第5話 葵と雅、巡り会う

 門をくぐって目にした勇壮の街は、まさにこの皇国の首都にふさわしい繁栄ぶりだった。

 立派な建物が所狭しに並び、行き交う貓の数は膨大で数える気になどならない。

 常にどこかしこが、ざわざわと活気づいている。

 ここまでくると圧倒されるというよりも現実とは思えなかった。

 街はどこまでも続いていて、端があるのが信じられない。

 これが皇都かと葵は思い、目にするもの全てを記憶しようとするかのように目を凝らした。

「皇都は董の五倍くらいかと思っていたけど、十倍?二十倍?」そう言って横で迅江も目を丸くしていた。

 それほどまでに現実ばなれした規模の都だった。

 胸がわくわくとして飛び出したくなっていたが、まず、最初にやることがある。

 葵の身元を引き受けてくれる予定になっている穎悟を探さなくてはいけない。誠心から預かっている文を渡して、挨拶をすることを約束していたのだ。

 しかしこの数えきれぬほどの建物の中から、果たして探すことができるのだろうかと、葵は少し憂鬱な気持ちになっていた。

 勇壮は皇帝の住む街ゆえに、治安維持に力を注いでいる。首に黒い布を巻いて、長い棒を持った警備隊がそこかしこに立っていた。

 相談するならばまずは警備隊かと思い、葵は一番近くにいた警備の者に声をかけた。

「すみません家の場所を訪ねたいのですが」と声をかけると「なんだ」と声が返ってきた。

「穎悟っていう黒い貓の家を探しているのですが」

「住所を言えば、探してやれるが」

「住所?」

 ぽかんとした顔をした葵の顔を見て警備のものは「そうだ住所だ」と返した。

 突然押し黙った葵を不審に思った迅江が「どうした?まさか住所聞いていないのか」と声をかける。

 表情が固まったまま「住所ってなに?」と葵は言った。

 しばらく間が空いた後、迅江が弾けるように笑った。

 どうして笑っているのかと思っていたら、警備のものも肩を震わせて笑っている。

「お、お前本物の田舎者だったんだなあ」声を震わせながらそう言って迅江は葵の肩を叩いた。

「街では普通、所在地を文字や番号で記すんだ。それが住所だよ。じゃないとこんなたくさんの家の中から探せないだろ」

 そんなもの潘には必要がなかった。住んでいるものは全員顔見知りだったからだ。

 恥ずかしくなって、葵は鼻の頭を赤くした。

「さすがにどっかに書いてあるだろう。見てみろよ」と言われて、葵は慌てて誠心の文を取り出した。ここに書いている可能性が高い。一度も外さなかった文を包んだ布を外すと文の表に誠心の几帳面な文字で『勇壮軍特区一の東 穎悟殿』と書かれていた。

 ほっとして警備のものに文を見せる。

 まだにやけたままの警備のものは、文の文字を見て息を飲んだ。

「お前、これは御前将軍、穎悟様のお屋敷じゃないか」

「へ?」葵は、調子の外れた返事をした。

 横から迅江も驚いた顔をしている。

「穎悟様のお屋敷に何の用があるのだ」警備の者の声は上ずっていた。

「この文を渡すのと、身元引き受けていただくご挨拶に伺うのです」

「穎悟様が、お前の身元を引き受けるだと」

「故郷に置いてきましたが、了承の文もいただきました」

「お前みたいな薄汚いのが、本当に?」

 そんなことを言われても本当なのだから仕方がないと葵は困ってしまった。

 むしろ葵の方が驚いているのだ。

 あの黒い雄の貓、穎悟。

 出会った時も、かなり身分の高そうな者には見えたが、予想以上だった。

 まさかこの国の将軍だったとは。

 田舎者で皇都の事情など全く知らなかったが、将軍が偉い者だということくらいは知っている。

「まあどっちにしても、この文は渡さなきゃいけないんで、場所教えてよ」

 迅江はそう警備の者に問いかけた。

 警備の者は困ったような顔をしていたが、諦めたように腰に下げた袋から皇都内の地図を持ち出し、現在地と行き先を指差しながら教えてくれた。

 葵と迅江はまだ変な顔をしている警備の者に礼を言って、その場を離れた。

 警備の者の姿が見えなくなった時「葵、お前すごいな」と話しかけてきた。

「すごくないよ。俺も知らなかった。叔父さんの古い知り合いとは聞いていたけど、素性までは聞いてなかった」

「だとしたらお前の叔父さんがすごいな。どこで知り合ったんだろう」

「さあ?叔父さんは皇都を離れてもうかなり経つから、ずっと昔、将軍じゃない頃に知り合ったのだろう。あと手紙の主が俺の叔父さんだっていうのは秘密にしてくれ」

「そうなのか。ま、わかった。早く行って将軍のお屋敷を見物しよう」

「そうだな。早く行かないと今日の宿を探す時間も無くなるし」

「皇都の宿は意外に安いところが多いらしいぞ。貧民街があるからな」

「貧民街の宿は安いのか」

「ああ、そうらしい。住み心地は絶対に悪いだろうが」

「仕方ないよ。家を借りる金を稼ぐまでは少しでも節約しておきたいし」

「虫が出ないところがいいな」

 そんなことを話しながら二匹は少し歩みを速めた。

 もうそろそろかと思い出した頃、周りの屋敷の大きさが、格段に変わったのがわかった。

 建物の造りも手が込んだ立派なものが多い。

 家々に貼られた番地を確認しながら二匹は進む。

 葵は心がざわついていることに気づいていた。あの時、自分に村の外の世界に出る決意をさせてくれた、黒い大きな雄の貓。夕暮れの太陽の光をまとった穎悟。まざまざとその姿が眼に浮かんできて、葵の心は波打つ。

 葵の中で意志と運命の象徴が穎悟だったのだ。

 そんな心のさざめきを味わっていると、目の前にひときわ立派な屋敷が現れた。

 大きな屋敷が多いと思ったが、この屋敷が一番だ。

 葵が百匹くらい住んでもまだ場所が余りそうだ。

 塀が長く、入口を見つけるのに時間がかかった。見上げて番地を確認する。

 何となくそんな気はしていたが『勇壮軍特区一の東』と記されていた。

 入口には警備の者が立っていて、屋敷に圧倒されて、おどおどとする二匹に睨みをきかせている。

「あの」と声をかけると「お前たちのようなものが、この屋敷に何の用だ」とつっけんどんな返事を返された。

 葵は文を差し出して、「潘の誠心の使いにより、穎悟様あての文をお持ちしたのです」と言った。

 相手はじろじろと怪しい二匹を見ていたが「そこで待っていろ」と言うと奥に引っ込んだ。

 どうせ嘘だろうという思いが込められた視線だった。

 これで穎悟が「そんな奴は知らない」と言ったら、追い返されるのだろうなと葵は少し覚悟した。そうなったらなったで、仕方がない。もう葵は勇壮まで来てしまっている。

 文を渡すのは諦めるよりないな、そう思っていたら、先ほどの警備の者が出てきて「入れ」と言った。

 警備の者はどうも腑に落ちないといった表情を浮かべていたが、すんなりと二匹を通してくれた。

 門をくぐった先は大きな庭になっていた。

 綺麗に手入れされた樹木や池があって、幾種類かの花が咲いていた。

 生まれて初めて庭というものを見た葵は、驚いて唾を飲み込んだ。

 畑のように何かが収穫できる場所ではなく、ただ目を楽しませるだけに存在する、その贅沢さに驚いたのだ。

 そんなもの自分の生きてきた道のりには存在しなかった。

「わあ」自然と感嘆の言葉が漏れた。

 迅江も隣でしきりにあちこちを眺めている。

 分不相応な場所に気後れしながら進んでいくと屋敷の入口が見えた。

 そしてその扉の前には、あの日の黒い大きな雄の貓が立っていた。

 穎悟だ。

 その姿を見ると葵の心に万感が去来した。

「お前が、葵か。前にも会ったことがあるな。遠路はるばるよく来た」あの時と同じ腹の底に響くような低い声だった。

 慌てて葵と迅江は頭を下げる。

 相変わらず圧倒される気配と軀の持ち主だった。

「はい、誠心より文を預かっておりますのでお渡しに来ましたのと、恐れ多くも私の身元を引受けてくださったということでしたので、ご挨拶に」

「うむ、わかった。そっちは」

 そう言って穎悟は迅江を見る。

「私の友です。勇壮には一緒に参りました」

「どうも、友達の迅江です」迅江はいつもとは打って変わって殊勝な返事をした。

「そうか、とにかく二匹とも中に入るが良い」

 そう言って穎悟は二匹に背を向けて扉をくぐって行った。

 まさか屋敷にあげてもらえるとは思っていなかった葵と迅江は驚いて顔を見合わせた。

 穎悟はずかずかと屋敷の中を進む。これだけ広い屋敷なのだからさぞかしお付きのものがたくさんいるのだろうと思っていたが、中は閑散としている。貓の気配がないのだ。

 廊下を少し進んだところで穎悟は扉を開け、部屋に入った。

 中には重厚感のある立派な卓と椅子があり、葵にはさっぱりわからないが価値の高そうな絵画や壺が飾ってあった。

 椅子を一つ引き、穎悟はどっかりと座る。

 その姿を目で追いながら突っ立っている二匹を見て「どうした、早く座れ」と言った。

 俺みたいな田舎者の若造が将軍と同卓してもいいものかとも思ったが、まあ座れと言っているのでいいかと、穎悟の正面に座った。迅江が続いて隣に座った。

 文を卓の上に乗せると穎悟は手に取り、読み始めた。

「お前のことをくれぐれも頼むと書かれている」目を通し終えると、そう言って穎悟は文を卓に戻した。短い文だったのだろう、すぐに読み終えた。

「一年ほどこちらにいるのか」

「一年たったら、一度村に戻ると約束しました。ここまで来るのに、もう二月たってしまったのと、戻るのに二月かかるので、実質あと八月です」

「そうか、その間どのように過ごすつもりだ」

「この迅江と共に皇都で仕事を探して、家を借りて、見聞を広げようと思います。興味のあることができれば、学ぶことも考えています。でもまずは金を貯めたいので仕事が最優先です」

「案外しっかりと考えているのだな。家はどうするつもりだ」

「安宿を借りて仕事をして、金が貯まればどこか安い家を借りようと考えています」

「ほう」そう言って穎悟は黒い被毛の中に輝く紅色の瞳を瞬かせると、「住むところがないのなら、ここに住んでもいいぞ」と何でもないように言った。

「え?」葵と迅江の声が、重なった。

「仕事柄無駄に大きな屋敷を与えられているが、この家には護衛のものが三匹と身の回りのことを任せているものが三匹、そして俺がいるだけだ。部屋など余っている」

 穎悟はひげを撫でながら「二匹くらい増えたとて、何てことはあるまい」と言った。

 身分に似合わずざっくばらんとした貓だなと葵は思った。

「たまに掃除でも手伝ってやってくれれば、助かる。お前たちもただで住めるし、いい話だと思うがどうだ」

「そ、それは大変ありがたいお話ですが、本当に大丈夫ですか」

「ああ、いいぞ。身元を引き受けた責任もある。お前は短尾だが親の連座だと聞いている。二匹とも行いや性根が悪いようには見えない。何といってもお前たちは、まだ子どもに毛が生えたみたいな歳だから、初めて来た街で野放しにするのは少し心配だ」

 葵は迅江に目をやる。

 こいつ掏摸だけど、と思ったがもちろん口には出さない。

 葵の視線に気づいているのか、迅江は背筋をぴんと伸ばしている。

 少しだけ逡巡した後「それではありがたく、住まわせていただこうと思います」そう葵は答えた。正直いくら安宿に住まうとはいえ、懐が頼りないので、穎悟の提案は渡りに船だった。

「まあ、あまり気を使わずにいるがいい。後で屋敷の者も紹介しよう」穎悟は言って、笑顔を浮かべた。初めて見た笑顔は柔和なものだったので、少しどきりとした。

 葵は住居の心配がなくなったからではなく、穎悟の気取らない、懐の深いところが好きになった。そもそもこの勇壮に来るきっかけになった言葉を葵に与えてくれたのも穎悟だ。

 葵は穎悟の近くにいれば、穎悟の所作や考えを学ぶことができるのではないかと思った。一国の将軍の近くにいられる機会などまずないだろう。葵にとっては二重にも三重にもありがたいことだった。

 再会して少ししか時間が経っていないのに、すでに穎悟には借りがたくさんある。いつかこの借りを返せる時がくるのかしらんと、葵は首を少し傾げた。

長兼ちょうけん」そう穎悟が言うと部屋の前に控えていたのか、大柄でくすんだ鬱金色の貓が入ってきた。

「この二匹はしばらくここに住まうことになった。部屋を見繕ってやって欲しいのと、家の中を案内してやってくれ」

「えええ」長兼はあからさまに面倒事が持ち込まれたといった顔つきをしていた。

 穎悟は全く気にする素ぶりを見せずに「俺は今から軍に顔を出してくる」といって、立ち上がった。つられて立ち上がった葵と迅江に手だけで挨拶をすると、静かに部屋を出ていった。

 後には困り顔の長兼と二匹が残された。

「やれやれ、うちの主ときたら」そう長兼は言ってため息をつき、「まあ良い、付いてきなさい」と二匹を促した。

 部屋を出てしばらく歩くと細い廊下が見え、長兼はそこを左に曲がった。短い廊下を渡ると扉が二つ見えた。その右側の扉を開けると葵を指差し「こっちはあんた」と言い、左側の扉を開けると今度は迅江を指差し「こっちがあんた」と言った。

 そして迅江の方の部屋に二匹を呼ぶと、「ここから行き来ができる」と言った。

 部屋同士が接している壁の中ほどに引き戸の扉があり、そこを開くと葵の部屋と繋がっていた。一つ一つの部屋が大きく、正直葵は一部屋で十分なのにと思った。綺麗に磨かれた木の板が敷かれていて、窓も大きい。

 掃除が大変そうだなあと思っていたら、長兼が見ているのに気づいた。

 大柄な長兼に見下ろされながら、二匹は神妙な眼差しを向ける。

「俺は長兼。お前は」そう言って長兼は葵を指差す。「葵です」というと「そうか、変な名前だな」といい、「お前は」と迅江に同じようにする。

「俺は迅江」そう答えると「身なりの割に、ちゃんとした名前だな」とだけ言った。

 穎悟も将軍とは思えぬ砕けた態度だったが、長兼も将軍の屋敷の家宰とは思えぬ緊張感のない態度だった。

「飯は台所の隣で食べる。後で案内してやる。でもまず」長兼はじろじろと二匹を見て「水浴びして、その薄汚いのを何とかしろ」と言った。

「行くぞ」有無を言わせぬ長兼の態度に、葵と迅江は慌てて背中を追った。

 屋敷の裏手にある水浴び場で旅の汚れを落とした二匹は、ようやく屋敷の正式な客になった。

 

 

 穎悟の屋敷に住みだして、一月ほど経った。

 軍の仕事が忙しいのか穎悟は屋敷を不在にすることが多い。それでも時間が合えば葵や迅江、そして長兼たち屋敷の者と気安く食事を共にしたり、言葉を交わしたりしていた。

 あまりの気取らない態度を目の当たりにして、一度長兼に「将軍って普通こんなに気軽に接していいものなの?」と聞いてみたが「うちの主が特殊なだけだ。普通なら我々は平身低頭しながら毎日過ごすはずだ。お前に至っては屋敷の門すら通れん」と鼻先を指されながら言われた。

 予想通りの言葉が返ってきたので、「だろうね」と返す。

 穎悟が良い方に特殊な将軍で良かった。葵はそう思った。

 自分が大して出世するとは思っていないが、いつか少し偉くなったとしても、穎悟のような優しく気安い者であろうと、葵は決めていた。

 そんなことを考えていると屋敷の庭から「早くしないと仕事遅れるぞ」という迅江の大声が聞こえた。葵は急いで、外へ向かった。

 屋敷に住み着いてすぐ、葵と迅江は仕事を探そうとしていた。

 どの辺りへ行けば仕事が見つかるのかと長兼に聞いてみたところ、面倒がるかと思っていたのに少し考えて「主の軍に物資を納入している店がある。店の者が、最近取引量が増えてきたから荷運びを探していると言っていた。そこはどうだ」と仕事の斡旋をしてくれたのだ。

「やる!」と短く答えた二匹を見下ろすと「ふん、紹介状を書いてやろう」と言って、手近な紙にさらさらと書き付けた文を渡してくれた。

 文の表には『商業区三十一の南西 慶冨商店けいふしょうてん店主あて』と書かれている。出会って以来つっけんどんな長兼の、珍しい親切に葵と迅江は丁寧に礼を言った。

 なのに、長兼はさっと顔を背け「ほら、さっさと行け」と言った。

 葵と迅江はやっぱりいつも通りの長兼だと思って、その場を離れていった。二匹の姿が見えなくなると「ふふふ」と長兼は不気味に笑った。

 珍しく親切な態度をとった自分に長兼は照れていたのだ。

 屋敷を出た葵たちは街の大きな辻に設置されている、皇都内地図の前に立っていた。街にはいたるところにこういう地図が立っていて、誰でも場所を確認することができるのだ。

「ここが軍特区八の西だから」そう言いながら迅江は場所を確認して「こっちか」というと葵の腕を引っ張った。「行くぞ、混んでいるから、はぐれるなよ」そう言って進み出す。勇壮は今日も行き交う貓達で溢れかえっている。この中ではぐれたら再会できる気がしない。

「わかった」そう返事をして、迅江に続く。

 軍特区と商業区は南北で隣接しているので、皇都の中では比較的近い距離だ。軍特区を抜けて商業区に入るとまた貓の数が増えた。様々な商店が軒を連ねており、皇都の中でも一二を争う混雑ぶりも仕方ないと思えた。

 軍特区ではあまり言われることのない言葉が商業区に入ると耳に入るようになってきた。

「短尾だ」という自分を侮蔑する言葉だ。

 董で店の店主に突き飛ばされた時のことを思い出して少し嫌な気持ちになった。

 それが顔に出ていたのか「いちいち気にしてもきりないぞ」と迅江に言われた。

「実際お前は短尾なんだから、短尾って言われてもどうとも思う必要なくないか?」

「それはそうなのだけどさ、あんなにあからさまに言われるとなあ」

「どうせあいつらはお前のこと何も知らないし、何もしてくれないんだ。そんな奴らのいうことなんて気にする必要ないだろ」

 迅江は言葉を飾らない。ただ、事実だけを伝えるのだ。そして、その言葉の軽さはいつも葵にとって心地よいものだった。

「そうだな」

「短尾だからどうした、って言い返したら逆に言わなくなるんじゃないか」

「それはただの馬鹿だろう」くすりと葵は笑う。

「そうか?そんなこと言われたら、俺なら『そうですね』って返事しそうだ」

「いつかやってみるか」

「おう、やってみろ。それでもだめだったら」

「どうなるんだ」

「一緒にやってやるから、殴って逃げよう」迅江はそう言って、笑った。

「そんなことできるわけがないだろう」葵もそう返して笑ったが、本当は少しだけ涙が出そうだった。短尾であることは自分を侮蔑の対象として際立たせたが、葵にとって本当に大切な相手を選別することを容易くもした。

 自分が大切に思う者たちには、短尾は枷とならない。ならば短尾が枷とならないように、自分から働きかけることもできるのかもしれない。相手が短尾など些細なことと思うくらい、己が良い気性の貓であればいいと、葵は少し胸を張った。

 混雑をかき分けて、しばらく進むとようやく目的の店が見つかった。

 慶冨商店という木の看板があがっている。

 扉は大きく開いていて、そこで働く貓達が出たり入ったりしている。

 そのうちの一匹を捕まえて「長慶さんから紹介されて、仕事を探しにきたのですが」と声をかけると「慶冨は奥にいるよ」と言われた。

 視線の先を見ると、店の奥で机に向かっている白っぽい太った貓がいた。

 二匹が近づくと「なんだね」と言って顔を上げた。大きな丸い、気の良さそうな顔をしていた。

「俺たち仕事を探していて、長慶さんに相談したところ、ここで荷運びを募集していると教えてもらいました」

 葵がそう言って紹介状を差し出すと慶冨は中を確認して「将軍のところの長慶か」と言い「まあ、身元は確かそうだな」と続けた。

 慶冨は立ち上がって二匹をじろじろと見回し、驚いたような顔で「お前短尾か、何をやらかしたのだ」と葵に向かって言った。

 隣の迅江が嫌な顔をしたような気がしたが「親の連座です」と素直に返した。こんな所で色々言い訳したって仕方がないのでそれ以上何も言わなかった。

「連座になるような大罪を犯した者の子か。うーん」そう言うと顎に手を当てて思案する。

「しかしうちの店は今、荷運びの数が足らなくて大層困っている。うーん」

「しかも将軍には世話になっているから長慶の紹介を断るのは気がひける。うーん」

 三つも「うーん」と言った後、慶冨は「尾が短くとも荷物は運べる。よしお前ら雇ってやるよ」と二匹に向かって言った。

「ありがとうございます」と葵が言うと、迅江は少し嫌そうだったが頭を下げた。

 慶冨は目の前で柏手をうち「そうと決まったら、今日から働いてくれ。給金は週払いで一日五百金だ、この辺りの相場であればかなりいい方だぞ」と言う。

 この店は儲かっているのか、給金は葵が思っていたより高かった。

 慶冨は短尾を良くは思っていないようだが、だからと言って性格が悪いようには見えない。

 ならば、ここで働けるのは葵にとって良いことだ。

「さあさあ、林波りんぱ。新入りの荷運びがきたから早速使ってやってくれ」慶冨は近くにいたがっしりとした軀の雄貓に声をかける。

「おう、お前ら。こっち来い」林波と呼ばれた貓が手招きしている。

 黒と白が混じった被毛をした林波は力仕事を生業にしているからか、大きな固い筋肉に包まれていた。

 穎悟とは違った感じの筋肉の付き方だったが、ここで働けば自分もこんな軀になれるのかと思い、なんだか葵はわくわくした。

「よし俺は林波だ、お前らは?」軀と同じように声も大きい。

 二匹がそれぞれ名前を告げると、「早速手伝ってもらうぞ」と言ってくるりと背を向ける。

 慶冨がいる帳場以外、店は倉庫のようになっていた。並んだ棚には商品が詰まっていて、皆忙しそうに働いている。

「この店は軍に筆やら紙やらといった文具周り一式を納めている。荷物は重くて割れ物も多いから、注意して運べよ」

 そう言いながら林波は、棚の前に二匹を連れていく。

「軍のいろいろな部署からの注文が毎日この紙で届く」ひらひらと注文が書かれた紙を掲げる。

「それに書かれた商品をここの棚から注文のあった数だけ出して、幾つ出したかをここにある帳面につける。これで在庫の管理ができる」

 ふんふんと葵は頭を動かす。

「持ち出した商品は表にある荷車に乗せて、注文があった軍の部署に運ぶ。運んだら行った先で担当の者に数と中身を確認してもらって、問題がないようであれば注文書に印を押してもらう。それを受け取ったら空の荷車と一緒に店に戻り、印のついた注文書を慶冨に渡す。これで一通り完了だ。店の連中で手分けして全ての部署に運び終えるまでこなす。あとは倉庫の整理と掃除。そんで、日が暮れたら一日が終了だ。何か質問があるか?」

「持っていった商品や数が違うって言われたらどうしたらいいんだ」迅江が聞く。

「その時は『すんません』と言ってもう一度届けろ」

「兄ちゃん、軽いなあ。それくらいでいいの」

「間違ったものはどうしようもねえ。でも壊すのはなるべく避けろよ、あんまりひでぇと慶冨が給金を減らす」

「軍の部署はいくつあるの?」葵は気になっていたことを尋ねた。

「御前軍、一から五軍。工部、整備部、補給部、医療部、あとは書庫だな」

「場所はそれぞれ違うの?」

「御前軍は皇宮の一角にあるが、それ以外は皇宮の西側にでかい敷地があって、そこに固まっている。最初はわかりにくいだろうから、俺が地図を書いてやる」

 口調は荒いが、林波は話しやすい貓だった。それに結構説明がうまい。

 気を使わずに話せる職場を得たことに、葵はほっとしていた。

「お前らはまだ軀も小せえし不慣れだから、しばらくは二匹で組んでやってみろ。これが今日届いている注文書だ。工部の分を渡すからいっぺんやってみな。わからねえことがあったら俺かその辺にいるやつを捕まえて聞いてくれ」

 それだけ言うと林波は地図を書いてくれ、二匹に渡した後は足早に店を出ていった。

 地図を覗き込んだ迅江が「林波って字が汚いな、これ読めるのかな」と言った。

 確かに蚯蚓がのたくったような難解な文字だった。

 まあ行けばなんとかなるだろうと言って、二匹は注文書通りに棚から商品をより分けていく。

 途中「なんで墨汁を二十本も頼むんだ」などと迅江が悪態をついていたが、その後も順調に商品は増え、注文書の一番下の段まで来た時にはちょっとした山ができていた。

 葵と迅江は「ふうふう」と言いながら、重い商品たちを荷車に積み込む。

 荷車にこんもりと商品を詰め込み、落とさないように紐で縛る。準備ができたので出発しようとしたが、引く荷車の重さに葵は驚いた。全然動かないのだ。

 冗談だと思って笑っている迅江に引かせてみると、「ふん」とか「はん」とか言っているだけで荷車はびくともしない。

 葵が前から荷車を必死に引いて、後ろから迅江が全力で押して、荷車はようやくのろのろと、動いた。鈍重な歩みで二匹は前に進む。

 慶冨の店から軍の敷地までは、さほど距離はない。空の荷車であれば、半刻もあればたどり着く距離である。

 重い荷車を引いた二匹が軍の西門に着いた時、既に出発してから二刻半も経っていた。

 実に五倍である。葵と迅江は、へとへとに疲れていた。荷運びの仕事がこれほど大変だとは思っていなかった。同じことを毎日やると思うと今から心が折れそうだった。

「やっと、門までついたな」荷車の後ろから、自分と同じように疲れた顔をのぞかせた迅江が言う。

「林波の地図によると西門を入って右側に見える建物が補給部、左が整備部、そのさらに左が工部のはずだ」

 確かに門を入ると建物が二つ見えた。それぞれ補給部、整備部と言う看板が掲げられている。左側へ最後の力を振り絞って進むとようやく工部の建物が見えてきた。

 看板を確認し、入口にいる者に声をかけると土間のようなところに誘導された。文具という張り紙がされた棚に持ってきた荷物を並べるよう言われた。重い荷物を二匹して棚に並べていくと、係りの者が端から数を確認していく。

 全て確認が終わると、印を押した注文書を返してくれた。その場にぐったりと倒れ込んだままの二匹に笑いながら「今日が初日か」と言って水を分けてくれた。

 こんなに美味い水を飲んだのは初めてだった。甘露がするりと喉を通る。

「軀はぼろぼろだけど、働くのって楽しいな」と迅江が笑顔を向けている。

「そうだな。なんか生きているって実感するな」葵も笑顔を返す。

 一息ついた二匹は礼を言い、工部を後にした。

 疲れ切っていたが、荷車は羽のように軽くなっていた。

 半刻ほど空の荷車を引いて店に戻ると、すでに店に戻っていた林波が「えらく遅いお戻りじゃねえか」と言って笑った。

 言葉を返す元気もなく、葵はへたり込んだ。

 迅江もどっかりと座り込でいた。

「まあ慣れれば一日に二度三度と往復できるようになる。まずは体力をつけろ」

 そう言った林波は絶望するほど重かった墨汁を十本ほど抱えて平気な顔をしている。

 二度三度と聞いて、絶望しそうだった。

 そんなことが自分たちに、できるようになるものだろうか。

「さあ、今日は初日だからもう勘弁してやろう。荷車の泥を落としておけよ」林波に言われ、のろのろと葵は立ち上がる。

 雑巾で荷車を磨き、挨拶だけして店を後にする。

 その日は屋敷に戻るなり、二匹とも飯も食わず泥のように眠った。

 しかし若い軀は不思議なもので、次の朝になればすっかり元気になっていた。

 腹が減って朝食をたっぷり食べると、昨日よりも大きくなった気すらした。

 そんな毎日を繰り返すうち、葵は己の変化に気づいた。

 段々と荷車を引くのが早くなってきたのだ。荷物の重さも少しずつ軽くなっているような気がしていた。迅江も同じように感じているようで「なあ、俺たち結構筋肉ついてきたよな」と力こぶを作りながら嬉しそうに言っていた。

 勤めだしてもうすぐ一月になるが、二匹協力すれば一日二往復することもできるようになっていた。

 あまりに嬉しかったので林波に報告すると「なかなか成長が早いじゃねえか」と頭を乱暴に撫でられた。林波の意思疎通は、雑だが優しい。

「もう少ししたら、葵と迅江それぞれに荷車一台ずつ引いてもらうぞ」とも言った。

 それはこの仕事において独り立ちすることだったので、くすぐったいような気持ちになった。林波や他のものと同じところまで、ようやく登れた気がした。

 今日は朝から三軍に荷物を届けてきたが、戻るとまだ昼前だった。棚の片付けなどをして時間を潰していると、ひょいと林波の顔がのぞき「お前らもう一便、行ってくれるか」と言った。

 渡された注文書を見ると『書庫』と書いてあった。

 そういえば、書庫にはまだ一度も行ったことがなかった。

 横から覗き込んだ迅江が「お、荷物が少なめだな。ついてるな」と言った。

 手早く準備をして、荷車を出した。

 既に頭に叩き込まれている地図では、書庫に行くには南門から入る方が早い。門を入ってすぐ左のはずだ。ちょうど医療部と五軍の間にある。

 荷物は紙類が中心だったので、いつもよりずっと軽かった。普段の倍近い速さで葵は荷車を引いていくと南門が見えてきた。

 南門を抜けると他の建物よりかなり小ぶりな書庫はすぐだった。扉を叩くとふわふわとした亜麻色の貓が「はーい」と言いながら顔を出した。

 その貓は葵を見るなり、ぎょっと目を剥いた。じっと葵の姿を見つめる。そしてしきりに首を傾げていたが、葵が「荷物をどこに運びましょうか」と声をかけると扉を開いて、小さな土間に案内してくれた。その間も珍しいものを見るような顔をして、しきりに葵に視線を送る。

 顔に何か付いているのかとも思ったが、気にしても仕方がない。

 短尾のことが珍しいだけかもしれない。

 迅江と手分けして棚に全て並べ終えると、亜麻色の貓は数を確かめていた。

「うん、全部あるね」そう言って注文書を持ったまま辺りを見回していた。印が見当たらないのだろうか。

 そう思ってぼんやりと眺めていると、葵の瞳を見つめた後、くるりと振り返り奥に向かって声をかけた。

「央雅。申し訳ないけど印を持ってきてくれないか」

 奥から小さな声で「はい、ただいま」と言ったのが聞こえた。

 しばらくすると足音が響き、印を持った貓がやってきた。

 なんの気なしに、そちらへ目を向ける。

 雌の貓だった。

 葵は目をみはる。

 相手が息を飲んだのがわかった。

 何か得体の知れないものが背筋を走り抜けて空気中に伝播する。

 ぼんやり薄明かりの書庫の中だけ、まるで時が止まったようだった。

 葵は息をすることすら忘れてしまいそうだった。

 理解が事実に追いつかなかった。

 永遠に続くかと思われた静寂は、亜麻色の貓の「あの」という言葉で破られた。

 堰き止められていた時の流れが突如溢れ出し、葵は目眩がしそうになった。

 改めてまじまじと雌の貓に目をやる。

 葵を驚かせた相手。

 目の前で驚いた顔をしている貓は、葵にそっくりだった。

 黄金地に黒い縞模様の被毛。顔と腹と手足の白い箇所もほとんど同じに見えた。顔の作りは雄と雌なのでやはり違うのだが、耳の形や、口元の形状などが似ている。はっきりと異なっているのは瞳の色くらいだろうか。

 一回り小柄な軀ではあるが、全体的な印象は酷似していた。

 これほどまでに似た相手に葵はもちろん会ったことなどなかった。

 しかし葵を驚愕させたのは、そのことだけではなかった。

 雌の貓は、葵と同じ、短尾だった。

 

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