第4話 キャンプの基本の『ン』
朝、テント越しの明るさで目が覚めた。
午前6時前くらいだろうか。
今まではだらだらと朝方に寝て、カーテンで暗くした部屋でお昼ごろに目が覚めていた。
そんな僕でもここで太陽の光を浴びて肉体労働し、疲れているとちゃんと寝れて朝日で起きられた。自分の中の野生のかけらを発見した気分だ。
テントの中は快適で、包まれている感があってとても安心する。
(雨の日はどんなだろう?)
雨音がテントに当たる音もなんだか想像すると楽しそうだ。
僕はしばらくテントの中で朝の雰囲気を味わっていたが、じっとしていられなくなり、寝袋から脱出し、紺のパーカーをはおった。
ジ・・・ジジジ、とゆっくりテントのチャックを開くと、朝の目が覚めるような冷たい空気がバアッとテント内に侵入してきた。
「ふぉー、めっちゃ気持ちいー」
天井が一気に高くなる。開放感だ。
海に目をやると、顔を出したばかりの太陽が薄く東の海に浮かんでいる。
太陽に向かってなんとなくキャンプ場の敷地を散歩していると、かすかな歌声が耳に届いた。
ほんの少し鼻にかかったような温かい響きの声。僕は高い音から低い音まで魅力的に操る誰かに引き寄せられるように進んだ。
(音楽は好きだ。ナユが好きだったから…)
はっきり歌詞が聞こえてきて僕はびくっとして立ち止まった。
『Last night I heard the screaming (昨夜僕は女性の叫び声を聞いた)
Loud voices behind the wall …(壁の向こうから…)』
何度も耳にしたことがある曲。
僕はよく聞くために息を止めた。
Tracy Chapman の『BehindTheWall』?
間違いなかった。死ぬ直前のナユがよく目を閉じて聴いていたので覚えている。そのナユの顔は真剣過ぎて思い出すたびに僕を心底怯えさせる。
今聞いても詞の内容がかなりリアルで、心臓が痛くなる。
スラムの平和を守る警察官は実際には何もできないししてくれない、でも隣からは女性の叫び声が響くという、社会の矛盾や正義のなさを、静かに、語り掛けるように歌い上げていた。
(ナユの心の叫びに気が付いてあげられなかった…幼馴染なのに。僕はこの歌に出てくる警察官と同じくらい価値のない存在だ)
今まで何度流したかわからない後悔の涙がまた頬を走る。
歌が終わると僕は服で涙を拭いて、深く何度も呼吸し、やっと歩きだした。
動かす足を他人の足のように感じながら、岬のはしっこで歌っていた人影に近寄った。
魅力的な声の持ち主はやはりリアムだった。今は呆けたように海をぼんやり見ている。銀髪に朝日が透けて綺麗だ。
「おはよ、リアム。早いね」
「ああ、マナ。モーニング、ウルサイ?」
「ううん、とっても素敵な声に引き寄せられてきたんだ。リアムは歌手になれるよ。ユーキャンビー、ベリグッドシンガー」と半分本気で言うと、リアムはニヤッと笑った。
「
彼は冗談で言ったが、涙で濡れた服と涙の跡を見つけ、申し訳なさそうに謝った。
「ゴメン…」
もちろん彼の言う通り、心がまだ震えていた。天使が天上から降りてきてもいいくらいの聖なる空間がさっきまでここにあったのだ。
「やだ、リアム、違う。君の言うとおり…とても感動した」
「マナ…」
彼は自然と僕の肩を抱き寄せて涙の流れた跡を長い指でたどった。
目元から頬、首、パーカーから出ている鎖骨まで辿って、ふとこの先に何があるのか思い出したように真っ赤になった。
「ソ、ソーリッ…」と言って横を向くリアムの赤く色付いた頬に、僕はナユにしてたように軽くキスをした。素敵な歌のお礼だ。
「バカね、謝らないで。リアムは岬の精霊みたいな声をしてる。すごく心が落ち着いた。ありがと。あまりに素敵で、リアムの頭上に天使の羽みたいのが降ってくるのが見えた気がしたよ」と日本語で言うと、彼は僕がキスした部分を手で抑えて、急に
「イエ、…エット…サヨナラッ」と口の中でモゴモゴとそう言ったリアムは、僕を置いて走り去っていった。
「あらら、怒らせちゃったかな…」
リアムが昨夜しようとしたので、キスしても問題ない人なのかと自分勝手に思ってしまった。
後で謝りに行くことにし、僕はさっきまでリアムがいた岬の先で座り込んだ。
僕はしばらく海をなんともなしに眺めてから、「よし!」と気合を入れて、くるっと勢いよく向きを変えて自分のテントに戻った。
昨夜のバーベキューの食器などを洗い、燃えカスになった炭を綺麗に集めて所定の場所に捨てた。
今夜もここで泊まるので、木でできたローテーブルとあぐらで座れるローチェアを畳んで前室に仮じまいした。昨夜組み立てたので案外簡単に出来た。
「おはようございます!」
「おう、よく寝れた…みたいだな」
美月は僕の顔色が良いのを見てホッとしたように言った。いろんな物音がするので、熟睡できない人もいるのだろう。
「おかげさまで良く眠れました。外で寝てるみたいでとても気持ち良かったです。たまに人の立てる音や波の音も…それに…」
朝聞いたリアムの歌声がとても気持ち良かった。僕の細胞が歌を聴いて生まれ変わったように生き生きして体内で跳ねている。もう一度聞きたいが、怒らせてしまったのでだめかもしれない。
僕が嬉しそうにしていると、
「おまえまさか…リアムに手を出してないだろな?」と痛いところを突いてきた。
なんて勘がいいんだろう!
さっき頬にキスして逃げられたとこだったので僕は返答に戸惑った。
「えっと…」
「お客に手を出すなんて絶対だめだからな…ってことはリアムもそうなのか?見えなかったが…」
後半はぼそぼそ小さな声でいってるが、そうとはゲイのことだろうか?
美月は僕のことを男だと思ってるのだが、なんだかうまく引き返せなくなってきた気がする…
「なんのことですか?」と僕はすっとぼけることに決めて言うと、美月は少し赤くなって、
「いや、なんでもない。ちょうど朝で暇だからテントの畳み方を教えてやる」と言って、巡回中の立て札を管理棟のカウンターに置き、二人で外に出た。
「ふぃー、今日も風が強くないしいい天気になりそうだな。さ、畳むぞ。これがキャンプの基本の『ン』だ。今夜もこれで寝るなら自分一人で暇な時に立ててみろ。練習だ」
「はい」
「じゃあ…まずは…」
彼の指示通りにペグを外し、外側のテントをはがして芝生の上に広げ、縦長に折り畳んだ。その上に内側のテントも折ってそろえ、真ん中に分解したポールを袋に入れてから置き、ゆっくりと空気を抜きながらまとめて巻いていった。
「おー!すげ、本当に元のサイズに戻った!信じられない…」
「ばーか、そりゃそうだ。で、この入れ物にいれろ」
「はい…あれ?入らん…ですよ」
筒型のテントケースに入れようとしたが、微妙に長さが違っていて先っぽが入りきらない。
そうか、最初にそろえて畳むときに袋の大きさに合わせて畳めばよかったのだ。
僕が飛び出た先端を折り畳んで入れようとしていると、
「なんとなくわかっただろ」と言って、僕の手からテントの袋を取り上げ、適当に袋に押し込んで軽々と持ち上げた。
「ありがとうございます」
「…」
僕が頭を上げると少し美月の顔が赤い気がする。なにか聞きたいような悩んでるような表情。
「どうしましたか、疲れました?」と僕が聞くと、もっと赤くなって、
「ばか、こんなくらいで疲れるかよ、眠いだけだ。俺は少し2階で寝てから帰る。あとは任せた」と言って管理棟に向かった。2階には仮眠室があるのだ。
「…マナ…今夜もトマリタイ…アイテル?」
僕が管理棟でチェックアウトの作業をしていると、リアムがおずおずと聞きに来た。気まずそうだ。そういえば謝りに行こうと思ってたのに忘れてた。
「えっと、オッケー。リアム、さっきは突然ヘンなことしてごめん。自分で言ったくせに嘘つきだよね、気持ち悪かった?ユー、フィールバッド?」と僕はリアムの頬を指さしながら聞いてみた。
「オォ、ノープロブレン!マナ…」
真っ赤になっている。多分問題あったのだろう、そうでないと逃げたりしない。
「ごめん。ねえ、僕今夜もテント張るから夜ごはん食べにおいでよ、コーヒーでもいいから飲みに来て。さっきのお詫び」
そうゆっくり言ってカウンターに乗っかった彼の大きな手をとっておやつに大量に買っておいてあるチョコレートを1つ入れた。なんとなくわかってくれたようで、
「アリガト…夜ゴハン、とてもウレシイ。イイノ?」
「もちろん。僕も英会話を上達させたいし。楽しみだな」
リクエストしたら歌ってくれるかもしれない。また彼の歌声が聞きたい、そんな下心もある。
よくわからないながらもリアムは笑顔で頷いて、管理棟を後にした。
(ちょっとはお詫びの気持ちが伝わっただろうか?)
作業をしようとPCに向かったら、
「おい、おまえ…リアムに手を出すなよ、客だぞ。このキャンプ場に来ると襲われる、とか書かれると困るんだよ」と2階から降りてきた美月が機嫌悪そうに僕に言った。さっきのやり取りを見ていたのだろう。
「ちょっと色々お詫びです」
「何があったんだよ…」
「美月さん?」
彼は急に僕の手を引っ張って外から見えないカウンター横の壁に押し当てた。僕の肩を掴んでいる美月の手のひらが熱い。寝起きだからだろうか。
何を怒っているのか全くわからないが、リアムに手を出したと思っているようだ。
「…なんですか?」
「何をしたか聞いてるんだ。俺にやってみろよ、リアムにやったこと」
「…いいんですか?止めたほうがいいと思うんですが…」
美月に聞くと一瞬目を見開いたが、首を縦に振り、僕に身体を近づけた。その瞬間、僕は彼の
「く…くはっ…」
彼はお腹を押さえてうずくまった。
「ああっ、大丈夫ですか?」
やっぱりこうなると思ったが、僕だってやりたくてやったわけじゃない。
「ま、まさか、昨夜これをリアムに…?」
美月が聞いたので、僕は「はい」と言って彼の丸まった背中をさすった。
「これはダメだろ、客を殴んなよ」と僕に言ってから、「俺、ちょっとおかしいな」と呟いている。
僕が手を触れている背中が熱い。
「帰る!!」
よろよろ立ち上がって美月は帰っていった。
「…お疲れ様です」
なんなんだろう、美月はやっぱり変な人だ。ちゃんと急所に入ったと思うんだけど、バイクで帰るの大丈夫かな?
(まああまり強くは入れなかったから…)
僕は切り替えて仕事にとりかかった。今日は金曜日だからいつもより予約のお客さんが多いのだ。少し緊張していた。
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