第五話 海辺のメリーゴーラウンド
制服の彼女は海に向かって歩いていた。
彼女は両腕をうしろにやって、小指同士をひっかけてぶらぶらさせていた。
「ちょっと、忘れてるよ」
僕はカセットプレーヤーを手にすると、立ち上がった。
いつのまにか音楽は止まっていた。中のカセットテープには、白地の細いシールに手書きの英文字が記されていた。
波は寄せては返す。
彼女のローファーに飛沫がかかっていた。
女の子は、今にも海の波に溶けていってしまいそうだった。
海、空、砂浜、女の子。境界線は、気味が悪いほど曖昧だった。
思えば僕は、メリーゴーラウンドから振り落とされてこの場所に来た。
メリーゴーラウンドは僕を残して、勝手に回り続ける。
友人達はみんな僕のことなんか気にせず、どんどん成長していってしまう。振り落とされた僕は、クールな傍観者のフリをすることくらいでしか自尊心を保つことが出来ない。
僕には、メリーゴーラウンドのちかちか光る照明や陽気な音楽がどうしても安っぽいものにしか思えない。いっそのこと機械仕掛けの壮大な嘘っぱちに騙されて、僕だってメリーゴーラウンドを心の底から楽しみたいって思ったりもする。でもやっぱりそうやって自分に嘘をつくことも、僕には出来ないのだ。
僕は、なんにも出来ない。
バカにもなれないし、大人にもなれない。
生きていくためには、大人にならなくちゃいけないのかな。
大人になるためには、バカにならなくちゃいけないのかな。
海に溶ける年上の少女は、僕と同じようにメリーゴーラウンドから振り落とされた人間だ。
だけどそれは、彼女の望んだことじゃなかったはずだ。僕と彼女とに違いがあるとすれば、それくらいだ。
そうして彼女は取り残されて、いまだに三十年前のカセットプレーヤーを握りしめてる。
彼女は、なぜ死んでしまったんだろう。
なぜ、僕の前に現れたんだろう。
砂浜に立ち尽くし海を眺めている彼女。
僕は彼女の両親を思った。
彼らは生きているんだろうか。彼らもまた、死んでしまっているのだろうか。
泣き出したいような気分だった。
海水に溺れたいような気分だった。
いっそ雨でも降ってくれたらいいのに、と思った。
寄せては返す海の波。
それはまるで、僕達のようだった。
僕は無性に、メリーゴーラウンドの世界に戻りたくなった。
「ねえ」僕が大声で呼ぶと、彼女は振り返った。
彼女の髪は揺れていた。女の子の髪の毛いっぽんいっぽんが、とてつもなくかけがえのないもののように僕の目には映った。
「二人でメリーゴーラウンドに乗ろう!」僕は言った。
僕は彼女のところまで駆けていって、それから彼女の手を包むようにしてカセットプレーヤーを返した。彼女の手は氷のように冷たい。女の子の爪が僕の手のひらを刺した。忘れ物だよ、と僕は静かに言った。
真正面から女の子の顔を見て、あまりの美しさに僕は時間を忘れてしまった。まるでそれは、夢の中の出来事のように完璧な瞬間だった。
繊細なまつ毛が、彼女の大きく美しい目を際立たせていた。
陳腐な表現かもしれないけど、僕は本当に彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
それにやっぱり、彼女はポップコーンの香りがした。
僕はもう一度、彼女をメリーゴーラウンドに乗せてあげたかった。
制服の彼女はカセットプレーヤーを制服のポケットに戻した。そして、ありがとうと言った。
「でも、わたしには無理なの……」
僕は首を横に振った。
「乗れるさ。僕と一緒なら」
え? と戸惑う彼女の手を取ると、僕は走りはじめた。遊園地へ向かって。
女の子の手は最初冷たかったけど、時間の経過とともに徐々に温かくなっていった。僕は彼女の手を決して離さなかった。
海を背にして僕達は走った。
潮の香りがした。観覧車が見えた。お化け屋敷の看板も見えた。
僕は見せてあげたかった。彼女が幼いころ目に焼き付けた景色を。彼女が生きていた時の思い出を。
遊園地のゲートをくぐった。その先に待っていた景色のすべてが(ついさっきまで僕はこの場所で過ごしていたっていうのに)新鮮に映った。
メリーゴーラウンドの光が色とりどりに輝く、小さな子供がわたがしを片手に走り回っている、輪投げに興じる若者達、景品のぬいぐるみを手に満面の笑みを浮かべる女性、父と母に挟まれて満足げに歩く男の子、ジェットコースターから悲鳴が響き、海を背景にして観覧車が優雅に回る。
こんなに素敵な場所だったんだ、と僕は思う。
僕らは込み合った遊園地の中を縫うようにして歩き、メリーゴーラウンドの前で立ち止まった。
「なんにも変わってない……。あの時と」制服の女の子はそう言った。
僕は彼女を見た。
「……本当に、久しぶり」彼女は口元をわずかにほころばせた。
僕達はまだ手を握り合っていた。
女の子の手は、温かかった。
メリーゴーラウンドの音楽が僕達を優しく包んだ。
普段はその陽気さに滅入ってしまうような僕だけど、今は違った。底抜けの陽気さに、全身で飛び込みたい気分だった。
馬に跨り回転している子供達。外で見守る両親に、彼らは手を振った。カメラを回す父親の姿もある。
数十年もの間、この世界はろくに変わってないんだ、と僕は思った。隣に立つ女の子が生きていた時から今まで、何一つ変わっちゃいない。そのことが彼女をどんな気持ちにさせるのか僕にはわからなかったけど、でも彼女は満足そうだった。少なくとも僕にはそう見えた。
サーカスのような音楽が止まるのと同時に、メリーゴーラウンドは回転を止めた。
子供達がどやどやと降りてきた。彼らは両親のもとへ走る。僕は彼女の手を握りしめたまま、そんな彼らの脇をすり抜けていった。
そしてポケットに残っていた乗り物券を取り出すと、係員に手渡した。
二人分の券を。
渡された乗り物券の枚数を見た係員は僕を訝ったが、それを僕は無視して意気揚々と白い馬へと向かった。
どうぞ、と僕は柄にもなく女の子をエスコートした。彼女はゆっくりと白い馬に跨った。僕は彼女の手を離した。
僕はその隣の、歯をむき出しにして笑う馬に乗った。
しばらくして音楽が再開されると、メリーゴーラウンドは回りはじめた。
回転は徐々に速くなっていく。とはいえその速度は、スリルとは程遠いものだった。だけど身体に受ける風は心地よかった。
僕自身、メリーゴーラウンドは久しぶりだった。
回転を観察するのと、実際に回るのとではやっぱり大違いだ、と僕は思った。馬の上下に伴う独特の浮遊感、頭上で光るきらびやかな照明、音楽、目まぐるしく変化する風景。そのどれも僕の心を高揚させた。
僕は隣の彼女を見た。
制服がひらひらと揺れている。彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。子供の無邪気さと老人の諦観、にこやかな彼女はそのどちらをも持ち合わせているかのようだった。
白い馬に揺られる制服の女の子は、まるで天使だった。その姿に僕は息を呑んだ。
彼女は風のようで、そして僕も風になったような気がした。
生と死、思い出と現在、夢と現実がごちゃ混ぜになったようだった。
メリーゴーラウンドは、それらすべてをひっくるめて回っていた。色とりどりの絵の具をパレットの上でかき回すかのように。
彼女は幼いころの幻影を見たのだろうか。両親の姿を見たのだろうか。
僕には分からない。
彼女はそっと目を閉じた。その顔からは笑顔が消えていた。だけど、その代わりに悲しみが浮かんでいるというわけでもなかった。静謐な表情だった。そしてそれはとてつもなく美しかった。儚くて、今にも消えてしまいそうな美しさだ。
たまらず僕は女の子から目を逸らした。
やがてメリーゴーラウンドは減速をはじめた。
心地のいい夢はあっという間に終わりを迎え、目を醒ます時が迫っていた。
景色の流れは遅くなり、地上の重力は僕を現実に引き戻そうとしていた。
鳴っている音楽が止まると、メリーゴーラウンドは完全に停止した。
僕は顔を上げ、横を見た。
見る前から分かっていたことではあったけど、それでもやはり僕はそこに彼女の姿がないことを確認すると少しばかり動揺してしまった。
さっきまで彼女が跨っていた白い馬は、最初からここには誰も乗ってはいなかったんだとでも言いたげに(そしてそれはある意味事実なのだけど)澄ました目を浮かべて停止していた。
子供達は馬から飛び降り、外で彼らを待つ親のところへと走っていった。メリーゴーラウンドの柵の外では、列に並ぶ他の子供達が次の回転を心待ちにしていた。
ここではずっと、こうして同じことが何度も何度も繰り返されるんだ、と僕は思った。
だけどそれは、それほど悪いことじゃないのかもしれない。
僕は馬から飛び降りた。
まだあと数枚残っている乗り物券をポケットの中で握りしめながら、僕はメリーゴーラウンドを後にした。
「どこにいたんだよ? 探したぜ」と声をかけてきたのは、僕の友人だった。
再開されるメリーゴーラウンドの音楽を背中で聞きながら僕は、「ちょっとね」と言った。
「みんな待ってるぞ」と彼は、遠くから僕らを見つめる子供達を指差した。
小学生の子供達。
彼らはみんな、僕の友人だった。
海辺のメリーゴーラウンド タク・ミチガミ @t-michigami
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