第8話 皇都、騒乱の渦

 せめて楽しい記憶になるようにと昼餉の時、葵は大げさに楽しげに振る舞った。央雅が楽しみにしていた大図書館が悪い想い出にならねばいいと危惧していたのだ。

 迅江にはすぐに葵の意図が伝わったようで、いつも以上におどけていた。二匹の努力により央雅に笑顔が戻ったので、それだけでもよかったと思えた。

 央雅を家に送り、屋敷の門をくぐると食堂に穎悟がいた。まだ夕刻の早い時間だったので、葵は驚いた。穎悟は普段夜遅くまで仕事をしているので、このくらいの時間に屋敷にいるのが珍しかったのだ。もう疲れたから部屋で少し寝ると言う迅江と別れ、葵は食堂に向かった。

 穎悟は食事をし終わったようで、お茶を飲んでいる。向かいの椅子に座り、今日あった出来事を話そうと思った。何よりあの勇雲について御前将軍である穎悟がどう思っているのか純粋に知りたかった。

「大図書館に行っていたらしいな。長兼から聞いた」向かい合うと穎悟の方から話しかけてきた。

「うん、央雅と迅江と一緒に行ってきた」

「最近お前たち三匹はとみに仲がいいな」穎悟は少し笑顔を浮かべる。

 央雅はよく穎悟の屋敷にもきており、穎悟や長兼にも何度か顔を合わせている。穎悟はいつものような気安さで央雅に接したし、ぶっきらぼうな長兼もなぜか央雅にだけ愛想よく優しい。雌は得だなと、葵は思ったものだった。

「大図書館も予想以上に大きく本が山のようにあって、とても面白かった」

「あそこは国中の本が所蔵してあるからな。しかし管理が追いついていないのか、本が探しにくいのが難点だ」穎悟も葵と同じ感想を持っていたようだ。

「大図書館自体は楽しかったのだけれど、一つ驚くような事件があった」

「あそこに本以外に変わったものはないと思うが」怪訝な顔をして穎悟が言う。

「大図書館の一角で、皇子勇雲様に行きあいました」

 そう葵が言うと、穎悟は軀を一瞬震わせた。そして目にぐっと力を込めると「勇雲様に会ったのか」と葵の目を見つめながら言った。

「うん。丁度、駿が引いている白い車から降りてくるところを三匹で見かけたのだ」

 穎悟は何も言わない。

「そして降りてくるなり、通りがかりに見ているだけの我々に向かって、下賤の者が不躾にこっちを見ていると叫んで、そしてそれを理由に殺せと兵士たちに命じたのだ」

 それを聞くや否や、穎悟の瞳からは力が失われ、頭を抱えてしまった。

「そばの兵士が図書館に民がいるのは仕方がないと諌めていたけれど、その言葉に逆上して今度は諌めた兵士を足蹴にしだした」

「それでお前たちはどうしたのだ」

「このまま捕らえられたら本当に殺されてしまうと思って、全力で逃げた」

「よく逃げおおせたな」

「追いかけてくる兵士も本気ではなかったと思う」

 そう言うと沈黙が落ちた。

「穎悟、あの残忍で冷酷な貓が本当に次の皇帝なのか?」そう聞くと穎悟は苦々しい顔をして「それを御前将軍の俺に聞くのか」とだけ言った。

「皇帝は不躾な視線を向けたと言う理不尽な理由で、民を殺すことができるほどの権利があるのか。あんなのは権力を嵩にきた、ただの一方的な暴虐だと思う」

 穎悟は何も言わなかった。

「皇帝っていうのは公明正大で温厚篤実なものにしかなれないって聞いて育ってきた。皇国の民を守るのが仕事だと思っていた。なのに、あんな無慈悲な者が皇帝になるなんて言われたら、自分たちの未来に、夢も希望も感じられないよ」

 葵がほとばしるように言うと穎悟は一言「そうだな」とだけ返した。

「皇都までの旅の途中にも傷だらけの雌の貓に会った。皇宮で些細な失敗をしただけで気を失うまで何度も殴打されたって言っていた。それも勇雲が命じたものだった。勇雲は民を物としか思っていないのだ。だから、気に食わぬとすぐに壊してしまう。こんな事おかしいよ」

「だがどうしようもないのだ。皇帝のお子は勇雲様だけだ。皇帝になるべき正当な権利を持つ者はこの国のどこにもいない」まるで何か苦いものを口に含んだような、少し掠れた声で穎悟が言う。

 その声を聞いて、葵は悟った。

 穎悟は葵よりもずっと前から、この事態を憂いていたのだ。そして自分たちが、この問題が解決するすべを持たないことにも気づいてしまっていたのだ。

「でもこのままだといずれ大変なことになるのではないのか」

 穎悟はふと笑い「お前も隆典と同じことを言うのだな」と言った。それは葵の知らない名前だった。

「正直なことを言うが、俺も勇雲に皇帝になるべき資質がないということはわかっていた。しかし現実を見れば勇雲しか、次の皇帝になるべき者はおらぬ。その事実を覆すことができない今、俺は御前将軍としてただ最善を尽くして国のために働く、それ以外の選択肢を持たないのだ」

 こんなに力のない言葉を吐く穎悟の姿を葵は初めて見た。そして穎悟にも解決できない問題を無理に問いただしたことを悪く思った。

「ごめんなさい、なんだか穎悟を責めるみたいなことを言って」葵は素直に詫びた。

 殊勝な態度の葵を見て穎悟はくすりと笑い「いや、この問題がお前のような市井の民にまで知れ渡るような事態になっていることがわかってよかった。」と言った。

「はい」と答えると穎悟は葵の瞳をじっと見て「勇雲がお前のように優しく正直で、まっすぐ正しい未来を目指して進める者であれば良かったのに。そうであれば俺もきっと、こんな遣る瀬無い気持ちにならずに、素直に仕えられたのに」そうぽろりと言った。

 そして「すまん、詮無きことを言った。忘れてくれ」と言って席を立った。

 残された葵は考えても仕方がないと頭ではわかっていたが、大図書館での勇雲の言動を思い出さずにはいられなかった。葵の心に今までで一番残虐な言葉として、それは抜けない棘のように刺さり続けた。

 それから十日ほどした日の朝、葵と迅江はいつも通り慶冨商店に顔を出した。葵と迅江はしばらく前から別々の荷車を引くことを許されていた。いつも通りの慌ただしさの店内で、今日の分の注文書を受け取る。葵が慶冨から注文書を受け取ろうとした時、慶冨が話しかけてきた。

「今日はお前に医療部の配達を頼もうと思っているのだが、ちょいと別件で頼みごとがあるのだ」

「頼みごと、何ですか?」珍しいこともあるものだと、葵は返す。

「いつもは、いの一番に顔を出す林波が今日はまだ来ていないのだ。どこか調子悪くしているといけないから、配達の帰りにでも家に寄って様子を見て来てくれないか」

 確かに林波は店内にいなかったが、もう配達に出た後かと思い込んでいたので驚いた。

 屈強な軀を持つ林波が仕事を休んだところなど見たことがなかった。

「わかりました。帰りに寄ってみます」葵はそう言って慶冨が林波の家の住所を書き付けた紙を受け取り、仕事を始めた。

 荷物を積み終えると荷車を引いて店を出る。最近では半刻を少し超えるくらいで軍の敷地まで辿り着けるようになった。

 医療部は央雅のいる書庫のすぐ西隣りだったので、南門から入ってさっさと仕事を終わらせる。

 慶冨にもらった住所を確認すると南居住区四十七西と書かれてある。南居住区は店のある商業区の東側なので少し遠回りになるが、空になった荷車を引いて、林波の家を目指した。

 南居住区に入り、辻の地図で細かい場所を確認すると林波の家はすぐそこだった。

 確か弟と二匹で暮らしていると言っていたその家は、道沿いに並んでいる他の家と同じように簡素で小さなものだった。扉の上に貼られた住所を確認して、荷車を下ろす。

 扉を二度叩くが、返事はない。もう一度叩いてみたが、それでも返事はない。

 葵は少し心配になって来て、扉を勝手に開いてみた。鍵はかかっていないようで、あっさりと開いた。半身ほど中に入り「林波、いるか?」と声をかけた。

 その問いかけにも返事はなく、いよいよ不審に思った葵は薄暗い家の中に入ってみた。入ってすぐの土間には林波の影はなく、「お邪魔します」とだけ言って更に中に進む。

 土間の奥に段差があり、上がったところに部屋があるようだった。扉が閉まっている。その扉を何気なく開くと、薄暗い部屋の中に誰かが座っている。「林波か?」その影に問いかけるが、影は何も答えない。本当に軀の調子でもおかしいのかと思い、葵は部屋に上がり影に近づいた。

 いや、近づきかけたのだ。

 葵の足は半ばまで進んだところで、歩みを止めてしまった。

 影は林波だった。林波は床の上に座っていて、誰かを横向きに抱いている。その誰かは離れた葵のところからでもわかるくらい、あちこち血まみれだった。林波はその血まみれの軀を抱いたまま、音も立てず滂沱の涙を流していた。

 慌てて葵は近づき「林波!これはどうしたのだ!」と声をかけるが涙を流し続ける林波にはまるで届いていないようで、何の反応もなかった。とにかく腕の中の者を手当てせねばとその軀に触れたが、思わず手を引っ込めてしまった。軀が驚くほど冷たいのだ。

『死』という文字が葵の頭に浮かぶ。

 思わず林波の両の肩を揺さぶり「林波、何があったのだ!」と耳元で声をあげる。

 葵が何度か揺さぶり終えた時、ようやく林波は葵の目を見た。無表情に涙を流していた林波はいきなり顔を歪め、嗚咽した。悲壮な咽び泣きが室内にこだまする。その声は葵の胸を激しく打った。

 腕に抱いた誰かを抱きしめたまま、林波は嗚咽をあげ続けた。葵にはそれを呆然として、見つめることしかできなかった。

 長い、長い時間が流れた気がしていた。

 少し弱くなった嗚咽の隙間から、林波が声を絞り出した。

「弟が、殺された」と。

「何が起きたのだ!」と問いかけるが、言葉が嗚咽に流されて返ってこない。

 林波から事態の真相を聞くことは、しばらく無理そうだと葵は判断して、とにかくこの状況をどうにかせねばと思った。

 現実として貓がここに一匹死んでいる。しかも殺されたと林波は言っている。

 葵は、弾かれたように林波の家を飛び出して、街中にいつも等間隔で立っている警備の者を探した。これは葵に何とかできるようなものではなく、歴とした事件だ。先ほど地図を確認した大きな辻に警備の者がいたのを葵は思い出し、走って向かった。記憶の通り黒布を首に巻いた警備の者がいた。葵は何も考えずにその者の正面に立ち「あっちで貓が一匹死んでいるのだ」と言った。

「何、どこでだ!」警備の者は即座に反応する。

「ここから少し南に行ったところに林波という貓の家がある。弟が殺されたと言っている!」葵が興奮気味に事情を話すと警備の者は「林波か」と言って下を向いた。警備の者はしばらく下を向いていて、なぜすぐに一緒に行ってくれないのかと葵は苛ついた。

 ようやく顔を上げたかと思うとひどく苦々しい顔をして「林波の弟の件に我々は介入できない」と言った。

 予想もしなかった言葉に驚いた葵は「なぜ、どうして!」と大声を上げた。警備の者の腕をぎゅっと掴む。「なぜだ!」重ねて問うが警備の者は「大きな声を出すな。上からのお達しだから、私ではどうにもできない。向こうへ行け」と言って追いやるかのように手を振った。

 それでも納得がいかない葵がまた「どうして!」と大きな声を上げると警備の者は困った顔をして小さな声で葵に言った。「林波の弟の件は、我々とて可哀想に思っているが、上から大ごとにせぬよう言われているのだ。これでわかるだろう。相手が、やんごとなき高貴なお方だから仕方がないのだ」その言葉を聞いた葵の脳裏に勇雲の顔がさっと浮かぶ。

「勇雲がやったのか」そう問いかけると「お名前までは出せぬ」と答えて押し黙ってしまった。

 警備の者の取りつく島もない態度に途方にくれた葵は一旦、店に戻って事の次第を皆に話すことにした。林波の家の前に置いたままの荷車のことも忘れて葵は店へと走った。

 荒い息のまま店の中に入ると迅江はもう戻ってきていた。飛び込んできた葵に、皆驚いていたようだったがそんなことは微塵も気にならなかった。どうしたんだと問いかけてくる迅江や店の者たちを引っ張って、慶冨の前で林波と弟の状況を話す。皆一様に苦い表情になり、とにかく何匹かで手分けして、林波の家に向かうこととなった。足の遅い慶冨に構わず葵は店の者たちと共に、再び林波の家を目指した。

 家にたどり着くと全員絶句した。店の者たちで弟の軀を林波から引き離したり、嗚咽する林波をなだめたりであたりは一時騒然とした。その様子を見に近くの者などが集まり、貓の波が家を取り囲んでいた。葵は集まってきた者たちに「誰か林波の弟が誰に殺されたのか知らないか!」と声をかけて回った。一部の貓は林波の弟が殺されたことを知っていたが、誰も詳しいことを語りたがらなかった。その態度に腹を立てた葵は、自分より少し年上の貓に向かって「俺たちと同じ、普通の貓が殺されているのだぞ!」と怒気を含んだ言葉を吐き捨てた。葵の剣幕に慄いた貓が小さな声で「言ったら俺たちも殺されるかもしれないだろう」と答えた。

「だから黙っているというのか!臆病者」葵がそう返すと、その貓はぐっと拳を握ると「勇雲様だよ!皇子が林秀りんしゅうを殺したのだ!俺だって友達が殺されて悲しいのだ。黙ってなどいたくはないのだ」そう言って、瞳から涙をこぼした。

 ばつの悪い気持ちになった葵は「そうか、ともだちだったのか。知らなかったとはいえ、すまなかった」と頭を下げた。しかしその貓の言葉を皮切りに周囲にいた者たちが口々に「勇雲様が林秀を」やら「噂には聞いていたが本当だったのか」などと小さな声で話すのが聞こえた。そうして言葉が伝播する様をぼんやりと見つめていると「ひと塊りになるな!家に戻れ」と言いながら荒々しく警備の者たちがやってきた。周囲の者たちはその姿を見て怯えたように、少しずつその場を立ち去って行った。

 家に入ると慶冨が棺桶を手配してやったようで、弟の軀は血を拭われて、横たわっていた。

 改めて見ると林波と同じような黒と白が混ざった被毛の、顔立ちもよく似た弟だった。初めての出会いがこんな形になるとはと、葵は天を仰いだ。林波は敷かれた布団の中で弱々しく嗚咽しながら横たわっている。家中に陰惨な空気が立ち込めていた。

「とりあえず明日、葬式を執り行おう」と慶冨が言った後、家が近いという一匹を残して、一旦店に引き上げようということになった。葵が投げ出したままになっていた空の荷車を引くと、迅江がすっと隣にやってきた。

「また勇雲だ」侮蔑を込めて迅江が言う。同じような声音で葵も「どうせくだらない理由で難癖つけて、殺したに違いない」と答える。

 葵は自分の中に勇雲に対する怒りが鬱積しているのを感じていた。いつも明るく元気な林波があんなにも茫然自失として、弱々しく哭いているというのに、勇雲は誰にも罰せられることもなく、のうのうと己の地位にあぐらをかいて次の被害者を探しているのだ。近しい者にその毒牙が突き立てられたことで、憤りは実感を伴って葵を包んだ。やがて爆発を迎えそうなそれは、今はただただ増殖を続けていた。

 

 

 しばらく姿を見かけなかった葵と迅江が夕暮れの書庫に現れた。いつも元気な二匹がなんとなく沈んで見えた。書庫はもう閉まる時刻が迫っていたので、叡克にもう仕事を上がっても大丈夫かと聞くと快く了承された。頭を下げて挨拶を交わし書庫を出ると二匹は地べたに座って待っていた。

「葵、迅江、久しぶりね。お仕事が忙しかったの?」と央雅が言うと葵は少し暗い顔をして「色々あったのだ」とだけ答えた。

「今日は俺たちのところで少し話せないか」と迅江が言ったので了解の意を込めて一つ頷く。書庫から二匹が下宿している屋敷までは軍の敷地沿いを北上すればすぐだった。いつもはこの道行ですら、おしゃべりを始める二匹が静かにしていることに央雅は不思議に思った。

 屋敷に着くと長兼が丁度出てくるところだったので挨拶をして、中へ入る。

 葵の方の部屋に三匹で入って腰を下ろす。

「央雅、前に俺たちの働いている店に林波っていう奴がいるって話したこと覚えている?」と、突然葵が前置きなしに切り出した。

「うん、覚えている。葵と迅江の上司みたいな立場の方よね」そう答えると、葵はぽつりぽつりと林波の弟が殺された日の話を始めた。身内を失うという話は、いつも明確に央雅の心に刺さる。その度に思い出してしまう記憶は仕舞い込めないほど、央雅にとって現実だったのだ。

 そしてその話に『勇雲』という名が登場した時、央雅はあの光のない漆黒の瞳が頭に浮かんで、また背筋が凍る思いだった。央雅の中で、あの瞳と異常に歪んだ残虐性は一本でつながっているのだ。

 話が終わり、葵がおし黙ると央雅は「林波さんは今、どうしているの?」と聞いた。

「次の日に葬儀を出して、慶冨が十日ほど休みをやってくれたのだ。そして今日が休みのあける日だったのだが、まだ憔悴しきっている」と悔しさと悲壮感をまとった声で葵がいう。

「げっそり痩せちまって。あんな姿、林波じゃないよ」同じように迅江も言う。

 二匹から聞いていた林波の印象は明るく気のいい兄貴分といったものだったので、よほど今の姿に隔たりを感じたのだろう。二匹ともすっかりしょげ返っている。

「ごめんな。あまり気分のいい話じゃないだろうけど、誰かに話したくて。さすがに穎悟に話すわけにもいかないから」そう言って葵は頭を下げた。

「ううん。私もいつも二匹には色々な話を聞いてもらえて感謝しているから。悲しさも共有できるのが友達のいいところでしょう?」央雅はそう答えて少し笑顔を見せる。

「それにしても最近立て続けに勇雲の名が挙がるな」不快を隠さない表情で迅江が言う。

 その言葉を聞くと一歩間違えば自分たちも林波の弟と同じような目に遭っていたかもしれないと思い、央雅は自分の軀を掻き抱いた。

「私たちだって危なかったのね」そう言うと「今や、皇国の誰もが同じ目にあう可能性があるな」と迅江が返す。

「こんな事態になっているというのに、皇帝も軍も動かないからな。次期皇帝という名の危険な猛獣が野放しだ」呆れたように葵がいう。

 結局自分たちにはどうすることもできないという分かりきった結論に辿り着き、暗い雰囲気が拭えぬままその日は解散となった。

 それから三日ばかりたった日、央雅は書庫の仕事を終えて葵と迅江が働く慶冨商店に向かった。話を聞いた林波のことも気になっていたし、二匹にも会いたかったからだ。

 のんびりと商業区を南下していると目の前にたくさんの貓が集まっているのが見えた。商業区はいつも貓で溢れているが、さすがにこんなにも一箇所に集まっているのは珍しい。しかも口々に何かを叫んでいて、えらく騒々しいのだ。近づくと徐々に言葉が聞き取れるようになる。皆口々に「勇雲に裁きを!」「皇宮に直訴するべきだ!」などと言っている。

 驚いた央雅は近くにいた貓に「何があったのですか」と問いかけた。央雅よりも大分年上の雌の貓で、ひどく興奮しているようだった。

「このあたりで商売をしている店の子どもが真昼間の往来で勇雲に斬られたのよ!落した鞠を拾いに、前を横切っただけで『無礼者!』と言って斬ったのよ!」貓は興奮した声でまくし立てる。「勇雲がこんな場所にわざわざ足を運ぶなんて、殺す相手を探しているだけよ!」「当の勇雲は駿でさっさといなくなっちまって、あまりに無体な行いに、みんな集まってきたのだ!」横から知らない年かさの雄が話に割り込んできて、話を補足する。

「あいつの噂で持ちきりだったところに、実際に現場を目にしたやつがたくさんいたもので、皆憤って皇宮の皇帝に直訴しようという声が上がっているのだ!」雄もかなり興奮している。

 周囲の貓たちも同じような興奮状態で今にも暴動が起こりそうになっている。央雅のように騒動が気になって集まってきたものを含めると数はどんどん増えている。暴発しそうな勢いに央雅は少し怯んだ。早く逃げたほうがいいかもしれない、そう思った時後ろの方から何頭もの駿がこちらへ向かってくる音が聞こえた。

 鳶色の威厳を感じる貓を筆頭に二十匹以上の貓が続いている。首に黒い布を認めて央雅は「五軍が来た」と悟った。五軍は主に皇都の警備を担っている。それにしてもそこら中にいる警備隊ではなく、軍から直接やってきたという事実に、事態は思っているより深刻なのだと思った。

 五軍は見る間に集団の側までやってきた。先頭の鳶色の貓が低くよく通る声で、「騒動を起こすな!散れ!」と言った。しかし興奮状態の集団は解散する様子も見せず「うるさい!」「帰れ!」などと口々に暴言を投げかけている。鳶色の貓はしかめ面をして「これ以上無用の騒乱を引き起こすなら、実力行使で解散させるぞ!」と大声を張り上げた。その声音の迫力に気圧されて、何匹かの貓がばらばらと集団から離れていく。軍の者たちが駿に乗ったまま手にした棒を前方に掲げて、一触即発の雰囲気を作り出すと、さらに多くの貓が離れていった。集団はかなり寂しい様相になった。

 央雅は軍の高圧的な対応に少し嫌な気持ちを覚えた。確かに集まって騒いでいるのはよくないことかもしれないが、原因はあの勇雲にあるのだ。彼が民の命をないがしろにするから、皆憤っているのだ。罰するならまず勇雲が罰せられるべきなのだ。

 そんな風に思いながら央雅も集団から離れようとした時、一匹の雌の貓が軍の前に進み出た。

 その貓は涙を流していた。

 一つ息を吸った後、声を張り上げて「なぜ軍は私たちを罰するの!そんなことより私の可愛い娘を殺した、悪辣な勇雲を捕まえて殺してしまえ!」と叫んだ。「あんな者が皇帝になればこの国は滅びるわ!民を殺す皇帝なんてお笑い種よ!早く殺しなさいよ!」と貓は続ける。

 その声に込められた強い憎しみに、先ほどまでざわざわしていた周囲から音が消えた。

「早く行きなさい!娘と同じように無残に殺して!」という声とともに貓は足元の石を拾い鳶色の貓に向かって投げつけた。石はこめかみのあたりに強く当たり、血が滲んだ。

 その様子を見た軍の者たちは、たちまち色めきたち「将軍!」と口々に叫びながら雌の元に躍り出ようとした。

 しかしその将軍と呼ばれた鳶色の貓は「よい」と言って手で部下を静止した。そうすると軍の者たちはぴたりと止まる。

 鳶色の貓は石を投げた雌に目をやり「お前の娘の命を贖うには到底及ばないだろうが、少しは気が晴れたか。足りなければもっとわしに石を投げるといい。五軍の将軍として甘んじて受け入れよう」と言った後「救ってやれなかったのは我々の落ち度だ、本当にすまなかった」と続けた。

 予想外の謝罪の言葉を聞いた雌の貓は、糸が切れたかのように膝から崩れ落ち、そのままうずくまって咽び哭いた。その姿を見てひどく悲しそうな顔をした鳶色の貓は、首を深く、深く垂れたのち、軍の者たちを率いて去って行った。

 一部始終を見ていた央雅は、娘を殺された貓の悲劇、そしてどうしてやることもできなかった将軍、それぞれが抱える苦悩を自分の事のように感じて、胸が苦しくなっていた。あの将軍もきっと勇雲のことを許せないのに、自分がこの問題を解決するすべを持っていないことに、苦しんでいる。

 誰の胸にも暗雲をもたらす、勇雲の存在が央雅にはとても恐ろしかった。

 陰鬱とした気持ちを抱えたまま、央雅は慶冨商店へ向かった。

 二匹は店の前で荷車をそれぞれ磨いていた。央雅の顔を見ると「もう終わるから。ちょっとだけ待っていて」と迅江が声をかけてきた。

 磨く二匹の前にしゃがんで、先ほど行き合った騒動の顛末を語った。二匹は最初こそ荷車を磨いていたがすぐに手を止めてしまった。申し訳ないと思ったが、央雅も話を止めることができなかった。葵と迅江が林波の話をした気持ちがよくわかった。自分の中だけに留めて置けないほど、悲劇は生々しく央雅の胸に迫るのだ。

「いずれもっと規模の大きな暴動が起きるな」話を聞き終わると迅江がまるで預言者のようにきっぱりと言い切った。

「確かに。もう勇雲が民を殺していることは秘密でもなんでもなくなっている。どこかで堤防が決壊するように暴れるやつらが出てくるだろう。その時、軍はどう判断するのだろうな。片端から民を捕らえて回るだろうか」考え込むように葵が言う。

 そんな大きな暴動を想像するだけで、国が二つに別れてしまうような切ない気持ちになった。ずっと皇国にはあまり興味がなかったというのに、そこに住むようになり、大切な者たちが増えるに従って、いつの間にか自分の国になっている、そう央雅は思った。それが壊されないように自分も何かすべきかもしれないと思う。子凛にいた昔の自分だったらこんなこときっと考える事すらなかった、そう思うと自分自身も少しずつ変わりつつあるのだなと央雅は不思議に思った。

 

 

 央雅に小さな暴動の話を聞いてから一月ほど経った。勇雲の噂はもう噂の域を超えていて、事実として貓たちの間で囁かれていた。あれからも何匹かの民が殺され、暴動めいたものは各所で起こっていた。民たちの間には皇宮に楯突くという恐怖が蔓延していたが、最近ではむしろそれを勇雲に対する怒りが超えているのではないかと葵は感じていた。

 小さな子を持つ親たちはしきりに「勇雲を見かけたら、真っ先に逃げろ」ときつく言い含めていると聞いた。葵もその通りだと思った。勇雲は誰かを殺したいのではない。殺せるなら誰でも良いのである。逃げることは命を守る最上の手段ではあるが、それは自分以外の者が標的になるだけなので、皇国としては結局損失になるのである。天秤がずっと傾きっぱなしの歪んだ世界、それが今の皇都だった。

 その日は三軍に仕事で訪れていた。三軍は敷地の東門からすぐの位置にある。葵は商品を引き渡して空の荷車を引いていた。軍の敷地の東側はすぐ皇宮だ。東門からだと目の前になる。南に向かって進んでいると皇宮の南側にたくさんの貓が集まっている。木の棒や石などを持っている集団は興奮していた。

 即座に葵は、また勇雲の行いに対する抗議の暴動だろうと思った。最近では葵も見慣れてしまっていた。いつも五軍がすぐに出張ってきて小競り合いの末、鎮圧されるのがおちだったが、なぜか今日は、なかなか来なかった。

 葵が不思議に思っていると一部の者たちが皇宮の堅牢な柵を揺さぶったり、棒で叩いたりと行いが激化してきた。さすがにこれはまずいと思い、荷車を置いて葵は集団に向かう。

 そして「おい、やめろ!流石に捕まるぞ!」と大きな声で呼びかける。

 目が血走っている大きな貓が「うるせえ!お前はあの残虐な勇雲を庇うのか!」と葵に向かって返すと、あちこちから「そうだ!」やら「裏切り者!」などの罵声が上がる。

 一瞬怯みそうになるが、ぐっと力を込めて「軍が来たら捕まって罰せられるだけだ!冷静になってもっと良い抗議の方法を考えたほうがいい」と言い返す。

 葵の声は群衆には届かず「黙れ!」と誰かが言った時、前方で柵が壊れる音がした。柵が壊れると暴徒と化した貓たちが皇宮内に雪崩れ込む。かつてない事態に葵は焦った。

 本当に片端から捉えられてしまう。この者たちの怒りは正当なのだ。だが発露の方法を間違えばただの犯罪者になってしまう。

 葵は集団に混ざり「やめろ!」と何度も叫ぶが、その誰にも声は届かない。貓たちの波に呑まれて葵も前に押し出される。抵抗むなしく葵は不本意にも皇宮内に流されてしまった。

 中に入ると集団は少し怯んだのか進行が止まった。葵は慌てて先頭まで走り「もうここまでにしておけ!」と大声で言った。

 先頭の貓は嘲笑うように「さっきからお前はなんなのだ!うるさいやつめ!それにお前短尾じゃないか。勇雲と同じ犯罪者か!」と葵に向かって暴言を吐いた。

「短尾だからどうした!」葵は即座にそう言って「短尾でもお前たちと同じ、普通の貓だ!」と力の限り叫んだ。

 すると群衆は、しんとした。

「お前たちの怒りは正当なものだし、心情も理解している。でも間違った伝え方をしてしまったら、俺たちも勇雲と同じ次元に落ちてしまうのだ。暴力に対して暴力で返していたら悲劇がただ連鎖するだけだ。それは何も生まない。俺たちは正々堂々と抗議するべきなのだ!」葵の言葉が静かに伝播する。もう誰も言い返してこなかった。

 先頭にいる貓が「正々堂々と抗議って、そんなことどうやって」と少ししょげたように言った時、後ろにいた貓が「軍が来た!」と叫んだ。

 反射的に葵が後ろを振り向くと駿に跨った、穎悟の姿が見えた。

 

 

 皇宮の南側で暴動が起きている、と嵐昌が報告してきた時、またかと思ってしまった自分を穎悟は戒めた。昨日も皇宮に程近い居住区で勇雲が民を殺害したという話が耳に入ってきていた。きっとそれに怒りを募らせた者たちが徒党を組んで押し寄せたのだろう。

 また五軍の出番かと思いながらも、溜息を吐く。穎悟は何も変わらないとわかりつつも何度も皇帝の元を訪れていた。しかし返事はいつも変わらないままで、最近では会うことすら拒絶されているようだった。玉座の間の入口で門前払いされているのだ。

 事態は明らかに悪化の一途をたどっており、民にも勇雲の悪名は響き渡っている。事は皇宮の威信を揺らがせている。もういよいよ限界なのかもしれないと思っていた。御前将軍として命を賭しても諌める時が来ている。自分の命ごときでは何も変わらないかもしれないが、もう静観している時期ではない。穎悟の心には決意めいたものが徐々に形になりつつあった。

 ばたん、という大きな音がして隆典が足音を立てて執務室に入ってきた。暴動の鎮圧に向かっているとばかり思っていたので、穎悟は目を見開いた。

 隆典は開口一番「もうわしは行かぬ!軍も辞めるからな!」と叫んだ。

 突然どうしたのかとも思ったが、隆典は近頃、何度も暴動の鎮圧に駆り出されている。無残に殺された民に過失などまるで無く、その殺された民を思い、勇雲に対する怒りを募らせる他の民も、実は何も悪くないのだ。

 悪いのは勇雲のみだ。いや、その勇雲を保護する我々軍も皇宮も皇帝も皆、罪を背負っているはずだ。それなのに毎度、民たちを悪者のように蹴散らさねばならぬ五軍の仕事に隆典は嫌気がさしているのだろう。

 いい加減それが器を溢れてしまったというところか。

 ふうと一息ついて「わかった」というと今度は隆典が目を見開いた。

「我々、御前軍が鎮圧にあたる」というと気が抜けたように「そうか」と答える。

「あと辞めるのは、よしてくれ。俺たちは将軍という責任のある地位にいる。この事態を招いたのは、俺たちが手をこまねいて、ただ時を引き延ばしたことが原因でもある。お互い、責任の取り方について話し合う時間を取ってくれ」

 そう言うと隆典は驚いた顔をした後「いよいよ立ち向かってくれる気になったか。わかった」と真摯な表情で答えた。

「近いうちに席を設けてほしい。二軍の観數かんすうにも声をかけておく」続けて言うと、大きく頷いて「任せろ」とだけ言った。

 そしてくるりと背を向けると入ってきた時とは大違いに静かに部屋を出て行った。その背中を見送るなり穎悟は「嵐昌!」と大きな声で名を呼んだ。嵐昌はすぐに執務室までやってきた。顔を見るなり「今から皇宮南側の暴動の鎮圧にあたる。一番隊と二番隊をすぐに集めろ」と声をかける。嵐昌は一つ頷くと、風のように部屋から出て行った。

 普段はあまり持ち歩かぬ剣を手に取ると、首元の赤い布に少しだけ触れる。大股で部屋を出て、御前軍の敷地から出る。そこはもう皇宮の庭である。ずらりと八十匹ほどの駿に跨った御前軍が並んでいた。先頭に嵐昌と二番隊の隊長である加仙かせんが並んでいる。穎悟の被毛のような漆黒の毛並みの駿が引かれてくる。さっとそれに跨ると「進め!」と叫んで、駿を駆った。

 御前軍は皇宮の敷地の一角を基地としているため、暴動が起こっているはずの場所まではすぐだった。南門から出ればよいと思っていたが、皇宮に張り巡らされているはずの柵の一部が破られており暴徒が皇宮に侵入しているのが遠目でも視認された。許可なく皇宮に侵入する事は重罪である。刑としては短尾の罪にあたるほどである。

「将軍、暴徒が侵入しております」同じく気がついた嵐昌が言う。

「ああ、さすがに侵入を許してしまうとなると、何匹か捕らえないとまずいな」と返す。本当は適当に武器を誇示して、怯んだところを解散させようとしていたのだが、どうやらそう簡単にはいかないようだ。

 集団の前まで進むと先頭で背を向けていた貓が、くるりと振り向いた。「葵!」穎悟の口から出たのはそれだけだった。一体葵はこんなところで何をしているのだ。まさか暴徒に混じって侵入したというのか?

 疑問はあったが、今は葵だけに関わっている場合ではない。

「おい、お前たち、ここがどこなのか分かっているのか?恐れ多くも勇貓皇国の皇宮だ。そこにこのように徒党を組んで破壊と侵入を試みたからには、どのような罰も受ける覚悟ができているのだろうな」わざと腹の底から低い声を出して、集団を威嚇する。

「皇宮に妄りに侵入したものは重罪に値する。刑としては短尾に値する。分別をわきまえて首謀者は進み出ろ!」

 穎悟の怒号を受けて誰もが目を伏せて下を向いた。口を聞く者もいない。

「首謀者を隠そうとするのであれば、よろしい。ここにいる全員を捕らえればいいだけだ」

 そう言うと今度は皆、はっとした顔をあげる。一様に冷静になり、ようやく自分たちの行いが重大なことだったのだと気付いたのだろうか。

 とにかく形だけでも首謀者を確保しなくてはならない。さすがに御前軍が動いたことは皇宮にも軍にも伝わっているだろう。何もありませんでしたでは、誤魔化せないだろう。

 そう思い声を上げようとした時「事故だったのだ!」と突然、葵が声をあげた。

 集団も御前軍も、葵に目を向けた。

「貓たちが集まっていたところの柵に、たまたま持っていた棒が当たって、崩れてしまったのだ。集まっていた勢いもあり皆の軀が雪崩のようになって更に柵が壊れたのだ。そしてその勢いでここまで入り込んでしまっただけで、決して故意ではないのだ!」葵が大きな声でそう続ける。

「葵よ、お前自分が何を言っているのか分かっているのか。そんなことが信じられるか」ため息をついて穎悟が答える。

「穎悟、どうして信じてくれないのだ。皆、柵を壊してしまったことは申し訳ないと思っている。だけど悪気があって侵入してしまったわけではないのだ」と葵は一生懸命に言う。

「たとえそうだとしても皇宮のすぐ目の前で徒党を組んで騒ぎ立てているのが、そもそも悪いのだ」穎悟は逃げ道を塞ぐように言う。

「それは、誰も民の声を聞いてくれないからだ!勇雲は街で罪もない者たちを次々と殺しまわっているというのに、一切罰せられることなく、次の被害者を探している。皇都の市井の者たちが抗議の声をあげたって、皇帝も軍も誰も何もしてはくれない。その憤りが原因なのではないか!」葵が声を荒げていう。穎悟は、痛いところを突かれたと思った。

 それは穎悟が思っていることと、同じだからだ。

「穎悟、皆に罪ではなく道を与えてやってくれよ。訴えを聞いてくれる者がいないからこうなってしまっているのだ。皆、もう我慢の限度なのだ」

 知っている、そんなことはわかっている。葵の言葉はなぜか穎悟の胸に刺さる。その痛みから狡く逃れるように話題を強引に変えようと思った。

「葵、それは、今はよい。とにかくこの騒乱の首謀者は名乗り出ろ。名乗り出ないのであれば、本当に全員捕らえるぞ」そう言って少し剣を捧げ持つと、後ろの兵たちも同じように剣をあげる。後方にいる嵐昌と加仙に合図を送る。すると穎悟の左右から後ろにいた者たちが前に進み、集団を取り囲む。明確に感じられる暴力の気配に、震え出す者がいた。威嚇もあるだろうが嵐昌が剣を構えると、他のものもそれに準じる。集団は明らかに怯えていた。葵を除いて。

「穎悟!」周囲の雑音を吹き飛ばすような葵の大声が響き渡る。その声を聞いた時、不覚にも穎悟は軀中に電撃のような震えが走った。なぜか迫力のあるその言葉を聞いた後、軀が固まって動かなかった。

「民を守るための軍が、民に剣を向けるとはどういうことか!それではやっていることが勇雲と同じではないか!暴力で民を支配するなど最も愚かなことだ。愚かにも皆が、短尾の罪に値するというのなら、俺が全て背負う。俺の残りすくない尾をくれてやる!」

 陽が当たって葵の被毛は黄金色にきらきらと光っている。その光から穎悟は目を離すことができなかった。ゆらゆらと立ち上る黄金の光は、葵の姿を殊更神秘的に見せた。

「ここに集まった者たちは、ただ勇雲の非道な行いに我慢できずに集まっただけだ。柵を壊してしまったことに関しては、皆、反省している。だから憐憫の情をかけてやって欲しい。そして、皆が何に憤っているのか、皇帝は、軍は、耳を傾けてやってほしい」

 誰も一言も発しなかった。

「穎悟、勇雲をなんとかしない限り、皆に平穏は訪れない。もうわかっているのだろう」

 葵がそう言った時、穎悟は、ああ俺はいつの間にか、将軍という地位に慣れてしまっていたのだと気づいた。自分だってずっと葵と同じ事を思っていた。勇雲は皇帝の器ではない、あの残虐な気性にだっていち早く気づいていたのに。貓を殺しだした時も皇帝や勇雲を諌めたりはした。でもそれ以上、しなかった。本当は隆昌のいうとおり、強引に幽閉でもすればよかったのかもしれない。次の皇帝が勇雲しかいない事を理由に、徒らに時を引き伸ばし、犠牲者を増やしただけだ。なのに、責任をとるなどと上段に構えた対処で、事にあたろうとしていた。

 もっと自分の事として接しなくてはいけなかったのだ。

 自分の部下や屋敷の者が犠牲者になっていたら?そう考えるべきだった。ただ問題から目を背けていた、自分は臆病者だ。

 穎悟が固まったまま、何の言葉も発しないでいると、おずおずと集団の前方にいた大きな雄の貓が前に進み出た。剣に囲まれている恐怖からか軀が小刻みに震えている。

「俺だ。俺が首謀者だ」その貓は絞り出すようにそう言った。

 穎悟は何も返さなかったが、葵が弾けるようにその貓を見た。

「他の奴らは俺が焚きつけただけだ。こいつに至っては俺たちの暴走を止めるためにここにいるのだ。だから罰するのは俺だけにして欲しい」

 その言葉を聞くと葵が駆け寄って「お前、何を言っているのだ」と声をかける。

「俺はお前を短尾だと嘲ったのに、お前は俺たちをかばってくれた。おまけに軍の将軍に向かって一歩も譲らず、俺たちの言いたい事を言ってくれた。ありがとう」貓が葵に向かって笑顔を見せるのが見えた。

「さあ、さっさと捕まえてくれ」貓がそう言うと、嵐昌が少し困ったように穎悟を見た。

 それを手で制す。

 俺にも己の意思と運命に従う、その時が来たのだ。

 そのためには今、成すべき事を成す。

「下がれ」そう命令すると軍の者たちは包囲を解いて、元の場所に戻った。

 首謀者だという貓に向かって「柵は事故で軍が壊してしまったと報告をしておく。警備の者に見つからぬように、さっさと皆を連れて逃げろ。」そう言った。

 貓はしばらく大きく口を開けて自失していたが、穎悟の言葉を理解すると「ご温情に感謝いたします」と頭を下げた。そして葵に向かっても「本当にありがとう」と頭を下げたのち、皆を促して皇宮から出て行った。

 その後ろ姿を見送った後、穎悟は駿から降りた。葵の元に歩み寄ると「生意気なこと言ったのに、皆を許してくれて本当にありがとう」とはにかんだように言う。

「いや、一から十までお前の言った言葉は真実だった。感謝するのは俺の方だ。やっと覚悟ができた」穎悟が頭を下げる。

 驚いた葵が「どうして穎悟が頭を下げるのだ」と焦るように言った。

「いや、いいのだ。ようやく俺も皇宮と軍、それに勇雲の問題を根本から解決しようと、腹をくくった」そう穎悟が言うと「俺も何か手伝いたい」と葵が言った。

「ああ、お前には特に頼みたいことがある。それはおいおい伝えよう」そう言って穎悟は葵をまじまじと眺めた。

 まだ陽の光を浴びてきらきらと黄金色に輝いている。

 それにしても。

「それにしても俺に向かって一歩も譲らず、堂々と真っ直ぐに、正義を主張していたお前は」穎悟は輝く、金色の瞳を覗き込んでぽつりと言う。

「誰よりも皇帝のような威厳に包まれていた」

 

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