第41話 『愛する者は愛の対象に常に顔を向け続ける』

「ただいま。疲れたぁ…」


 僕は瀬戸内海から帰ってきて、玄関ドアを開けた。ずっと車だったから腰が痛い。とは言っても結局ずっと日柴喜が運転してくれた。僕とホリジュンの運転が怖いそうだ。失礼だ。


(あれ?)


 僕は家のいつもと違う様子に気が付いた。

 いつも帰宅すると母がバタバタ音を立ててにぎやかに出迎えてくれるのだが、誰も出てこない。


(そういえば玄関の鍵も開いてた…まさか…?)


 嫌な予感がした。



「お母さん?!」



 僕が叫んで台所に走り込むと、床に変わり果てた母が…なんて僕が想像したようなことはなく、ただただ想定外の人物がいた。


「リ…リアム!…なな、なんでここに?」


 彼はしれっとうちでご飯を食べていた。自分の隣の席を長い指で指して、


「おかえり。今夜は俺がご飯作ったんだよ。さ、温かいうちに座って食べて」と僕らの間には何もなかったかのように平然と言った。でも顔が耳まで赤いからかなり緊張してるのがわかる。


(確かにもうすぐ着くと母には連絡したけど…でもなんで彼がここにいる?友達だから?)


 僕は混乱しつつも彼から少し椅子を離して言われた通りに席に着いた。

 向かいに座る母はニヤニヤしてる。

 心の中で密かに彼女に悪態をつきつつ、この家ではお目にかかったことのない料理が並んでいるのを見た。とても美味しそうだ。

 隣のリアムの視線を横顔に感じる。なんなんだ、口に合うかどうか見極めようとしているのか?食べろってことだろう。


(緊張するな…)


「い、いただきます…」


 僕は彼の視線を横顔に受けながら、手を合わせ、グラタン的なものにスプーンを入れてすくい、口に含んだ。


(うっ…悔しいが、めっちゃ美味しい。ジャガイモのペーストと豚ミンチ肉がクリームソースでいい具合になってる…味付けも完璧だ)


 美味しそうに食べる僕を見てからリアムは自分もまた食べ始めた。


 シーザーサラダにグラタン、野菜スープにチョコレートのデザートを完食する。僕がまだ固まっていたので、母がコーヒーを淹れてくれて3人の間に微妙かつまったりした空気が流れる。


(満足だ…でも問題がある)


 僕はちらりと隣を盗み見た。


(リアム…なぜにここに?それに酷く痩せてるし…)


 僕の視線を感じて彼がこちらを向いたが、僕はすぐに目をらした。


(ああ、なんだ、この状況!)


 誰か説明して欲しいのだが、母は全くそんな気はなさそうだ。ただ面白がってるようにしか見えない。


「さ、私は今から柴田さんとカラオケに行くわ。帰るの深夜になるから」


(へっ?!今なんて?)


「え、お母さん行っちゃうの?お願いだからいて。もう一生わがまま言わないから」


「何言ってるの、あんたわがままなんて言ったことないじゃない。だから却下。彼の布団は1階の客間に出してあるから敷いてあげて。2階に持ってく暇がなくてごめんね」


 母はそう僕に言い捨て「イエライシャーン♪」と歌いながらご機嫌で出て行ってしまった…。呆然とする僕とにこやかに手を降るリアムを玄関に残して。


(なんで僕に意地悪するの?っていうか、彼と僕は別れたって知ってるはずなのに家にあげるなんて…おかしくないか?僕らが友達になった事も知らないはずなのに…)


「マナ、疲れてるでしょ、座ってテレビでも見てなよ」


 いつの間にか移動したリアムの声がキッチンから聞こえてドキッとした。


(カップルか!あり得ない、二人きりだなんて嫌だし)


 僕は客間を軽く掃除して彼の布団を敷き、お風呂の用意をした。そして、洗い物をしてくれているリアムの顔を見ないようにして、


「ありがとう、後は僕がするからリアムはテレビでも見てて。とても美味しかった、ご馳走様です」と言って洗い物を代わってもらった。


 彼の家で洗い物なんてさせてもらったことないのだ、彼にこのうちでさせるわけにはいかない。


 平静な振りで洗い物をしてると、背中に彼の視線が刺さる。皮膚が視線の重みで痛い。

 真後ろの椅子に座ってじっと待っている気配がする。僕は洗い物の手を止めるのが怖くて泣いてしまいそうだ。


(ああ、嫌だ…どうしたらいいのかわからないよ)


 洗い終わって振り向くのが怖いのですぐさまお風呂に向かおうとすると、


「マナ、本当にごめん」と真剣な声をかけられた。


(な、なんなんだ…嫌な予感がする)


 見たくないが、怖いもの見たさで振り向くと、どこで覚えたのか彼が床できっちり正座して頭を下げるところだった。

 銀色の髪がはらはら落ちる。綺麗な人が土下座するとこんなに綺麗なんだ、と一瞬見とれたが、そんな場合じゃなかった。


「リアム、僕そういうパフォーマンス、大嫌いなんだ。悪いけど止めてくれないか?本当に怒ってないから」


 土下座するほうはいいけど、やられた方はまともな人間なら後味が悪くて仕方ないものだ。それに、謝ってるから許せよ、っていう圧力を感じる。

 あと、土下座を人に強要するやつは一番たちが悪い。その品性の下劣さは軽蔑に値する。


 キャンプ場の横柄な客が自分が割り振られたサイトを気に入らず『土下座しろ』と言われたことがある。バカらしいのでもちろんせず、ヨッシーに電話で相談したら返金して帰ってもらうよう指示された。

 そいつは帰れと言われたのが予想外だったようで驚いていたが、後に引けなかったみたいで悪態をつきながら家族を引き連れて帰って行った。

 後日、少し心配になって『悪口とか書かれないかな』とヨッシーに聞いたら、『バカな客のSNSを怖がるより、仕事仲間の方が大事』だと言われた。それに今は悪質なコメントは弁護士が対応してくれるそうだ。

 ヨッシーがまともな経営者で良かったとしみじみ思う。


「怒ってないならなんでメールの返事をくれないの?」と顔だけ上げて彼は聞いた。小さな声で鳴く犬みたいになっている。

 僕に許すって言わせるまで止めないようなので腹が立ってきた。


「リアムとはもう友達なんだから、頻繁なメールのやり取りは迷惑だ。あと、僕は君と一緒の家で寝るの無理だから、どっか泊りに行ってくる」


 僕がイラつくとこを初めて見てびびってるようだ。でもそれ以上に僕が家から出て行きそうなので、土下座を止めて僕の手を必死に掴んだ。僕が睨むと、


「殴ってもいいよ、許してくれるまで絶対離さないから」と怖がりながらも目を逸らさずに言った。


 僕は彼の勝手な言い草にカッとなって反射でこぶしを握り込んで肘を後ろに引いた。彼はビクッとしながらも、僕の腕にしがみついた。

 その様子は昔いじめられていた時のナユに似ていて、僕はすっと頭が冷えた。


(なんだ、この状況?どうかしてる…そもそも『許す』ってなんだ?)


 僕は大きく深呼吸した。


「ごめん、僕おかしくなってた。リアムの事、これからは信用してもいいのかな?」


「うん、マナを二度と裏切らない…」と彼は愁傷に言った。


 どうも彼は勘違いしているようだ。僕はリアムに裏切られたなんて思っていないから、許すも許さないもない。ただ、苦しかったから離れただけだ。


「リアム、もう出て行かないから、腕、離して」


 彼は迷ったが、大人しく言うことを聞いたほうがいいと判断したのか、離した。彼に触られるとなんだか居心地が悪い。いや、ぞくぞくして気持ちが悪い。こんなこと今までなかった。


「さ、テレビでも見る?コーヒー淹れるから座って」


「うん…」


 彼はゾンビのようにのろのろと動いて、ソファーの端に座った。



「はい、どうぞ」


「ありがと…」


 僕はコーヒーを机に置き、彼の座ったソファーの向かいにクッションを置いて座った。それを見て彼は心底悲しそうな顔をしたので僕の胸が痛む。だって隣に座るわけにもいかないじゃないか。それになるべく離れていたかった。

 

 僕は笑顔を無理やり作って聞いた。そのひきつった表情を見てますます彼の顔が歪んだ。


「で、突然どうしたの?まさかルリさんの調子が悪い、とか?」


 彼がここに来る理由といえばそれしか思い浮かばない。


「…謝りに来た」


 僕はホッとして肩の力が抜けた。


(バカらしい。彼に謝って欲しいわけじゃないし)


「…怒ってないってば。もういいじゃない、終わった事だよ。これからは友達になってくれたら…」 


 彼は急に鋭い大きな声で僕の言葉にかぶせてきた。空港で聞いた彼の声を思い出す。

 

「もういいだなんて言わないで…全然よくないよ!関係を一方的に終わらせないで…話し合いはできないの?俺はマナの恋人でいたいんだ」


「…」


(全然話にならないな…もう恋人は無理だって空港ではっきり言ったはずなのに…)


「悪いけど、リアムとは友達ならいいけど恋人としては付き合えない。そうだ、あのバーでしてた女性を恋人にしたらいい。お似合いだと思うよ」


 僕はずっと胸に刺さっていたことを言った。正直、僕なんかよりあのグラマラスな女性の方が魅力的でお似合いだと自分でわかっていたから、悔しかったのだ。

 でもその僕の言葉に含まれていた嫉妬は彼を逆に勇気付けたようだ。彼はソファーから立ち上がり、僕の側に座った。


「…俺、あの夜マナの居場所をグランマに聞いたら生まれて初めて怒られた。あなたに悪気はないかもしれないけど、人を傷つけることに鈍感過ぎるって。

 その時はわからなかったけど、今ならわかるよ。マナが他の男といるだけで、こんなに苦しい。だからマナもすごく苦しかっただろうってわかったんだ。悲しませてしまって本当にごめんなさい。もう傷付けるようなことはしない…俺はもうマナだけだから」


「それは…信用できない。無理だ」


 ルリの名前が出て僕は少し心がほぐれているのを感じた。

 でも、僕はあんな風にまた傷つくのは嫌だ。それも同じ相手でなんて間抜け過ぎる。


「じゃあ、どうしたら恋人にしてくれるの?俺は…マナになら何されても構わないし、何でもする。今すぐ指を折れと言われたら折るし、耳を切れって言われたら切る」


 彼が必死になって僕に今にもすがりつきそうで後ずさった。


「うっ…そ、そこまでは…」


 そんなこと望んでない。ただ穏やかに生きていたいだけだ。


(困ったな、上手いこと言いくるめられそうな気がする…彼は頭がいいからなんて言ってもすぐに言い負かされてしまうよ。僕はもともと議論向きの性格ではないし)


 僕が弱気になって口ごもったのを見て、リアムは僕を抱き締めた。僕の身体が軋むほど今までで一番強く。


「捕まえた」


 強張っていた僕の身体の力が一気に抜けて、少し笑ってしまっているのがわかる。さっき触られた時の悪寒は今度は起きなかった。


「本当に無理だってば…リアムってこんなに強引だっけ?」


「俺の命にかかわるんだ…マナがいなくなってから食べられなくて何キロ痩せたと思ってるの?あと、グランマをがっかりさせたくないしね…」


 その言い方にひっかかりを感じた。


(まさか…)


「ルリさん、やっぱり調子が悪いの?」と僕が聞くと、珍しく歯切れ悪く、


「いや、心配するほどじゃないから…」と言うが、明らかに嘘だった。


「それより、マナ、俺と付き合って下さい。新しい指輪、持ってきた…はめてもいい?」と遠慮がちに聞いた。


(いや、ダメに決まってるじゃん)


 僕がそう言うすきも与えず、リアムは鞄からシックな箱を出して、慌ててリボンをとって箱を開け、プラチナのシンプルな指輪を出して僕に見せた。

 内側に何か掘ってある。マナ、というのは読めるが、他は英語ではない。


「なんて書いてあるの?」


「『愛する者は愛の対象に常に顔を向け続ける』ってラテン語で書いてある。僕は一生君だけを見てる、ってこと。その言葉ね、グランマから最期に言われたんだ…」と彼は言ってから、しまった、という表情になった。


「『さいご』って言ったよね?ルリさんまさか…死んじゃったの?本当の事教えて。リアム、お願い」


 今なら彼が僕に弱いとわかっていた。

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