第4話 雅、自立の刻
嵐昌が央雅を家に連れ帰ったのは夕暮れ前だった。
勇壮に戻る間、駿に揺られ続けたというのに、娘は一度も目を覚まさなかった。
とりあえず布団に寝かせて、目を覚ますのを待った。
帰還してすぐに任務の報告書を書かねばならなかったのだが、丁林が気を利かせて代わりに書いてくれた。
夜が更けて来た頃、ようやく娘が目を覚ました。
「目が覚めたか。疲れているのだろう、横になっていていい。」
娘は何も返事をしなかった、あんなことがあった後だ、当然だろう。
「私は嵐昌。勇貓皇国の軍に勤めている。たまたま三景でお前と同行していた商団と行き合って、お前を引き受けた。ここは私の家だ、安心していい」
聞いているのかはわからないが、とりあえず事実と状況を端的に伝えた。
あの状態では、何がどうなったかわかっていないだろう。
「とにかく、しばらくはここにいろ。ここには私しかいない」
娘はこちらに目を向けることすらしない、まるで置物のようだ。
部屋の中を嵐昌の声だけが、響いていた。
「枕元に粥と水を置いておく。食べられるようになったら、食べろ」
そう言って嵐昌は娘の部屋を後にした。
長居したとて、今はどうにもならないだろう。
そう思いながら、自分の部屋に足を向けた。
その日から嵐昌と娘の奇妙な同居生活が始まった。
娘は寝たり起きたりしていたが、一切言葉を発しなかった。なので、嵐昌は娘のことは何もわからないままだったが、気にせず自分の伝えたいことを一方的に話しかけ続けた。
返事はないが、時折、視線を嵐昌に彷徨わせたりした。
三景で初めて見たときのように、慟哭して暴れたりすることは一度もなかった。
むしろ一度も哭く姿を見せなかったので、逆に嵐昌は不思議に感じていた。
ただただ黙しているだけなのだ。
この家に来た当初は全く何も口にしなかったが、次第に少しずつ粥をすすったりするようになっていた。
全く会話がないまま一月ほど経った頃、娘が突然言葉を発した。
痛々しかった額の傷は、もうほとんど治っていた。
「嵐昌様、色々と世話を焼いていただいて、ありがとうございました」
近頃は口が聞けなくなってしまったのかもしれないと心配していたので、驚いてしまい、嵐昌は言葉が出てこなかった。
娘はぺこりと頭を下げて「感謝の言葉を伝えるのが遅くなってすみません」と言った。
「気にしなくて良い。少しは軀が良くなったか」
「はい、食べることができるようになったので順調に回復しております」
「それは良い事だ」
「色々と話しかけてくださっていたのにお返事をしなくてごめんなさい」
「仕方あるまい。そんな気力が出ぬほどの悲痛に見舞われていたのだ」
「はい。頭は靄がかかったようで、言葉を口から押し出す気力もなかったのです」
慟哭して暴れる姿と、魂を失ったかのような姿しか見てこなかったので、落ち着いた娘の口ぶりに少し驚いていた。嵐昌が思っていたより、ずっとしっかりとしている。
「ようやく話をしようと思う元気が出たか」
嵐昌は優しく笑いかけた。
「それもあるかもしれませんが」娘は何かを思い出すように瞳を閉じた。
「夢を見たのです」
「夢?」
「そう、夢です」
「それがどうして話をしようと思うのと繋がるのだ」
「昨日の夜、見た夢なのですが」と娘は前置きをして夢の話を始めた。
自分の心は死んだのだろうと央雅はぼんやりと考えていた。
あの日失った姉のこと、賊に殺された両親のこと。
それらはどちらも、ここしばらくの間に立て続けに起こったことだったのに、なぜか涙も出なかった。
遠い世界の出来事のように、まるでなんの感情も湧き上がってこなかった。
父も母も姉も、もう央雅の側にはいないのに、喪失感すら感じない。
悲しむことすらできなくなっていた。
心が死んだのだから、いずれ軀も朽ちていくのだろうと思っていたが、不思議なことに腹は減るのだった。
食べ物を口に入れると軀は少しずつ回復していた。
何も感じられず、ただ生きているだけの日々を送っていた。
嵐昌の言葉は認識できていたが、答える気力が一切湧かなかった。
ただ、あのままあの場所で死なせてくれたら良かったのに、とだけ思っていた。
そんな状態の最中、昨晩、央雅は夢を見た。
姉の夢だった。
「央雅」そう言って姉は抱きしめてくれた。
いつもの優しい香りがした。
央雅も姉を抱きしめ返す。
「臆病で寂しがりやの、あなたを一匹にしてしまった」夢の中の姉は言う。
「こうして、ずっと一緒にいて」抱きしめる手に央雅は力を入れた。
「ごめんね、それはもうできない」
「どうして!」
姉はぽつりと涙を流して「あなたを残して、私は死んでしまった」と言った。
「いやよ!私も一緒に行く」そう言って央雅も哭く。
「それはだめよ。私がそばにいなくても、あなたは生きていかなければいけない」
「本当なら私が死ぬはずだったのよ!だからこの命をお姉様にあげる」
「馬鹿ね、央雅。命はそんなふうにあげたりもらったりできないわ」
「どうして」そう言って央雅は咽び哭いた。
「どうして私を助けたりなんかしたの」
「大切な妹助けたいと思うのは、おかしなことかしら」
央雅は何も言えなくなってしまった。
「どうか、どうか、私が死んだことで悲しんだり、自分を責めたりしないで。せっかく私が守ることができたあなたの命を大切に輝かせて欲しいの。あなたが哭いたり、死にたがったりするより、笑っていて欲しいわ」
優しい手つきで姉は央雅の頭を撫でた。
「生きて、央雅。私の分まで」
涙が流れて、返事ができない。
次第に姉の姿が遠ざかっていき、央雅は目を覚ましていた。
頰の上を涙が伝っていて、冷たい。
夢だった、ということを認識した瞬間、央雅は猛烈に腹がたった。
初めて感じる、軀の中を血液が逆流するかのような、猛烈な怒りの感情だった。
あまりに腹がたっていたので、自分の頬を手で激しく叩いた。
央雅が腹をたてた相手は、自分だった。
都合のいい夢をみる、央雅自身だ。
私は、お姉様に許されたがっている、そう思うとまた怒りが募ってくる。
自分は助けられて生き残ってしまったことへの、納得できる理由を欲しがっているだけだった。お姉様ならきっとこう言ってくれるという都合のいい幻想に身を委ねて、ただただ自分を甘やかしたいだけの惰弱な心の持ち主だ。
それを理解すると、央雅は呆然とした。
私はなんて浅ましく愚かなのだろう。
自分だけ現実から逃げて、心を閉ざして、ただただ許しを乞うている。
苦しみから目を背けて、自分だけが傷つかずにすむような方法ばかり探している。
違う。
軀に電撃のような痛みが走って、央雅は胸をかきむしった。
私が本当にしなければならないことはそんなことじゃない。
父も母も姉も、皆、央雅を助けようとして死んだのだ。
なのに、当の自分は自分可愛さに何も感じなければ、苦しみを味わわなくてすむと思って、ただただ心を閉ざした。そこにあるはずの思いを知ろうともせずに、見ようともせずに。
それは単なる思考の放棄だった。
問題から、ただ逃げただけだ。
ふと両親が死んだ後に、姉とこの先のことを話したことを思い出した。
何も考えられない央雅に姉は「勇貓皇国へ行こう」と道を指し示してくれた。
両親が生きているときは、道を示すその役目は両親が担ってくれた。
だけど、もう自分だけなのだ。何もかも自分で考えて、自分で決めていかねばならないのだ。央雅に降りかかる問題は央雅自身で解決していかなければいけないのだ。
もう、誰もやってくれない。
私に悲しみからただ逃げて、生きていくことは許されない。
両親と姉が救ってくれたこの命を捨てることは、ただの冒涜なのだ。
央雅はぐっと目を見開いた。
心に刻みつけられた悲しみと苦しみの傷を抱えて、その痛みと共に生きていく。
誰かに決断を委ねるのでなく、自分の意思で決めて、その責は全て自分が受ける。
自らの足で立って、進む。
その時が、来たのだ。
私が本当にしなければならないことは、これだ。
ただただ泣いてすがって、生きるなんてことは許されないことなのだ。
央雅の命は、そんな風に使えない。
この命のために、犠牲にしてきたものが多すぎるのだ。
これを輝かせずに打ち捨てるような愚か者に、なるわけにはいかなかった。
たとえ悲しみに押しつぶされようが、心の傷が激しく痛もうが、耐えて前に進むより他ないのだ。
涙が出そうになったが、ぐっと堪えた。
今の私に泣く権利なんて、ない。
そう呟いて、央雅は顔をしっかりと上げると、頬をもう一度叩いた。
央雅の自立は、多くの悲しみの果てに訪れた。
娘は夢の話をするとまっすぐ視線を嵐昌に向けた。
決意の輝きが満ちた瞳に、思わず見入った。
悲しみの淵より己の力で戻った娘の姿は、神々しくもあった。
命とはなんと不思議なものだろうか。昨日は消えてなくなりそうになっていたというのに、今日にはこんなに強い輝きを放っている。それも奇跡などではなく、この娘が自らの力で輝きだしたのだ。
嵐昌は心から嬉しかった。
不思議な同居生活を続けてきた娘は、いつの間にか嵐昌の生活の一部になっていたのだ。
「元気になって、本当に良かった」というと、娘はもじもじとしながら「それで」と言った。
「どうした」
「今まで散々お世話になっておきながら、図々しいお願いなのですが。実は持っていた荷物を全て無くしてしまったみたいなのです」
「確かにあの時は何も持っていなかったな」
「それで、お金もなくて、住むところもなくて」おずおずと娘は上目遣いで嵐昌を見る。
「働いてお金を稼いだら必ず出て行きますから、もうしばらくだけここに置いていただけませんか」
なんとも可愛らしいお願いだった。
嵐昌は笑って「もう一月近くいるのだ。なんの問題もない。お前が納得するまでいつまででもいるが良い」と返した。
「ありがとうございます。明日からでも早速仕事を探してみます」
「なにかやってみたい仕事でもあるのか」
「働いたことがないので、雇ってくれるところがあるなら、なんでもしようと思っています」
世間知らずの娘を、いきなり勇壮の街中で働かせるのは酷なことに思えた。
それに何と言ってもこの娘は短尾だ。
子凛の勇貓街では差別もされてこなかっただろうが、ここは皇国一の大きさを誇る皇都だ。
短尾を差別する者の数も多い。
ふむと一つ呟いて、嵐昌は考えを巡らせた。
軍の書庫の主が下働きを探していると言っていた。
大した稼ぎにはならないだろうが、初めて働くにはうってつけの環境だ。
書庫は軍の内部にあるので嵐昌の目も届くし、書庫の主とは旧知の仲だ、短尾ゆえに虐められることもあるまい。
大勢が集まるような場所でもないから、ゆっくりと落ち着いて仕事もできるだろう。
声を掛けようと思った時、嵐昌は自分がこの娘の名も知らぬことに今更ながら気づいた。
「そういえば名を聞いていなかった」
「あ、本当だ。央雅といいます」
「雅か、いい名だ」
「ありがとうございます」
「央雅はどうして短尾になったのか。事故か」
さすがにこのか弱い央雅が犯罪者には見えない。
「そうなのです。まだ小さい頃に硝子の灯が落ちてきたと父に聞きました」
「それは可哀想に。しかし皇都には短尾のものは犯罪者という意識が根強い。だから街に出るときはくれぐれも気をつけるが良い」
「はい。やはり皇都ではそうなのですね」
「事故だと言っても聞かぬような痴れ者も中にはいるだろう」
「気をつけて仕事を探すようにします」
「その仕事なのだが」そう言って、嵐昌はごほんと咳払いをいた。
「私が所属している軍の書庫で、下働きをするものを探している。その仕事はどうだ」
「書庫ですか」
「軍の敷地内にあるので、街で働くよりは幾らか安心だ。近くに私もいる」
「何から何まで、ありがとうございます。一生懸命努めますので、是非そこで働かせてください」
央雅は拝むような仕草をした。
「それでは明日、書庫の管理をしている者を紹介しよう」
そういうと元気な声で「はい」と央雅が笑った。
初めて見る、花のような笑みだった。
翌日央雅を伴って書庫を訪れると、
「この書庫を僕だけで管理するのは、本当に大変だったのですから」と言って、央雅を迎え入れてくれた。
「早速今日から働いてくれるかな?色々な手順をまず教えますから」そう言って亜麻色の被毛に薄い縞模様の浮かぶ背中を向けた。
「はい、わかりました」と答えて央雅も続く。
嵐昌は慌てて叡克に声をかける。
「央雅は初めて働くのだ。手加減してやってくれよ」
「承知しました」と言って叡克は笑った。
「それと」
「それと?」
「事故のせいだが央雅は短尾だ。くれぐれも嫌な思いをしないように気をつけてやってくれ」
「あらあら、酷い目にあいましたね。もちろん気をつけて見守りましょう」
「うむ、頼む」
「でも皇国の御前将軍第一の部下である嵐昌の後ろ盾がある娘に、ちょっかいを出すような馬鹿が我が軍の中にいるとは思えませんがね」
「そうかもしれんが」
「大丈夫ですよ、信用してください」
そう言って、今度こそ叡克は央雅を伴って、書庫の奥へ行ってしまった。
嵐昌は過保護な自分に、少し笑ってしまった。
なんだか自分が央雅を妹のように感じているのが面白かった。
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