第42話 ハワイ再び
もう二度と来ないだろうと思ってたハワイ。そこにまた僕は降り立っていた。泣きながら帰ってからまだ10日も経っていない。
前回と同じく空は爽やかに高く、緑は鮮やかだ。
瀬戸内のフィールドワークの期間が不明だったので、バイトを入れてなくて良かった。それに子供の夏休みは終わり家族連れがいないから気楽だ。僕は9月いっぱいまで夏休みなのだ。
カイの家庭教師は頼んで後日に振替してもらった。
不満そうな彼の声を思い出すと申し訳ないが、勉強が休みと聞いたら子供はもっと喜んでもいいんじゃないだろうかと思う。カイは真面目過ぎるのだ。
隣を見ると跳ね上がるほど嬉しそうなリアムと目が合う。朝からずっとそんな調子だった。僕はルリがどんな様子か怖くて仕方ないのに。
「大丈夫だよ、俺がいる」
僕の考えを読み取ったように、リアムが僕の肩を左手で遠慮がちに軽く抱き寄せた。その長い綺麗な指には指輪がはまっている。そして僕の指にも同じのがはまっていた。
ルリを安心させる為のポーズで
(いっそトイレにでも流して、失くしたとでも言おうかな…期待させたら断り辛いし。まあリアムがそのうち女性に手を出すだろうから、その時に返せばいいか…)
彼を好きだから一緒にいたい僕と、傷付きたくないから恋人にはなりたくない僕が両方いて複雑な気持ちだ。
昨夜は、一人で寝るのは絶対嫌だと駄々をこねるリアムと結局一緒に寝るはめになった。
「何もしないから」と言う言葉通り、僕の腕にしがみつきながら彼はすぐに寝入った。腕がどうしても抜けないので僕は諦めて彼の側に寝転んだ。
彼の顔を久しぶりに至近距離で眺める。相変わらず綺麗だ。でも。
(痩せた…)
疲れたのだろう。お祖母ちゃんっ子の彼にとってはルリの入院は衝撃的だったはずだ。
(それより、僕はなんで彼の申し出、つまりルリを安心させる為に少しの間恋人の振りをするという提案を受け入れたのだろう?僕って本当にバカなんだな…)
指にはまった鈍く光るものを見ながらそう思う。
今度彼が他の女性と…と思うと胸が本当に痛い。そう、また痛い思いをするだけなのだろう。でも、ルリがリアムを叱ったという話を聞いた瞬間、僕の何かがほどけてしまった。
(そもそもルリは僕たちのウソなんてすぐに見破ってしまう。それは余計に彼女を悲しませることになりやしないか?)
僕は少し混乱しながらも、瀬戸内の旅行で疲れていたのでいつの間にか眠っていた。
ルリの病室はとても開放的で一流ホテルの部屋のような落ち着いた佇まいだった。
ベージュの壁紙に天井は編んだ籐。床は大きなハイビスカスの柄があしらわれた薄茶のカーペットが敷いてあり、その真ん中に病院らしくない立派なベッドがある。
開け放たれている窓からはハワイの海の匂い。
「…ルリさん…」
彼女は管につながれ、人形のように横たわっていた。
「グランマはね、君とホテルで別れた後、深夜に俺を初めて叱ったんだ。そのあと一人で墓地に行った。そこで倒れているのを、早朝に発見された…俺が全部悪いんだよ、グランマに心配かけて…」
リアムは本当に後悔しているようで、強く眉間に皺を寄せた。
(見ていられない…)
僕は彼から目をそらし、ルリの頬に触ってキスをした。冷たい頬。
「ルリさん…ごめん、僕たちのせいで負担をかけたんだね…僕いられるだけハワイにいるから、目が覚めたら前みたいに呼んでくれる?すぐに来るよ」
僕は日本語で話しかけたが、彼女の備え持つはちきれんばかりの情熱は全く感じられず、その身体は空っぽに見えた。
(もしかして、魂が日本に帰ってる?それか…)
「もう全然反応ないんだ。来てもらうのが悪かったから、マナには言いたくなかった…グランマなら呼ばなくていい、って言いそうだし」
そうだ。彼女はもう僕に会うことはないって言ってた。さよなら、って。
でももう一度だけ、リアムと一緒にいるところを見せたい。あれだけ心配していたのだ、どうしても安心させてあげたい。
「リアム…もし時間あるならルリさんが倒れてた場所に連れてってくれる?」
「え…?時間なんていいけど…墓地だよ?」
「うん」
僕はルリがまだそこにいるような気がした。大好きな旦那様と息子のそばに。
「僕一人で行くから、帰ってて。ホテル適当に取るし、心配しないで」
彼もタクシーから一緒に降りようとしたので、押し留めた。
「え?俺の家に泊まらないの?」
彼の家に泊まることはできない。
なんせあれだけお世話になったくせに挨拶もせずに日本に帰ったのだ。皆が僕に怒って当然だ。理由はどうあれ合わす顔がない。
「前はルリさんが誘って下さったけど、今回は押しかけだからダメ。ほら、やらなきゃいけない事あるんでしょ?」
リアムは迷いながらも、まだ僕には弱気なので大人しく帰っていった。
(さて)
僕は広い墓地を歩き始めた。
木が所々に植わって影を作っている。日本の墓場に比べて明るく感じるのは、よく手入れされている芝の中に色々な形の真っ白い墓石があるからだろうか。緑と白の対比が美しく感じる。供えてある美しい花束がオレンジやブルーの彩りを添えている。
そんなに歩く前に、すぐにルリは見つかった。
(やっぱりここだった…)
彼女は真っ白の美しい墓石の前で座って手を合わせていた。その身体はすりガラスのように向こうが透けている。
「こんにちは、ルリさん。もうそろそろ身体に戻りませんか?皆が心配してますよ」
僕が声をかけると、こちらを向いて驚いた表情を見せた。
「マナ…また会えるなんて、すごく嬉しい。私の勘が外れるなんて初めて。ということは、リアムはアナタを捕まえることが出来たってことね。無理かもと思ってたけど、良かった…。リアムだけが心配で、現世から離れられなかったとこ。今は一人なのね?」と近くにリアムがいないことを確認した。
「はい、こうやって話してたら、絶対に変に思うだろうから、家に帰ってもらいました。それに、リアムってここが嫌いなんです。ルリさんが遠くに行ってしまうようで怖いんでしょうね…」
彼女はため息をついた。
「…弱い子ね。でも綺麗で純粋な子でしょ?あら、指輪、リアムに押し付けられたの?まあまあ、マナに気を使わせて…これはリアムを安心させるために一言お祝いを言ってあげないとダメね」
ルリは指輪が偽装だと速攻で見破ったが、気を悪くはしていないようで僕は安心した。
「お願いします。リアムはルリさんがこうなったのは自分のせいだって責めてるんです…」
死にそうな人に頼むなんておかしな話だ。
「わかった。じゃあ、マナに乗っかっていこうかしら」
「そんなことも出来るんだ…蚕様ってすごいんですね」
「覚えてた?マナは私と相性がいいのね」
「さ、皆が待ってますよ」
「はいはい。じゃ、あなた、あとで会いましょうね」
ルリは墓石にひまわりのようなチャーミングな笑顔を向けて、僕の背中におぶさるようにふわりとくっついた。
墓石から「あとでな」と男性の優しい声が聞こえた気がした。
タクシーを拾い、元の病院に戻った。
スタッフはまた来た日本人を怪しんだが、リアムにつないでもらって、部屋に入ることが出来た。
「さ、着きました」と自分の背中を見るともういなくなっていた。
しばらくすると、ベッドの上の彼女の身体にみるみる生気が戻ってきた。頬に赤みが指す。
「ルリさん!?」
僕が思わず手を握って声を出すと、先生が様子を見に来てくれて、
「家族の方を呼んで!」とスタッフに言った。
僕はすぐにリアムとキアナに連絡した。
すぐにリアムが飛んで来て「グランマ!ねえ、起きてよ」と
「リアム…指輪、ルリさんに見せて」と言葉に詰まって何も言えずにいる彼にお願いした。
「え?あ、うん」
「ルリさん、おそろいの指輪です。だから早く元気になって、またあのショーに3人で行きましょ、ね!」
僕は彼の指に自分のを添わせて、ルリに良く見えるようにした。
「良かった…リアム、あなたは自分は全部手にしてると思ってるでしょうけど、愛がないのは何も持ってないのと同じ。愛を大事にすることを覚えなさい。
マナ、リアムが心配でここまで老いさらばえて生きてきたの。笑っちゃうでしょ?もうマナがいるから安心だわ、リアムをお願いね。この子はマナがいなくなると大変なことになるのが目に見えてるから」
僕の頬に懸命に手を伸ばそうとしてるのがわかって、僕はゆっくり手を取った。すると電気が流れるみたいにルリの記憶がどっと流れ込んだ。
「ひゃっ」と僕が飛び上がると、ルリは日本語で、
「やだ、力が伝わっちゃったのかしら?こんなの初めてだわ、やっぱりマナと相性がいいみたい。負担になって悪いけど許して頂戴ね…マナに私の人生を知ってもらえるなんて嬉しいの…今日は来てくれてありがとう。もう会えないと思ってたから、本当に驚いた。あなたって不思議ね」と綺麗な日本語で言った。
「ルリさんほどじゃないですよ…」と言いながら、僕はいつの間にか泣いていた。
僕が脳内で見た彼女の人生は大切な人の死と苦難だらけだった。その中でも楽しさを見つけて健やかに生きてきた彼女はすごいと思う。
「何?早くて日本語わからないよ」
僕は頬に当てた彼女の手を、リアムにそっと渡した。彼はそれを優しく握った。
「ごめんね、リアム。私はもう行くけど、あなたのせいじゃない。むしろあなたがいてくれたから今日まで生きてこれた」
「グランマはすぐに元気になれるから謝らないで!マナを大事にするから元気になってよ」
彼はもう涙目になっている。彼も予感しているのだろう。
「そうね、昔から素直でいい子だった。…誘拐されたりもしたわね…私はあなたが心配で…でももう大丈夫ね。ありがとう、私の可愛いリアム…」
彼女はふわりと目を閉じ、端から涙が一筋こぼれた。目は二度と
明らかにそこにあるはずの命の質量が空気に溶ける瞬間を僕らは見た。
僕はルリの空っぽのまだ温かい身体にしがみついて泣いた。声が枯れるくらい。リアムはそんな僕の背をずっと撫でてくれていた。
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