レイニーデイ・ヴァンパイア
溝口 あお
第1話
《ある夜、町の一角で野良猫が大量死した
猫たちの体には刺し傷があり、皆血を抜かれて死んでいた
誰かの悪戯にしてはたちが悪い
それでもやった人間は大した罪には問われないだろう
報道番組で小さく取り上げられたそのニュースは後に
「ヴァンパイア事件」と称され
ネットの中で生命の尊さを重んじる怒声と混ざって
好奇心と高揚感の隠しきれない声が溢れた
猫の魂とともに、彼女は何処へ消えた?》
玄関先に忘れていかれて呆然と佇むビニール傘の取っ手には、小さな女の子が髪を結わえる時に使うような、可愛らしいうさぎの飾りが付いたヘアゴムを巻き付けられている。真っ白で柄もなく無個性な体に、同じものを持つ誰かに間違って持っていかれないように目印として、持ち主に付けてもらったのだ。
置いていかれた事など知らない、もしくはまた手に取ってもらえると信じきっている、それともそんな事にはそもそも興味はないとばかりに。いつも飾りのうさぎは澄まし顔で、ぼくを出迎える。
置いていかれたもの同士だ。どうしていいか分からず、このまま朽ちていくか誰かに拾われなければ行く当てもない。
いつもぼくは懲りずにここを訪れ、インターフォンに反応のない静けさに肩を落とし、動かされた気配も地面に水たまりも作らないそのビニール傘と目が合うたび、やはり懲りずにため息を吐く。
こうなるより前に、大家の老婦人にここの住人の消息を尋ねている。引っ越してはいないし家賃も然るべき時期にきちんと納められていると言っていた。どこか旅行へ行っているのでは?
では何故、連絡先が今は使われていないものとなっていて繋がらないのか。何故、勤め先をいきなり一身上の都合という理由で退職しているのか。何故ぼくには、何の言葉もないまま。
今日もそこへ出向くと、いつもと違うことが一つ。
相変わらず無表情で立つビニール傘と、ぼくと同じ年頃だろうか、ワイシャツに黒いカーディガンを羽織り、雨で濡れた細身なジーンズの裾、革靴と右手に持った傘から滴る水滴が水たまりを作るのをぼんやり見下ろしながら、まるで待ち人を待つかのようにその男は玄関の前で立っていた。ぼくを見ると、ここの住人だと思ったのか、そろりと姿勢を正し奥へ続く道を開けようとした。
「…あの」
ぼくが声を掛けると、彼は弾かれたように顔を上げた。黒縁眼鏡の奥の目が丸く見開かれている。話し掛けられるとは思わなかっただろう。
「ここの住人を、ご存知ですか」
「…ええ、まあ、はい」
「ご友人の方?」
「はい」
妙に動揺し固く強張った声で、喉に何かがつっかえて小さく咳払いをしながら彼は応えた。
「彼女、ここ一週間ほど帰っていないようですよ」
「…一週間ほど?」
「そう、連絡もつかないんです。…あの、彼女がどこにいるか、心当たりはありませんか?」
「いいえ、全く。…あなたは、彼女とはどういう?」
「…ぼくも、彼女とは友達で、よく会っていたんです。この町ではない別の所で」
「そして、あなたは何故、ここへ?」
「多分、あなたと同じ理由です」
どういうことだろう。と彼の顔には書いてある。妙な沈黙があった後、ぼくは静かな声で、内緒話をする時のような声で言った。
「突然、ぼくの前から姿を消したんです。不可解な出来事があった後、すぐに、何の音沙汰もなく」
「…不可解な?」
「ぼくは決して、彼女を詮索しようと考えているわけではないんです。けれど、ある事がきっかけで、彼女がここにいる事を知って、一度話だけでもと…」
じとじと雨を降らす分厚く黒い雲が肺に流れ込んでくるような、不穏さがぼくの胸を圧迫した。しっかり喋ろうとしたのに、掠れた声しか出ない。
「あなたは…何を知っているんですか」
彼は白い額に深い皺を寄せ、ぼくは目線を下へ逸らした。足元で、傘から流れた雨水が不恰好な形に黒いしみを作っている。
「…あの、ここでは何なので、どこか店に入りませんか」
思わずそう提案して、雨の降りしきる夜の道を、唯一、彼女のことを知るという共通点があるだけの見ず知らずの男と歩いた。傘をさしているせいか、それとも別の理由か、居心地の悪い距離感を保ち、黙ったまま。
雨はまだ止みそうにない。
*
彼女と出会ったのは夏祭りの夜。道の隅で一人うずくまっていた彼女にぼくは声を掛けた。浴衣姿の人々の雑踏のなかで見たその時の彼女は、夏だというのに真っ黒な長袖のワンピースに黒いタイツを履いて、手と顔しか肌が見えない格好をしていた。
「暑くはないの。いつもこういう格好だから」
笑う彼女の顔には、確かに一粒も汗が滲んではいなかった。
しかし彼女は人混みに酔ってしまったそうで、青い顔をしていた。とりあえずぼくは彼女を神社の人気のない石段に座らせ、買ったばかりのラムネを手渡した。受け取ったその手は信じられないほど白い。
ラムネを珍しそうに眺めながら、わたし夏祭りなんて初めて来たの。と言った。
「慣れないことしたから、疲れちゃった」
ラムネを飲んでようやく落ち着きを取り戻した彼女としばらく石段に並んで座り、喋って過ごした。好きな映画、最近読んだ本、犬より猫派だとか他愛もないこと。懸命に開閉する小さな赤い唇、ころんと可愛い音がしそうな頷き方、話を聞いている時の井戸の奥を見つめるみたいに静かな眼、ぼくは一つ一つの動作に好感を持った。良かったらまた話し相手になってほしい。ぼくがそう言うと彼女は快く頷いてくれた。
デートはいつも夜だった。駅で待ち合わせて、行きつけのところへ食事をしに行く。いつ会っても長袖のワンピースに黒いタイツという姿で現れる彼女は、少食で酒もあまり好きではない。いつも、ほうれん草が好きなの。と言って小さなほうれん草のキッシュを好んで食べていた。
そして店を出て他愛ない話をしつつ、時には黙り込んだまま夜の街を散歩し、0時近くになるとぼくは彼女の住む家まで送った。おやすみを言い合い、ぼくも自分の家へ帰っていく。そんな感じで、大体週に一度か二度くらいのペースで会っていた。その時はまだぼくらは恋人同士としての関係ではなかった。
どっちつかずの関係のまま二ヶ月が経った頃。映画を観に行こうと会う約束をしたその日は雨だった。
レイトショーの後映画館を出ると、入る前の静かな雨とは打って変わって、雷を伴う激しい大雨になっていた。終電になんとか間に合うよう急いだつもりが、傘をさしても吹き付けてくる雨粒と水たまりに足を阻まれて思うように走れず、結局ぼくらはその日の終電を逃してしまったのだった。
ぼくらは濡れて少し重くなった服のまま、どうしようもなくなってまた雨の降る夜の街へ出て、近くのホテルに逃げ込んだ。帰れないのだから仕方ない。
「寒くない?」
「ううん。わたし、寒いのは平気なの」
屋根の下でビニール傘を振り、濡れた前髪を搔きあげながら勢いの収まらない雨を二人で黙って眺めた。暗い夜道を何人もの人が傘を前傾姿勢に構えて雨に耐え忍びながら歩いている。サラリーマンの革靴が水を含んでグズグズと音を立てているのが聞こえたし、女性の履くハイヒールは急ぎ足気味にかんかん音を立てている。
遠くの空が光った。それより何拍か空いた後、地面の底から突き上げるような雷鳴が全ての音をかき消した。
きゃあ、と彼女が耳を抑えながらぼくの懐に飛び込んできた。ぼくの鎖骨辺りに彼女の頭がぶつかって、ボブカットに切り揃えた黒髪の毛先から雨粒が滴り黒のカットソーに飛んだ。
「ごめんなさい、びっくりしたの」
彼女は震えていた。
「雷、苦手なんだね」
「うん、大きな音は、苦手」
ぼくは彼女の細い両肩に手を添えた。濡れて冷え切っていて、真正面に見た彼女の顔は色を失って真っ白なのに、やけに唇だけが赤く映えて見えた。口紅の色ではない、内側から血の色が滲むような赤。
不躾に見とれているぼくに訝しみ嫌がるそぶりを見せなかった彼女が、その時何を考えたのかは分からない。ぼくの胸元に小さな手を添えると、心臓の音を聞くみたいに耳をぴたりと寄せる。そしてどこか満足気な溜息をついたかと思うと、お気に入りの縫いぐるみを抱くみたいにぼくの腰周りにに腕を回した。ぼくの体温を求めているのか、愛情を求めているのか。たまらずぼくも両腕の中に彼女をきつく閉じ込める。
濡れた体同士で、ぼくらは人気のないホテルのエントランスで暫く強く抱き合った。
雨は、暫く止みそうにない。
「服、乾かさなきゃだね」
「うん」
「その服、早く着替えたほうがいい」
部屋に入るとぼくは黒のカットソーと濡れた靴下を脱ぎ去り、壁のハンガーに掛けた。下を脱ぐかどうかを少し悩んで、やはりやめておいた。多少気持ち悪いけれど、下着姿になるのも気がひける。備え付けのユニットバスにバスタオルを見つけて、彼女に手渡した。受け取った彼女は、濡れたワンピースとタイツをいつまでも脱ごうとはしなかった。
「見ないようにするから、脱いでタオルを体に巻けばいいよ」
ぼくはキングサイズのベッドに腰を下ろし、壁の方へ体を向けた。それでも彼女が動く気配はない。気まずい沈黙が数秒あった後、怒られるのを怖がる子どもみたいな声で彼女は言った。
「…あのね、わたし、ずっと誰かに肌を見られないようにしてきたの」
ぼくは振り返らずに、壁に向かって言った。
「夏でも長袖だからね。あまり見られたくないの?」
「……わたしの肌、気持ち悪いから」
雨音にかき消されそうに、儚い声だった。
「そんなことないよ。顔とか手とか、白くて綺麗だなってぼくは思ってたけれど」
「…そう?」
「それとも誰かにそんなこと言われた?」
「ううん。そうじゃないけど、これはもう自分じゃどうにもならないの」
「気にしないでいいと思うし、ぼくもきっと気にしないよ。世の中には色んな人がいるし、色んな肌の人がいるんだから」
黒いも白いも、もしくはまだら模様、象のように固く乾いた肌でもなんでもいいから。
「……他の人は嫌だけど、あなたになら、いいかな」
背後でワンピースのファスナーが下がる音がした。
見せてもいい、と言った彼女はやはり途中から自信を失ったのか、どこか泣きそうな声だった。もしかしたらもう泣いたかもしれない。
「ねえ、きっとわたしあなたに嫌われちゃう」
「どうして?」
肩に乗せられた手に引かれるまま、ぼくは彼女を振り返った。渡したタオルを纏っていない、小さな下着を着けた体がそこにある。彼女の体は白く美しい。しかし、白いというには、あまりにも白過ぎる。血が通っていないみたいに、何の温かみのない色。
「触ってみて」
彼女の手に導かれるまま、肌に触れた。雨のせいで冷えているなんて生ぬるい。氷のように酷く冷たい肌だった。
「何かの、病気とか?」
「うん。病気、みたいなもの」
「辛くはない?」
「わたしは平気。だけど、気味が悪いでしょう?」
「…辛くないなら、よかった」
「ねえ、普通ってどんなものだと思う?こんなに白くて冷たい肌は、みんなと違うのは、肌とは言わない?」
「分からないけれど、ぼくは構わないよ」
どうしようもない引力に導かれるように、ぼくはそっと、彼女を抱きしめた。肌同士が触れ合う。手を彷徨わせ、その表面を撫でた。人間のそれと感触の同じ肌を。
少し赤くなってしまった目の縁の真ん中にある瞳孔は、近くでよく見ると黒に近い、深い青色だった。白い瞼と長い睫毛が降りたのを見届け、ぼくは顔を寄せる。赤い唇の合間にしのばせた舌の先で、少し大きく鋭く尖っている気がする八重歯を柔らかく撫でると、彼女の肩がぴくんと揺れた。
背中に腕を伸ばし、下着のホックを外した。ぴんと張った布地が力無くベッドの下に落ちて、剥き出しになった柔らかい乳房にぼくは口付けた。彼女は猫が喉を鳴らすような微かな声を漏らす。なんの抵抗もしようとしない。吸い付きながらシーツの白い波の中に彼女を突き落とした。
「気味が悪いとは、思わない?」
「不思議だとは思うけれどね」
「あなたは、わたしを抱ける?」
「…君さえ良ければ、やってみようか」
ぼくは深く潜り込んだ。肩に彼女の微かな悲鳴と昂ぶった吐息を感じながら、柔らかいぬかるみにどうしようもなく意識を攫われる。どこか痛そうな声をかみ殺すように、その赤い唇で首筋を柔く咬まれた。
「あっ」
彼女の爪が、ぼくの肩口に引っかき傷を作った。
「ごめんなさい」
「ううん。…痛かった?」
「うん、少しだけ」
ぼくからは見えないが、血が滲んでいるらしいそこを、彼女の唇が覆い、吸い付いた。
「気にしなくていいよ」
舌がするする滑る度、妙な気分になる。しばらくして気が済んだのか、彼女は口を離した。目が合うと、ふわりと微笑んだ。
「あなたは心臓も力強いし、血管もしっかりしているし、綺麗な血液が豊かに巡っているから、そう簡単に貧血になったりしない人ね」
「うん、貧血になった事無いよ。何で分かったの?」
「血の色と心臓の音で分かるの」
「すごい特技だ」
「人一倍、そういうのには敏感なの」
「何か医療系の仕事でもしてたのかな?」
「…仕事でね、冷たくなった人の肌に触れる度、いつも思っていたの。これもかつてはちゃんと血が通っていて温かかったはずなのに、何で血が通わないと、こんなに冷たくなるんだろうって。こんなに冷たいわたしも血が通っているはずなのに」
「それでも君は生きている」
「そう、わたしは生きている。生きてあなたに抱かれている。だから、あなたの温かさがわたしには眩しくて、愛おしいの」
彼女はぼくの背中に、両腕を回した。細い腕いっぱいにぼくを囲い込んで、少し痛いくらい強く、閉じ込めようとするみたいに。
「いつかね、その心も温もりも全部、飲み込んでしまいたいくらい、わたしはあなたが愛おしい」
「…ぼくもだよ」
「…ちゃんと言ってよ。わたしのこと、好き?」
拗ねたみたいに膨らむ彼女の頰が可愛い。思わず吹き出しながら、彼女の柔らかいそれをやわやわと指で摘んだ。
「ぼくも、君が好きだよ」
彼女は不自然に曲がった口角で歪んだ笑みを浮かべた。
「…これ、あなたにも移ってしまえばいいのに」
*
駅近くのさほど広くない喫茶店には僕らと、奥のソファ席で指先に念入りに施されたネイルを見つめている、仕事終わりであろうOL一人、窓辺のカウンター席で参考書を広げて、眠たげに頭を垂れながら勉強している男子高生一人、店の奥でのんびりグラスを磨く喫茶店のオーナーらしき人一人。そこにいる誰もが干渉し合わない静けさの間に、誰に聞かれるでもない独り言のようにささやかなジャズと雨音が絶えず流れている。
先程玄関先でおずおずと声を掛けてきた、そして今コーヒーはどうも苦手で、とカウンターでアイスティーを注文した彼は、自らを「アイカワ」と名乗った。
「ぼくと彼女が出会ったのは、一年前のことです」
アイカワ君の癖なのか、膝の上で組んだ手は忙しなく組んだり開いたりを繰り返している。
…ぼくはまだ大学生で、彼女とは、アルバイト先で知り合いました。コンビニの夜勤だったんですけれど。それがきっかけで、よく一緒に食事へ行ったり映画を観に行ったりしていたんです。
彼女の印象を言うなれば…無口であまり明るい性格には見えなかったし、他に友達とかいなさそうで、地味にただ静かにそこにいるみたいな。そんな女の子だと思っていたんですが…なんと言えば良いのか、容姿だとか仕草だとかにふと見惚れる瞬間があって、気付けば次第に彼女に対して好意を抱くようになったんです。…そう、恋人になりたいとかの類の好意です。
彼女に気持ちを打ち明けようと思いました。しかし彼女はそれを察知したのか、さりげなくぼくを避けるようになった。そういう機会や空気を作らせてはくれなかったんです。彼女はぼくのことをそういう風に考えてはいなかったという事です。勿論、落胆しました。しかし彼女とこれからもいい友達でいられるならそれでもいいと思いました。
それが、ある日…
アイカワ君は言葉を切り、アイスティーに刺さるストローに吸い付いた。グラスの中の小さな氷がほぼ全て溶けてしまっている。きっと薄くなってしまっている紅茶の味に、彼は眉をひそめるのではないか。
しかし彼は気にもしていない顔で、グラスをコースターの上に戻した。目を伏せ、この先の話をしていいものか思案している様子だった。
…大雨暴風の嵐になった日のことです。その日も夜勤を終えて帰ろうという時に、彼女がぼくに言ってきたんです。今日は雨風が激しくて帰れそうにないから、是非泊まらせて欲しいって。話で聞いた彼女の家は河川敷を越えた先にあるとの事でしたから、確かにこういう日に川のそばを歩くのは危険だと思ったし、何より避けられていると思っていたのにそんな申し入れをされて、内心嬉しくなってしまって…ぼくは了承しました。
夜勤明けだったので、お互い家に入ってすぐに寝ました。ぼくは布団で、彼女はソファで。その日の空はほぼ真っ暗でした。激しい風や雨音に起こされることなく、ぼくらは深く眠りました。
アイカワ君はふと顔を上げ、ぼくの目を覗き込んだ。
「…心霊現象とかの類を、あなたは信じますか」
突拍子もなかったが、その顔は恐ろしく真剣だった。ぼくは少し悩んだ末に、いいえ。と首を横に振ると、彼はやはりかと言うように「そうですよね」と力無く肩を落とした。
「ここからの話は、本当にあった事です。…夢なら良かったのですが…信じては貰えないでしょうね」
「…どうかは分かりませんが、どうぞ話してください」
アイカワ君は頷いた。
眠りについて何時間経った後か、ぼくはふっと目を覚まして、天井をぼんやり眺めていました。もう一度瞼を閉じようとしたら、枕元で足音が聞こえてきたんです。彼女の足音です。ぼくの真横で立ち止まり、座り込んでぼくの顔をじっと見てくるんです。声をかけていいものか、ぼんやりした頭でこれは現実で彼女は本物なのか分からないまましばらくすると、彼女はおもむろにワンピースのボタンを外し始めた。履いていたタイツも下着も全部脱いでしまったんです。そうして、彼女はぼくの手を取って、自分の胸に引き寄せた。…初めて彼女の裸に触れて、ぼくは一気に目が覚めました。彼女の肌は…信じられないほど白く、氷のように冷たかったんです。まるで死人のようでした。
喫茶店にいた客は気がつくと皆いなくなっていて、ぼくらだけとなっていた。
冷たい肌。それはぼくも触ったことがある。初めての時、彼女は自分の肌を気持ち悪いと言って自信なさげにしていたが、彼の前ではそんな素振りもなかったのだろうか。ぼくだけではなかったじゃないかと若干嫉妬心のようなものが顔を覗かせたが、ぼくは慌ててその顔を墨で真っ黒に塗り潰した。
やがて彼女は裸でぼくの上に跨り、枕元に両手をついて、ぼくの顔を真上から見下ろしました。影になっていて、彼女がどんな表情をしていたのかは全く分かりません。ぼくは彼女に何かを言おうとして、その時自分が金縛りにあったかのように指一つでさえ体が動かず、全く口も張り付いたように開かない事に気付きました。
――本当にこれはぼくの知る彼女なのか?全く別人なのではないかと。そしてそれは幽霊なのではないか。――そのまましばらくすると、彼女はぼくに近寄り、首筋に顔を埋めた。唇で皮膚に吸い付いたと思った瞬間…それはまるで注射のような感触でした。全く痛みなどなく。歯を立てて噛みつかれ、その歯がそのまま皮膚の中にまっすぐに、ずぶずぶと侵入してくるんです。そして体の奥底から首筋まで、一本の川の流れがあるみたいにぎゅううっと、その歯で血を吸われている感覚がしました。
…嘘のようですけれど、本当なんです。ぼくははっきり覚えている。
ぼくはそのまま殺されるのではないかとさえ、思いました。叫ぶこともできないまま死ぬのかと。どれくらいそうしていたか…突然、彼女が「うっ」と声を上げて、首筋から顔を上げ、ぼくの上から降りて、何か焦ったように洗面台のある方へ走って行きました。
…その後、ぼくは眠りに落ちました。あれだけ衝撃的なことがあったのに、ぼくは殆ど気絶するかのように寝てしまったんです。
そして目が覚めると外は明るくなっていて、部屋にいたはずの彼女の姿が見当たりませんでした。どこに行ったのか?連絡先に電話してみようと携帯を手に取りました。そして……待受画面を見て、ぼくは目を疑いました。日付が…あの夜から3日経っていたからです。つまりぼくは、眠りに落ちてから飲まず食わずで、一度も眼を覚ますことなく、3日間眠り続けていたという事です。
当然、ぼくは何かの間違いだと思いました。でも、携帯のメールボックスや着信履歴が何十件と溜まっていて、電話をかけ直してみればアルバイト先の人や友人達は皆揃いも揃って心配していた。この3日間どこにいたんだ。なんて言うんです…本当に、ぼくは3日間眠り続けていたんです。
噛まれたあたりを鏡で見ても、何も跡は残っていませんでした。そしてその後、彼女は僕が眠っている3日間の内にアルバイト先を退職し、住んでいたアパートからもいなくなっていることを知りました。連絡先も使われていないものとなっていて繋がらなくて。本当に彼女という存在がいたのかさえ分からなくなるほど、さっぱりと痕跡を消して行ってしまったんです。それから二度と、会うことはありませんでした。
アイカワ君は話し終え、一息つきながら椅子に深くもたれ掛かった。すみません長々と。と頭を下げられてぼくは首を横に振った。
「それは、本当に、確かな話ですか」
「信じてもらえませんよね」
「…にわかには、信じがたい話です」
「そう思われても仕方ない事です」
ぼくはそこで呆れて怒って帰ることもできた。何て与太話に付き合わせたんだと。全てを投げやって彼を見捨てることができた。けれど、聞かないわけにはいかなかった。ぼくは、ズボンのポケットを撫でた。
「そして今もなお彼女を探していて、やっと会うためにここへ来たというわけですね?」
「はい」
「ずっと気になっている事があるんですが」
「はい、何でしょう?」
「玄関先で会った時、不可解なことがきっかけで、と言っていましたね?それで音信不通だったはずの彼女の居場所が分かったと」
「…はい、そうです。彼女の居場所が分かった理由には一つ、ある不可解な出来事が関係しています」
「その出来事とは一体…?」
外に降る雨が少し激しさを増したようで、窓ガラスとアスファルトを叩く音が強くなった。今は21時。喫茶店は22時までの営業と書かれていたのを、ぼんやり思い出した。
「…「ヴァンパイア事件」をご存知ですか」
ぼくはその響きに眉を寄せた。何を言っているんだ。という心の声が顔に出てしまっているだろう。彼はさもその反応は正しいといった感じでそれを頷いて受け止め、苦く笑った。
「新聞にも小さく記事が載りました。とある町の小さな公園で、野良猫が大量死した事件です。皆死因は失血死でした。体にそれぞれ刺し傷が残されていて、それがまるで吸血鬼の噛み跡のようだったそうです。ネットの中では皆、それをネタに面白がって…」
「…それと、何の関係が?」
「その小さな公園というのが、ぼくの住むアパートのすぐ隣にある公園でした。そして…ぼくが眠っている3日間の間に、その事件は起きたんです」
「え…」
「それだけじゃない。知ってますよね?大変な騒ぎになったはずです。一週間前、彼女のアパートの近くの公園で、同じ事件が起こっている。…彼女がいる場所で、どちらも起きているんですよ」
語気を少し荒ぶらせながら彼は身を乗り出し、ローテーブルに左手を掛けた。カーディガンが少し捲れてその手首が見える。
点と線が、結びついた。
「どうにもそれが、無関係だとは思えないんですよ。ぼくが経験した、あの事と。もしかしたらあれは…」
「ちょ、ちょっと、待ってください」
話がますます現実味の欠けるものになっていく。ほとんど呆れた気持ちでぼくは遮った。
「それじゃああなたは、その事件は彼女が起こしたと?彼女が猫の血を吸ったのだとでも言いたいんですか」
「馬鹿げた話だとお思いでしょう?ぼくだってそう思いますよ」
「そんなまさか!」
「じゃああなたは?あなたの話をお聞かせ下さい。何か心当たりはないんですか。彼女は生きてぼくらの目の前にいた。仮にぼくの体験は嘘だとしても彼女の存在は確かだ。彼女の事をどこまで知っているんです?不可解な事は何もありませんでしたか?何か一つでも」
「……聞いて、どうするんです?」
ぼくはアイカワ君に尋ねた。
「警察に突き出すつもりですか。彼女を――あめを」
アイカワ君は首を横に振った。寂しげな表情で。
「そんなつもりはありませんよ。ぼくでもどうかしてると思うんですけど…彼女を思い出すと、どうしても会いたくなってしまうんです。どうしようもなく。…あなただってそうでしょう?だから今日、あそこにいた」
ビニール傘についた無表情のうさぎの飾りが脳裏に浮かぶ。今日に限らない事だと、心の中で呟いた。
「ところで、あなたはあやめを、あめと呼んでいるのですね」
取り繕うのが上手いのか、考えてることが顔にすぐ出るのか。もうどちらでもいい。ぼくはその時、どんな表情だったろう?どんな顔で頷いた?それすらもう、どうでもいい。取り敢えず、もうここから立ち去りたかった。
喫茶店の閉店時間が迫っている。
「アイカワさんは、今後どうなさるおつもりですか」
「…ぼくは、もう少し探してみようと思います。何かの事件に巻き込まれているなら、警察にも相談しなければいけない。…あなたは、どうします?」
「ぼくも、彼女を探してみようと思います」
ぼくが迷わずにそう言うと、アイカワ君は眉をひそめた。
「…ぼくの話、信じてもらえませんでしたか。話した通り、彼女は普通じゃない。ぼくは一度そういう目に遭っているから色々と対策を考えてあります。あなたまでこの件に巻き込みたくはない。もう関わらない方がいいかもしれませんよ。これ以上は」
「御忠告、ありがとうございます。でも、ぼくはまだ彼女に、聞きたいことがあるんです」
「…気を付けて下さいね、本当に。失血死した猫達みたいに、あなたまで何があるか、分かりませんからね」
「……ええ、気を付けますよ。…ところで、アイカワさん」
「はい、何でしょう」
「今更ですけど…ぼくもね、名前、相川というんですよ。…奇妙な偶然ですね」
喫茶店を出ると、雨は上がっていた。アイカワ君はそれでは。と言って、こちらに背中を向けて駅の方向へ歩いて行った。ぼくは歩きに合わせてゆらゆら揺れる彼の左手首をじっと見つめた。その人工的な肌色を。
ぼくはスマホを手に取り、ある連絡先をタップした。その相手はすぐに出た。
「…今、終わったよ」
『そう。…ねえ、迎えに来て』
*
「これで本当に、終わるのかしら」
「まだ不安?」
「…折角あいつを撒くためにこの街に引っ越したのに。なんでばれたのかしら」
「…それは聞きそびれちゃったなあ」
ぼくは彼女の肩に腕を回した。黒髪が頰に触れる。
「たっぷり反省してもらわなきゃ。そのためにぼくは柄にもなくあんな事をしたんだから」
「ふふ、見てみたかったなあ。相川くんの名演技」
「何も知らない顔で、何事にも驚いてみせるのがコツだよ」
「わたし多分、途中で笑っちゃいそう」
あの日、玄関先でぼくが待っていたのは彼女ではなくあの男――清水だった。
彼が彼女の居場所を特定してから約一週間毎日、彼女の家周辺をうろついている事は把握しており、ぼくはさも何も知らない風を装って彼と出会い、彼に誘われるがままに喫茶店へ行ったのだ。
彼が自らの名前を偽ってアイカワと名乗ったのは、アイカワという存在が彼女の恋人である事を知ったからだ。その名前を出し素性を隠せば、いなくなった彼女を探す健気な恋人の仮面を被り、他の人間を牽制しやすくなる。そう考えたのだろう。――目の前にいる人間こそが、相川という名前の恋人、本人である事を知らずに。
幸い彼の口から『ヴァンパイア事件』の話が出たのは、こちらとしては都合が良かった。ぼくが思うに彼はその話を出す事で、彼女という存在の気持ち悪さ、気味悪さを植え付けぼくを彼女から遠ざけようとしたのかもしれない。――それはそれは恐ろしいほどに真剣な語り口で。傷だらけの手首が露出している事には気付かないくらいに。バンドエイドと、まだ赤く治りきらない猫の噛み跡、引っ掻き傷。――録音アプリを起動させたままポケットに忍ばせたスマートフォンに、はっきり肉声が残されている。あとは警察に本人を調べてもらえば、犯人は彼だという事が証明されるという狙いだったのだ。
「猫はものじゃないのに、器物損壊ってなに。…かわいそう」
「君の気を引くためにしては過激だったね。まあ皮肉にもその狙いは当たってしまったわけだけれど」
「あいつ頭おかしいのよ!」
「もう忘れよう。過ぎた事だから」
「気持ち悪かったもの。前の街じゃ、ずうっと付きまとわれて」
「それは君にも責任はあったと思うよ」
彼女の顔を引き寄せて、唇を吸った。相変わらず冷たいその唇を。
「ねえ、ぼくは少し怒っているんだよ」
「…何故?」
「君ね、いくらなんでも男の前で裸になるなんてしたらだめだよ。嫁入り前の娘が」
「なあに、なんだかお母さんみたい」
「…あいつは悪い奴だけど、なんだか可哀想になってきたよ」
「猫の方がかわいそう!」
「あのねえ…」
「…分かった、ごめんなさい。でも、そうした方が都合が良いんだもの」
清水が起こした事件。彼女になすりつけようとした猫の大量死事件。では…彼のあの一晩の体験談も嘘だったのか?
その答えは――
「血で汚れなくて済むでしょう?」
彼女はにっこりと笑った。
「でもあいつの血、ものすごく不味かったの。思わず声が出ちゃうくらい。もう吸い尽くしてやろうと思ってたんだけれど。…あの時そうしてやれば良かったかしら」
「…ああ、そう」
「…ねえ、嫉妬してたんでしょう?安心した?ねえ」
「まさか!」
「まだまだ子供ねえ」
――清水の体験した事だけは事実だ。だからこそ彼はそれを気を引くためと同時に脅しとして利用しあの事件を起こした。(あの事を、世間にばらすぞ)と。
《――猫の魂とともに、彼女は何処へ消えた?》
実際、彼のSNSにはそれを匂わせる記述があり、『ヴァンパイア事件』としてネットの掲示板で投稿し広めたのも、彼の仕業だ。――
今度はぼくがむっとする番だった。けたけた笑う彼女をベッドの白い波の中に突き落とし、その手をぼくの指で縫い付ける。
「もう子供じゃないのは、君も知ってるだろ?…あめ」
「そのあだ名、まだ使うの?」
「使うよ。ずうっと使うよ。君といると大体雨に降られるんだ。雨女って呼んでやってもいいけど」
「やあだ。じゃあ、あめでいい」
あめ、と言った時の、清水の顔が浮かぶ。鋭くなった眼の奥で、淀んだ光が蛇のようにぬるぬる渦巻くのを見た気がした。
「…ねえ、相川くん」
「うん」
「初めて出会った夏祭り…あれは何年前だったかしら」
「どうしたの急に?」
「わたし、これだけは覚えてる。あの日は晴れだったでしょ」
「…雨女って言ったの、根に持ってる?」
あめは答えず、ぼくの首筋に噛み付いた。すうっと血管を目指して真っ直ぐ突き刺さる歯の感触に、思わず背筋が震える。恐ろしさじゃない、ある種の快感としてぼくはそれを受け入れた。いつもの事だ。これもどれくらい、回数を重ねただろう。彼女の言う通り、病気を移されてすっかりぼくの肌も冷たくなってしまった。
「…さあね。10年か50年か、それとも100年か…。もう忘れたよ」
ぼくは彼女の首筋に唇を寄せ、優しく歯を立てた。
あめを味わうために。
窓の外でぱらぱらと、雨が葉を叩く音がする。
終
レイニーデイ・ヴァンパイア 溝口 あお @aomizoguchi
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