第6話 穎悟、苦悩す
皇都の近くでまた無残に殺された貓が見つかったと聞いて、穎悟は頭を抱えた。警備を担う五軍を統べる将軍、
ここは穎悟の執務室である。
軍の無骨な部屋で、真ん中に置かれた机を挟んだ穎悟と隆典は長い間、無言のままだった。
その状態に焦れた隆典が先に口を開く。
「以前は皇宮の下男や下女が被害にあっていたが、今回は街の者だ。状況はもう皇宮や軍で隠蔽できる範囲を超えてきている!」
「それはわかっている。俺の方でも何度か皇帝陛下に具申したが、答えはいつも、軍内部で何とかせよと事だ」
「いい加減にしろ!穎悟」隆典は机を勢いよく叩き、立ち上がった。
齢五十を超えているとは思えないほど、光を宿した力のある瞳をしている。
穎悟は少し感心しながら目の前の、白いものが混じった鳶色の軀を見上げる。
「殺された者の数はもう二十をゆうに超えている。皇宮内のものであれば秘匿することもできたが、街の者に手を出すようになったら、もうわしらの手に負えないぞ」
穎悟は何も言わなかった。いや、言えなかったのだ。
隆典の言う言葉は、何から何までその通りなのだ。
「五軍の内部でも、もうわしの手では隠しきれないほどに公然の秘密になってしまっている。皇都に貓がどれだけの数、住んでいると思っているのだ。街で噂が広がるのは時間の問題だぞ。皇子が民を虐殺している事実が大勢に知られてみろ。暴動の可能性すら出てくる」
「わかっているが止めるすべがない。皇帝陛下はこの件に関して一切妥協してくださらない。俺にはどうすることもできない」
どん、と今度は握り拳で隆典が机を打つ。
「御前将軍の権限で、あの痴れ者をどこかに幽閉でもしろ!」
誰も近寄らないようにと周りには言い含めていたが、この言葉を聞かれでもしたら一大事だ。
なんと言ってもここは皇宮内にある御前軍なのだ。
「隆典、わかっている。もう少し静かにしてくれ、誰かに聞かれたら大逆罪だ」
舌打ちをして隆典は「このまま行けば、いずれそうなる」と言う。
とにかく座れと言うと、渋々腰を下ろした。
少し冷静になったのか隆典は声の調子を落として言った。
「お互い腹を割って話そう。お前この先どうするつもりなのだ」
「どうしていいのかわからないから、こうして途方に暮れている」
「天下の御前将軍穎悟も皇帝の馬鹿息子には形無しだな。それにしてもあの公明正大な勇疾星皇帝が、この問題に対してだけ、どうしてこんなにも愚かな対応し続けられるのだ。それほどあの不気味な息子が可愛いのか」
「皇帝陛下は今まで皇国の様々な問題に正しく対処されてきた。身内のこととはいえ、なぜこのように正道を逸した行いをされるのか俺にもまるでわからんのだ」
隆典はひどく嫌なものを見るかのように「なんだそれは」と吐き捨てた。
「勇雲の冷酷な残虐性が表に出てきたのはここ一年ほどだ。それまでは何一つ欠けることのない賛美に相応しい皇帝だった」
「だが、今はそうではない。少なくともわしにとっては」
その言葉に穎悟は危うく同意しそうになり、口をきつく閉ざした。
穎悟は皇帝に再三、勇雲の行いを窘めて、やめるよう命じて欲しいと頼んだ。
心を込めて、真摯に何度も請願した。
しかし皇帝は穎悟の言葉に耳を貸さず、ただただ、うまく対処しろとしか言わなかった。
穎悟が失意を繰り返しているうちに、死体の数は増える一方だった。
危機感を募らせ、じっとしていられなかった穎悟は一度勇雲と直接対峙したことがあった。
皇宮内で珍しく単身の勇雲を見つけ、静かに近寄り膝をつき、話しかけた。
「勇雲様、御前将軍として直接ご意見することをお許しください。皇宮内の下男下女をみだりに殺したり、痛めつけたりするのはもうやめてください。あれらの者たちも生きていて、死ねば悲しむ家族もいます。事が大きくなりすぎると御身にとっても、余り良いことにならぬと存じます」深く頭を垂れて、穎悟が言った。
勇雲は蔑みのこもった、ねっとりとした視線を穎悟に向けた。
「御前将軍の立場で、よくぞ次の皇帝である私に意見など申したものよ。己を見誤ったか。あやつらの命はすべからく皇国のもの。すなわち私の所有物と同義だ。ならばそれをどう扱おうと私の勝手というものだ。無残に殺して打ち捨てたとして、誰が責められる」
あまりにも冷酷非道で独善的な言葉に、穎悟は背筋がぞっとした。
「皇帝である父も、何も言わぬのであろう。それが全てではないか。私の行いに問題など何もないのだ」
穎悟は言葉に詰まった。返す言葉がなかった。
「お前は父の指示通り、それが表沙汰にならぬように腐心するのが仕事ではないか。それができぬほどの無能であるのなら、私が皇帝になったあかつきにはお前のその地位を剥奪して、皇宮の下男にでもしてやろう」
そう言って勇雲はせせら笑った。
白く、長い被毛が揺れた。
勇雲は狂っている、そう穎悟は確信した。
まだ子どもと言っても良い年齢でありながら、すでに異常な性質が軀を蝕んでいる。
この勇雲が皇帝となる未来は、醜く、いびつに歪んだものになる。
穎悟にはそうとしか思えなかった。
「その日が来たら、私自らの手でお前の首を刎ねてやるわ」そう言うと暗く沈んだ黒い瞳を穎悟に向け、くるりと背を向けた。
背中が見えなくなると穎悟は握った手が震えていることに気がついた。
穎悟ほどの屈強な雄を本能的に怯えさせる、異常で歪んだ、残虐な性質を持つ貓。
穎悟は膝をついたまま悄然とした。
その者がいずれこの皇国を治める皇帝となるという事実に穎悟は恐れおののいた。
今、再びあの時のことを思い出すと、軀がまた、ぶるりと震えた。
「勇雲様の冷酷で残虐な性質を今から変えることができるとは、俺は思わない。あれは天性のものだ。我々の手でどうこうできるものではない」
ぽつりと穎悟が呟く。
「では、隔離するか弑逆するより他はあるまい」
大逆罪ものの発言をさらりと隆典が言う。
わかっている。
正直、穎悟とて何度か考えたことがある。
今にもっと勇雲の残虐な欲望が増し、大変なことになるだろうという予感は既にあったのだ。そして予感は徐々に現実となりつつある。
「しかし」穎悟は努めて冷静に言葉を吐く。
「しかし、皇帝陛下にはお子が勇雲様しかおらぬ。この先、生まれるという確証もない」
隆典がぐっと息を飲むのがわかった。
そんなことは、隆典にもわかっているのだ。
「それに我々が先走って勇雲様を幽閉などしようものなら、すぐさま皇帝陛下に我々を捕らえよというだろう。そして、勇雲様は解放され、我々は殺され、それで終いだ。結局未来は何も変わらない」
隆典ががっくりと肩を落とすのが見えた。
「それに軍とて一枚岩ではない。皇帝陛下の判断には逆らわぬと言う者もいるだろう。私や貴殿が決起したとて、皇帝陛下の麾下で嬉々として我々に刃を向けるだろう」
「それではどうすることも、できないではないか」
悔しさをにじませて隆典は言う。
「そうだ、我々は堂々巡りの話をしているだけだ」
「ただ傾いていくのを見ているだけか」そう言うと隆典は目を閉じた。
「今はそれしかできない。我々は皇帝不在でも皇国が存続するような手段も持っていない上に、担ぐべき旗もない。行動を起こすだけの大義名分がないのだ」
「残虐な次期皇帝を成敗することは、それに当たらんか?」
「まだ駄目だ、弱い。それに賛同するものを集めて決起し、成功したとして、その後どうするのだ。今のところ一番身分の高い俺が次の皇帝になるか?それはただの簒奪だ。誰がそんな事で納得するというのだ」
今度こそ隆典は沈黙してしまった。
皇国や民のことを大切に考えている隆典の気持ちもわかる。
それは穎悟も同じなのだ。
だがこの状況を切り裂く、一手がないのだ。
穎悟は黙して、ふと考えた。
脳裏に一匹の貓の姿が浮かんだ。
『あの方なら、一体どうしただろうか』
聞きたかったけれど、聞けなかった言葉が、頭を回った。
央雅が書庫の仕事についてから、もう二十日は過ぎていた。
仕事はさほど難しいものではなかったので、すっかりと慣れた。
上司である叡克は物腰の柔らかいおっとりとした気質で愛想もよく、一緒に職場で過ごす時間は楽しかった。
書庫の仕事は基本的に資料の貸し出し返却の管理と、新たな資料が持ち込まれた際の目録の更新などが主である。叡克が元々丁寧に資料を管理していたので、目的の資料がどこにあるのか分からないといったようなこともなく、央雅はすぐに仕事の流れを覚えた。
資料は皇宮内部の事柄や、軍内部の情報が記載してあり、重要度によって閲覧できる役職が決まっている。なのに、叡克はそんなことをお構いなしに、央雅に資料などをよく見せてくれた。見ても内容が理解できないものが多かったが、皇国の歴史を記した書物などは読んでいて面白かった。
書庫ではいつものんびりとした時間が流れている。資料が必要な者の訪れは、さほど頻繁ではなかったからだ。
空いた時間は書架の整理や雑務、叡克とのおしゃべりにあてられていた。
「央雅は子凛にいた頃、書物を結構読んでいたのかい」
そう叡克が話しかけてきたので、央雅は顎に指をあてて逡巡する。
「子凛にはあまり皇国の書物が入ってこなかったので、皇国のものは塾の教科書くらいしか読んだことなかったですね。普段は子凛で書かれたものばかり読んでいましたよ」
「子凛の本か、それは興味あるな。僕は一度も読んだことがない」叡克は目を輝かせて問いかけてくる。
「美灰の街の書店にたくさん並んでいましたよ。子凛は娯楽がかなり充実していたので、本の種類はたくさんありましたね。私も小説なんかも読んでいましたが、登場する者がみな子族だったので、自分に置き換えて読むのは少し難しかったです」
そう言うと叡克は「それは確かにそうだな」と嬉しそう笑った。
「そういえば皇都の大図書館には行ってみたのかい」
「まだ一度も行けてないのです。旅の途中で子族の者に大層立派な図書館があると聞いて、ずっと興味はあるのですが」砂漠の旅を共にした子族のことが脳裏に浮かんだ。
「是非行ってみるといい。東門の近くにある大きな建物だ。央雅の住んでいる軍特区からはかなり遠いけれど一見の価値はあるよ。膨大の量の書物がある」
膨大な量の書物、央雅には想像がつかなかった。
「この書庫よりも、たくさんあるのですか」
「ここなんかの何百、いや何千倍はあるさ。貓が主役の本がたくさんあるよ」
「私みたいな貓の出てくるお話があったら読みたいです」
「央雅みたいな可愛い貓の恋のお話や冒険譚がきっと見つかるよ」
叡克の話を聞いていたら、なんだかわくわくしてくる。
本を読めばきっと楽しい気分になるし、知識も蓄えられる。
ふ、と央雅の頭に一つの考えが過ぎる。
大図書館へ行けば、法律関係の本も揃っているだろう。どこかに碩壮を罰する手がかりとなる本があるかもしれない。
両親を殺した碩壮は央雅と同じ勇貓皇国にいるはずだ。どこの街にいるのかはわからないが、皇都にいる可能性が一番高いと央雅は思っていた。木は森に隠せという、貓の数がこの国で一番多い皇都は、後ろ暗い過去を持つ者にとっては都合がいい隠れ場所だと思う。
だがどうやって探せばよいかという方策までは、未だ考えが至っていなかった。
それでも何もしないでいるよりはましだ。大図書館へは嵐昌にねだって、一度連れて行ってもらおう。
そう考えていたら、表から声が聞こえた。
どうやら兵士が資料の貸し出しを頼みに来たようだ。「はーい」と言って、目で叡克に中座を伝えた。貸し借りを記している帳面を持って立ち上がる。兵士に証明書と必要事項の確認をし、資料の名前を帳面につけて渡してやる。兵士は「ありがとう」と言って書庫を出た。
叡克は資料の整理に戻ってしまったようで、先ほど話をしていた場所にはいなかった。
自分も整理の作業に戻ろうと思った時、手近な書架にある本に手が触れた。
央雅は何の気なしに、その資料を手に取った。
表紙に大きく『禁』という印が押してあった。なんの印だろうと思いながら題目を読む。
『
何枚かめくって目を通してみると、この本は勇崇偉という皇帝の伝記のようなものだとわかった。物語的な構成ではなく、割と事実を淡々と述べるような文体だった。皇帝の功績や、部下に与えた地位、どこそこに視察に行ったなどを羅列しているのだが、時折墨で塗りつぶされた部分があった。後ろの方を見てみると、ほとんどが塗りつぶされていて、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。
どうしてこんなことになっているのかわからず、央雅は本を手にしたまま、首をかしげた。
「こらこら央雅、これは禁書だよ」突然声をかけられ、後ろから本が取り上げられる。
慌てて後ろを振り向くと叡克が困ったような表情を浮かべていた。
「禁書?」
「そう、読むことが許されない本だ。表紙に禁書の印が押してあるのだ」そう言って叡克は表紙に押された印を指でなぞる。
「誰も読めない本があるのですか」
うーんと、言って叡克は己の顎をつるりと撫でた。
「軍の上層部なら閲覧可能だか、まあ誰も読まないだろうね」
確かに墨で塗りつぶされたこの状態であれば、読む意味はない。
「どうして墨で塗りつぶされているのですか?」央雅は素朴な疑問を問うた。
「まあ、皇宮にとって不都合か不名誉なことが書かれていたのだろうね」
「誰が」墨で塗りつぶしたの、そう聞こうと思ったが叡克に手で制された。
「央雅、知らない方が良いことがこの世の中にはあるよ」
有無を言わさぬ口調だったので、央雅は押し黙る。
叡克は本を書架のもとあった場所に戻すと、空気を和ませるように少し笑った。
「そんなことより、お茶の時間にしよう」と、言った。
この話はここまでということかと悟り「わかりました」と言って央雅はお茶の支度に取り掛かった。
仕事が終わり、帰宅すると珍しく嵐昌は家にいた。
「嵐昌さん珍しく早いですね」
「ああ、五軍の将軍が訪ねて来て内密の話があるというので、気を利かせてもう下がった」
嵐昌は椅子にかけて、お茶を飲んでいる。
こんなにゆっくりしている嵐昌を見るのは久しぶりだった。
軍のことで、朝早くから夜遅くまで忙しそうにしている。
たまには軀のために休息をとって欲しいと心配していた矢先だったので、嬉しく思った。
そういえばこの二十日ばかりで嵐昌のことにも随分詳しくなった。
所属は御前軍。将軍穎悟の麾下で一番隊の女戦士。しかも隊長を務めている。白銅色の長く綺麗な被毛と切れ長の瞳をもつ結構な美形なのに、自分では全くそのことを理解していないようだ。長い被毛が絡まったまま平気で出かけようとするし、任務で泥だらけになって帰ってきたりする。
そんな姿を目にするたび、ずっと年上なのに可愛いなと思って央雅は微笑んだ。
そして綺麗な碧色の瞳で見つめられると姉を思い出した。
姉も碧色の輝く瞳をしていた。
思い出すと胸が痛みそうなり、央雅はそっと胸の宝石に触れた。こうしていると少しだけ想い出の呪縛から離れられるような気がしていたのだ。
気分を切り替えて「せっかく早いお戻りなので、今日の夕餉は腕を振るいますね」そう言うと「楽しみだな。央雅は料理が上手いから」と返ってきた。
「そういえば今日も丁林が引越しをしろと言ってきた」
丁林は嵐昌と一緒に央雅を助けてくれた部下だ。
「もう四回目ですね」
「あいつもしつこい。ここで十分だと言っているのに全然聞かないのだ」
「確かにあまり大きなお屋敷だと、掃除が大変ですしね」
嵐昌の家はさほど大きなものではない。今いる食卓を兼ねた少し大きな部屋と、隣に小さな台所。あとは嵐昌、央雅の部屋がそれぞれあるだけだ。本来ならば地位に相応しい大きなお屋敷が割り当てられていたらしいが、嵐昌が断ったそうだ。
「央雅も一緒に住むことになったし、手狭だろうと何度も言うのだ」嵐昌は呆れたように言う。
「まあ丁林さんの気持ちも少し分かります。御前軍一番隊の隊長の住居にしては少しささやかですもの」
「あいつは他の隊に舐められるのが嫌なだけだ。見栄ばかり張っても仕方がないと言うのに」そう言って嵐昌はふてくされる。まるで子どもみたいだと思って央雅は笑顔を浮かべた。
「央雅も随分と書庫の仕事に慣れたようだな。この間、叡克に会ったら、よく気がついて、まめに働いてくれるから助かっていると言われた」
「一生懸命お手伝いさせてもらっていますが、まだまだです」嬉しいような気恥ずかしいような気持ちになった。
「叡克はぼんやりとした変な奴だが、嘘はつかない。本当に助かっているのだろう」
叡克の話題が出たことで、央雅はふと昼間の禁書のことを思い出した。題目の文字が頭に浮かび、何の気なしに嵐昌に問うた。
「嵐昌さんは勇崇偉という皇帝のことはご存知ですか」
はて、という顔をした嵐昌は「勇崇偉といえば、前の皇帝だろう」と言った。
随分昔の皇帝だろうと勝手に思い込んでいた央雅は、少し驚いた。子凛公国で育った央雅は前の皇帝の名前すら知らなかったのだ。
「今の皇帝のお父様ですか」
「そういうことになるな。代替わりが十数年前のことだったからどんな方だったのか、私もあまり覚えていない。まだ軍に入る前の子どもだったからな」
市井の民には皇帝を見る機会など、まずない。皇帝とは雲の上の存在なのだ。
「今日書庫で勇崇偉皇帝の書物を見かけて、少し興味が湧いたのです」
「そういえば軍でも前皇帝の話は、あまり聞いたことがないな」
「さほど昔の方でもないのに、不思議ですね」
央雅は小首を傾げた。
「当時の発表では病死だった気がするが、民の間でもあまり話題にならなかったな。だから記憶に残っていないのかもしれないな」
「崩御はいい話題ではないから、皇宮も大々的に知らせないものかもしれませんね」
「ああ」嵐昌は何か思い出したように言った。
「そういえば皇帝に相次いで皇妃や子どもも亡くなったのではなかったかな。近所の誰かが皇宮は呪われている、なんてことを言っていたのを覚えている」
「ご家族が同時期に?」
「少し時期が離れていたような気がするが、確かそうだ。今の皇帝もご兄弟がおられぬし、母上もおられぬ。皇宮におられるのは血の繋がりの遠い親族方だけだな」
央雅が考えているよりも、悲劇だった。親族を相次いで失うのは、とても辛い。央雅は皇帝の身の上に自分自身の記憶を少しだけ重ねた。
「あまり縁起の良い出来事ではなかったから、巷間にもあまり広がらなかったのだろうな」
嵐昌がそう結ぶと、央雅は小さく頷いた。
そして夕餉の準備をするための準備に取り掛かった。
穎悟が執務室で軍関係の書を見ていると、扉を叩く音がして嵐昌が入ってきた。御前軍に関する事務的な報告を受けたが、終わっても一向に出て行くそぶりを見せない。
「どうした」と声をかけると「今、お忙しいですか?」と返ってきた。
これと言って急ぎの仕事をしているわけでもなかったので「何か相談でもあるのか」と答えた。
「相談というほどのことでもないのですが、少しお聞きしたいことがありまして。将軍ならばもしかしてご存知かもしれないと思いまして」
「なんだ」
「前の皇帝、勇崇偉様のことです。私が軍に入った頃には今の勇疾星皇帝の世になっておりましたので、あまり存じ上げておりません」
突然出てきた勇崇偉の名に、穎悟は驚いた。長らく忘れていた名前だった。
「将軍は勇崇偉様の元で働いてらっしゃったのでしょうか」
「俺が軍に入ったのは十五の頃だ。勇崇偉様が崩御なさったのは確か俺が二十になった頃だ」
「どのようなお方だったのですか」
「その頃の俺は、まだまだ下っ端だ。皇帝陛下と接するような立場にはなかった。しかし、皇帝陛下をよく知る者とは面識があったので、よく皇帝の話を聞いた」
あの頃のことが、しっかりとした輪郭を持って、目の前に現れたような気分だった。
華やかな皇都にありながら、行くところも食べるものもなく、痩せて行き倒れていた自分。
そんな薄汚れた自分を拾って、飯を食わせて、住むところを与えてくれた。
色々な知識を与えてもらった。
色々な考え方を学んだ。
精神的に上等で上質な時間を、たくさん味わわせてもらった。
今の自分の根幹を支えるものは、あの頃培われたのだ。
近くで同じ時を過ごすことができたのは、どれだけ貴重な経験だったのか、今ならはっきりとわかる。
穎悟はあの頃に聞いた言葉を思い出して、そのまま口にした。
「勇崇偉様はさっぱりと明るい性格で、豪快。万民に対して公明正大で温厚篤実、さらに武勇にも優れていて勇猛果敢。皇国の民の尊敬に値する、まさに皇帝の中の皇帝。」
完全なる受け売りだが、と穎悟は少し笑みを浮かべた。
「それほどまでにご立派な方でございましたか。不勉強でした」嵐昌がかしこまる。
「いや、突然お亡くなりになられたので、当時市井の子どもであったお前が知らないのは当然だ。あまり記録も残っていないからな」
「私の曖昧な記憶ではご家族も相次いで亡くなったとなっているのですが」
民にはわざわざ公開しなかったが、皇宮でも軍でも特に秘密にはしていない。ただ皆、語りたがらないだけだ。そして結局何が真実だったのか、誰もわからないのだ。
いや、正確には知っている者はいるが、語られることはないのだろう。
あの方は、そういう気質だ。
「公的な記録では皇帝が崩御された時、寵臣として大きな権力を持っていた御前将軍が皇帝の座の簒奪を試み、邪魔な皇妃と側室を後宮にて殺害。しかし軍の抵抗にあい、側室の子どもを連れて逃亡。その後、追ってきた軍に諦観したのか皇都より駿で二日ばかり行ったあたりで、子どももろとも焼身自殺をはかったそうだ」
嵐昌は口元を手で押さえて絶句している。
そんな血腥い大事件が皇宮で起きていたとは、思ってもみなかったのだろう。民にとっての皇宮とはただただ煌びやかな印象しかないのだ。
だが穎悟はこの公的な記録が真実だとは信じていない。
なぜなら前御前将軍、
今も生きているのだ。
このことは誰も知らない、自分だけが知っている秘密だ。
延旺が子どももろとも死んだと聞いた時、しばらく立てなくなるほどの衝撃を受けた。
決して口に出しては言えなかったが、必ず逃げ延びて欲しいと思っていたのだ。
延旺が簒奪を試みるなど、考えられなかった。あれほど皇帝と皇国に真摯に仕えていた延旺がそんなことをするはずがないのだ。側にいた穎悟には、絶対にないと自信を持って思えた。
しかも御前将軍でありながら、延旺は御前軍すら動かしていない。単身で簒奪を試みるなど不自然にも程がある。延旺は失敗することが最初からわかっていることに命を賭けるような愚か者では決してない。
ならば、この事件には必ず真相が別にあるのだ。そうでなければ、穎悟に何も言わず、真実を明らかにすることもなく、ただ逃亡するなど考えられなかった。いずれ何か事が動いて延旺は生きて戻り、名誉を回復する、そう信じて待ち続けた。
しかしその日々はわずか二日で終わりを告げた。延旺の死が告げられたのだ。
皇宮も軍も大混乱の最中だった。
死体は黒こげでほぼ原型を留めなかったが、延旺が皇帝より授かった金と宝石に彩られた首環がわずかに焼け残っていたそうだ。
その話を聞いた時、全ての音が穎悟の耳を素通りして言った。何も考えられず長い時間呆然と立ち尽くしていた。
大きな破壊音が突然耳を打ってようやく聴覚が戻ってきた時、一軍の者たちが延旺の屋敷に押し入り、たちまち屋敷は兵士たちによって差し押さえられた。
追い立てる兵士に穎悟も屋敷を追い出された。荷物をまとめる間も無く放り出されて、屋敷の前で立ち尽くす。この先の方策が全く思いつかなかった。
ここにいても仕方がないと、街へ足を向けようとした時、見知らぬ貓に声をかけられた。
「あなた穎悟さんかい?」
「そうだが、なぜわかった」
「延旺将軍の家から出てきたから、そうかなと思って」
穎悟が延旺の屋敷に居候していることは、そんなに多くの者に話していない。
なのに、なぜこの者には、わかったのだろう。
「何の用だ」
「文を預かっております」
そういうと貓は背中に背負った袋から薄い文を差し出した。
「それじゃあ」渡すだけ渡してその貓はさっさと穎悟から離れていった。
背を見送りながら、変なやつだと訝しんだ。
文を開く。
そこには『子は駄目だったが、私は生きている。だが絶対に探すな』とだけ書かれていた。
名すら書かれていない。
文を見て、穎悟は弾かれたように顔を上げる。
先ほど文を渡してきた貓を探すが、もう行き交う貓に混じってしまって見当たらない。
あいつに聞けば延旺が今どこにいるかわかったのに、そう思って穎悟は拳を握りしめた。
絶対に探すなと書いてあったが、そんなこと俺は知らない。
今すぐにでも追いかけたかったが、探す手段は穎悟の手からするりと滑り落ちてしまった。
悔悟の念が心を支配するが、その一角にはほんの少しだけ希望が残されていた。
だけど。
だけど、生きている。
この世界のどこかで延旺は息をひそめて、生きているのだ。
今はその事実だけで満足するしかない。
生きていればいつかは会えるかもしれない。
穎悟は小さな可能性に己の希望を全て賭けたのだった。
ふと、まるであの瞬間に戻ったかのような気持ちだった。
「将軍?」嵐昌の声が、穎悟を現実に引き戻す。
「すまん、少し昔のことを思い出していた」
「いえ、いろいろ教えていただきありがとうございます」
そう言って嵐昌は頭をさげた。
「それにしても突然勇崇偉様のことを尋ねにきたのは一体どうしたことだ」
「我が家で今、年若い雌の貓と同居しているのですが、彼女が昨日質問してきたのです。それで私も少し興味が湧いてしまったので」
「お前に同居する者がいるとは知らなかった。身内か?」
「いえ、最近知り合った身寄りのない雌貓です。行くあてがないので気の毒に思い、我が家に住まわせております」
どこかで聞いたことのある様な話だなと思って穎悟はくすりと笑う。
「どうかされましたか」
「いや、俺の屋敷でも今、田舎から出てきた若い雄の貓を二匹預かっている。どこも同じ様なものだなと思ったのだ」
嵐昌は「まあ、将軍も」と言って微笑む。
話が一区切りついたので「それでは失礼します」と嵐昌は頭を下げた。
「うむ今話したことだが、余り皇宮にとっても軍にとってもよい話ではないので、みだりに広めるようなことをするな」
「心得ております」そう言って、嵐昌は出て行った。
穎悟は窓を開いて、空気を入れ替える。さあっと涼しい風が部屋に吹き込んでくる。風の匂いは今もあの頃もちっとも変わらないのに、自分もあの方も変わってしまったな、そう思った。
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