第7話 勇雲、狂気の皇子

 葵は央雅から目が離せなかった。

 自分にそっくりな短尾の雌。

 二匹はまるで表と裏のようだった。

 なんとか言葉を紡ごうと努力するが、うまく口が開かない。

 相手も同じようで、唖然とした顔のまま押し黙っている。

 亜麻色の貓も何も言葉を続けない。

 その時、突然後ろから背をばんと叩かれた。

「葵に、そっくりだ!」と迅江が大きな声をだす。

 こいつは本当に空気を読むということをしないやつだな、と思ったがその言葉が引き金になったのか亜麻色の貓も「本当に似ていますね。僕も驚いちゃいました」と言った。

 会話が生まれると、途端に場の空気が緩んだ。

「葵も雌だったら、こんなに可愛いのかな」そう言って迅江は葵よりも前に出る。

「名前なんていうの」

 短尾の雌は迅江の質問の連続に戸惑っていたようだが、「央雅、です」と答えた。

「この書庫のお手伝いをしてもらっているのです」そう言って亜麻色の貓が補足する。

「俺は迅江。央雅にそっくりなこの貓が葵だ。よろしく」迅江はぐいぐいと話を進める。

「おい、急にたくさん話しかけるな。困っているじゃないか」ようやく葵も言葉を発する。

「央雅は皇都の出身なのか」葵の言葉を気にも止めずに迅江はまたも話しかける。聞きたいことをそのまま投げかける迅江の無神経さはある種、尊敬に値した。

「私は子凛公国にずっと住んでいました。両親を失ったのを機に勇貓皇国に来ました」

「子凛公国って子族が住んでいるっていう?すごいところに住んでいたんだな」

 葵の気持ちを置き去りにしたまま、会話は少し弾んでいた。

 土間で固まって立ち話をしていたので「せっかくなので、奥でお話ししましょう。これも何かの縁です」と亜麻色の貓が言って三匹を促した。

「央雅、お茶をお出ししてください」

「はい」そう言って央雅は奥へ行ってしまう。

 葵と迅江は椅子を勧められ、そこに収まった。

「僕は叡克。この書庫の管理をしているものです」ようやく亜麻色の貓の名前を知ることができた。

「葵はずっと皇都に住んでいるのですか?」

「俺はここからずっと北の方にある潘という小さい村から来ました。皇都にきてまだ一月くらいです」

「へえ、そんなに遠くから」感心したように叡克が言う。

「遠く離れて住んでいたそっくりの貓二匹が皇都で出会うなんて、こんな偶然あるんだな」なぜか楽しそうに迅江が言った。

「央雅も二月ほど前に皇都に来たと言っていたので、お互い皇都に来たのは最近ですね」

 叡克がそう返すと、央雅が奥から茶器の乗った盆を手にして、部屋に入って来た。

 皆に茶を入れてまわり、自分も椅子に腰掛ける。

 丁度対面に座った央雅を葵は、じっと見つめる。

「俺が言うのもなんだけど、本当に俺と君ってよく似ているね」

 央雅は照れたような顔で「不思議なこともあるものですね」と言う。

 嫌がられるかもしれないが、葵は気になっていることを聞いてみようと思った。

「初対面の央雅にこんなこと聞くのは申し訳ないのだけど、どうして短尾になったの?」

 無神経なことを口にしているという後ろめたさから、少し視線を外してしまう。

 央雅は葵の言葉に動揺することもなく「幼少の頃、怪我をしてしまい、尾を切ることになったのです。小さすぎて全然記憶にはないのだけど」と返す。

「事故か、かわいそうに」となぜか迅江が返事する。

「葵、あなたはどうして?」やはり央雅も申し訳なさそうに聞いてくる。

「俺は親の連座だって聞いている。父親が犯罪者らしい」葵も素直に事実を伝える。央雅はそれを聞いてもきっと葵を侮蔑したりなんかしないという確信めいたものがあった。

 央雅は悲しそうな視線を葵に向けた。

「親の罪は子の罪じゃないのに」ぽつりと央雅は呟いた。

 優しいその言葉は、葵の心を暖かくした。

「もしかしたら俺と央雅は遠い親戚なのかもしれないね」そう葵が言うと央雅は「本当に。ご先祖様がどこかで繋がっているのかも」と笑った。

 話してみると央雅はまるで初めて話す相手とは思えなかった。

「ねえ、こんな奇跡みたいに、そっくりな相手に出会ったのだ。俺たち友達になろうよ」

 不思議な出会いと何か奇跡めいた縁を感じる央雅とつながりを持ちたくなった。

「葵、可愛いからってお前抜け駆けするなよ」迅江が葵の肩を叩く。

「馬鹿、違う、そういう訳じゃない。同じ年頃だし、お互い皇都に来たばかりで知り合いも少ないから、純粋に友達になれたらいいなと思っただけだ」そう慌てて否定する。

 笑って迅江が「わかった、わかった」という。

「確かに央雅にも年の近い友達は必要かもしれないですね。交友関係の広がりは生活をきっと豊かにしてくれます。どうです、央雅」叡克が助け舟を出してくれた。

「そうですね、ぜひ」と言って央雅は花のような笑みを浮かべた。

「よし、じゃあ今日から俺たち三匹は友達だ」なぜか仕切り始めた迅江がおかしかったが、葵も嬉しくなった。

「よろしく」というと「こちらこそ」と返って来た。

 その後も雑談が続いたが、央雅は意外にも葵たちの近くに住んでいることが知れた。

「軍特区の嵐昌さんのお家で今はお世話になっているの」

「嵐昌?どこかで名前を聞いたことがあるような気がするな」葵は記憶のページをめくる。

「御前軍で勤めているわ」

「穎悟が言っていた、一番隊の隊長か」葵と迅江は顔を見合わせる。

 穎悟が屋敷で何度か口にした名前が嵐昌だった。剣の腕がたって、優秀だと褒めていたので、名前が耳に残っていた。

「穎悟?穎悟将軍のこと?」嵐昌も家で穎悟のことを話しているのか、央雅も知っているようだ。

「そう、俺と迅江は今、穎悟の屋敷に下宿させてもらっている」

「まあ、なんだか私たち環境も似ているわね」

「本当だな。それにしても俺たち軍特区内をうろうろしているのに、よく今まで出会わなかったものだ」

 仕事には毎日行っていたし、葵は迅江と共に屋敷の近くを探検と称して歩き回っていた。

「私は仕事以外、あまり外を出歩かないからきっと出会わなかったのね」と央雅は少し寂しげな笑みを浮かべた。

「央雅は外にあまり行かないのか?」迅江が首をかしげる。

「嵐昌さんが央雅は短尾だから、自分が一緒じゃない時に外へ出ると、嫌な思いをすることになるから、無用な外出は控えた方がいいって」

 葵は心がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。

 短尾であることで嫌な思いをするのは、葵も同じだ。

 他者から浴びせられる剥き出しの悪意と侮蔑には、いつまでたっても慣れることはない。

 言葉の暴力だけでなく、軀の小さな雌の央雅だと、身の危険を感じるようなこともあるのかもしれない。

「そうか」そう言って葵が肩を落とすと、同じように「そうなの」と言って央雅も肩を落とした。

 暗くなりそうな空気の中、迅江がぐっと上体を前に出した。

「そんなの俺たちと一緒に行けばいいじゃないか。央雅の行きたい場所に、俺と葵が付き合ってやるよ。嫌なこと言う奴は俺たちが追い払ってやる」

 そう言って迅江は胸をそらしてどんと叩いた。

「俺も葵も荷運びの仕事で軀が鍛えられている。央雅一匹くらい平気で守れるぞ」

 迅江が大げさに破顔する。

「確かにそうだな。俺と迅江が一緒にいれば、大丈夫だ。どこか行きたいところがあれば言ってくれよ、お供する」

 葵がそう同意すると、驚いたような顔をしていた央雅は少し泣きそうな表情を浮かべた。

 央雅はぐっとこらえて、無理に笑顔を作ると「嬉しい、ありがとう」と二匹に返した。

 頑張って笑顔を見せる央雅の姿を見て「いい友達ができましたね。行きたがっていた大図書館にも、一緒に行ってもらったらいいじゃないですか」と叡克が優しく声をかける。

「はい」と元気な返事を返す央雅を見て、葵は嬉しくなった。

 新しい友のために、自分にもできることがあるのだ。

 助けられるばかりでなく、助けること。

 それが少し、誇らしかった。

 

 

 大図書館へようやく行くことになったのは、その日から二十日ほど過ぎた日だった。

 友達になった葵と迅江、そして央雅自身の休みがやっと合う日がきたのだ。

 書庫で出会った日から三匹は暇を見つけては集まり色々な話をした。葵の村での話、迅江が元掏摸だった話、二匹の一月に渡る旅の話に今の仕事の話。

 互いを知らなかった頃の話を聞くにはたくさんの時間が必要だったのだ。央雅もたくさん自分のことを話した。こんなにも自分のことを相手に伝えるのは初めてだった。

 子凛公国での平和な暮らし、それを破った悲劇の夜のこと、それを振り切り勇貓皇国を目指した旅で央雅をさらに悲しみの淵に突き落とした、悲しい別れ。

 それらを話すことは、自分の半生を追う旅でもあった。一つ一つ確認していくと、自分についた傷をぎゅっと抱きしめたい気持ちになった。たとえ疼き続けても、央雅が抱えて進むと決意した、自分の一部だった。

 葵と迅江は央雅の話に耳を傾けると時に怒り、時に涙し、どんなことも一緒に共感してくれた。その姿を見ていると二匹と友達になれたことに自然と感謝の念が沸き起こった。

 自分だけで進むのが辛い道も一緒に手を携えて進んでくれる者がいれば、笑って進める。

 心からそう思えた。

「央雅、明日の朝、家まで迎えに行くから」ひょっこりと書庫の入口に顔を出した迅江がそう声をかけてくる。入口まで行って「わかった、待っているね」と答える。

「あれ?今日は、葵はいないの?」

「葵は御前軍の方に仕事で行っている。俺は今日医療部の担当で近くまできたから顔を出したんだ」

「そうなのね、ありがとう」礼を言うと迅江は照れたように鼻をかく。

「そろそろ俺戻らないと。じゃあ明日」

 そう言って迅江が手を振る。央雅も振り返して「また明日」と笑った。

 話を聞いていたのか叡克が後ろから「明日が大図書館へ行く日なのですね」と声をかけてきた。

「そうなのです。今からもう楽しみで」そう言いながら振り返ると叡克は笑顔を見せていた。

「目一杯楽しんできなさい、あの二匹が一緒だと安心だ」

「はい、しっかり堪能してきます」

「それがいい。それにしても央雅」叡克がひょいと央雅の頭を撫で「葵と迅江と出会ってからは、いつも楽しそうだね」と続けた。

「そうですね。なんでも話せる友達がいるってすごく嬉しくて」

「辛い思いをしてきたせいか、央雅は少し物静かなところがあるなと思っていたのだ。それが最近はすっかりおしゃべりになって、ずっと彼らの話ばかりしているよ」

「すみません、うるさかったですか?」肩をすくめると「全然。むしろ僕まで楽しくなってきちゃうよ」と笑って返された。

「嵐昌も央雅に友達ができてから、年頃の娘らしい明るさを見せるようになって嬉しいって言っていたよ。狭い我が家にしょっちゅう雄が二匹押しかけてきて、家が窮屈で仕様がないないから、いい加減引っ越すことにするとも言っていたけどね」叡克が声を立てて笑う。

 央雅は鼻を赤くして「知らない間に迷惑をかけていたのですね」と照れたようにいう。

「そんなの全然気にしなくていいよ。嵐昌が引っ越しをようやく決めたから、丁林は大喜びだ。何か央雅に贈り物でもしようか、なんて言っていたよ。」

 自分がはしゃいでいる間に引っ越しまで決まってしまって、央雅ますます鼻を赤くした。

「さあさあ、もうお客さんも来ないだろうから、明日に備えて今日は早く帰るがいいよ」

 そう言って叡克は央雅の背を両の手で軽く押す。

 叡克の気遣いに礼を一つして、央雅は書庫を後にした。

 次の日、空は真っ青に澄み渡る快晴だった。冴え渡る秋風が、頬に心地よかった。

 家まで迎えにきてくれた葵と迅江と一緒に大図書館を目指す。央雅の住んでいる軍特区から大図書館まではおおよそ三刻ほどかかる計算だった。なので、三匹は早い時間に家を出る予定を組んでいた。

「俺、図書館なんて行くのは初めてだ」迅江が少し前に出て、振り返りざまに言う。

「俺なんて図書館の存在は知っていたけれど見るのも初めてだ」葵も言う。

「央雅は?」と話を振られて「子凛公国の図書館は何度か行ったけれど、美灰は商都の側面が大きかったから、すごく小さな図書館しかなかったの」そう央雅は返した。

「おお、じゃあ央雅だけが図書館経験者だな」と迅江が笑う。

「経験者というほど詳しくはないけれど、とにかく膨大な量の書物が収められているって叡克さんが言っていたわ」

「膨大な量か。なんだか想像がつかないな」

 葵は、首をあげて空を見ている。まるでそこに空想の図書館を描くようだった。

「央雅は何か借りたい本があるのか」葵が問いかけてきた。

「楽しい物語は借りたいと思っているけど、それ以外にもわかりやすく法のことが書かれている本があれば借りたいなと思う」と返すと葵と迅江が同時に「法!」と大声をあげた。

「央雅、法に興味があるのか。賢いなあ」となぜか迅江は頷いた。

「まさか法の本が読みたいなんて、驚いたよ」葵は目を丸くして央雅の顔を見つめている。

 二匹の大げさな反応に「違うよ、そんな純粋な興味じゃなくて」と言いながら手を振って央雅は否定する。

「その、法が学びたいとかそういうことじゃなくて、前に子凛の屋敷に賊が侵入した話をしたでしょう」

 二匹は頷いて同意を表す。

「その賊を雇ったのが碩壮という男で、罪を逃れるために子凛からこの皇国に来ている可能性が高いの」

「子凛から皇国に?どうして?」葵が問う。

「子凛公国で犯した罪は子凛公国の法で裁かれる。でも犯罪者が皇国まで逃げてしまったら、そこに子凛の法は及ばないという国同士の取り決めがあると言われたの。だから碩壮が逃げたとしたら、皇国を選ぶ公算が大きいと思うの」

「へえ、そんな決まりがあるのか。知らなかった」

「俺も全然知らなかった」

 二匹はそう答える。

「でもこの勇貓皇国にだって法はあるわ。だから皇国の法で碩壮を裁けないかと思って、手始めに法の本を読んでみようと思ったの。まあ、碩壮がどこにいるのかもわかっていないけれど、とりあえず調べてみようって」そう央雅が言うと「いや、そこまで考えているっていうだけで十分偉いよ、央雅」と迅江は言って頭をぽりぽりと掻いた。

「確かにそれは調べておきたいよな。よし俺たちも本を探すのを手伝うよ」葵はそう言って笑顔を向けた後「その碩壮ってやつの居場所もいずれ探さないと」と言った。

「ありがとう」素直にそう言って笑う。いつか碩壮を探すことになった時は、きっと二匹の力が必要になる。央雅はそんな予感がしていた。

 その後は昼餉に何を食べたいか、とかいった他愛のない話をしていたらあっという間に時間は過ぎて、大図書館へとたどり着いた。

 三匹は大図書館の広さに圧倒されていた。

「ここの敷地、皇宮と同じくらいあるんじゃないか」迅江がそう呟く。皇宮中には入ったことはないが確かに外からみると同じくらいの広さに思えた。その広い敷地のそこかしこに大きな図書館が立っている。ざっと十棟はありそうだ。そしてその一つ一つが、とにかく大きな建物だった。どこに目的の本があるかなんて、わからないのではないかと思った。

「ここに地図があるぞ」央雅より前を行っていた葵が声をあげる。

 三匹が地図の前に集うと「まず央雅の法の本を見に行ってみないか」と葵が言った。

 図書館の建物にはそれぞれ番号が振られていて、それぞれ置いてある本の分野が書かれていた。央雅は地図を端から見ていくと『四棟 行政、司法、刑罰』という箇所で目を留めた。

「ここじゃないかしら」と指をさすと迅江が「やたら堅苦しい文字が並んでいるな」と困ったような顔をして返す。

「まあまあ、とりあえず行ってみよう」葵がそう言って二匹を促す。

 四棟は地図のすぐそばだった。古い大きな扉が開いていて、門番が二匹立っている。軽く会釈をして門をくぐると目の前に広がっているのは静かな本の海だった。

 何十、何百という書架が規則正しく並んでいて、どこも本がびっしりと詰まっている。試しに手近な本に手を伸ばしてみると、文字が規則正しく印刷されている。いつも書庫で見かける本は基本筆で書かれた一点ものだった。しかしここに収められている本は版を使って印刷された本が多いようだった。

 小さな声で「央雅、あそこに『司法』って書かれた看板がぶら下がっている」と迅江が言う。事前に大声を出さないようにと諭しておいたのだ。

 導かれて視線を動かすと確かに『司法』と書かれた大きな看板が天井から吊られている。

 三匹は物音を立てないように静かにその看板に近づく。

 その下には法律に関する書架がずらりと並んでいるが、まるで砂の中から針を探せと言われているような気持ちになった。どれを選べばいいのかさっぱりとわからないのだ。

 央雅たちは手分けして、基礎的なことがなるべくわかりやすく、大きな文字で書かれたものを目的として探した。央雅は端から本を一冊ずつ開いて、目を通して、元の場所に戻すことに没頭した。一刻ほど三匹はたくさんの本に目を通し、それぞれ珠玉の一冊を持ち寄った。葵と迅江の探してくれたものは絵が入っていたり、図が挿入されていたりとわかりやすそうだった。

 小さな声で「ありがとう」と声をかけて、央雅は三冊の本を借りるために貸し出しの管理をしている者のいる場所へ向かった。

 本を借り終えると先に四棟を出て、待っていてくれた二匹の元に向かう。

 開口一番「本当に葵と迅江がいてくれて助かったわ。ありがとう」と礼を述べた。

「大量の本があって、どれから読めばいいのか見当もつかなかったわ」

 そう言うと迅江が「皇国にはこんなに本があるんだなって、俺ちょっと目眩がしたよ」と言って笑った。

「もう少しわかりやすく分けてあると助かるのだけどな」と葵も呟く。

 そんな二匹を見て央雅は「とりあえず一旦、昼餉にしない?さっきのお礼にご馳走するわ」と笑った。

「央雅無理しなくていいんだぞ」と迅江が言うが「この間、書庫のお仕事で初めてのお給金をもらったの。せっかくだからそれで友達に何かしてあげたくって。だから心配しないで」と返す。

 葵と迅江は顔を見合わせていたが「じゃあ、ありがたくご馳走になるよ」と笑った。

 敷地内には図書館以外に飲食のできる店があることは、最初の地図で確認してあった。

 午後からはそれぞれが興味のある本を探す時間にしようと三匹は決めて、食堂へ向かう。四棟から食堂は割と距離があるようだった。十棟の裏手にあると記してあった。さっきまで図書館の中で静かにしていたので、道のりはおしゃべりに花が咲いた。十棟が見え、食堂はもうすぐだと思ったとき、十棟の前に何かがあるのが目に入った。視線を向けて見ると駿が二頭並んでおり、それに豪奢な細工の施された真っ白な車が繋がれていた。質に雲泥の差があるが、子族の商団が連れていた羅駝が荷車を引くものによく似ていた。そしてその周りには兵や何匹かの雌たちが取り囲むように集まっている。がやがやと話す声が聞こえてくる。

 三匹の目はその駿と白い車に釘付けになっていた。駿は今まで見かけたものの中で一番立派な軀と毛並みをしていたし、真っ白な車にはところどころ金の細工が施されていて、太陽の光が反射して夢のような光景だった。

 央雅は一言「きれい」と呟いた。

 兵士の一匹が車の中ほどまで行くとその他の兵士や雌たちはきれいに左右に分かれた。

 車の前の兵士が車の側面を引くと、どうやら扉になっていたらしく開いた。

 左右の者が一斉に叩頭する。

 そうすると車の中から白い貓が降りてきた。

 長く艶のある白い被毛が太陽を受けて光っているようだった。

 葵や迅江よりも細く小さな雄の貓だった。首元にきらきらと光る宝輪をつけていて、一見して身分の高い者に見えた。

 悠然と降りてきた貓はなぜか不機嫌そうな顔をしてあたりを見回し、央雅たちの方をみた。

 目が、合った。

 深淵を思わせるような漆黒な瞳は全く輝きを帯びずに深く沈んでいる。

 その瞳に見つめられるとなぜか背筋に冷たいものが走るようだった。央雅は本能的に怯えている自分を感じた。

 憎しみがにじむような視線から目を逸らそうとした時、突然貓が、吠えた。

「あのような下賎な者たちが、私を不躾に見ているとは何事か!」そう言って三匹に向かって指をさした。その大きな声に央雅の軀がびくりと反応する。

「引っ捕らえて殺してしまえ!」またも叫ぶ。

 そばにいた兵士が「しかし勇雲様、ここは大図書館で民も出入りいたします。あれらはたまたま行き合っただけの無辜のものです」と宥めると「私に意見するのか!」と言ってその兵士の腹を全力で蹴飛ばした。

 蹴られた兵士は軀を折って呻いた。その姿に目をくれることもなく、また央雅たちを指差し「さっさとあいつらを捕らえろ!」と言った。

 蹴られた兵士以外が少し嫌そうな顔をしながら、こちらに近づいてくる。

「ど」どうしよう、そう言おうと思った時、迅江が央雅の手を握り、引きずるようにして全力で走り出した。

 頭の中が大混乱していたが「央雅しっかりと走れ」と言う葵の声が聞こえてきて、少し現実に引き戻された。

「あんな者に捕まってたまるか」と言う迅江の声も前から聞こえる。とりあえず今は足を前に出すことに集中しよう、央雅はそう決めた。

 十棟から入口にある一棟まで、三匹は全力で駆け抜け、大図書館の敷地を出る。央雅は随分息が上がっていたが「大丈夫か」と問う迅江に「まだ平気」と答えた。

 大図書館の西側には市場のようになっている場所がある。迅江はそこを目指しているようだった。市に貓が集まっている所が見えるとためらいなく全力で突っ込んだ。

 行き交う貓に軀のあちこちがぶつかるのもお構いなしに進む。丁度市の半ば辺りまできた時、急に右手の路地を曲がる。そこまで来てようやく迅江は足を止めた。

 はあはあと荒い息を整えていると葵も飛び込んできた。迅江が少しだけ顔を出して、自分たちが走ってきた道を確認する。

「大丈夫みたいだ。上手くまけた」息の荒い迅江が絞り出すように言うと「ああ、追ってくる者もあまり本気ではなかったようだ」と葵が言った。央雅も何か言葉を口にしたかったが、息が乱れて上手く話せない。

 しばらく三匹は暗い路地で息を荒げていたが、次第にそれもおさまった。

「息が上がって、胸が張りさけるかと思った」央雅がようやく絞り出すと「無理させて悪かったな」と申し訳なさそうな迅江が言う。

「ううん、迅江にひっぱってもらわなきゃ、私きっと捕まっていた」首を振って答える。

「何にせよ三匹とも無事で逃げられてよかった」葵は心底ほっとしたように言った。

「それにしても」そう言った葵の顔はひどく不快なものを見せられたような表情だった。

「迅江、あれが勇雲なのか」

「俺も見るのは初めてだが、兵士が呼んでいたからそうなんだろうな」そう言う迅江の顔も負けず劣らず不快さを表している。

 どうやら二匹はあの恐ろしく沈んだ黒い瞳を持つ貓のことを知っているようだ。央雅だけついていけない。

「葵も迅江もあの貓のことを知っているの」そう問いかけると「あれが次の皇帝なんだとさ」と迅江が吐き捨てる。

「皇子ってこと?」最近皇国にやってきた央雅は、皇都の内情には疎い。勇疾星皇帝の名前くらいは知っていたが、皇子の名前までは知らなかった。

「あいつが皇帝の一粒種で、このまま行けば皇帝になるそうだ」葵はそう言った。

「前に皇都までの旅の途中に祝葉という貓を助けた話をしただろう。祝葉への無残な襲撃を命じた皇子があいつだよ」葵の言葉を聞いて、思い出した。皇宮の下女が御前で転んだだけで、死んでもおかしくないような残虐な扱いをしたと確かに聞いていた。

 そしてその残虐な刃はつい先ほどまで自分たちに向けられていたのだ。央雅は首元がひやりとするのを感じて、胸の上の小さな翡翠の輝きを握りしめた。

「それにしても見ていただけで殺せって、もう異常じゃないか。狂っている」迅江がそう言うと「そんな理由で殺されるなんて納得できるわけがないよ。いくら皇子だからって無道にも程がある」そう言って葵が声を荒げる。

「あの皇子が皇帝になったら、皇国はどうなってしまうの」ぽつりと央雅は呟く。

「そうなったら最悪だ。少しでもあいつの不興をかっただけで殺されるんじゃないか」珍しく暗い顔をして迅江が言う。

「俺たちにあいつの凶行を止められるような力があればいいのに」葵が悔しさの滲んだ声を出す。

「せめてもっとまともな皇子が他にいれば少しは救われるのにね」と央雅が言うと三匹は一様に暗い顔になった。

 暗い空気を払拭するかのように「央雅、本は大丈夫か」と葵が言う。央雅は背中の袋を見せて「ここにいれておいたから大丈夫」と答える。

「今から大図書館に戻るのは流石に危険だから、この辺で飯でも食って軍特区に戻るか」と言って、迅江が立ち上がる。

 葵と央雅もつられるように立ち上がり、三匹は路地裏を出て昼餉の店を探すために大通りを進んだ。

 楽しみにしていた休日は、残念な幕切れとなった。

 

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