第9話 誠心、皇都を目指す

 商業区にある茶店で央雅はお茶を飲んでいた。葵と迅江も並んでお茶を飲んでいる。

 葵は興奮しながら今日あった暴動の顛末について語っている。

「でも穎悟が勇雲のことを何とかしようって言ってくれたのだ」と嬉しそうに話す。央雅もその言葉を聞くと目の前に小さな希望の光が輝くのを感じた。

「俺たちも何か手伝おうよ」葵がそう言うと、迅江は即座に「そうだな」と乗り気になった。おずおずと央雅は「私にも何かできることがあるかしら」と言うと、葵は「きっとある」と元気よく返してくれた。胸がふわりと温かくなった。

「穎悟がどんな手を考えるのかわからないが、俺たちは味方になろう」そう葵がいうと三匹は顔を見合わせて頷いた。

 帰りはいつも通り葵と迅江が家まで送ってくれた。央雅は手際よく夕餉の支度をして嵐昌の帰りを待った。その日、嵐昌はなかなか帰ってこなかった。

 諦めてそろそろ自分だけで夕餉を先に済ませようかと思っていたら、暗い顔で嵐昌が帰ってきた。いつも気丈に振る舞う嵐昌にしては珍しいなと思って央雅は声をかけた。

「嵐昌さん、今日は元気がありませんね」

 嵐昌は暗い顔のまま椅子にぐったりと座り込むと「今日、皇宮で暴徒の鎮圧に当たった」とだけ答える。

「らしいですね、葵に聞きました。でも将軍が勇雲の問題に何か対策を考えてくださることになったと言って喜んでいましたよ」

「そうだ。だが一体どう対処なさるおつもりなのか今から心配だ」嵐昌はそう呟く。

「将軍のように聡明なお方なら、きっと皆が納得する、いい方法を考えてくださいますよ」央雅がそう答えると嵐昌はくすりと笑って頭を撫でてくれた。

「しかしお前の友達の葵という者は一体何者なのだ。いつも家に来て、もう一匹とうるさく騒いでいる姿は、どこにでもいる普通の貓に見えるのに、今日将軍に向かって堂々と意見する姿は驚くほどに威風堂々とした様だった」

 嵐昌が回顧するように言う。

「葵はまっすぐなのです。大切なものを大切だと言って、全力で護ろうとする性格は私も憧れますよ」央雅がそう言って笑うと「央雅もそうじゃないか」と返す。

「私なんて全然。大切なものを護りたいけど、いつも護られるばかりです」両親と姉の顔が脳裏に浮かぶ。

「だが私の生活は央雅のおかげですっかり健やかになった。これも護られていることになるさ」嵐昌も笑う。

「そうですか?嵐昌さんの助けになっていると思うと嬉しいです」

「央雅」嵐昌は少し姿勢を正して、央雅を真っ直ぐに見る。

「初めて見たときは何も持たない、負の感情に支配されていたお前が、みるみるうちに自分の足で進み出した。職を持ち、友達も作って毎日を生き生きと過ごしている姿を見ていると私も心に温かいものを感じるのだ」

 真っ向から言われて央雅は少し照れた。

「お前はどこか不思議な力を持つ貓だな。皆、お前の助けになりたいと思ってしまう」

 央雅はますます照れて鼻を赤くしてしまう。

「央雅は短尾であることで、あまり嫌な思いをする機会がないだろう」

 そう言われて確かにそうだなと思い返す。

「周りの者、皆が央雅を嘲りの感情から遠ざけようと躍起になるから、きっと央雅には届かないのだ」

「父も母も姉もそうでした」

「今は私も、叡克も、仲良しの二匹だってそうだ」

 その言葉を聞くと胸が熱くなるようだった。

 嵐昌はまた央雅の頭を撫でて「だから引っ越しても央雅が嫌じゃなければ一緒に住んでもらえると助かる」と言う。

 央雅が笑って「ええ、引っ越しも一生懸命お手伝いしますからね」と返すと、嵐昌も笑った。

 

 

 それから五日ほど経った日の夜、葵は迅江と部屋で話していた。部屋同士の扉はいつも開きっぱなしだったので、いつも色々な話をしながら眠りにつくのが決まりだったのだ。

 そろそろ眠くなってきたなという頃合いに扉を叩く音がして長兼が顔を見せた。

 夜に長兼が部屋を訪れることなど今までなかったので葵は驚いたが、興味のなさそうな顔をして「葵、主がお呼びだ」とだけ言った。

 迅江に一つ視線を送った後、さっさと身を翻す長兼を慌てて追った。長兼は屋敷の奥にある穎悟の部屋の前で止まると「入れ」と言って葵を指差した。

 おずおずと扉を叩くと中から「葵か、入ってくれ」と穎悟の低い声が聞こえた。静かに扉が開くと穎悟は奥にある椅子に座っていた。家主の部屋の割には葵の部屋と大して変わらぬ、質素な部屋だった。

「そこに座れ」と穎悟の対面にある椅子を勧められたので、素直にそこに収まる。

 机の上を見ると穎悟の飲みかけのお茶と書簡のような包みがあった。これはなんだと目で問いかけると「頼みがある」と穎悟は言った。

「俺に頼み?」

「そうだ、お前に頼みたいことがあるのだ」そう言いながら穎悟は目の前の書簡を葵の方にすっと滑らせた。

「お前の住んでいた潘の村に、俺を紹介した誠心という者がいるだろう」突然叔父の名前が上がって葵の胸はどきりと跳ねた。

「ああ、誠心か。俺が皇都に来る際、穎悟に連絡を取ってくれた貓だ」

 叔父であることは隠せと言われていたので、気をつけて返事をする。

「その誠心に相談したいことがあって、相談事を書簡にしたためたのだ」

「相談事?」

「そうだ、誠心にしか相談できないことがある」

 葵はふと穎悟が突然潘に姿を現した時のことを思い出した。そう言えばあのことを誠心に聞いた時、葵は自分でも「誠心にしか話せないことがあったのかもしれない」と言ったではないか。

 それにしてもなぜ今なのだろうか?葵は不思議に思って、問いたいような気持ちになったが穎悟はひどく真面目な顔をこちらに向けて黙っているので、なんとなく言い出せなかった。

「道行には軍の駿を貸してやる。よく調教されているから、駿に乗ったことのないお前でも、振り回されるようなこともあるまい」

 いつの間にか葵が潘へ行くことは既定路線になっていたので、葵は少し不安になった。

「俺が行かないといけないですか?」と問うと「他の誰にも頼めない」と返ってくる。

「でも皇都は状況が不安定な時だし、今じゃなくても」

「今でなくてはならないのだ」きっぱりと穎悟は返す。

 即座に返事ができず、まごまごとしている葵に向かって「頼む」と言って穎悟は頭を下げた。

 下げられた頭を見た時、さすがにこれは断れないなと、ため息をついた。

「わかりました。わかったから頭を上げてください」

 そう言うと穎悟はゆっくり頭を上げ「恩にきる」とだけ言った。こうして葵の潘行きは簡単に決まってしまった。一度戻ると約束した時期よりも随分早くに、あの村に戻ることになるとは思ってもみなかった。

「なるべく早く出立してくれ」と言う穎悟の言葉を聞いたのち、葵は部屋を後にした。

 書簡を受け取って三日ほど経った早朝、葵は出立した。荷運びの仕事の都合のつけてもらい、迅江や央雅に事情を話していたら、あっと言う間に日が経ってしまったのだ。

 初めて乗った駿は確かによく調教されていたが、それでも葵はおっかなびっくり進み出した。今生の別れでもないのに、穎悟と迅江、そして央雅が北門で見送ってくれた。手を振って別れの挨拶をすると前を向いた。手綱を握ると駿は葵が初めて体験するような速さで進む。まさに風を切って疾走ると言う言葉通りだった。

 穎悟は徒歩で二月かけた潘と皇都との距離が、駿であれば五日か六日あれば走破できると言っていた。葵は手綱を持つ手に力を入れ、なるべく早く着きたいと思った。

 それにしても、穎悟は書簡に一体何を書いたのだろうか。

 潘に着けば、それも誠心に教えてもらえるだろか。

 淡い期待をしながら、葵は速度を上げた。

 

 

 誠心は日課のような農作業をこなし、もう少し日が傾けば家に戻ろうかと考えていた。十五年も続けてきた単純な日々は、いつの間にか誠心の軀に馴染んでいた。

 葵が出て行ってから、もうすぐ半年になる。

「あいつは着いたという報告の文すら寄越さない」そう独りごちると、少し笑みが溢れた。

 便りがないのが良い便り、とも言うではないか。今は憧れの皇都での暮らしに夢中なのだろう。もう少し落ち着けば、きっと誠心のことも思い出す余裕ができるはずだ。

 周りの者たちが少しずつ仕事を終えて家に戻って行くのが見え、誠心もそろそろ家に戻ろうかと立ち上がる。葵が出て行った村の西側に大きな夕日が浮かんでいる。じっと眺めていると向こうに小さな黒点が見えた。それはものすごい速さでどんどんと大きくなる。

「駿か?」と呟く間にも村に近づいてくる。

 やはり駿に乗った貓だ、それが理解できた時、その貓が大きく手を振る。その瞬間弾かれたように誠心は叫んだ。

「葵!葵なのか!」久しぶりに大きな声を出したので声がうまく響かなかったが、葵には伝わったようで「叔父さん!」と大きな返事が返ってくる。

 駿の速度を弱め、ゆっくりと誠心の前で駿から降りてきた葵は、村を出て行った時より、一回り大きくなったように思えた。

 軀が少しがっしりとして、生き生きとした表情を浮かべている。その姿を見ていると誠心は葵に何と声をかけたら良いのかと困惑した。

 ひとしきり逡巡したあと出てきた言葉は「いきなりどうしたのだ」と言う、世にも平凡なものだった。しかし葵は気にした様子もなく「穎悟に頼まれて、叔父さん宛の書簡を持ってきた」と返した。

 穎悟からの書簡?一体どう言うことだ。誠心は顔をしかめる。

 聞きたいことは山のようにあったが、「とりあえず」誠心はそう切り出し「家に戻ろう」とだけ続けた。

 小さく、古びた家の中に葵を促すとようやく「おかえり」という言葉が出た。

「ただいま」と返すと葵は以前のように奥の椅子に収まる。その姿を見ると既視感が湧き上がってきて、涙が出そうになった。年を取ると涙腺が弱くなるのを、誠心は近頃実感していた。

 空いたままのもう一つの椅子に腰をかけると「お前、少したくましくなったな」と言った。

 葵は破顔すると「叔父さんにもわかる?今、荷運びの仕事をしていて、それで軀が随分と鍛えられているみたいだ」と言い、嬉しそうに腕をさすった。

「そうか、充実した日々を送っているのだな」

「うん、友達もいるし。嫌なことだってもちろんあるけれど、楽しくやっている」

 その言葉に誠心は胸をなでおろす。誠心の願いは、葵が元気に楽しくしているだけで良かったのだ。

「そんなお前がどうしてここに来ることになったのだ」

 葵は少し困った顔をして「それが、穎悟が俺にしか頼めないから、どうしても行ってくれと言われたのだ」と呟く。

 確かに誠心の居場所を知っているのは葵だけだ。しかしこの僻地にも文は届くのだ。わざわざ葵に持たせたということの真意が分からなかった。

「穎悟が叔父さんに相談したいことがあって、それが書簡にしたためてあるから届けてくれって」

 そう言うと葵は手にした袋から書簡を取り出し、誠心に差し出した。

 中を見ればわかると言うことか。そう思いながら書簡を受け取る。灯りを少し強くして、

 誠心は書簡を開いた。

 一行目に書かれていた文字を見て、目を見張った。

 

 延旺様

 突然このような書簡をお送りする不躾をお許しください。

 前に貴方を訪ねた時、本当は相談したいこと、聞きたかったこと、話したかったことが色々あったのですが、俺にはそれを口に出す勇気がなく、貴方が本当に生きていたことを確認するのがやっとでした。

 貴方が何も言わずに皇国から去ったあの日から、随分時間が経ちました。

 無事を伝える文を受け取ってから、俺は何年も貴方を探していました。

 貴方が生きている事は俺にしか知り得ない事実だったので、ひっそりと任務で各所を回る度に探していました。だから貴方を見つけるまで、随分時間がかかってしまいました。

 十月ほど前に奏で貴方を見かけた時、本当はすぐにでも声をかけたかった。

 だけどこの長い月日が俺を臆病にしてしまったのか、掛けるべき言葉を見つけられずに、ただ貴方の後をつけ、潘の家を知りました。

 皇都に戻ってから声を掛けなかったことを後悔し、すぐに文を出し、貴方に会いに行った。

 なのに、結局何も言えなかった俺を腰抜けと笑ってください。

 

 十五年前に貴方がいなくなった時のことは、もちろん聞きたい気持ちもあるのですが、貴方はきっと話してくださらないでしょう。

 皇帝陛下に真摯に仕えた、実直で誠実な貴方が世に言われるような事件を犯すような方だとは俺には思えない。

 けれど貴方が何も言わずに去ったのなら、きっとそこに汚名を着せられても守るべき何かがあったからでしょう。

 俺にできるのは、それを信じる事だけです。

 

 今、俺はあの時の貴方と同じ御前将軍という、身に過ぎた地位を賜っています。

 貴方に会ったあの時、本当は俺には相談したいことがありました。

 それは皇子勇雲のことです。

 勇雲は皇帝の唯一の御子にして、次期皇帝です。

 しかし勇雲は齢十三にして、すでに異常な残虐性、加虐性を示すようになり、民を手当たり次第虐殺しているのです。

 お会いした頃は宮廷内の下男下女に手をかけていたのですが、近頃では街の者にも多くの被害が出ており、皇都には勇雲の悪名が轟いています。

 何度も皇帝に勇雲の悪行を上訴したのですが、聞き入れられず近頃では門前払いを受けるようになってしまい、勇雲は野放しになっています。

 街では憤った民による暴動も頻発しており、なぜもっと早く手を打たなかったのかと自責の念にかられております。

 

 延旺様であればこの件でなぜ、俺がまごまごしていたのかお分かりだと思いますが、我々にはこの問題を終着点に導く方法が見つからないのです。

 俺は愚かにもそれを探し続けていて、事態をこんなにも大問題へと発展させてしまったのです。

 しかし民の我慢も怒りも限界を迎えています。

 我が御前軍、そして隆典の五軍、観數の二軍。

 これら三軍をもって皇宮の勇雲を幽閉、場合によっては弑逆するつもりです。

 俺は、皇帝陛下の御意志に逆らう大逆罪を犯すことになります。

 他の軍は皇帝陛下に従うかもしれず、我々は内乱を引き起こすことになるでしょう。

 たくさんの貓が死ぬでしょうし、俺と隆典、観數の死は明らかでしょう。

 袋小路に迷い込んで、愚かなことをしているという自覚はあります。

 しかし俺には、誰かがここで立ち上がらないと、いずれ国が滅びるとしか思えないのです。

 着地点が見つからないまま飛び降りようとしている、自分をそんな風に思っています。

 昔、貴方がかけてくれた言葉を今も覚えています。

「お前の心がその時が来たと感じたのなら、自らの意志と運命に従って、お前の正しいと思う道をゆけ。その先にあるのが希望でも絶望でも全て受け入れる覚悟で、その命を輝かせろ」

 この絶望的な状況でも俺は感じてしまったのです。

 今こそ俺が務めを果たす、時が来たと。

 自らの意思と運命に従って、己の正しいと思うことをいたします。

 この書簡の目的は俺の愚かな決意を、ただ貴方に伝えたかっただけなのです。

 身勝手なただの迷惑かもしれませんが、貴方にだけは。

 貴方の側で過ごした日々は今でも俺の中で生きていて、今の俺を形作っています。

 一方的に有意義な経験や知識、想い出をいただくばかりで、結局貴方には何一つ返せなかったことが少し心残りです。

 俺を成長させてくださって、ありがとうございました。

 ただ、感謝の念しかありません。

 

 今、水面下で軍の調整を行なっていますが、しばらくすれば皇都では戦いが始まるでしょう。

 貴方から預かった葵が戦に巻き込まれぬよう、この書簡を託しました。

 葵は、本当にまっすぐな気持ちの良い気質で、大切な者のためには権力や暴力にも屈しない強い心の持ち主です。

 俺が内乱を起こしたとなったら、きっと俺を助けようとするでしょう。

 だから葵を皇都から遠ざけました。

 一月か二月は村から出さないようにしていただきたいのです。

 おかしなことをお願いしているとはわかっているのですが、葵をお願いします。

 それでは、これが今生の別れとなります、お元気で。

                                      穎悟

 

 最後まで読み終わると誠心は手紙を取り落としてしまった。

 つるりと滑っていく紙と誠心の顔を交互に葵が見ている。

 誠心は心臓がどくどくと脈打つのを感じていた。

 皇都が、穎悟がこのような事態になっているとは思ってもみなかった。

 突然もたらされた穎悟の無謀とも言える、悲壮な決意が誠心の胸を揺さぶった。

 しかも穎悟の命と引き換えにもたらされる結果は、新たな騒乱の火種になるだけだった。

 それでも、と決断した穎悟の複雑な胸中を想像するだけで、目の前が暗くなる。

 目の前では葵が、おかしな態度をとる誠心を見て首を傾げている。

 穎悟、葵、そして自分。

 運命だか必然だかわからないものの輪が誠心の耳元で激しく回り出した。

 穎悟の決断が、誠心自身にも決断を迫っている。

 私はあの時、時が来たと信じて事を起こした。

 しかし、あの時はまだ、続いていたのだ。

 ずっと鳴りを潜めていたが、地続きで繋がったままなのだ。

 誠心はその事実を、ようやく受け入れた。ずっとわかっていたのに、ずるずると決断を引き延ばしていた。

 私も穎悟と同じだ。

 あの時がまだ続いているのなら、また同じように自分の意思と運命に従って、私の道を突き進むべきなのだ。そう思った瞬間、脳裏に懐かしい顔が蘇った。先の皇帝、勇崇偉。延旺が心から仕えた、稀代の名君。

 その顔が目の前の葵に重なった時、誠心は勢いよく立ち上がった。袋に必要なものと穎悟の書簡を放り込む。そしてついぞ開ける事のなかった引き出しから恭しく、小さな箱を取り出し、最後に入れた。

 いきなり動き出した誠心を呆気にとられた顔で見ていた葵に「皇都に向かうぞ、急げ!」と声をかけ灯を落とす。

「え、叔父さん?」と言ってまごまごする葵の腕を強引に引いて、家を出る。盗まれるようなものなどない家には、鍵もかけずに飛び出した。家の脇の木に繋がれて、のんびりと水を飲んでいる駿に「疲れているだろが、一つ頼む」と声をかけて、さっと飛び乗る。

 下でまだぽかんとしたままの葵に「さっさと乗れ!」と急かすと、おずおず誠心の後ろに飛び乗った。

「はい」と一声かけて駿の腹をけると二匹を乗せた駿は風のように走り出した。

 

 

 三日間、駿を駆け続け、二匹は皇都勇壮がもう見えるところまで辿り着いていた。

 誠心は何も言わず、黙々と駿を駆りつづけていたが、葵は誠心の駿の乗りこなしに舌を巻いていた。往路は丸六日ほどかかったというのに、復路は丸三日で明日には皇都に着けるところまで来ている。おまけに葵と誠心の二匹が乗っているというのに。

 誠心の語らぬ過去に、きっと駿の騎乗に長ける秘密があるのだろうが、今はそれどころではなかった。

 穎悟からの書簡を読んだ誠心は何も言わずに村を飛び出して皇都に向かっている。葵には一体全体何が起きたのか全くわからないままだった。誠心に何度か、何がどうなっているのか教えてくれと言っても「とにかく話は皇都についてからだ、時は一刻を争う」と言って取り合ってくれない。いい加減焦れて、誠心が仮眠を取っている時に書簡を見てやろうかとも思ったが、それは流石にできなかった。誠心がここまで取り乱しているということは、余程重大な事が書かれているはずだ。それを許可なく見るのは、誠心に対する裏切りのように思えたのだ。

「今日はこのあたりで野宿するか」と軽く振り向いた誠心が言ったので葵も頷いて同意を伝える。駿を降りて一つ伸びをしていると皇都の方から駿がこちらへ向かっているのが見えた。

 見るともなしに見ていると三頭の駿がまとまって進んでいるようだった。徐々に大きくなる駿の上に見覚えのある貓の姿を見つけて葵はとっさに叫んだ。

「迅江!」そう言うと迅江はようやく気づいたようで「葵か!」と声を掛けて来た。

 駿がゆっくりと葵に近づいて来て、後ろの二頭に乗っているのが央雅と嵐昌だと気づいた。

「央雅!それに嵐昌まで。一体こんなところでどうしたのだ」駿を降りた三匹に近づきながら、声を掛ける。

「それが、なんか皇都が大変なことになっていて」そう言って迅江は暗い顔を見せる。

「穎悟が近いうちに戦さが始まるから、俺と央雅に一旦、董に避難しろって言ってさ。嵐昌は俺たちがちゃんと董に逃げ込めたか見届ける、お目付役として付いて来ている」

 嵐昌の顔を見ると、こちらも暗く沈んだ顔をしている。

「嵐昌さん、私は董になんて行きたくない。戦さが始まるなんて時に、心配で嵐昌さんの側を離れられない」ずっと哭いていたのか、央雅はそう言って顔を歪めて、涙をこぼす。

「だめだ。将軍はお前たちを戦さに巻き込むことをよしとされていない。それだけ苦しい戦いが予想されるのだ、いい加減わかってほしい」嵐昌は頭を垂れて、絞り出すようにいう。

 戦さが始まるだなんて寝耳に水だった葵は、呆然とした。しかし目の前の三匹の会話を聞いていると戦さは現実のこととして話されている。

 葵は、はっと誠心を見る。

 誠心は穎悟の書簡によって、戦さのことを知ったのではないか。だから夜を徹して皇都を目指したのだろうか。

 葵はじっと誠心を見つめたが、誠心は葵に一瞥もくれずにずっと目の前の三匹を見ている。

「叔父さん、戦さって」そう話しかけた時、誠心は突然葵の方を向いて「おい」と言った。

 そしてすっと指をさして「あのお前によく似た、短尾の雌は誰だ」と言った。指の先を追うとそれはまだ哭いたままの央雅だった。

 突然の予想もしなかった質問に「ああ、あれは央雅。隣の迅江と俺の友達。あっちにいる嵐昌は」そこまで言った時、「央雅。やはり央雅と言ったか!」と誠心が遮った。

 目が見たこともないほど、かっと見開かれている。あまりの迫力に葵は軀を竦ませた。

 誠心は何も言わずに三匹に向かって歩き出す。

 誠心のことを知らない三匹は少し構えた気配を出すが、お構いなしに誠心は央雅に近づいた。

「ちょっと、ちょっと。おじさん何よ」と言う迅江を手で制すると、「本当に央雅という名か?」と央雅に問いかけた。

 突然話しかけられた央雅は驚いていたようだが「はい」と小さく答えた。

「央雅は子凛にいるはずだ。央東はどうしたのだ」

 央雅の軀が弾けるように跳ねた。

「え、どうして父を」心の動揺に合わせるように、震えた声が聞こえた。

「央東は子凛の勇壮街で商売をしているはずだ。前に来た文には何も変事は起きていないと書いてあった。」

「それはいつですか」ぐっと噛みしめるように央雅が言う。

「確か一年ほど前だ」誠心は央雅の顔をじっと見つめている。

 確かに誠心にはごくたまに文のやり取りをする、央東という名の貓がいるのは知っていた。

 それがまさか央雅の父だったとは。

 それを知って葵も少なからず動揺した。偶然などと言う言葉では片付けられない、意図された繋がりを感じた。

「父も母も姉も私を守って死にました」央雅が苦しげにそう吐き出すと、誠心はがっくりと膝をついた。

「央東が死んだか」そう呟いた誠心に慌てて駆け寄ると、もう一度「死んだか」と言って涙をこぼしていた。今日の誠心は葵の見たこともない姿ばかりだった。こんなにも悲壮感を漂わせて哭く誠心を、葵は知らない。

 誠心を囲んで奇妙な空気が流れていた。まるで誠心にだけ見えているものがあって、他の者には全く何のことかわからないのだ。

 涙を拭って顔を上げた誠心は、膝をついたまま央雅の顔を見上げた。央雅はまるで目を背けることができなくなったように、じっと誠心の顔を見つめている。

「それでも央東は約束を果たしてくれた。雅を守って生かしてくれた」誠心は優しくそう言って、央雅の両の手を取ると、大切なものを扱うように恭しく自分の額に押し頂いた。

 全員が呆気にとられる中、想いを断ち切るように誠心は立ち上がり「詳しい話は後だ。まずは穎悟たちに会う事が最優先だ。お前たちも、もう董へは行かなくてよい」そう言い放つと「夜を徹して皇都を目指すぞ」と続けた。

 さっさと駿に跨り「早くしろ!」と葵たちに声を掛ける。腑に落ちないまま葵が駿に近づくと嵐昌が「しかし将軍のご命令で」と食い下がる。しかし誠心は歯牙にもかけぬ様子で、「お前が叱責されるような事はない。この私が言うのだ、穎悟は逆らわぬ」と言ってのけた。

 威厳のある堂々とした態度と声になぜか誰も逆らえず、結局四頭の駿は宵闇が迫る中、静かに皇都を目指した。

 

 

 夜を徹して駿を駆けたおかげで、朝日が上がる頃には皇都の門をくぐる事ができた。ここにたどり着くまでの数刻、誠心の頭の中で様々な考えが濁流のように渦巻いていた。

 央東が死んで、ここに雅がいる。まさにあの瞬間に出会った事は、運命とか奇跡とかいった類のものだ。あの日、自分が起こした出来事が大きく広がって、今に猛烈な勢いで収束している。その考えは、誠心の胸を高鳴らせ、反面、頭を混乱させたのだった。

 北門をくぐると駿を降りる。この中で一番情報を持っていそうな嵐昌に向かって「穎悟は軍か?それとも屋敷か」と問いかける。

 嵐昌は昨日会ったばかりの素性もよく知らない自分を不審がっているようだったが、じっと誠心が見つめていると観念したように「屋敷に。他の将軍とずっと詰めてらっしゃいます」と吐き出した。

 駿を引く四匹の先頭に立ち、少し様変わりした懐かしい道を誠心は進んだ。軍特区一の東。門の前で屋敷を見上げると、よく手入れされていて、あの頃とちっとも変わらないように見えた。

 門番が嵐昌の顔を見て、五匹の為に門を開けてくれた。顔も知らない誠心を嵐昌の連れだからといって、無条件に通すとは不用心な事だと、誠心は呆れた。

 この中で行われている話し合いは国家の一大事だというのに、部外者を入れるとはどうなっているのかと、腹を立てていた。そしてまるで家主のように腹を立てている、自分が少しおかしくなった。

 もう自分の屋敷ではないのに。

 それでも嘗ては慣れ親しんだ屋敷、誠心はここに穎悟たちは居るだろうとあたりをつけて、一番大きな応接室へ向かい、声もかけずに扉を開いた。

 扉を開いた時に大きな音が響き、中にいた三匹の貓は一斉に剣に手をかけて振り向いた。

「誰だ!」と大声を発した穎悟は、扉の前にいる誠心を見て凍ったように固まった。

 隆典も目を見開いたまま、微動だにしない。もう一匹いる麦藁色の被毛で、首に黄色の布を巻いている貓が穎悟の書簡にあった観數という二軍の将軍か。

「久しいな。穎悟、隆典」そう言って誠心は穎悟たちが囲んでいた机の空席に勝手に腰を下ろした。誰も一言も口をきかない。

「どうした、お前たち。口がなくなってしまったのか」と軽口を叩くと、一足先に硬直が解けた隆典が飛びかかってきた。言葉通りに勢いよく飛びかかられたので、誠心は隆典もろとも椅子ごと床に倒れた。相変わらず野蛮なやつだと背中の痛みに耐えながら思っていたら「延旺、貴様死んだんじゃなかったのか!」と顔の間近で大声を出された。

「声が大きい」と言って、鼻息の荒い隆典を腕で押しのけながら、よろよろと誠心は立ち上がる。椅子を直し、改めて坐り直す。

 ずっと自分を見たままの隆典に向かって「ご覧の通り、生きている」と言って「今からその理由を話してやるから、とにかく座れ」と続ける。

 興奮して鼻息を荒くしたままの隆典は、誠心の言葉に操られるように椅子に腰掛けた。状況が理解できないといった表情のまま、周囲を見回していた観數も従うように座る。

 いつまでたってもこちらに戻ってこない穎悟に向かって、少し強めに「穎悟、座れ」というと何も言わずによろよろと倒れ込むように椅子に座った。

 誠心は後ろに立ったままの四匹に向かって「お前たちもこっちに来なさい」と声を掛ける。

 四つあった椅子はすでに塞がっているので、なんとなく机を囲むように四匹は移動した。

 部屋に大勢がいるというのに、誰も一言も発しないという不思議な空間だった。

 それもそうか、と誠心は思った。この状況で物が見えているのは自分だけだ。では皆にも同じ物を見せてやろう、と誠心は口を開いた。

「穎悟、書簡をありがとう。おかげで私は時機を逸することなくこの場に居られる」

 穎悟は悲しいような、困ったような表情を浮かべている。

「お前が内乱を起こそうと思うに至った理由や立場、状況は理解できている。まあ今の状態は、要するに皇子勇雲を排除する為には、皇帝と戦さをする他ないということだな」

 穎悟は子どものように頭を何度も振る。

「しかし、皇帝を倒してしまうと、皇国に皇帝が不在になってしまうという、非常に困った状況になってしまう。さらに唯一の皇子である勇雲を排除するということは、次期皇帝を失うということになり、皇国の血統が絶えるということに思い至る」

 穎悟は、今度はゆっくりと、言葉を咀嚼するようにして頷いた。

「皇宮は勇雲の凶行を野放しにして、民はそれに反感を抱いて暴動を起こす。しかしお前たちには皇国の血統が枷となって何もできなかった」

 穎悟は口を真一文字に引きしぼり、下を向いてしまった。

「だが状況はさし迫り、憤りが募った民の暴発はもう目前ということだな。国の一大事を目の前にして、お前にはもう打つ手がなく、戦後の解決策さえ持たぬまま、行動を起こすことを決意した。これが今回の経緯だな」

 そう言って誠心が一つ柏手を打つと、全員が誠心に瞳を向けた。

「誠実で真面目なお前ゆえ、辛い思いをしたな」そう優しく声をかけると、穎悟の目に薄い涙の幕がかかった。

「私はお前の書簡を見て驚いた。遠く離れた皇都の事など、長らく触れてこなかったからな。だがお前の窮状と覚悟は見てとれ、誰かの助けを必要としているのがよくわかった」

 穎悟が小さな子どものように涙を拭うのが見えた。

「私がここに来たのは何も今更、お前たちと一蓮托生で死んでやろうと思ってのことではない。私だけが知っている真実が、お前たちを救う事になるからだ」そう言い放つと、隣で隆典ががたんと音を立てて立ち上がる。

「どういう事だ?」少し落ち着いたと思っていた隆典が再び興奮して声を上げる。猪突猛進といえば響はいいが、相変わらず考えて行動しないやつだと呆れる。

「落ち着け隆典、何事も順番がある。これからそれを話してやろうとしているのだ」そう言ってぐるりと目の前に並ぶ顔を順番に眺める。そして誠心の右隣に立っている葵の顔を見た時「葵よ、私は長い事お前に嘘をついていたのだ。私の名前は誠心ではないし、お前の叔父でもない」となんでもないように言った。十五年も隠して来た真実は、驚くほど軽く口からすべり出た。

 葵は言葉の意味が理解できていない様子で、絶句している。

「私の本当の名は延旺という。十五年ほど前は御前軍の将軍を務めていたが、事情があって皇都を出奔したのだ。それとお前の短尾は親の罪の連座だと教えたがそれも違う。お前の尾は妄執に取り憑かれた、邪悪な心の持ち主によって斬られたのだ」きっとすぐには受け入れられないだろうと思ったが、誠心は事実をそのまま伝えた。

 それだけ言うと視線をまた正面に戻す。皆が食い入るようにこちらを見ていた。

「お前たちを救うと言ったが、まずは少し長い話を聞いてくれ。どうせお前たちも知りたがっていた話だ」そう言うと誠心は、また一つ柏手を打つ。打った瞬間、十五年続いた誠心としての時間が終わり、延旺に戻った。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る