第3話 葵、迅江と出会う

 奏の街を抜けて、葵は一路南を目指していた。奏では保存食を買い込んでおいた。なるべく寄り道せずに、早く勇壮にたどり着きたかった。だから小さな街には寄らずに、とうという大きな街にだけ寄ろうと旅程をたてた。

 誠心から渡された雑な地図には大きな街と多少の起伏しか記されていなかったが、それでも旅程を立てる役にはたった。

 地図を頼りに野宿を繰り返し、一月ほど旅を続けると、なだらかな草原の先に外壁が見えだした。董の街だ。葵は初めて訪れる街への期待から、足が早まるのを感じていた。

 草を踏みしめて葵は走り出した。

 戦争もしばらく行われていないというのに、董の外壁はしっかりとした重量感のある頑丈なものだった。

 西の門をくぐった頃にはもう夕暮れ時だった。

 葵の知っている夕暮れ時の村は皆、家に引き上げてしまっていて、閑散としたものだった。

 だが董の街の夕暮れ時は、たくさんの行き交う貓でごった返していた。

 市ではこんな時間でも品物が積まれていて、物売りたちが大きな声を出している。軒を連ねる食堂も今からが稼ぎ時といった様子で、店員たちが忙しなく動き回っている。

 葵は圧倒されていた。

 それなりに大きいと思っていた奏の街よりも、ずっと大きくて活気があった。

 すぐに街を見回ってみたいという誘惑にかられたが、明日朝からゆっくりと見回ろうと思い直した。

 もう夕暮れ時だ。

 さほど金も使わずにここまできた。

 この大きな街の宿に一度泊まってみようと葵は思ったのだ。

 そうと決まればまずは宿探しだときょろきょろしながら歩き出した。

 宿の集まっている場所はすぐに見つかった。

 見るからに田舎者の旅の者である事が知れる葵の姿に、宿の客引きたちはしきりに声をかけて来た。貧しい身なりからわかるようなものなのに、しきりに高い宿を勧められ、辟易した。ようやく逃れて奥へと進むと、明らかに貧しい者を相手にする宿が密集していた。

 潘の家と同じような安普請の建物ばかりだ。

 今の自分に相応しいのはこういう宿だろうなと少し笑って、葵はそのうちの一軒の扉をくぐった。

 提示された値段は安かったが、部屋を見て納得した。薄く、汚れた布団を敷いてしまえばいっぱいになるような狭い部屋だった。それでも葵にとっては久しぶりに布団で眠れる夜になる。背中に背負った布袋から干し魚を出して、口いっぱいに頬張るとすぐに眠気が忍び寄って来た。

 一月振りに葵は布団の上で、大いに眠った。

 次の日、薄い壁から差し込んでいる日の光を浴びるとまぶたが自然と開いた。

 野宿を続けていると太陽の動きと生活が連動するようになる。

 大きなあくびを一つして、葵は起き上がった。

 今日は董の街を回るつもりだ。

 簡単に身支度を整えると、宿を出る。

 朝の街には既にたくさんの貓たちが溢れていた。夕暮れ時と同じように物売りや買い物をしに来た者たちで混雑している。

 その流れに葵も混ざり込み、街を回った。

 見たことのない果物や木の実が山盛りになった店や、旅の者向けに様々な保存食を揃えた店、飲食店に薬屋に本屋にと、とにかく沢山の店があり、貓がいた。

 店頭に積まれた木の実を味見したり、果物の汁を絞った飲み物を飲んだりと、他の者たちと同じように葵も街の高揚感を楽しんでいた。

 董の街ですらこんなにも自分の知らないものに溢れている。これよりも大きいという勇壮には一体どんなものがあるのだろうかと思うと自然に笑みが溢れた。

 ひとしきり街を堪能していたが、楽しい反面やはり短尾をよく思わないものが多いのもよくわかった。

 葵の姿を見てひそひそというもの、あからさまに嫌悪の表情を向けるもの、大きな声で「短尾だ!」と言って指差すものなどが、たくさんいた。

 この者たちは葵が短尾の理由も知らず、ただ短尾だという事実に対して侮蔑しているのだ。

 葵は犯罪者ではないが、確かに犯罪者の身内だ。

 こんなことで怒ってはいけないと思うのだが、やはり気持ちの良いものではなかった。

 昼時を迎え、せっかくだから董の料理を食べてみようと、大衆店らしい店の暖簾をくぐった時だった。

 店の奥に行こうとする葵の肩を店主が強引に押した。

 すごい勢いだったので、葵は店の外に尻餅をついて唖然とした。相手は全く知らない顔だ。突然こんな扱いを受ける理由はない。

 ただただ顔を見返す葵に対して、店主は吐き捨てるように言った。

「俺の店には短尾に出すものなんてない!お前らみたいな犯罪者を見ていると、虫唾が走る。とっとと向こうへ行け!」

 ここまであからさまな扱いを受けたことのなかった葵は、ひどく動揺した。

 悲しみと怒りがないまぜになったような感情のせいで、手が震えた。

 店主の言葉に立ち止まった何匹かの貓が同じように「短尾」とつぶやきながら、侮蔑の視線を向けてくる。

 ぐっと手を握り、悔しい気持ちを逃すようにして、立ち上がった。

 もう、一秒もこの場所には居たくなかった。

 店主や周りの者の顔も見ずに、その場から走り去った。

 たくさんの貓にぶつかりながら、耳に「短尾」という言葉を聞きながら、葵は駆けた。

 店からかなり離れた裏路地で、ようやく立ち止まった。

 全力で走ったせいで、息がかなり上がっていた。

 膝に手をついて、胸の鼓動を鎮める。

 そうしていると意図せず涙がぽたりと落ちた。

「だめだ」そう言って、涙を拭う。誠心はこうなることを予想して、ずっと言っていた。街へ行けば、短尾への差別は格段に激しいと。だから行くな、と。

 その言葉を振り切って、自分は村を出てきたのだ。

 だから、こんな簡単に悪意に屈してはいけない。

 胸の中に芽生えた輝きを消してはいけない。

 短尾という運命に負けてはいけない。

 葵はぐっと顔を上げて、前を見た。

 一度深呼吸をしてから路地をでて、何もなかったような顔をして貓の流れにまた戻った。

 同じようなことは何度でも起こるかもしれない。だけど、顔を下げて涙を流すなんて、もう絶対にしない。そう決意すると、少しだけ元気が出た。

「よし」と言って自分を鼓舞していると、目の先に書店の看板が見えた。

 さすがにもう少しましな地図を手に入れたいと思っていた矢先だった。安くて使い勝手のいいものがあればいいなと思いながら、葵は書店に足を向けた。

 ずっと昔からここにあるのであろう、古い書店には様々な地図が揃っていた。

 三国すべての情報を網羅したような立派なものから、葵の持っているような雑なものまで、幾種類もあった。

 年老いた店主に相談してみると、董と勇壮の周辺がしっかりと書き込まれている地図を出してくれた。小さい村なども丁寧に書き込んであるもので、葵はすっかりと気に入った。値段も予算の範囲に収まったし、旅をしていると話すと小銭はまけてもらえた。

 こういった普通のやりとりが、葵の心のさざ波をなだめてくれた。悪いことがあれば、いいことだってある。買ったばかりの地図を背中の袋に大切に入れて、店を後にする。

 地図を作るような仕事もいいな、きっと色々な場所に旅ができるはずだ、などと呑気に考えながら歩いていると、後ろから唐突に貓が走ってきて激しくぶつかった。

 あまりの勢いに態勢が崩れ、荷物が落ちた。慌てて拾おうとするとぶつかってきた自分と同じような背格好をした貓は、葵よりも早く荷物に手を伸ばし、すくい上げた。

 そしてそのまま背を向け、何も言わず走り出した。面食らって反応が遅れた葵の脳裏に『掏摸すり』という文字が点滅した。

 勢いよく立ち上がり、走り去った掏摸の後を追う。錆色をした背中を目に刻み、視線をぶらさないように集中する。掏摸と葵はほぼ一定の距離を保ちながら、貓でいっぱいの街を駆ける。旅に必要なものが全て入っている袋は、葵の生命線だ。あれがなければ旅が続けられないという切実な思いが、全力で駆けさせる。

 掏摸も葵が追いかけているのをわかっているようで、必死に走っている。やがて二匹は城壁の門から街の外へ飛び出してしまった。

 障害のない草原に入ると徐々に錆色の背中が近づいてきた、どうやら足は葵の方が速いようだ。もう少しで手を伸ばせば届きそうだったが、目の先に川が見えたので、川の手前で追い詰めようと考えた。

 いよいよ川で止まるだろうと思った時、掏摸は川の中にある岩に向かって、器用に飛んだのだった。まさかという思いに足が止まりそうになったが、「ままよ」と腹を括って同じように葵も飛んだ。

 足は届いたが、岩は苔で滑っていた。何度か中空を手でもがいた後、勢いよく葵は川に落ちた。頭から水に沈んだので、手を動かして必死で水面を目指す。口に水が入ってきて、途端に胸が苦しくなる。焦りで更に激しくもがくと、ますます上手く泳げない。

「溺れる!」そう確信した瞬間、腕を強く掴まれた。一つ引かれると顔が水面から出た。もう一つ引かれると上体が岩の上に引き上げられた。最後にもう一つ引かれて、葵の体は完全に岩の上に横たわった。飲んでしまった水を勢いよく吐き出すとやっと生きていると実感できた。息が荒く、肩が上下した。しばらく軀を落ち着かせていると、引き上げてくれた者が顔を覗き込んできた。礼を言おうと顔を上げるとそこには錆色の顔があった。

 にっと笑って、葵の袋を顔の横に掲げている。

 追いかけていた掏摸だった。

 なぜだか水難の相という誠心の言葉が、頭に浮かんだ。

 葵は力を振り絞ると掏摸から袋を奪った。

 掏摸は特に抵抗する様子もなく、呑気な様子で隣に座っている。

「お前結構、足が速いな。途中で追いつかれるんじゃないかとひやひやした」

 突然そう言った掏摸に「は?」としか返事ができなかった。

 こいつ一体何を考えている?

 盗んで、逃げて、なぜか川に落ちた葵を助けて、今度は荷物も返して、挙句訳のわからないことを話しかけてきた。

 もう疑問符しか浮かばない行動の数々だ。

 呆気にとられる葵の姿を気にする様子もなく、また掏摸は話しかけてくる。

「お前軀でも鍛えているのか?なかなかいい足してるよ、追いつかれそうになったのなんて、俺初めてだよ。でも泳げないんだな、本当に溺れているからびっくりした」

「な、何だ。お前何言っているのだ?」

「いや、足の速さは単純に褒めている。こんなに流れの緩い川で溺れていることに対しては、ちょっと馬鹿にしている」

「失礼なやつだな!俺の袋を盗んでおきながら」

「川で溺れて悪かったなと思ったから助けてやったし、袋も返してやったじゃないか」

「何だ、その恩着せがましい口ぶりは。そもそもお前が盗まなければ溺れることもなかった」

「まあまあ、そう怒るなって」

「怒るに決まっているだろう!」

 頭に血が上った葵は、噛み付くように言った。

 それなのに掏摸は暖簾に腕押しといった様子で、慌てることも、怯えることも、そして反省することもなかった。

「俺、迅江じんこうっていうんだ。お前は?」

 生まれてこの方、掏摸から自己紹介される日が来るとは思わなかった。

 ぶすくれた顔をしたまま「葵だ」とだけ言った。

「葵?何で一文字なの?」

 普通一般的な貓の名前は二文字だ。姓が一文字、名が一文字の構成になっている。だから基本的に家族は最初の一文字が同じになる。

 その法則に則るとするなら葵は誠心の甥なので、誠葵となるはずなのだが、幼少の頃から誠心は頑なに葵に姓を名乗らせなかった。理由はわからなかったが、誠心が『葵』としか呼ばなかったので、幼い葵は自分の名前に慣れてしまったし、村の者たちも二匹が『葵』としか言わないことに、疑問をあまり挟まなかった。誰にとってもどうでもいいことだったのだ。

「姓はあるけれど、故郷でそう呼ばれていたから。なんか姓を入れて呼ばれるのは変な気持ちなのだ」

「ふーん、じゃあ俺も葵って呼ぶわ」

「呼ぶわってお前、俺たち掏摸と被害者の関係だぞ」

 迅江には悪いことをしたという概念がないようだ。

「それまだ言うの?もう忘れなよ」

 葵はもういい加減怒っているのが馬鹿馬鹿しくなっていた。掏摸のくせに悪びれず、妙に懐っこい所のある迅江に呆れていた。

「お前、董でずっと掏摸やっているのか」

「親もいないし、掏摸でもやらなきゃ生きていけないよ」

「捕まらないのか?」

「俺、足が結構速いからな。今の所捕まったことはないよ。その俺に追いついたのだから、お前本当にすごいな」

「村で毎日農作業をしていたからな。足が鍛えられていたみたいだ」

「葵は、どこから来たんだ」

「北のほうにある、潘っていう村だ」

「ふーん、聞いたことないな」興味なさそうに迅江が言う。

「俺の足で一月くらいかかるからな。知らなくて当然だ」

「董にはいつ来た」

「昨日の夕方だ」

「昨日?着いた次の日に掏摸にあうなんて、お前ついてないな」

 お前が言うな、と言って迅江を小突いた。

「何の用で来たんだ」

「勇壮に行く途中で立ち寄った。大きな街だって聞いたから見てみたかったのだ」

「勇壮か。俺も行ったことないや」

「董より大きいって、すごいよな」

「まあ皇帝が治める都だからな。そりゃ立派なものだろう。葵はいつ董を発つつもりなんだ」そう言って迅江は葵の顔を覗き込んだ。

 いつ発つかは決めていなかったが、店での騒動で嫌な思いをしたのが引っかかっていて、なんとなく早めに出ようかという気持ちになっていた。規模の大きな勇壮であれば、更に嫌な思いをするだろうが、やはり目的地には早く辿り着きたいという思いが勝つ。

「まあ、明日には発つかな。早く勇壮に着きたいし」

「そうか。あ、よく見たら葵、お前短尾か」

「そうだ」

 何か侮蔑の言葉を投げかけられるかと、葵は身構えた。

 なのに、なぜか迅江は満面の笑顔で「お前見かけによらずに結構悪いやつか」と笑いながら、肩を叩いて来た。

「馬鹿、お前と一緒にするな。親の連座だ」と言うとなぜか少し残念そうな顔をして「そうか、まあ確かにお前そんな風に見えないし」と言った。

 迅江の善悪の概念は一体どうなっているのかと、頭を抱えたくなったが、「まあまあ、そんなことはどうでもいいけど」という言葉が続いた時、少し心が軽くなった。

 迅江は、今しか見ないのだ。

 本当に葵が犯罪を犯した短尾だったとしても、この瞬間の会話が楽しければ、別にいいのだ。変なやつだと思ったが、なぜかその軽さが今は心地よかった。

「董を発つのは朝か」

「そうだな、朝に出る」

「よし」と言って、迅江は柏手を一つ打ち、勢いよく立ち上がった。

 その身のこなしに、岩の上で器用なやつだなと思う。

「じゃあ、明日の朝、南門で待ち合わせだ」そう迅江が言葉を繋げた時、最初葵は理解ができなかった。

「なんだ、どういうことだ」

「お前みたいな到着した翌日に掏摸にあうような気の抜けたやつには、同行者が必要だろ」

「同行者、誰が」

「誰って、俺」

「何言っている」

「俺も勇壮は行ったことがないから、行ってみたいし。董より大きな街だ。掏摸をはたらく相手にも事欠かないだろう」

「はあ」

 本当にこいつは何を言っているのだ。

「話し相手がいる方が、旅も楽しいだろ」

 そう言って迅江は破顔した。

「よし。準備するから帰るわ」

 ぽかんと口を開けた葵を尻目に、迅江は高く飛んで川岸へと戻る。そして何も言わずに、ひらひらと手だけ振って街に向かって走って行った。

 残された葵はなぜかその背から目が離せないでいた。

「あいつ、本気か」ぽつりと呟いた。

 立ち上がると自分がずぶ濡れだったことにようやく気付いた。迅江の言動が衝撃的すぎて忘れていたのだ。「はあ」と言いながら濡れた被毛を手で乱暴に拭っていると白い自分の腹と手が目に入った。

 ずっと薄汚れていたから、白い場所があるのを見るのは久しぶりだった。

「水浴びしたと思えば、諦めもつくか」そう言って、葵も今度は上手く川を飛んだ。

 翌日の朝、南門をくぐると迅江が昨日と同じように手を振っていた。

「お前、本当に一緒に来る気か」

「おう、別に董に住み続ける理由も、意味もないし。俺が今、勇壮に行きたいと思ったから、行く」

 それを聞くとなんだか自分も迅江も同じようなものかもしれない、と思った。

 その時が来たから、行く。

 自分の運命と意志に従って、求めるものを手に入れるために。

 迅江の決意は軽すぎるとも思ったが、行き着くところは一緒だ。

 それに。

 葵は少し笑った。

 確かに旅は、話し相手がいる方が楽しい。

「じゃあ、行くか」

 そう言って、葵と迅江は並んで歩き出した。

 

 

 迅江と共に旅するようになって、二十日ほど経った。

 ただひたすら前に進むだけだった葵の旅だったが、やはり同行者がいるのは心強かったし、同じ年頃の者との会話は楽しかった。

 迅江はお調子者の掏摸だが、性格は軽いところが上手く作用しているのか、曲がったところのない、いいやつだった。

「迅江、お前勇壮に着いたら掏摸やめろよ」

「どうして」

「皇帝のお膝元で掏摸なんかはたらいて捕まったら、お前も短尾にされるぞ」

「葵とお揃いか」

「馬鹿。周りの奴らから侮蔑されて、いいことなんて何もないぞ」

「だけど。掏摸でもやらないと、食っていけないじゃないか。お前養ってくれるのか」

「本当に何を言っているのだ。働けばいいだろ」

 そう言うと迅江は驚いた顔をして「確かに」と返した。

「よし、そうだな。働こう」

「普通はそう考えると思うのだけど」

「葵は賢いな。俺に掏摸以外のことができるなんて、考えたこともなかった」

 子どもの頃から掏摸で生計を立てていたため、働くという選択肢が思い浮かばなかったようだ。

「お前ももう十五歳くらいだろ?変に選ばなければ働き口なんていくらでもあるだろう」

「そうか、勇壮で働くか。俺、なんだか楽しくなってきた」

「皇都にはどんな仕事があるのだろうな。とりあえずは雇ってくれるところだったらどこでもいいから仕事をして、お金を貯めたいな」

「葵は何か欲しいものがあるのか」

「今はないけれど勇壮に住んだら、欲しいものがきっとできるだろう。それに興味のあることができたら学びたい」

「勉強するのか、お前えらいなあ」

「一般的な読み書きくらいは習っているけれど、何か専門的な知識を身に付けたいな」

「俺なんて、読み書きも覚束ないよ」

「お前も勇壮で、読み書きからしっかり学べばいいだろう」

「確かにそうだな。学ぶために金を稼ぐってなんかいいな」

 迅江は嬉しそうに鼻をひくつかせた。

 村にいた頃は手の届かない、夢の話ばかり京共としていた。

 今、迅江と話しているのは、目の前にある自分の未来の話だった。

 手を伸ばせば、触れることができる。

 その喜びに胸が膨らむが、残してきた友のことを想うと少し複雑だった。

 葵がそんなことを考えていると「あれ、なんだ」と迅江が言った。

 少し先にある木を指差している。

 言葉に釣られて顔を上げた葵も視線を動かす。

 木の下に何か大きなものがある。

「なにか落ちているのか」

 そう言いながら二匹は歩みを進める。

 どんどんと近づいて行く。

 何が落ちているのかと目を凝らす葵の隣で「貓だ!貓がうずくまっている」と弾けるように迅江が叫んだ。

 二匹は一瞬顔を見合わせて、その木に向かって走り出した。

 近くまで行くと、うずくまっている貓がいた。

 貓はあちこち怪我をしているようで、被毛が何箇所も剥げて、出血している。

 まさか死んでいるのかという思いが頭をよぎったが「どうしたんですか」と声をかけて背に触ると、顔を腫らした雌の貓が振り返った。

 葵と目があうと、突然がたがたと震えだした。

「すみません、すみません」と言って、頭を抱える。

 ひどく怯えているようだった。

「俺たちあなたを襲おうとしているのではなく、心配しているのです」

「そうだよ、助けようとしているだけだから、安心してよ」

 そう言って二匹でなだめるが、震えは止まらない。

「なにも怖いことはないので、手当だけでもさせてください」葵がそう言って背中に優しく手をあてると、ようやくおずおずと顔をあげてこちらをみた。

 震えは止まらず、歯ががたがたと音を立てている。

 葵も迅江も怯えさせないように、精一杯の笑顔を浮かべた。

「起き上がれますか」と聞くと、こくりと首を振った。ようやく少しだけ信用してもらえたようだ。

 手当といっても葵の持っている物といえば、止血のための布と消毒薬、それと痛み止めの丸薬くらいだった。

 迅江と手分けして傷を消毒してやり、布をあてていく。皮袋の中に入った水と痛み止めを渡すと、もう二匹にできることはなくなったが、雌の貓は少し落ち着いたようだった。

「どうしてそんなに酷い怪我をしたのですか」葵は、優しく問いかけた。

 雌はなにも言わなかった。

「こんな何もない平原でどうしたのですか?どこかへ行く途中だったのですか」

 やはり返事はない。

 埒があかないなと困っていると、迅江が「誰かに殴られたんだろう」といった。

 その言葉を聞いて雌は軀を竦ませた。

「お姉ちゃん、言いたくないのなら無理して聞かないけど、話を聞かせてくれたら、なにか助けになれるかもしれないからさ」

 迅江がそう言うと、相手は少しだけ強張りを解いた。

「とにかく家まで送るから、場所教えてよ」

 こう言う時は、迅江の方が頼りになるのだなと葵は思った。

 相手の懐に入るのが上手い。

 その証拠に雌は「こうの村に家がある」と答えた。

 背中の袋から、地図を取り出す。

 今の場所を確認すると、北東に三刻ほど歩いたあたりに「香」の文字がある。

 少し戻ることになってしまうが、この状況では仕方がない。

 肩を貸してやりながら、ゆっくりと三匹は進んだ。

 香の村が目に入る頃になっても、雌の貓は何も言わなかった。唯一わかったことは名前が祝葉しゅくようということだけだった。祝葉は葵たちよりも五歳くらい年上に見えた。

 香は小さな街だった。規模でいうと潘といい勝負だ。

 祝葉に家の場所を確かめる。家の扉を叩くと祝葉の母と思わしき貓が出てきて、祝葉の酷い姿に息を飲んだ。

 とにかく家に入りなさいと言われ、葵と迅江も一緒に迎え入れられた。

 椅子を勧められた二匹が落ち着くと母は傷薬などを持ち出して、祝葉の手当てを綺麗にやり直す。母娘は何も言葉を交わさなかったが、殴られたような祝葉の腫れた顔に薬を塗ってやる時に「こんなことになるから、勇壮になんて行かせたくなかったのに」と母が呟いていたのが、やけに印象的だった。

 手当てが終わると母は、「助けてくれて、本当にありがとうね」と二匹に礼を言った。

 たまたま旅の途中で行きあっただけだと謙遜すると、「もう時間も遅いから泊まっていって」といってくれた。

 初めて会った相手に家に泊めてもらうなんて、さすがに図々しいと思った葵が断ろうとするより前に「助かるよ、ありがとう」と迅江が勝手に返事をした。

 その返事を受けて「じゃあ食事の準備をするわね」と言って祝葉の母は立ち上がって、奥へ行ってしまった。

 いつのまにか泊まることになっている。

「お前さ、さすがに厚かましいだろう」

「いいじゃないの?たまには俺も屋根の下で寝たいし。それに」そう言って迅江は祝葉の方を向いた。

「お姉ちゃんもここでなら安心して何があったのか話してくれるかも」

 横顔を向けていた祝葉はゆっくりと二匹の方に向き直った。

「助けてくれてありがとう。家にまで連れてきてくれて、本当に助かりました」

「いいって、いいって。急ぐ旅でもないし」

 迅江の返事は本当に調子がいいが、こういう場面ではその方がいいのかもしれない。

「あんな場所で、何があったのですか」葵も会話に参加する。

「私は勇壮の皇宮で下女の仕事をしていました。雑多な仕事です。食事の下ごしらえや洗濯やらをするようなことを毎日していました。」

「皇宮で働いていたのですか。それはすごい」

「下女は何千匹といます、なので身元さえ明らかなら誰にでもできるわ」

「皇宮っていったら、たくさん貓が働いているもんな」

「その者たちの生活を私たち下女や下男が支えています。私も勤めて三年ほどになりますが、先日荷物を運んでおりますと皇宮の大廊下で高貴な方々と行きあいました」

 葵と迅江は動きだけで相槌をうつ。

皇子勇雲ゆううんとその朋輩の方々でした。私たちは慌てて廊下の端に跪こうとしました。皇宮では高貴な方々に道を譲り、跪いて頭を下げてお送りするのが決まりなのです。なのに、私は急なことに焦って持っていた荷物を取り落としてしまいました。更にそのことに動揺してしまい、足がもつれて高貴な方々の前で、倒れてしまったのです」

 なんだか息の詰まる場面だな、と葵は思った。

「慌ててお詫びをして立ち上がろうとしたところ、勇雲様の逆鱗に触れてしまったようで『この、恥知らずが!』と言って激しく殴打されたのです」

「それ殴られるようなこと?」と迅江が顔をしかめて言う。

 祝葉は少し困った顔をして「どうなのでしょう」と曖昧な返事をした。

「勇雲様から『下賎なこやつを放り出して、痛めつけろ!』という命令が下されました。たちまち私は勇雲様の私兵に拘束されました。私兵たちは私を駿に乗せ、勇壮から離れた場所まで連れ出しました」

「三匹ほどの雄に囲まれて木刀のようなもので、散々殴打されました。激しい痛みと殺されるかもしれない恐怖でいっぱいでした」

 祝葉の傷は酷かった。相当な力で殴打されたのだろう。話を聞くだけで、葵は勇雲に対する嫌悪感が増していくのを感じていた。

「本当に殺すつもりだったのかもしれません。私は恐怖のあまり気を失いました。気がつくと私兵たちはいなくなっていて、少しでもその場所を離れようと実家である村のある方へ歩いていたのですが、途中あの木の下で、ついに動けなくなってしまったの。そこにあなたたちが来たので、私兵たちが追ってきたのかと思ってあんな態度を取ってしまって。ごめんなさい」

 そう言うと祝葉は、一つ息を吐いた。

 葵は、祝葉の受けた理不尽な行いに怒りが隠せなかった。

「皇帝は、皇国の者たちを守るべき存在なんじゃないのか?その息子がただ転んでしまっただけの貓に難癖つけて、暴力を振るうなんて、おかしいよ」

 迅江も珍しく真面目な顔をして頷いている。

「一生懸命働いてくれている者の、取るに足らない失敗を、笑って許すことができないやつに皇帝なんか務まるものか」葵は珍しく大きな声をあげた。

 どれだけ偉い立場なのか知らないが、身分を嵩にきて狼藉を働くなんて最低の行いだと葵は心から思った。

 そんなことをするものが、身分が高いというだけで、崇められるなんて愚かなことだ。

「お前、田舎者で知らないだろうから、教えてやろう」と迅江がいきなり割って入ってきた。

「お姉ちゃんを痛めつけた乱暴者の勇雲こそが、次の皇帝だ」

 葵は絶句した。

「今の皇帝の勇疾星ゆうしっせいには子が一匹しかいない。勇雲だ」

 祝葉は暗い顔で目を伏せた。

「そんな奴が皇帝になるのか」

「他に子が生まれない限り、そうなるな」

 葵の知っている皇帝とは、誠心から聞いた話の中だけの存在だった。

「皇帝には、公明正大で温厚篤実な性質を持つものしかなれないって」

「表向きはそうだろうが、残念なことにそうでないものが今、一番近い場所にいる」

 葵は痛くなるくらいに手を握りしめた。

 許す心のないものに国など治めることができるわけがない。

 迅江は嫌なものを見たような顔つきで「董の街でも噂が流れていたよ。齢十三にして冷酷で、非道な行いを好む暗君で、皇国の未来は暗いって。お姉ちゃんみたいな目にあった者が他にもいるんだろう」と言った。

「そんな」

 祝葉の有様を見れば、皇国内でよくないことが起こっているのは分かったが、自分たちには何もできないのだ。

 未だ何者でもない自分が、葵は悔しかった。

 葵にあるのは、その軀一つだけだった。

 非道な行いを正すような、権力も財力も武力も何一つ持っていない。

「怒ってくれて、ありがとう。それだけで心が救われるわ」祝葉は二匹に向かってそう言った。

 深く沈殿したような空気だったが、その後現れた祝葉の母の手料理の登場によって少し和んだ。

 葵にはどうすることもできない問題だったし、今やるべきことは別にあった。

 何より食べ盛りの軀が久しぶりの温かい料理の匂いに、釣られてしまう。

 葵と迅江はその日久しぶりに腹一杯になって、借りた寝床ですぐに眠りに落ちた。

 朝になり、祝葉と母に礼を言って二匹は村を後にした。

 後十日ほど進めば、勇壮に辿り着く。

 勇雲のいる、勇貓皇国の皇都に。

 

 

 八日後、ついに葵と迅江は勇壮が見える場所まで辿り着いた。

 遠くからでもわかる圧倒的に高い城壁。

 それは董で見たものの何倍もの大きさで、どこまで続いているのかわからないほどだった。

 まだ距離があるはずなのに、近くに見えるという不思議な感覚を葵は覚えた。

「さすが皇都、他とは桁違いだな」そう言うと隣で迅江が何度も頷いていた。

 割と都会育ちの迅江ですら興奮しているのだ、田舎者の自分が、胸が張り裂けそうになるのは当たり前だ。

 葵の胸は期待と高揚感とで、どくどくと脈打つのが止まらない。

 目が反らせないまま、首に巻いてあるぼろ布を少し引っ張る。

「早くいこう」と急かす迅江のおかげで、ようやく足が前に出た。

 それからはどんどんと大きくなる壁を見ながら、ただひたすら進んだ。

 近くに見えていたはずの壁へ辿りつくまで丸二日かかった。

 そしてようやく葵は、城壁を下から見上げている。

 下から見ると首が折れるかと思うほど曲げないと、上が見えなかった。

 壁に沿って門を目指す。

 辿り着いた門は立派な装飾を施されていて、葵の想像より五倍くらい大きかった。

 門の中ほどに巨大な石に刻み付けられた『勇壮』の文字を見つけた時、また葵の胸が早鐘を打った。

「ようやく、辿り着いた」口から勝手に言葉がこぼれ落ちた。

 運命と意志に導かれてきた、場所。

 葵はようやくそこに、足を踏み入れようとしている。

 これからここでどんな出来事が自分を待っているのだろう。

 期待と不安がないまぜになったような、不思議な心持ちだった。

「どうした葵?早く行こうよ」

「なんか俺、圧倒されている」

「このでっかい門にか」

「いや、なんだかわからないけど、この先に待っているものに」

「何言っているんだ、この先にあるのは」

 迅江は葵の手を引いて、笑った。

「お前の未来だよ」

 その言葉を聞いた時、不安が音を立てて弾け飛んだ。

 そうだ、ここは俺の旅の終点ではなく、未来への入り口なのだ。

 葵は笑い出したい気持ちになった。

 たまらなく楽しくなった。

「そうだな!」と高らかに答えると二匹の貓は門をくぐって駆け出した。

 

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