第11話 一同、奔走す

 長い延旺の話が終わった。

 途中、誰も口を挟む者はいなかった。ただ延旺の話す言葉に驚愕し呆然としていた。葵も話の内容は理解できるが、現実の事として受け入れる事など、まるでできなかった。延旺が話を始めてから頭がずっと考えることを放棄しているのだ。

 長く続いた静寂を破ったのは延旺自身だった。

 延旺はすっと立ちあがり椅子をどかした。そしてまた目の前で柏手を打つと「今の話があの日の顛末の全てだ。そして」そう言った。右にいる葵の肩に右手、左にいた央雅の肩に左手をあて「私の右が皇子葵、そして左が皇女雅だ」と言って皆の顔をぐるりと見回した。

 葵が唖然としていると延旺は葵に向かって笑みを浮かべ、次に雅にも同じようにした。

 一歩後ろに下がると膝をついて跪く。「皇国の民が待ち望んだ、皇帝の血統に連なる者だ」

 延旺の声が静寂に響き渡った。

 その声が響き渡った時、ようやく皆の時間が動き出した。

 穎悟が立ちあがり延旺の元に駆け寄ると「延旺様、それは本当のことなのですか!」と全員の思いを代弁した。

 跪いたまま顔だけあげた延旺が「私が跪くのは私が決めた皇帝にだけだ。嘗ては勇崇偉、今はその子である葵と雅だ」ときっぱり言い切った。

 その言葉を聞いた穎悟は「そんなことが」と言って膝をついた。入れ替わるように立ち上がった延旺が、潘を出るときから背負っていた袋から小さな箱を取り出す。箱を開けると中には小さな金の宝輪が二つ入っていた。

「これは勇崇偉が葵と雅に贈るはずだった、誕生祝いの宝輪だ。一歳の誕生日の為に、私が手配して預かっていた。名も入っているし、皇帝の印も付いている」

 手渡された宝輪を見た穎悟は、皇族の持ち物にのみ使うことが許されている印が彫られているのを確認した。葵と雅という名前もそれぞれに入っている。

「本物に、見える」と穎悟が言うのを葵はどこか他所事のように見ていた。すっと左に目をやると自分と同じような様子の央雅と目があった。

 何かが弾けるような衝撃が走った。自分によく似た姿の友は、延旺の言葉が正しいのなら、本当の妹なのだ。初めて出会った時のあの不思議な感覚が蘇った。長く引き離されていた、同じ血を持つ者同士が引き合ったとでもいうのだろうか。

「雅」小さく名を呼んでみる。雅はぴくりと震えて「葵」と返した。姿形も、短尾まで同じの貓。兄妹と言われて、最初こそ驚いたが、なぜか一連の話の中でも、その事だけは、すんなりと受け入れられる気がしていた。

 葵と雅が固まっていると今まで存在を忘れていた迅江が「葵と央雅って兄妹だったのか!本当にそっくりだもんな!でもちゃんとわかってよかったな!兄妹で友達なんて最高だぞ。おまけに皇帝の子どもだなんて、やったじゃないか!」と声を上げて笑顔を向けていた。その声を聞くと、ほっとして、軀が弛緩した。迅江の空気を読まない能力はどんな場所でも発揮され、何度でも葵を助ける。

 それは他の者にも同様の効果があるようで、緊迫したままの空気が一気に緩んだ。

 延旺が椅子を戻して腰掛け「穎悟も座れ」と言うと穎悟は素直に従う。そして延旺は葵の方を向いて「お前も雅も皇子と皇女ではあるが、新米なのでそのまま立っていなさい」と言った。名前は変わってしまったが、延旺はいつもとちっとも変わらなかった。甘やかしたりせずに、時には厳しく接する。皇子などと言われて葵が調子に乗って浮かれないよう、正しく導く、それこそが自分の知っている延旺だ。そう思うと誇らしかった。

「それにしても」と声を上げたのは隆典だった。

「延旺。お前の話の通りだとしたら、お前結局誰も殺していないじゃないか。話を聞いている最中でも、月妃を殺したのはお前だと思っていたぞ」

 確かに延旺は子どもを救って逃げただけだ。

「誰も殺してはいないが、御前将軍という立場にありながら皇帝の命を救えなかったのは、万死に値する罪だ」延旺はそう言い放った。

「お前に神通力でもなければ皇帝を救うのは不可能だろうが。だが一体誰が皇帝を弑逆したというのだ」

 延旺は少し困った顔をして「わからない」と言った。

「ということは華妃を殺した相手もわからないということか」

「そうだわからない。わからないが正直私は勇星ではないかと、ずっと思っている」

 それを聞くと隆典は「お前が月妃を殺していないのだから、まあ勇星しか残らないよなあ」と言った後、考え込むように黙ってしまった。

「皇国の長い歴史上にはそういうことも何度かあった。十五年前にも同じようなことがあったというだけだ」延旺が言うとまた全員黙り込んだ。

「穎悟、とにかく策なしのお前たちにも担ぐべき旗がここにある。武器にして、戦え」

 穎悟は顔を上げて「わかりました」と答えた。

 その時、それまで一言も発しなかった観數が「延旺殿のお話はよくわかったのですが、私にはその二匹が皇帝に連なる者ということが、まだ信じられません。確かに宝輪には皇帝の印がありますが、それだけでは確証までは」と後ろの方は言葉を濁すように言った。

「うーん、お前は若くて勇崇偉に会ったことがないからなあ。わしのように知っている者から見れば、葵も雅も若い頃の勇崇偉にそっくりだ」かつての皇帝を思い出すように隆典が言う。

 しかし観數は納得のいかない顔をしていた。

 その時、延旺が「ああ、尾がある」と言った。

 観數が疑問符を浮かべたような顔をしていたが延旺は構わず続ける。

「穎悟、御前軍の宝物庫を開けたことがあるか」

「宝物庫ですか、そんな物、御前軍に」しばらく首を傾げたままの穎悟は、突然「あれか」と言うと目を丸くした。

「将軍になってから、一度も開けたことはないですが、確かに鍵を預かった。託された前任の将軍も特に開ける必要がないと言っていたから、今の今まで忘れていました」

「二匹を連れて逃げる時に、いずれ何かの証拠になるかもしれぬと思って、斬られた尾を宝物庫の右奥にある白い壺に入れておいた。骨でも残っていれば証拠にならぬか。あの日以降、私には宝物庫に入る手段がない。入れたとしたらあの日以外ありえぬ」

 延旺がそう言うと観數と穎悟は顔を見合わせ同時に頷いた。

「今から確かめてまいります」穎悟が立ち上がると観數も立ち上がり、少し所在無さげにしていた嵐昌も続いて出て行く。

 三匹の背を見送っていると「それにしてもお前たちよく生き延びたものよな」という隆典の声が聞こえた。

「わしにとってはあの時の事件もお前たちの存在も既に埋葬された過去だったというのに、よくもまあ見計らったかのような時期に戻ってきたものよ」

「それもこれも葵が穎悟と出会って、皇都へ行きたいと強く言い出したからだ。そうでなければ私も葵を村から出すこともなく、皇都の状態も知らずに、戦乱の事後に頭を抱えただろうよ。今となっては奇縁が繋いだ運命としか考えられぬ」

「お前たちが顔を出すまで、この部屋は死を前提にした、八方塞がりを何度も確認するための部屋だった。なのに、今はどうだ。わしは年甲斐もなく、喜びで胸が弾んでいる」

「不思議なものよな。私も昨日まで央東が既に死んでいて、雅が皇都に居るなどと考えてもいなかった」そう言って延旺は天を仰いだ後「雅よ、時間がある時にでも生前の央東の話や、その散り際を教えてくれないか」と言った。

「わかりました。我が父、央東のことはきっとお伝えします」

「頼む」感慨深げに延旺が言う。

「ねえ叔父さん。俺本当に皇帝の子なの」

 しんみりとした空気が流れていたが葵は延旺に向かって言った。目を丸くした延旺は「お前、私の話を聞いていなかったのか」と呆れたように言う。

「だっていきなり皇子だなんて言われたって、実感がわかないよ」

「まあ、すぐには理解が追いつかぬかもしれぬが、私が話したことは全て真実だ。お前と雅は間違いなく勇崇偉と華妃の子だ」

「そう、かなあ」

「自信を持て。私が命を賭けて保証する」

「うん」

「私の言葉を信じろ。そしてこの国をお前自身の手で救え」

 延旺の言葉が一瞬で軀の隅々にまで行き渡る。

「勇星の子、勇雲にはこの国の皇帝となる資質がない。将軍たちが、がん首揃えて内乱の相談をする破目になる程なのだから余程暗君なのだろう。まあお前は取り立てて頭はよくないかもしれないが、まっすぐで心が強く、そして素直な優しい子だ」

「そんな事くらいで大丈夫かな」

「皇帝に必要なのはそういう気性を持つことだ。民のことを考え、寄り添えるかどうかが大切だ。知性だの武勇だのいうものは、そういう土台に自ずと乗ってくるものだ。これから身につければよいし、足らなければ持っている者の力を借りればよい」

 延旺はきっぱりと言い放つ。

 村を出ると決めた時に胸の中で感じた輝きが蘇った。それは何十倍にもなって今、葵の胸の中で輝いている。

「わかった、今俺にできる事を、するよ」

 延旺は鷹揚に頷くと「そうだ」と言った後「あともう叔父さんはよせ。私は延旺だと言っている」と言った。

 延旺はどうやら少し照れているようだった。ずっと叔父さんと呼んできたのに今更と思った葵は少し笑った。

 それからしばらくすると、入口の方に気配を感じた。部屋の扉が開き、穎悟が顔を見せた。観數、嵐昌がその後に続く。三匹とも真顔のまま無言で机まで近寄ると、穎悟がすっと白い包みを置いた。皆の視線が集まる中、穎悟は包みを開く。

 中には黒く、埃の積もった二本の枯れ枝のようなものがあった。

「延旺様の言っていた壺に入っていた。これが葵と雅の尾の骨だ」と言った。

 葵はぼんやりとかつての自分の一部を眺めた。

 

 

 延旺の話があった日から、雅は穎悟の屋敷に逗留する事になった。今まで通り嵐昌の家に戻ろうと思っていたが、将軍たちや延旺に止められて葵たち一緒にいる事になった。

 元々迅江が使っていた部屋が雅の部屋になり、迅江は葵の部屋へと移り二匹で使う事にしたようだ。

 話の後、嵐昌も「雅はここにいるのが一番安全だ」と言って両の手を優しく握ってくれた。

「嵐昌さんは大丈夫?」

「皇女から『さん』付けで呼ばれるのは、流石に立場上まずい。嵐昌と呼んでくれ」そう言って嵐昌は慌てた。

「嵐昌、か。うーん、なんだか言い慣れないから落ち着かないです」

「すぐに慣れる。私なら大丈夫だ、なんと言っても兵士なのだ。それにここは作戦本部になるようだから、私も毎日顔を出す、何も心配する事はない」そう言って頭を撫でてくれた。

 そう言われたが、雅の心中は複雑だった。

 突然父母の本当の娘ではなく、皇帝の娘だったと言われたら誰だって落ち着かないだろう。大好きだった姉とも血の繋がりはなかった。更に、一番の友達の葵が本当の兄だったと聞かされて、何がなんだかわからないというのが正直なところだった。

 笑っていいのか悲しんでいいのかわからない心境だった。いつのまにか皆が自分のことを『央雅』と呼ばず『雅』と呼ぶようになっている。実際、央東の娘ではないのだから当然なのだが、なんだか足元がふわふわするような心持ちだった。

 だから落ち着かない自分を持て余すたびに、延旺と央東の話をした。雅が親子として共に暮らした日々や、家が焼け落ちて両親を失った話をすると、延旺は雅の知らなかった央東の若い頃の話や軍での想い出などを、刻を尽くして語ってくれた。

 知り合って日も浅く、元将軍らしい固い立ち振る舞いの延旺だったが、互いに心に央東という欠落を持つもの同士、自然と話は弾んだ。

 葵や迅江は驚いていたが、当の雅は延旺を見かけるたびについて回っていた。

 雅が屋敷に居ついて四日目に嵐昌が叡克を伴って屋敷にやってきた。

 久しぶりに見る書庫の主に嬉しくなった雅は飛ぶように近寄った。

「叡克さん、お久しぶりです」大して長く離れていたわけではなかったが、それまで毎日のように見ていた顔は、思っていたより懐かしく感じられた。

「皇女様、叡克でいいですよ」笑って叡克は言った。

「みんなそう言うのよね」と雅はため息をついていた。

「これから長く続くのですから、早めに慣れた方がいい」

「はい、わかりました。叡克」

「そうそう、その調子」

「今日はどうしたのですか?叡克も会議に参加するの?」

「ええ、状況が一変したので相談したいと言われてやってまいりました」

 雅は不思議に思っていた。叡克は一応軍に属しているが普段は書庫の管理をしている。だから軍の内情とは無関係だと思っていたのだ。それが表情から伝わってしまったのか「僕も一応軍の端くれに引っかかっているので、多少ご相談に乗ってお手伝いすることもできるのですよ」と言って笑った。

「さあ、もうすぐ会議が始まる。今日は葵と雅も同席したほうがいいでしょう。葵を呼んできてもらえますか?」叡克はそう言うと嵐昌を伴って、皆が集まる部屋へ向かった。

 葵の部屋を訪ねて「今日は私たちも会議に出なさいって」と声をかけると葵と迅江が出てきた。よくよく考えると迅江は会議に関係ないのだが、どんな場にもうまく溶け込む。雅にとっては堅苦しくなりがちな場面を、鮮やかに打開してくれる迅江の『軽さ』が側に感じられる事は好ましかった。

「今日は何を相談するのかしら」雅は誰にともなく話す。

「さあ、俺たちの知らない間に何を話しているのかもよくわからないからなあ」と葵が言うと「結局内乱はどうなるんだろうな」と迅江も被せる。

 あの日以来、雅たちには何も決定事項を教えられていなかった。だから雅も二匹と今後の予想を語り合ったり、延旺を追いかけたりしていたのだ。

 しかし自分たちがそうしている間にも、勇雲がまた誰かを毒牙にかけるかもしれない。時間は余り残されていない、少しは話が前に向かっていればいいけれど、そう思いながら雅は扉を開いた。

 部屋の中は前回よりも密度が上がっていた。三将軍と延旺、嵐昌という面子は同じだったが、嵐昌と同僚の二番隊隊長加仙、顔を見た事のない隆典と観數の部下らしき貓が何匹かいた。そして先ほど会ったばかりの書庫の主、叡克はいつも通りの呑気な表情のまま嵐昌の隣に立っている。

 雅たち三匹は邪魔をしないように後方に陣取る。

「今日は数が多いな」と延旺が言うと穎悟は頷いて「そろそろ我々の方針を決めたいので」と返した。

 会議を仕切るように穎悟が「では現状我々が取ろうとしている方策について話そうと思うが、まだ色々と決定できていないところもあるので皆の意見を聞かせてほしい」と語り始めた。

「ここに居るのは延旺、勇崇偉皇帝下の御前将軍だ。皇帝の崩御に際しては様々語られてきたが、各々延旺によって明らかにされた真実は聞いているはずだ。」

 皆一様に頷く。

「その際、殺害されたと公表されていた皇子葵と皇女雅は延旺とその部下央東により保護され、今ここに居る」

 突然大勢の視線に晒された雅は、なんだか落ち着かない気持ちで視線を逸らした。

「我々の当面の目標である皇子勇雲の廃嫡、排除は次期皇帝候補となりうる二匹がいることで可能になった。しかしその手順、方法については大まかな方策しか決まっていない」

 穎悟がさっと皆の顔を見回す。

「当初は武力による制圧しか選択肢になかったが、こちらに切り札があるならば、なるべく軍や民への被害を抑えたいと思う。まずは軍の抵抗なしに皇宮との対峙を目指すべきだと思うが、これを上手く実現するために諸君の意見を聞かせてもらえないか」

「はいはい、そういう事ですか」静かな空気の中、突然声を発したのは意外にも叡克だった。叡克はなぜか、ちらりと雅の方に視線を送った後、なんでもないように話を続けた。

「要するに一枚岩でない軍内部の調整をどうするか、という事ですよね。御前将軍穎悟、五軍将軍隆典、二軍将軍観數、つまりあなたたち三将軍は元々良好な関係で、まあ剣呑な言い方ですが派閥と言っても過言ではない。ですが一軍将軍秀超しゅうちょう三軍将軍宝担ほうたん四軍将軍楼雷ろうらいとは、うんまあ嫌な言い方をすると敵対していると」

 ぐっと顔をしかめた穎悟が「お前はこういう時ほど歯に絹、着せぬやつだな」と言う。

「まあまあ、事は国家の一大事。曖昧に済ませるには掛っているものが大きすぎる」

 にっこりと叡克は笑っているが、いつものぼんやりと凡夫然している姿とは全く違って見えた。

「特に秀超は執拗なほどにあなたを敵視していますからね、素直に話に乗ってくるとは思えない。同じく秀超と仲の良い楼雷もあなた達には良い感情を抱いていないでしょう。この二匹を攻略する前に割と中立に近い宝担を味方につけたい。そういう事ですかね」

 叡克がそう言い切ると延旺は拍手をしながら「なんだ穎悟、お前の側にもえらく賢い者がいたのだな。話が早い」と言った。

「お褒めいただきありがとうございます延旺様。ご無沙汰しておりますが、僕は叡憲えいけんの子、叡克です」

「叡克か、見違えた」延旺は目を見張った。

「叡憲殿には生前色々と世話になった。あの時も叡憲殿がご存命ならば、あのような酷い事にもならなかったかも知れぬと思ったものよ」

 遠い目をして延旺が言う。

 叡克はぺこりと頭を下げた。「今度は代わりに僕が力になれればよいのですが」

「宝担は僕がなんとかしましょう。宝担の家と僕の家は昔から絆が深く、良好な交友関係が築かれている。宝担自身も勇雲の凶行を許すような、卑怯者ではありません。こちらに打開策があるとなれば、必ず味方になってくれると思う」

 穎悟は安心したように「頼む」とだけ言った。

「最初からそのつもりだったくせに。しかし秀超、楼雷はどうするの。四対二になったとはいえ軍同士が戦えば大なり小なり被害が出ると思うけど」

「楼雷は秀超に付き従っているだけだ。問題は秀超だ、あいつをなんとか懐柔できればと思っているが」穎悟は歯切れ悪く語尾を濁す。

「まあ秀超は自分こそが御前将軍に相応しいとずっと思っているからね。公然と自分は穎悟に何一つ劣るところがないと言ってはばからない。だからあなたに対しては相当捻じ曲がった恨み辛みがあると思うよ」

「知っている」穎悟はため息をついた。

「内乱を防ぎ、無用の被害が出るのを抑えてもらうのと引き換えに、俺が御前将軍を降りるというのはどうだろうか。俺が辞めればどう考えても次の御前将軍は秀超しかいない。秀超にとって悪い取引ではないはずだ」

「まあそうだろうね」

「それくらいの損失で矛を収めてもらえるものなら、安いものだと思うのだが」

 穎悟が苦々しく言うと、叡克が珍しく怒ったような表情を浮かべた。

「あのね、将軍。立場に相応しい正当な実力を持つものが、その地位に就くべきだ。だから僕は今の御前将軍はあなたが適任だと思っている。ならばその地位を全うすることを前提とした上で、方策を考えるべきだと思う。正しく与えられた地位を一時の政治的取引のために持ち出すのは皇国に対するただの欺瞞だよ。この問題が解決した後も皇国は存続し続ける。その軽挙な判断は、未来に負債と禍根を残すだけだ」

 ぴしゃりと言われて穎悟はうなだれている。

 対して叡克は妙に生き生きとしている。滅多に見られぬものを見ていると思った時、隣の迅江が「こっちが叡克の本性か」と呟いた。

「ここは奇をてらった策を弄するよりも、正攻法で攻める方がいいと思う。秀超は多少粗野なところはあるが、気骨のある雄だよ。きちんと膝を突き合わせて、真摯に協力してくれと頭を下げてみたらどうだろうか。長年敵対してきた相手が平身低頭の様でやってきたら、案外気分が良くなってすんなり事が運ぶかもしれない。なんと言っても事の大義はこちらにあるのだし、一軍の将軍が勇雲の凶行を知らないはずもない。正義の御旗をチラつかせれば、必ずこちらに歩み寄るはずだ」

 今日一番の嫌そうな顔をした穎悟に「ほら将軍。そんな顔をしないで、仲直りのいい機会だと思って」と言って叡克は笑う。

「秀超に気晴らしに二、三発殴らせたって、お釣りがくるよ」そう言って叡克は、また笑った。

「わかった、秀超の件は俺の方で善処する」と言って穎悟は話題を切り替えた。

「叡克の言う通りに事が上手く進んだとして、皇宮をどう攻略するのかを考えねばならないが、その前に皇帝陛下と皇子勇雲の扱いについても考えておいた方がいいと思う」

「どちらも殺せ、それこそ禍根となる」即座に答えたのは延旺だった。

「しかし」反論の声をあげたのは今まであまり存在感のなかった観數だった。

「勇雲に関しては幽閉なり死刑なり罪を問うべきだと思いますが、皇帝陛下は勇雲の罪を黙認されているだけです。それを罪だと断罪することは早計すぎると思います」

「勇星も勇雲も月妃の血に繋がるもの。狂気に囚われる気性は多かれ少なかれ、必ず持ち合わせている。罪を見逃すのもそれゆえだ」

「そんな。確証なく、血統を盾にするのは暴論です」

「だが勇星は大方、自分の母である月妃を殺している。勇崇偉も華妃も勇星により弑逆された可能性が依然残されている」

 それを聞いた観數が憤慨しながら「それらは全て確証無きことです。延旺殿は勇崇偉帝と華妃に肩入れされて視野が狭くなっておられるのではないか。だから確たることなきまま現皇帝を廃し、その子である葵と雅のいずれかを玉座につけることを望んでおられるだけではないか。邪推かもしれないが、政治的な野心があると取られかねませんぞ」と言うと延旺は「話にならぬ」と言って突き放した。

 部屋に妙な空気が流れた。

 誰もが何も言い出せぬ中「まあ細かいことは直接聞けばいいのでは?」と言う叡克の声が響いた。

「勇雲にはどういうつもりで民を殺したのかを詳しく聞くべきだし、勇疾星皇帝にはどういうつもりで息子の罪を見逃していたのかはっきりさせてもらう。その話を聞いてから罪の有無と軽重を判断すべきだと思う。それが一番、誰もが納得する答えに近いと思う」

 皆の目が叡克に集まっている。

「皇帝陛下にはついでに、あの日の正解も教えてもらえばいいじゃないか」軽々しい言葉でさらりと無礼なことを言う。

「だから今、我々ががん首そろえて考えても答えは出ないと思うけれど」

「確かにどのような手段を使うにしても、きちんと罪を明らかにはせねばならぬ」穎悟がそう引き取ると、場は急に緩んだ。突然「今日は疲れた、解散だ」と言って伸びをした隆典が立ち上がったのを合図に会議は終わったようだった。

 次々と皆、部屋から引き上げていき、後には雅たちと延旺、穎悟、叡克だけが残っていた。

 雅もそろそろ自分の部屋へ戻ろうかと思い、葵の方を向こうとした時「観數の言葉は胸に刺さったわ」と言う声が聞こえて、反射的に声の主に目を向けた。

 延旺だった。

 雅たちの方をぼんやりと眺めながら「政治的な野心など遠い昔に無くしておるが、確かに私は勇崇偉と華妃に連なる葵と雅に肩入れしている。あの時の疑惑が晴れぬままの勇星を皇帝に相応しくないと独断で決めつけている」と言った。

「私も老いたか。いつのまにか私的な感傷を優先させていたようだ。今の時代を生きる者が今の時代に相応しい選択をすべきなのに、な」

「叔父さん」隣で葵が口を開く。

「延旺だ、何度言えばわかる。私の主観よりも葵や雅が納得する選択を尊重すべきなのだな。私はお前たちの守護者であり、忠実な臣下だ。お前たちが選ぶ答えを信じて、ここは素直にこの身を預ける事にしよう」

 延旺は自分の言葉に納得したらしく、頷いている。

 葵は慌てたような顔をしているが、雅は少し笑ってしまった。公然と延旺から贔屓していると宣言されるのは悪い気分じゃなかった。だってそんな事は親しい者以外には絶対にしない事だから。それは独善的な家族の情に似ていて、雅は少し懐かしい温かさを感じていた。

 

 

 次の日の朝、屋敷に顔を出した叡克は「今から宝担の所へ行ってくる」と皆に言ったあと「将軍も嫌な用事はさっさと済ますに限りますよ」と暗い顔をした穎悟の肩を叩いた。

 二時間ほど立ったり座ったりを繰り返していた穎悟もやがて諦めたように「秀超の所に行く」と呟き、長兼に用意させた酒瓶を抱えて出て行った。

 今日は誰も来ないようで、いつも穎悟たちが詰めている部屋にはただ延旺がいるだけだった。暇を持て余した葵は延旺の隣に腰掛け「俺って父親に似ている?」と問いかけた。

 頬杖をついた延旺は葵の顔をじっと見た。「お前に関して言うと瞳の色までそっくりだ。私が知っている若い頃の勇崇偉そのものだな」

「ええ、なんだか気持ち悪いな」

「そうだ、気持ちが悪い。こうしてじっくりとお前の顔を見ていると、時が戻ったのかと錯覚する」

「雅も似ている?」

「雅も被毛の柄やらはそっくりだが、瞳の色は母譲りだな。華妃は美しい翡翠色の瞳をしていた」延旺の目が懐かしむように細められた。

「延旺、俺さ」するりと上手く名前が呼べた。

「民を殺した勇雲も、それを見逃した勇疾星も憎いと思っている。何も悪いことをしていない無辜の民を楽しむように殺した勇雲は絶対に許せないと思っている。俺の荷運びの仕事場に林波って奴がいて、明るくて気のいい雄だったのに弟を勇雲に殺され、その悲しみで魂が抜けたようになってしまった」

 延旺は何も口を挟まずに葵の話を聞いている。

「だから俺は勇雲を許すつもりはないし、皇帝にだって怒りを感じている。だけど、その罪を俺たちや軍の者たちだけで断罪するのは、違うと思う」

 頭の中で混線した考えを少しずつ解くように口にする。

「被害を受けたのは民なのだ。だから、民が罪を裁くべきだと思う。そして俺自身もその民の一部なのだ」

「民の声を集めて罪の重さを測るという事か」

「簡単に上手くいくかはわからないけれど、俺はそうなればいいなと思う。罪の前では、すべての貓が平等であるべきだ」

 延旺は軽く笑みを浮かべた。「お前は、皇族だ。いずれ自分の手でその法を形にすればいい」

「すぐにはできなくても、俺にはそれを作る力があるのか」

「そうだ、お前にはお前が良いと思う方針を打ち立てる力がある。だが葵よ、これだけは忘れないでくれ。その力は必ず正しい方向へ向けねばならぬし、必ず周りの者の意見にも耳を傾けねばならない。反対の意見も受け入れて、皆が納得する地点への着地点を目指さねばならない。それができなくなった時、お前は皇族ではなくなる。ただの専横する暴君だ」

 きっぱりと延旺は言い切る。正直、お前は皇子だと言われても何をすればいいのかわかっていなかったが、簡潔に言い渡された心得だけで、葵の背中が重くなった。大きすぎる力には相応の責任と自制が必要だということを延旺は言ったのだ。そしてそれはこれから葵が背負うべきものだとも。

 延旺の言葉に気が重くなったが、反面ほっとしている自分もいた。きっとこれは他者に対して口にしづらい類の言葉だ。それを平然として葵に投げかけてくれる延旺の存在がひどくありがたいものに思えたのだ。葵にとって延旺は父のような存在だ、だからこそ厳しさが含まれていても、正しい言葉には素直に従える。そう思えるからこそ、葵は少しだけ勇雲に、同情した。そうした存在が側にいれば、もっとまともに育ったのかもしれない。

「さあそろそろ昼餉の時刻だ」

 そう言って会話を切った延旺の後について、葵は部屋から出た。

 昼餉の後は自分の部屋に戻り、迅江や雅と他愛のない話をしていたら、叡克が顔を見せた。

「延旺様にはもう報告したけれど、宝担の方は上手くいったよ」と言いながら床に腰を下ろした。

「さすが叡克!仕事が早いな。普段書庫でぼうっとしているのが嘘のようだ」迅江が囃し立てる。叡克は迅江の鼻をぎゅっと摘むと「君は本当に口が減らないねえ」と言って笑った。

「後は穎悟だな、上手く行くと思う?」

 そう問うと平然とした顔で「大丈夫だと思うけどね」と返ってくる。

「穎悟は苦手みたいだけど、秀超は話が通じない相手じゃないよ。多少粗野で乱暴で酒を呑みすぎるけれど、おおらかな性格で部下には慕われている。それに秀超だって勇雲の凶行を止めたいと思っているみたいで、よく一軍でも大きな声で愚痴を言っているそうだから。きっと渡りに船とばかりに乗ってくるはずだ。」

「なんでそんなこと、知ってるんだよ」迅江が口を挟む。

「一軍に僕の息の掛かっている者が何匹かいるからね、ちょくちょく内情は聞いている」

「うわあ、本当は叡克って怖い奴だな」

「はは、そのうち迅江の弱みを握って、締め上げようかな」

「冗談!」

「さあ、どうかな?」叡克は笑いながら立ち上がると「穎悟が帰ってくるのは、きっと遅い時間だよ。それもべろべろになるまで酒を呑まされて、殴られた顔を腫らしたまま帰ってくるよ」と言いながら部屋を出て言った。

「信じる?」と迅江が言ったので「まさか」と返す。普段からきっちりとした生活態度の穎悟が度を過ぎて酒を呑む姿など想像できなかったのだ。

 しかし次の日、昼を過ぎても一向に起きてこなかった穎悟は、ようやく部屋から出てきたと思ったら、両の頬をぱんぱんに腫らして「ぐむ、二日酔いが治らん」と言った。

「叡克って、魔法使いなんじゃない?」後ろで葵の思いを迅江が代弁するのが聞こえた。

 

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