やっぱり、瑛治は、美咲さんが大好きなんだよね。


『報われない恋』っていうのは、存在する。

 例えば、恋した相手が酷い奴だったとか。

 恋した相手が死んでしまったとか。

 恋した相手に恋人がいるとか。

 自分に、思いを告げる勇気がないとか。


「瑛治には美咲さんがいるし、私は瑛治に言うつもりないし。」

 このまま、瑛治に伝えられないのなら。

 絶えなば絶えね、恋心。

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