第98話 カセットテープ

「リアム~、えへへ、ゴメン、忘れものしちゃった…」


 ドアを遠慮がちに叩いたのはキアナだった…




「絶対わざとだろ、ねーちゃんは!」


 僕らは身体を拭いて急いで服を着た。ドアを開けたリアムが珍しく怒っている。


「いいじゃん、結婚したんだし、これから好きなだけできるのに、ねぇ」なんて彼女は僕に言う。まあ、そうだ。


「今、したかったの!」と駄々っ子のように言うリアムに、


「ごめんなさい、私が忘れ物をしたんです…」とリアナの後ろにいたエマが恥ずかしそうに蚊の泣くような声で言ったので一瞬でリアムの怒りはやんだ。女性にはとても優しいのだ。そして「エマなら仕方ないな」と苦笑いした。




 色っぽい気分は吹っ飛んだので、僕らもせっかくだし散策に出かけることにした。店がたくさん並んでいる一角で、ふと柘植ツゲの櫛などが置いてある髪飾りの店が目についた。

 子供用だろうか、少し小さめのとても綺麗な櫛。朱塗りに金箔きんぱくがまぶしてある。


「これ…」と僕が呟いて手に取ると、「ん?欲しいの?」とリアムが僕の手元を覗き込んだ。


「それどっかで…そうだ、グランマの故郷で見た。シズさんのお母さんが子供の頃に付けてた髪飾りに似てる」


 キラキラした朱色の子供用の髪飾り。

 ルリが義姉のをじっと見ていたのが気になって仕方なかった。僕も小さな頃から欲しいものを欲しいと素直に言えない子だったので、ルリの気持ちがわかって少し辛かったのだ。


「そうだ。似てる…」


「うん…」


 リアムがさっとレジに持って行った。


「ありがと。ハワイでお墓にお供えしようね」


「俺こそ…ありがとうだよ。こんな気の利く奥さんはどこにもいない」


 リアムはそっと僕の耳元でささやいて首にキスした。



 リアムの家族と京都観光を堪能し、彼らはハワイに戻っていった。


 結局僕らは最後までまま、ハワイでの結婚式を挙げることになった。




「お父さんたち帰ってくるかな」


 僕はサンダルで玄関にしゃがみ、焙烙ほうろく皿の上でオガラ(麻の皮を剥いだ茎の部分)を積んで焚いた。迎え火だ。

 

 隣の家をそっと見る。

 ナユの母は息子が死んでからというもの僕の家に全く顔を出さなくなった。最近は全然家にも帰っていないようだし、実家にいるのかもしれない。きっとナユの為の迎え火もしていないだろう。

 彼女の深い悲しみを思うと責任を感じてしまう。彼の自殺を止められたのは僕しかいなかったのだ。



 僕は大きく息を吐いてから家に入った。

 父がいるかもと探す。今なら見えるかもしれないのだ。


「もうきっといるよ。マナの白無垢を見れて喜んでる」と母は根拠もなく嬉しそうに言った。さっそく式の全体写真を仏壇に飾っている。


 毎年迎え火と送り火だけはこうやって二人でする。

 僕らは仏壇の前に正座して手を合わせた。


 ふと気配を感じて横を見ると、隣の座布団にナユが座っていた。彼は前と変わらず美しく、眩しかった。

 僕はもう年下になってしまった彼をじっと見つめてから、


「ナユ、うちに来てくれてありがとう。僕ね、大好きな人と結婚したんだ。ナユの分も幸せになるから、僕を許して欲しい。本当にごめんね、ナユが苦しんでいることをわかってあげられなくて」と言った。

 彼はニコリとして頷いてから、生きている時のように手を振って玄関から出て行った。


 懐かしい…僕は胸が詰まって苦しい。涙がこぼれて仕方なかった。

 彼の事だから僕の事や誰かを恨んでいるってことはないだろうとは思っていたが、彼は前と変わらず透明で美しかった。

 彼はきっと誰もいない自分の家に帰って待つのだろう。彼を誰よりも何よりも愛していた母親の家で。



 そしてその日の夕方、父を見た。

 18年前に突然亡くなった父。


 彼はこの家にいつの間にか帰ってきていて、たまに濃くなっては写真のままの若さで縁側えんがわや台所、自室のオーディオルームを懐かしげに見て歩き回っている。


 オーディオルームに入って右の棚にはレコードや音楽関係の雑誌が並んでいる。左には父の集めていた手塚治虫やジャンプで連載していた少年マンガがぎっちりだ。

 僕とナユはよくここでレコードを聴きながら、各自好きな漫画を寝転んで読んでいた。彼は手塚治虫が好きで、特に「火の鳥」が大好きだった。


 父はきっと『去年と変わらないな』と思っているのだろう。母の側に夫婦のようにちょこんと座ってみたりもしている。なんだか父が想像より可愛く感じてしまう。きっと僕が大人になったからだろう。


 不意に彼は僕の目をじっと見て、付いてくるように手招きしながらオーディオルームに誘った。そして、右の棚の真ん中を指さした。昔のジャズの雑誌が詰めてあるあたり。この部屋は母が絶対にいじらないようしており、18年前そのままのはずだ。


 何かあるのか?


 雑誌を出すと、そこにはラベルのない真新しいカセットテープがあった。奥に挟まっていて今まで全く気がつかなかった…。


「これ?」


 父はニコッとしてから耳に手を当てた。聞いてみろ、ってことだろう。


 僕はさっそくそのカセットテープをカセットテーププレーヤーにガチャリと差し込み、震える指先で再生を押した。


 ゴソゴソとノイズが入った後に流れてきたのはアカペラの『恋は水色』だった。


 小さな頃ここでレコードをナユと何度も聞いた、僕のお気に入りの曲。でもこの声は…?リアム?似てるけど、そんなわけはない。


 僕がぼんやりと聴いていたら、母があわててやってきて顔を出した。


「やだ、これお父さんの声!マナ、どっから見つけたの?うそ…すごく懐かしい…」


 彼女は僕の前で珍しく泣いて膝を付いて言った。


「お父さんが、私にプレゼント作るんだって、秘密だって言って、事故にあう少し前の夜になにかゴソゴソしてた。これだったんだね…。マナ、聞かせてくれてありがとう。これはあなたが見つけたんだからあなたのよ。初めてでしょ、お父さんの声をちゃんと聴くの」


「え…いいの?」


 母へのプレゼントなんじゃ…?


「私はちゃんとお父さんの声を覚えているから大丈夫。でも、この声誰かに似てない?俳優かなぁ…」


 僕はリアムだって知ってたけど、言わなかった。これは僕だけの秘密だ。

 母の背中を父が優しい顔でさすっているのが見えた。




 でもすぐさまその秘密は暴かれた。


「なんか今日マナの声が変。どうしたの?」とリアムは変に勘が鋭いところを見せた。


「いや、なんでもないよぅ」と言うと、


「だってマナ泣きそうな声してる。教えてよ、ねえ、ツマでしょ?」としつこく聞いた。

 ツマと言われて仕方なく、ナユの事は言わずに「実は…」と父のテープの話だけを告白した。


「なーんだ、俺の事だって言ってバカにしてたけど、マナこそファザコンじゃん!マザコンの上にファザコンって…マナ笑える!」と言って電話の向こうで笑った。


「うるさい、もう切るよ!」と僕が抗議すると、ふいに黙った。


「なあに?」


「いや、良かったね。お父さんに会えて。顔とか声、覚えてなかったんでしょ?」


「…うん」


 そうか、今まで力を失えなかったのは今日の為だったのかもしれない。父を知らない僕の為にルリが邪魔をしたのだろうか。それとも偶然か。

 気がつくと、父が僕の側でリアムがどんな人間なのかを知りたそうに熱心に電話の声を聞いていた。彼は僕を見て普通の父親のようにきまり悪そうに頭をかき、僕の部屋から出ていこうとした。

 年頃の女の子の父親って感じで僕は胸がぎゅうっとなった。彼が生きてたら本当は毎日がこんな風だったのだろう。『お父さん、僕の電話勝手に聞かないでよ』なんて文句を言っていたのだろう。


 言ってみたかった。


「お父さん!」


 生まれて初めて言う言葉。口が渇いて仕方ない。


 父が振り向いた。


「ありがと…来年はお父さんのこともう見えないと思うけど、ちゃんとお母さんと待ってるから、だから戻って来てね!」


 父はゆっくり頷いて、部屋を出ていった。

 彼はそれから家で姿を見せなくなった。リアムの声を聞いて安心して、祖母や祖父がいる元の居場所に帰っていったのだろう。

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