第10話 延旺、物語る

「お前にだけ、話しておきたいことがある」勇崇偉は周りに目を配りながら、そう切り出した。

 場所は皇宮の裏庭の目立たない木立の、更に裏である。こんな所にわざわざ連れてこられたのだから、よほど重要な話だろうと延旺は身構えた。外交、政治、軍のいずれかの話だろうとあたりをつけて顔を近づけた。このような場所にわざわざ来るような者もいないだろうが、機密であれば腹心である自分以外の者に聞かせるわけにはいかない。

 大丈夫だと目配せすると勇崇偉は小さな声で「今度俺の後宮に入った華妃って娘が無茶苦茶、可愛いんだよ」と言った。

 そんな下らないことを言うために、忙しく仕事に励んでいる自分を連れ出したのかと思うと怒りを通り越して、呆れた気持ちになった。

 何か言ってやろうかと思ったが、ここは鉄拳制裁一択だと頭を一つ小突いた。

 小突かれた勇崇偉は頭をさすりながら「お前、一国の皇帝に向かって」と言って笑っている。笑っている顔がなんだか癪に触って、延旺はもう一つ頭を小突く。そうすると大げさに痛がるふりをする。その皇帝とは思えない姿を見ていると延旺もつられて笑った。

 二つ年上の勇崇偉とは表向きは皇帝と御前将軍という大げさな関係ではあるが、中身は付き合いの長い、ただの気安い友だった。延旺は父方が皇室に連なっており、家格が結構な名家という扱いをされていたので、子どもの頃から遊び相手として勇崇偉と兄弟のように育ってきたのだ。

「こんなところまで引きずって来てまで雌の話とは、皇帝陛下というのは余程、暇な仕事なのだな」軽い嫌味を込めてそういうと「まあ、そうだな。皇宮の爺さんたちに小うるさく言われているのは、もっとたくさん子どもを作れ、くらいだしな」とあっけらかんとして答えた。偉大なる勇崇偉には、嫌味も効かないのだ。

 やれやれと思いながらも勇崇偉の話に乗ってやり「その、華妃というのを早く側室にすればいい。確かに正妃の月妃には勇星しか子どもがいない。血統のことを考えれば爺さんたちのいうように側室に子どもを産ませた方がいい」

「お前は生々しいことを真顔で言うのだな。まあ最終的にはそうなるとは思うのだが、俺もほら、それまでの段階を楽しみたいではないか」

 なぜか勇崇偉は照れている。

「段階とはなんだ」

「お前は本当に風流を解さぬやつだな。ほら、出会って、恋をして、愛が生まれて、みたいなやつだよ」自分で言っておきながら勇崇偉は、更に照れている。

「ふーん、恋愛を楽しみたいということか。まあいいじゃないか、好きにしたら」そう返すと、勇崇偉はため息をついて「延旺、お前が結婚できるのか俺は心の底から心配だ」と言ってきた。

「余計な御世話だ」そう言って、延旺はくるりと背中を向け、勇崇偉を置いて歩き出した。

 しばらく放っておくと、焦ったように駆け寄ってきて「本当に置いていく奴があるか」と言った。その情けない顔を見て、延旺は声をあげて笑った。勇崇偉の黄金色の被毛が太陽の光を照り返して輝いていた。

 


 勇崇偉は友であるという贔屓を差っ引いたとしても、立派な皇帝だった。身分にとらわれず誰にでも気安く優しく接するし、己が間違っていると思うことは、きちんと声を上げて糺す公正さも持ち合わせていた。武勇にも優れていて、御前将軍の自分でも三度に一度ほどしか勝てない。いつも軽口を叩き合っている延旺でも、指折りの名君の名に相応しいと認めていたのだ。

 しかしもうすぐ三十四になろうというのに勇崇偉には正妃月妃との間に勇星がいるだけで、他に子どもがいなかった。周りから言われて何度か側室を娶る運びになっていたが、なかなかうまくいかなかった。側室候補が、直前で辞退を申し出たり、怪我をおったりで後宮から去ってしまうのだ。

 もちろん延旺には、その理由はわかっていた。

 月妃だ。月妃が正妃という立場の矜恃と、息子可愛さで側室の擁立を邪魔するのだ。それは勇崇偉にもわかっているようだった。

 一度延旺は勇崇偉に向かって「月妃が側室の擁立を妨害しているのは、わかっているのだろう。なぜ、諌めない」と言うと「あいつは寂しがり屋なのだろうなあ。側室ができると俺を取られると思っているみたいだ」と呑気な返事を返したので「事は国家の一大事だぞ!」と怒り狂った覚えがある。

 月妃はかつて皇帝の血統から別れた、高貴な血筋ゆえ輿入れしてきた正妃だった。自分の子を皇帝にしたいという思いは格別なのだろう。だからこそ強烈に他に子ができる可能性を排除して回る。

 しかし今回は珍しく華妃という雌の名前を出してきた。勇崇偉が自分の事で愛だの恋だの言うのを聞いたのは初めてだった。

 もしかしたらその雌の事を本当に気に入ったのかもしれぬと、延旺はぼんやり考えていた。

 


 延旺が考えていたのは当たっていたようで、すぐに勇崇偉は華妃に夢中になった。側室になる前から後宮内に特別に部屋を与え、警備にも選りすぐりの者を集めてその任務にあたらせた。

 この特別な対応のおかげか、流石の月妃も手を出すことができずに華妃は無事に側室として擁立された。ようやく側室ができたと、周りの者も皆、胸をなでおろしたものだった。

 延旺も何度か華妃を見る機会があった。皇帝の寝室は後宮にあるが、延旺はよく勇崇偉から「今夜ちょっと酒でも呑みに来い」と誘われたりしていたのだ。基本後宮に皇帝以外の雄は入れないが、有事の際に避難するために皇帝だけが知っている抜け道を、勇崇偉は軽々しく自分の親友に教えているのだ。

 誘われて夜に遊びに行った時、部屋に華妃がいる事が何度かあった。「俺はどう考えても邪魔者ではないか」と抗議をしたが「まあいいじゃないか」と酒を注がれて、三匹で話をしたのだった。華妃は名前の通り華やかな白い被毛と、ところどころに黒と蘭茶色が散っている、可愛らしいと言う表現が相応しい貓だった。翡翠色の瞳を向けられると、関係のない延旺まで胸が脈打った。

 その地位ゆえ激しい性格の月妃とは違って、華妃はのんびりとした明るい気性だった。

 側で見ていて勇崇偉と華妃の取り合わせは、よく合っていると思えた。影のない二匹と一緒にいると、多少朴念仁だと自覚している延旺ですら、よく笑った。良い側室が勇崇偉にできた事は、まるで兄弟のように過ごしてきた延旺にとっても、幸せな事だった。

 


 それから一年ほど経って、ついに勇崇偉と華妃の間に子どもが出来た。皇宮は待ち望んだ慶事に湧いた。延旺も喜んでいたが、生まれて一月も経たぬうちに皇宮から使いがやってきた。そして「とにかく皇帝がすぐに子どもを見に来るように、とおっしゃっています」と言った。早すぎる呼び出しに、延旺は仕事中にも関わらず後宮に向かった。

 抜け道から部屋に入ると勇崇偉が子どもの寝かせてある寝台の横で、突っ立っていた。

「いくらお前と私の仲だとしても、これはまずくないか」と延旺は苦言を呈す。皇帝の子は、民とは違っておいそれと見せて良いものではない。例え延旺が御前将軍だとしてもそれは同じなのだ。正式な手順を踏んでからでなければ臣下の前に姿を見せる事のできない決まりなのだ。

「まあまあ、お前は俺の弟のようなものではないか。身内だと思えば咎められる事もあるまいよ」そう言いながら勇崇偉は子の頭を撫でている。釣られるようにひょいと寝台を覗き込むと二匹の小さな貓が寝息を立てていた。

 可愛らしく眠る顔を見ていると、不思議な気持ちになった。恐る恐る触れてみると「そっちが雄で葵、兄だ。こっちの少し小さいのが雌で雅と名付けた」と言って笑った。

 延旺が「どちらもお前にそっくりだ」と言うと、自慢げに「そうだろう」と喜んだ。

 しかしすぐに勇崇偉は真顔で「この子たちは無事に育つ事ができるのだろうか」と言う。

 その表情に不安を感じて「どうしてそんな事を言うのだ」と言うと「月妃が、な」と返って来た。

「月妃は最近とみに癇癪を起こしていたのだが、この子たちが生まれてからは、その頻度が更に酷くなっている。狂ったように取り乱したりしていると聞く事もある」

「自分の子以外が皇帝になるのを恐れているのか」

「まあそうだろうな。俺も何度も月妃の前で次の皇帝は勇星だと繰り返しているが、信じられないようだ。勇星は聡明な子だ、俺も余程のことがない限り、あの子が皇帝になるべきだと思っている」

「確かに十七くらいだが、堂々とした賢い皇子だ。気質もお前に似ている。私も勇星がお前の後を継ぐことに賛成だ」そう返すと勇崇偉は「そうか」と答えた。

「この子たちの存在が勇星の皇帝即位を脅かすのであれば、いっその事、臣下に身分を下げた方が良いかもしれないな」

「まあ、そうかもしれないな。例え臣下に身分を落としても血統としては保持されるから、有事の際には復帰が許されているからな」

 そう答えた延旺の瞳を勇崇偉はじっと見つめて「もしそうなったらお前に後見を頼んでもよいだろうか。俺には心から信頼できる友はお前だけだ。だから頼む」と言って頭を下げた。その真摯な言葉は延旺の胸を打ったと同時に、そこまで自分を信じてくれているのかと思うと目頭が熱くなった。

「わかった、その時は力になる」と言うと「俺の子を頼む」ともう一度頭を下げた。


 

 それから更に一月ほど経った頃、御前軍の執務室に勇崇偉が顔を見せた。こちらから出向く事はあっても向こうから来る事などほとんどなかったので、延旺は驚いた。

「どうしたのだ」と声をかけると「いや、うん」と的を射ない返事が帰って来る。

 いつもと違って何処と無く落ち着かない姿を見ていると、勘が働き延旺は「月妃がどうかしたのか?」と問うた。

 勇崇偉は、はっとした顔をして「よくわかったな」と言った。

「能天気なお前が悩んでいることといったら、月妃の事くらいだろうと思ったからだ」

 そう言うと勇崇偉は「月妃はちょっとまずいかもしれない、最近では病にかかっているかと思うような様なのだ」と呟いた。

「物にでも当たるのか?」

「物に当たるのはもちろんで、最近では周りの者にも当たったりしているようだ。昨日など訪ねて来た勇星に向かって『お前が皇帝になれなければ、産んだ意味などない!』などと暴言を吐きながら激しく殴りつけたらしいのだ」

 勇崇偉は深く息をつく。

「息子にまで当たるか、いよいよ理不尽だな」延旺がそう言うと「いい加減、何かが起きたとしても、おかしくない」と返す。

「月妃を隔離したらどうだ」

「さすがに月妃の血筋を考えたら、色々なところから反発が出るだろう、それに」

 延旺が促すと「それにそんな状態でも月妃は俺の正妃なのだ。あいつには長く一緒にいた分だけ情もある」と苦いものを呑んだような顔をして言う。

 確かに月妃は十四で嫁いで来てから十七年以上、ずっと勇崇偉と時間を共にして来たのだ。情が湧いているという気持ちも理解はできた。

 勇崇偉は苦しい面持ちのまま「延旺、しばらく毎日俺の部屋に寄ってくれないか。後宮の性質ゆえ、表立って警護の者を入れることは難しいが、お前が顔を出してくれるだけで俺は安心できる」と言った。

 延旺は少し驚いたが、何か不穏なものを感じている友を安心させてやるために「わかった」とだけ答えた。

「お前になら何かが起こったとしても任せられる」ぽつりと勇崇偉が言ったので「縁起の悪い事を言うな」と咎める。

「いや、本当のことだ。なあ、お前が御前将軍になった時に言った言葉を覚えているか」

 もちろん覚えていた。その言葉は晴れやかな気持ちと共に延旺の胸にすっぽりと収まったからだ。

「その時が来たと思ったなら、自らの意志と運命に従って、お前の望む道を突き進め。そこに待つものが希望か絶望かはわからなくとも、きっとそれはお前の生を彩る、だろ」一言一句違えずに覚えている。

「そうだ、そしてそれを贈った時も今も俺の気持ちは同じだ。お前が正しいと思ってすることに俺は一切異議を唱えないよ。お前はお前の判断を信じろ」

 その言葉を聞いた時、勇崇偉がまるでどこかへ行ってしまうような、奇妙な不安が胸に迫った。だから不安をかき消すように「妙な事を言うな」と言って、話題を強引に打ち切った。


 

 その日から延旺は仕事が終わると、夜は必ず後宮の勇崇偉の元を訪れた。月妃の様子が気になっていたので、用心のために腹心の一番隊隊長である央東を連れて行くようにしていた。皇帝の私生活に触れるため、最も信頼できる部下を選んだ。

 顔を見るだけですぐに帰ることもあったが、何も予定がなければ央東も交えて酒を呑んだりして、平穏な日々を過ごしていた。子どもたちと華妃は、今は華妃の部屋で生活をしているようで部屋には勇崇偉だけだった。

 そんな生活を十日ほど続けた。あの日は仕事が長引いたせいでいつもよりもずっと遅い時間に後宮に辿り着いた。顔だけ見て帰ろうと思いながら部屋の前まで来てみたが、いつもいるはずの警備の者がいない。途端に不穏な気配を感じて、延旺は扉を勢いよく開けた。

 勇崇偉は椅子に座ったまま、上半身は机に覆いかぶさるようになっている。顔は向こうを向いていて、見えない。全身の血の気が引いたようになり、動悸が上がる。慌てて延旺が駆け寄り、顔の前で「勇崇偉!」と声を上げた。

 顔を見て延旺は、ぞっととして総毛立った。瞳孔が開ききった瞳に光はなく、血を吐いたようで口元には血がこびりついている。震えながら肩に触れると軀は、冷たく、硬くなっていた。

 将軍という職業柄、死んでいるのは一目瞭然だったが、心が勇崇偉の死を拒否していた。

 ばくばくという心臓の音が耳を占拠して、他の音が聞こえてこない。軀も動かないし、頭も動かない。どのくらいの時間そうしていたのかはわからなかったが、延旺は完全に機能不全に陥っていた。

 央東が両肩を持って激しく揺さぶりながら「将軍!」と言った時、ようやく意識が戻って来た。「将軍、皇帝が、皇帝が」央東も胡乱な言葉を繰り返すだけだったが、それでも延旺よりはましだった。

 央東の揺さぶりによって体の均衡を崩した延旺は、勇崇偉の突っ伏している机に手をつく。倒れたガラスの杯に手が触れて、ふと頭を『毒殺』という言葉がよぎる。

 まさかと思った時、近くからものを壊すような大きな音が聞こえた。その音が聞こえると少し頭がしっかりする。

「央東、何かが起きている!とにかく、音が聞こえた方へ行くぞ!」そう言うと、央東も力強く頷く。部屋を飛び出し、華妃の部屋へ向かう。延旺は確信していた。きっと月妃の仕業だと。

 華妃の部屋の前では、警備の者が斬られていた。扉は開け放たれている。延旺が勢いよく飛び込むと、狂気に囚われた表情の月妃は今まさに剣を振り下ろすところだった。駄目だ、間に合わないと思ったが止まれなかった。剣は振り下ろされ血が飛び散った。最悪の結果になってしまった、そう思ったが片隅にいる、冷静な将軍としての自分が『舞い上がった血しぶきが少ない』と状況を判断していた。

 延旺は勢いのまま月妃に向かい、動けないように拘束した。月妃は何かを叫びながら暴れたが、首に手刀を打ち付けると気を失ってぐったりとした。延旺は怒りを込めて乱暴に月妃の軀を床に落とすと、部屋の中をぐるりと見回した。奥には無残に血を流した華妃が横たわっている。その様子にこちらも死んでいるのは間違いがなかったが、央東に目配せして確認させる。

 そして先ほど月妃が剣を振り下ろした、子どもたちが寝ている寝台に目をやる。血は流れていた。しかし子どもたちは元気に哭いている。

 月妃は、尾を切断したのだ。

 大方殺す前に辱めとして尾を切ったのか。その愚かな行動には虫酸が走るが、おかげで二匹の命が助かったのも事実だ。

 不毛な救命活動で、被毛にべったりと華妃の血がついた央東は「お妃は駄目です。もうお亡くなりになっている」と暗い顔をした。

 床に転がる月妃を見ると悲しみと憎しみとが奔流のように渦巻いて延旺の胸に迫る。いっそ殺してやりたいが、勇崇偉が認めた正妃だと思うとそれも叶うまい。

 そんなことを考えていると「将軍、この状況は一体どういう事なのでしょうか」と央東が心細げにいう。

「私にもわからない。しかし全ての凶行が、か細い月妃だけでできるとは思えないのだが」そう言うと「ご名答」という声が、後ろから聞こえた。

 慌てて振り向くとそこには勇星がいた。

「母が狂ったように華妃とその子どもに憎しみを向けるから、不憫に思って私が少しだけ手助けしたのだ」恐ろしい事を言っているのに、なぜか勇星は悲しそうで、今にも泣きそうな顔をしている。

「母には私の言葉は届かないのだ。必ず皇帝になると言っても、信じてくださらぬ」勇星は、そうぽつりと呟く。

「しかし、こうなってしまった以上、私も最善を目指す。延旺その子どもを殺せ」悲しげな顔をしたまま残酷な命令を延旺に下す。

「父亡き今、私が皇帝だ。その子どもを殺せ」

 殺せるわけなんて、ない。

 これは勇崇偉と華妃の子たちだ。

 皆があまねく待ち望んだ皇帝の後継候補だ。

 優しい表情で子ども達を撫でていた勇崇偉の姿が浮かぶ。そうすると途端に様々な場面で見た勇崇偉の姿がたくさん、たくさん脳裏に浮かんで来る。最後に御前将軍になったあの日、自分のことのように誇らしげな顔をしていた勇崇偉が現れた。

 まるで現実のように蘇り、延旺の耳に声が届いた。

『その時が来たと思ったなら、自らの意志と運命に従って、お前の望む道を突き進め。そこに待つものが希望か絶望かはわからなくとも、きっとそれはお前の生を彩る』

 聞こえた瞬間、延旺は剣を抜いた。そして前を向いたまま央東に向かって「構えろ!」と叫んだ。隣で央東が慌てて剣を抜く気配を感じた。

 延旺は右手に刀を抱えたまま、左手で雅を布で包んで央東に手渡した。目はずっと勇星から離さない。同じように葵を左手で包んで一瞬考えを巡らせた後、斬られた二本の尾を包みの中に入れた。

 勇星は延旺の行動を見て「命令に背くのか」と言った。そしておもむろに月妃が取り落とした剣に手をかけると延旺に対峙した。

 延旺は「私は勇崇偉の剣であったが、あなたの剣にはならない」と返し央東に向かって「行くぞ!」と声をかけた。何合か勇星と斬り合ったがどちらもさほど本気ではなかった。延旺はただこの場から逃げたかっただけだったし、勇星に至っては途端に興味をなくしてしまったかのような態度だった。

 狙いすましたように力を込めて勇星の剣を弾くと、一瞬の隙ができた。その機をついて、勇星の脇をすり抜けると一目散に抜け道を目指す。少しくらいは追ってくるかと思っていたが勇星はそれすらしなかった。

 抜け道を通り、御前軍の敷地を目指す。

 央東が「これからどうしますか」と問いかけてきたので「いずれにしろ、私たちは勇星と対峙する道を選んでしまった。逃げなければ、殺される」と言い切ると央東は押し黙った。

 家族がいるというのに央東を巻き込んでしまった事を心で詫びながら、今は最善手を選ぶべきだと思った。一緒に逃げるより、別々に逃げた方が、効率がいい。どちらかが捕まっても、片方が残れば血統は保持される。

「以前、子凛公国に家を持っていると話したことがあるだろう。お前はそこに逃げろ。ある程度の金も蓄えてあるからそれを使ってくれ」

 そう言うと央東は決心したように、頷いた。

「雅は雌だ、娘として可愛がってやってくれ」延旺は頭を下げた。それを見た央東は決意のこもった瞳を向けて「わかりました。必ず守ります」と言うと、雅を強く抱きしめた。

 逃げるための駿を出してきて、この場でできる限りの準備をする。さっさと二頭立ての駿に荷車をつけた央東は「では、とりあえずお別れです。さらば」と言って軍を出て行く。その背に向かって「お前たちの無事を祈る。落ち着いたら文を出す」と声を掛ける。軽く振り向いて頭を下げた央東は駿を駆って今度こそ出て行った。

 自分も早く出発せねばと思った時、葵の包みに、二匹の尾が入ったままなのを思い出した。延旺はおもむろに一度も開けたことのない御前軍の宝物庫の鍵に手を伸ばした。

 宝物庫へ足を向け、がらりと扉を開くとそこは長年開けられないままだったので、埃が舞い上がった。葵が埃を吸い込まぬよう布を深く被せると、延旺は宝物庫に足を踏み入れた。

 古い壺やかつての名将が使った武器などが収められていたが、近頃では皇宮の新しい宝物庫を使うようになっていたので、ここには忘れ去られた、昔のものばかりが入っている。

 奥の方にある元は白だったが埃で灰色に見える壺に、延旺は二匹の尾を入れた。

 そしてまた扉を閉めて、鍵を戻した。

 時間が迫っている、そう思って延旺は今度こそ駿にまたがって、夜の皇都を後にした。

 最後にもう一度だけ勇崇偉の顔を見てくればよかった、そう思った時、涙が溢れた。


 

 二日ほど進んだところで、行き倒れた貓の死体があった。四匹家族と思われる死体に申し訳ないとは思ったが、身代わりになってもらおうと思った。母らしき死体は少し離れたところに隠し、葵よりも少し大きかったが幼子二匹の死体の尾を切り、父親らしき貓の首には延旺の首にある、勇崇偉から授かった宝輪を巻いて、火を起こす。油に浸した紙に火を移して死体のそばに置く。手を合わせていると風に煽られた火はたちまち大きくなり、しばらくすると焦げた死体が現れた。煤まみれで、骨だけがかろうじて残った無残なものだった。宝輪は煤けていたが、金でできているため、見るものが見れば延旺のものだと知れるだろうと思えた。

 それから近くの村に立ち寄り、暇そうな貓に手紙を託した。穎悟は今頃大混乱に陥っているだろうなと思うと申し訳ない気持ちになった。

 しかし今は、生きていること以外、教えてやれることがない。徒らに巻き込むよりも、穎悟自身の生を全うする方がよっぽどいいと思えた。

 そして延旺はただひたすら皇都から北を目指し、ついに僻地潘に根を下ろす事を決めた。

 

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