第2話 雅、悲劇の嵐

 子凛公国ねりんこうこく子族ねぞくが暮らす西方の砂漠国家だ。

 気温が高く、雨が少ない、国土の大半を砂漠が占める国。子族は季節により遊牧したり、街に定住したりと様々な形で暮らす。他族の者にとっては過酷な地であるが、子族は長い歴史を積み重ねることで順応した軀を持つ。

 子族は、貓族よりも小柄な軀をしており、短めの柔らかな被毛に包まれている。

 顔や目鼻、耳などの部位もずっと小さい。

 その軀の小ささゆえ、戦いに向かぬ種族ということもあり、勇貓皇国、戌貴帝国ともに友好的な関係を築き続けることに腐心している。攻め込まれ、蹂躙されてきた歴史を踏まえて独自の地位を保つために、両国との商取引に重きを置いている。

 公国には商取引を円滑にする為に、勇貓皇国、戌貴帝国、両国の物売りを住まわせる地帯を作っている。

 商業都市として栄えている美灰びばいにその一角がある。勇貓街、戌貴街とそれぞれ呼ばれる。

 央雅おうがはそこで暮らす雌の貓だ。

 毛並みは輝く黄金地に黒い縞模様、胸と手足そして腹が白いのが対比になっていて、少し高貴に見える。大きな翡翠色の瞳が目を引く可愛い顔をしている。歳は十五になった。

 商売上手で比較的裕福な央家は、父母姉、そして央雅で全てだ。

 家族の仲も良く、何一つ不自由のない幸せな生活だ。少し臆病な性格を気にしているが、それは手にしている幸せに比べて些細な問題であった。

 そう、央雅が幸せなのは紛れもない事実である。

 それでも央雅は、時折どうしても心の一角に暗い影が落ちるのを感じていた。

 影は歳月と共に徐々に大きくなっていて、いつか自分は飲み込まれてしまうのではないかとさえ思うのだ。

 大きな鏡の前に立ち、ふうと息を吐き、意を決し振り返る。

 何度見ても変わらない、何度見ても同じ。

 醜い傷が刻まれた、短い尾。

 央雅は短尾の貓だった。

 

 

 小さい頃は親に何度も問うた。

「央雅の尾はどうして切れちゃったの?」

 そう問うと父も母も少し困ったような顔をして「央雅は生まれてすぐに大きな硝子でできた灯が、尾の上に落ちてきて怪我をしたのだ。すぐに病院に運び込んだが、尾を切らねば命に関わると医師に言われて、そのまま切ったのだよ」と返す。

 確かに硝子による切断の痕と言われれば、そんな気もした。

 短尾は勇貓皇国では犯罪者の証と言われているが、周りの皆が央雅の短尾は事故のせいだと知っている為、いじめられたり蔑まれたりすることもなかった。

 何よりこの勇貓街での商売にかなりの影響力を与える父、央東おうとうの娘にそんな無礼を働くような者はいないのだ。

 央雅が短尾であっても、央雅が幸せであるという事実は変わらないはずだった。

 なのに、何か不吉な予感が拭えない。

 その思いが央雅の胸に不可解な影となって、現れるのだ。

 

 

 その日、央雅はのんびりと家族で食卓を囲んでいた。

「ねえお父様、今度我が家に連れてきたい貓がいるの」

 突然そう言ったのは姉の央蓮おうれんである。

 茅色の被毛と碧色の瞳が美しい、四つ年上の央雅自慢の姉だ。

 父である央東は明らかに動揺して、手にしていた硝子製の盃を床に落とした。

 どこかで読んだ家族小説のような展開が我が家でも起こるものなのだなと、央雅は笑みを浮かべた。

「それは、雄か」

 父は絞り出すように答えた。

「雌だったら連れてくるのに、わざわざ許可なんて取らないわよ」

「それも、そうだが、どういう要件で連れてくるのだ」

 姉はため息をつき「予想がついていると思うけど、私がお付き合いをしている相手なの。結婚をする前提だから、一度家族に紹介しておこうと思って」と言って父を見つめた。

 央蓮も、もう十九歳。結婚してもおかしくない年齢に差し掛かっているので何も不思議なことはない。

「う、うう」とだけ言った父は「見てもいないのに、反対するのもおかしいでしょう?ぜひ連れていらっしゃい」と言った母の言葉に、仕方なく頷いた。

「央雅は。央雅はそんなことないよな?」と父が言い出した時は、さすがの母も心底呆れた顔を父に向けた。

 くすぐったいような変な空気ままの食事が終わり、央雅は食後のお茶を持って急いで姉の部屋へ向かった。

「ねえねえ、お姉様。お相手はどんなお方なの?」

 興味津々なのを隠さずに部屋に入ってきた妹の姿を見て央蓮は吹き出した。

「どこで出会ったの?」と最初の質問の返答もまだなのに言い出した央雅を姉は笑って抱きしめた。

「央雅、とりあえず座って」

 椅子を勧めるとちょこんと収まる。

「相手は通っている書画教室の助手の方よ。手ほどきをいただいているうちに、仲良くなったのよ。」

「じゃあ年上?」

「そうよ。三歳年上の物静かで、優しい方よ」

「結婚するの?」

「まだわからないけれど、そうなればいいなと私は思っている」

「央蓮お姉様の結婚相手なら、私のお兄様ですね!」

「気がはやいわよ」

 姉は困った顔をしていたが、とても嬉しそうだった。

「早く、会いたいな」

「お父様が多少怪しいけど、お母様がいるから大丈夫でしょう。きっとすぐに紹介できるわ」

 姉妹の楽しげな話し声はその後も続いたが、やがて夜が更けて屋敷は静かになった。

 

 

『がん!』という大きな音が近くで聞こえ、央雅は飛び起きた。

 真っ暗な部屋の中、何も見えずに手をさまよわせ、小さな灯にたどり着いた。

 灯がともったが、部屋の中は何も異変はないようだ。

 どうしたものかと思い、立ち上がって部屋の扉に手をかけた時、央蓮が飛び込んできた。

「大きな音がしたから。央雅大丈夫?」

 姉は央雅の部屋を見回し異変がないことを確認し、安心したようだった。

 央雅が口を開こうとした時、また『がん!』という大きな音が聞こえた。

 さっきよりも近づいたような気がする。

「ここにいて」と言って、央蓮は扉を開けて廊下を見回した。その時、突然複数のバタバタという音が聞こえた。瞬時に央雅は屋敷の中に何者かが侵入したことを悟った。

 賊が侵入した!

 商業特区ゆえ、子凛公国から手厚く警護されている勇貓街の治安はいいはずだった。

 驚きと恐怖が一度にやってきて、叫び声をあげてしまいそうな口元を抑えるのが精一杯だった。

 全身に震えが走って止まらない。

 足がわななき立っていられない。

 央蓮は急いで扉を閉め、央雅を抱きしめた。

 姉も同じように激しく震えている。

 階下にいる父は、母は?

 助けにいかなければと思うが、足が思うように動かないのだ。

 屋敷の中で何かが割れる音や、木が砕けるような音が響き渡っている。

 乱暴な足音から、どう見積もっても賊の数は十に近い。

 家族全員、殺される。

 その言葉が現実のものになるのもそう遠くない。

 央雅が絶望しようしたその時、部屋の扉が蹴破られた。

 終わった。

 そう思った時、扉を開いた者の顔が見えた。

 予想に反してそれは父だったのだ。

 こちらに背中を向けているが後ろには母もいる。

 そして父と母は央雅が予想だにしなかったことに、その手に剣を握っていた。

 父の剣は、すでに血に濡れていた。

「央蓮、央雅!逃げなさい!」

 そう言って父は素早く部屋に入ってくるとうずくまったままの二匹を無理に立たせ、廊下へ導いた。

 隣の客間を開き、母が二匹を部屋に押し込む。

 部屋の前まで追いかけてきた賊が、父に斬られる姿が目に入る。

 母は央蓮に向かって「いい、ここから教えた通りに屋敷から出て、逃げなさい。私たちは後から追いかけるから。とにかく央雅を連れて、早く行きなさい。そして何があっても、生き延びるのよ!」と言いながら、二匹を絵の飾ってある壁の前に連れて行き、そのまま剣を取って父の加勢に戻った。

 央雅は、これほど勇ましい姿の父を、母を見るのは初めてだった。

 有能だけれど普段は呑気で優しい父と、明るく家庭的な母の姿が、真実だと信じて疑ってこなかった。

「お父様、お母様!」たまらず央雅が声をかけると「多少腕が鈍っているかもしれないが、父も母もそれなりに剣は使うから心配するな!賊などには負けぬ。だから心配せずに先に逃げなさい」と父が答えた。

 その言葉に央雅は少しだけ安心した。

 父の表情が笑顔だったからかもしれない。

「央雅、こっち」と央蓮に腕を引かれる。

 央蓮はいつのまにか飾ってある絵画の一つを外していた。

 そこはぽっかりと穴が空いていた。

 四つん這いになれば、通ることのできるくらいの大きさだ。

 央蓮はその穴に央雅を押し込み、後ろからぐいぐいと押した。押されて央雅は前に進んだ。

 か細い道を進みながら、何度か央雅は後ろの姉を確認する。

 一緒にいる、そう思うことでまた一歩前に進む勇気がでた。

 長いことそうして穴を進むと、遠くにほのかな光が見えた。光は次第に大きくなり夜のひんやりとした空気の中に、央雅は転がり出た。

 あまり馴染みのない、美灰の街外れだった。

 ちょうど満月の時期で、周囲が月光に照らされて、目が利くのがありがたかった。

 そうこうしていると央蓮も穴から出てくる。

 一つだけ伸びをした後「ここにいると追ってくるかもしれないから、とりあえず身を隠そう」と言って、姉は央雅の腕を引いた。

 しばらく無言で歩くと、古い小さな家の前で姉が止まった。

 姉は知っている場所のようで、草むらに隠した鍵を扉に差し込んで開いた。

 がらんとした一部屋だけだった。家具は何もなく、部屋の隅にいくつかの荷物がまとめて置かれていた。

 部屋に入ると央蓮は荷物の山から、毛布を出して、肩にかけてくれた。

 二匹並んで、毛布にくるまって、部屋の隅にうずくまる。

 かすかに遠くの方で、ざわめく声がする。

「きっと警備隊が来たのよ。賊を一網打尽にしてくれるはずだから、お父様とお母様も無事よ。すぐに迎えに来てくれるはずよ」

 央蓮の言葉に頷く。

「ひどく疲れているから少し仮眠を取ったほうがいいわ」

 そう言われても、全く眠れる気がしなかった。

 体は疲れているのに、気が高ぶっているのだ。

「少し目を閉じてみなさい」

 こんな状況で眠れるわけがない。

 そう思って目を閉じた瞬間、央雅は気絶するように眠りに落ちた。

 

 

 目を覚ますと、かすかに陽の光が差し込んでいた。

 見たことのない天井を目にして、央雅は昨日の出来事が夢ではなかったことを知った。

 姉はすでに起き上がっており、部屋の中にぼんやりと視線をやっている。

 その視線を起き上がる央雅に向けると「家、戻ろうか」と呟いた。

 急速に襲ってきた不安が胸に迫る。

 父と母は、結局追ってこなかったのだ。

 もう朝で、ここにいるのは央雅と姉だけだ。

 無事に切り抜けていたのであれば、よしんば怪我を負ってしまっていても、必ず誰かが迎えに来たはずだ。

 その迎えがないことは、最悪の事態を想起させた。

 怖い。

 確かめてしまえば、それは現実になるのだ。

 自分の軀をぎゅっと抱きしめ、目を閉じる。

 央雅は見たくないものから目を背けたかった。

「怖いけど、ずっとここでこうしているわけにはいかないわ」

 姉はそう言って立ち上がり、央雅の手を引いた。

「行こう。たとえ絶望することになろうとも、私たちには行かなければならない理由があるわ」

 地面に視線を向けたまま、立ち上がる。

 足がふらつく。

 姉は央雅を抱きしめて、「がんばろう」とだけ言った。

 手を繋いだまま、無言で家路に向かう。

 街は朝早くから行き交う物売りたちで、賑わっていた。

 いつもと変わらない様子の中、自分たちだけが異物のようだった。

 明るい空気が、余計に恐怖を煽り立てる。

 やがて見慣れた一角に入り、屋敷のある角を曲がる。

 姉が息を飲むのがわかった。

 まるで心臓が破れるのではないかと思うほど、鼓動が早く、大きく打つ。

 自身の胸をぎゅっと掴む。

 二匹とも一歩も進めずに立ち尽くした。

 屋敷は、なかった。

 

 

 灰と瓦礫だけになった屋敷に、震える足で近く。

 多くの貓たちが屋敷の周りで、事件について何事が言っているのだが目にも耳にも入らない。全ての情報が素通りして行くのだ。

 二匹が進むと集っていた者たちが左右に割れて道を作る。

 皆、二匹がこの屋敷の娘だと知っているのだ。

 かつて入口があった場所まで来たが、それは目に見えているまま、ただ灰と瓦礫だった。

 そこに自分たちの暮らした生の名残は微塵も見つからなかった。

 繋いでいた姉の手が、力を失ってするりと外れた。

 膝から崩れ落ちるように倒れ、姉は気を失った。

 周りの者や警備隊が集まって来て、姉を抱き上げどこかへ連れて行くのが見えた。

 央雅も周りから何事か話しかけられているのだが、まるで耳に入らなかった。

 連れていかれる姉の姿をぼんやりと見ているだけだ。

 茫然自失し、一言も発さない姿を見た周りの者たちにより、央雅も抱き上げられ連れ去られた。

 運ばれた病院に着くやいなや央雅は気を失い、そのまま眠りに落ちた。

 

 

 相手の話が耳に入って理解できるようになるまで、二週間ほどかかった。

 ようやく少し落ち着いた様子を見せるようになった二匹の元を警備隊が訪ねて来た。

 事件について少し話を聞かせて欲しいと。

 央雅と姉は深夜屋敷に賊が入って来たこと、父と母は賊と剣で対峙していたこと、二匹は秘密の通路を抜けてその先の小屋で両親を待っていたことをぽつりぽつりと話した。

 警備隊の軽回けいかいという子族の者が、なかなか進まない話に相槌を打ちながら気長に聞いてくれた。

 話終えた頃、それまで聞き役だった軽回が「大体の流れはわかりました。押し入った賊の正体ですが、心辺りなどはありますか?」と問いかけて来た。

 央雅にはまるで見当がつかなかったが、姉は違ったようだ。

碩壮せきそうだと思います」

「同じ勇貓街の碩壮ですか?」

「はい、碩壮の店と父の店は商いの件で対立していました。商売上での嫌がらせも多く、父も気を病んでおりましたし、近く屋敷に警護の者を雇い入れる事になっていました」

 央雅は驚いた。

 そんなことになっていたなんて、ちっとも知らなかった。

「お父様が央雅は臆病なところがあるから、黙っていろと言っていたのよ。不安を煽るようなことは耳に入れるなって」

 ぽんぽんと優しく頭を撫でられた。

「そうですか。我々も周囲の話を基に碩壮に話を聞いたほうがいいと、朝に踏み込んだところ家は、もぬけの殻。当の碩壮の行方についても調査しているのですが、未だ見つかっていません」

「死んだ可能性は?」姉がさらりと残忍な物言いをする。

「屋敷の死体の中に碩壮らしき者はいなかったのです。中で死んでいるのは雇われの半端者たちで碩壮が外から火を放って逃亡した可能性が高いかと」

「逃げた?どこへ?」

「勇貓街での事件ではありますが、ここは子凛公国。事件には公国の法が適応されます。しかし碩壮が勇貓皇国へと逃亡したとなると、そこに公国の法は及ばないのです」

「皇国に逃げたら碩壮は罪に問われないの?」

「申し上げにくいのですが、そうなってしまいます。国と国の取り決めでして、我々ではどうする事もできないのです」

 姉の手が、強く握られた。

「父と母は」

「え?」

「父と母はどうなりましたか」

 絞り出すような声が、姉の口から漏れた。

 その声が央雅の胸に刺さる。

 軽回は言いにくそうに視線を彷徨わせた後「ご両親は、お亡くなりに」と呟いた。

「ご遺体は損傷が激しかったので、申し訳ないがこちらで荼毘に付しました。燃え残ったご遺品は保管しておりますので、後日お届けします」

 ぐぐぐという獣のような声を出して、姉は下を向いた。

 滂沱のような涙が握りしめた手の上にこぼれ落ちる。

 その姿を見ていると激情がせり上がってきて、央雅の双眸からも濁流のような涙が流れ出し、激しい嗚咽が始まった。

 姉と抱き合い、奔流に身を任せて二匹は哭いた。

 その姿を見て、すまなそうな顔をしたまま軽回はそっと席を立った。

 彼にできることは、何もないのだ。

 

 

 両親を失った深い悲しみと、両親を殺して逃げた碩壮への怒りで、央雅は目が取れるのではないかと思うほど哭いた。

 流しても、流しても、流れ続けた涙も、ようやく枯れた。

 軽回が訪れてから十日ほどたった日、央雅と姉は落ち着いて向き合った。

 ひどく腫れたままの目をした姉の姿を見て、きっと自分も同じようになっているだろうなと思う。

「これから、どうしようか」

 姉が呟く。

 自分たちには、もう帰るところもないのだ。

 その事実に胸を締め付けられそうになったが、ふと央雅は思い出した。

 央雅には帰る場所はないが、姉にはある。

 いや、行くべき場所というべきか。

「お姉様は、結婚なさるといいと思う」

 姉は、はっと顔をあげる。

「あの日聞いたお付き合いしている方と、結婚して幸せになるの」

「馬鹿ね、央雅」姉は寂しそうにそう言った。

「どうして?それが一番いいわ」

「無理よ、そんなこと」

「家族に紹介しようと思っていた方でしょう?」

「両親を賊に殺されて何も持たない娘となんて、誰も結婚したがらないわ。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだと思うはずよ。その証拠に、もう私達がこの病院に運び込まれて一月近く経つけれど、彼は一度も来なかった」

 姉の目からはまた涙が流れていた。

 それは両親の死を確信した時の慟哭とは違う、儚い涙だった。

「そんな」つられて央雅も涙を流す。

 世界は私たちをどこまでも痛めつける。

 涙をぬぐい、顔をあげた姉は「だから私たちはこれからどうするのか決めなくちゃいけない」と言う。

 両親に守られて育った央雅には、自分で自分のこれからを決めるということが現実とは思えなかった。

 ずっと手を引いてもらって歩いてきたのだ。

 突然手を離されて、どこへもいけずに立ち尽くしている。

 央雅は姉も同じようなものかと思っていた。

 だから「勇貓皇国へ行くのはどうかしら?」と姉が言った時、驚きを隠せなかった。

「勇貓皇国へ?」

「そう。もともとお父様とお母様は皇国の出身で、商売の都合で子凛に来ただけだわ」

「確かにそうね」

 子凛公国の勇貓街で生まれ育った央雅にとっては、勇貓皇国は外国のように感じられた。

「両親が亡くなった今、私達がこの国にいる意味はもうないわ」

 子凛は子族の国なのだと央雅は改めて思った。

「それに、碩壮は勇貓皇国に逃げた。なら私たちの手で碩壮を探す事もできるわ」

「探す?探しても罪には問われないって」

「皇国にはたくさんの貓がいるわ。碩壮に罰を与える方法を知っている者がいるかもしれない」

 確かにそうだ。

 例え子凛公国で起こった事件でも、貓同士の犯罪について詳しい者がいるかもしれない。子凛公国の法では裁けなくても、勇貓皇国の法で裁けるかもしれない。

 遠くにかすかな光が見えた気がした。

 絶望で押しつぶされそうだった心に、希望の光が小さく灯った。

 それにどうせ自分たちには帰るところなど、もうないのだ。

 央雅にとって姉の提案は正しく、魅力的なものに思えた。

 行けば、始めることができる。

「お姉様、行きましょう」

 央雅は顔をあげて、まっすぐ姉に向き合った。

 顔をあげようという気持ちになったのは、ひどく久しぶりだった。

「いつか碩壮を捕らえるために」

 腫れた目をした姉がかすかに微笑んだ気がした。

 

 

 目標を決めてしまえば、後の日々は流れるように早く過ぎた。

 まず両親の遺品を引き取りに警備隊の建物に向かった。

 煤がついて曲った剣や、大切にしていた食器の残骸、焦げた布の切れ端。

 遺品というよりは、ただの燃え残った残骸だった。

 想い出の品々は、今はもう形を失ってしまったのだ。

 それでもそれぞれに込められた想い出を思うと手放し難かったが、もう置いておける場所すらないのだ。

 央雅と姉は比較的損傷の少ない母の首飾りから宝石を外して、一つずつ分けた。

 姉は明るい緋色の宝石を。

 央雅は瞳の色によく似た翡翠色の宝石を。

 それぞれ穴に紐を通して、形見として首にかけた。

 次に勇貓街から事件の見舞金が少しでたので、美灰の街で旅支度を整えた。

 あの日震えて眠った小さな家にあった物資も役に立った。

 持って行くもの、売り払うものを整理していたら軽回がやってきた。

 勇貓皇国へ同行させてくれる商団の手配がついたのを知らせてくれたのだ。

 皇国の首都勇壮までは一月ほどの距離だが、砂漠や国境の山脈を越えねばならないので、隊を組んで移動するのが一般的だった。

 軍の者などなら平気で単独踏破するが、か弱い娘たちだけではさすがに難しいので軽回に頼んで同行させてもらえる子凛の商団を探してもらっていたのだ。

 商団が出発するのは、一週間後だった。

 二匹は軽回に礼を言って、準備の手を早めた。

 

 

 出立の日、朝早いというのに集合場所では子凛の物売りたちが準備終えていた。

 二匹は団長に挨拶をして団に加えてもらう。

 二十匹ほどの子族の団は、基本全員が徒歩で移動するが、羅駝らだという四つ足の大きな生き物が荷車を引いている。それが二台あった。

 央雅と姉も基本一緒に歩いて移動するが、疲れたら荷車に乗ってもいいと団長が言ってくれた。優しいなと思ったが、よくよく考えれば足手まといにならぬようにということだろう。

 背中に背負った荷物が少し重かったが、歩けぬほどではない。

 今から勇貓皇国へ向かう。

 生まれて初めての長い旅だった。

 出立を前にして、ふと、美灰の街を振り返った。

 生まれてからずっと暮らしてきた国だ。

 楽しい思い出もたくさんあったが、今は悲しい記憶の方が大き過ぎた。

 眼に映る姿は、なんだか知らない国みたいだった。

 存外感傷的にならない自分に驚きながら、央雅は商団の列に加わった。

 今から子凛の砂漠を越えて、皇国との国境にある三景さんけい山脈を越える、一月に渡る旅が始まる。砂漠は二十日ほどで渡り切り、難所といえば三景山脈の上の方にある道が細いところくらいだよと団長は言っていた。危険な旅にはならなそうだ。

 商団の子族も話しやすい者が多く、旅が始まってすぐに打ち解けた。

 勇壮へ何度も行ったことのある者たちだったので、都の話をせがんでたくさん聞かせてもらった。

 子凛公国の南東に位置する勇貓皇国は緑の多い起伏の少ない地形で、年中気持ちのいい暖かさが続くらしい。長い間暑く、雨の少ない子凛で育った央雅にとって、緑の広がる大地を夢想するだけでも胸が踊った。

 勇壮は治安も良く、街の中心に位置する皇宮は壮大で、華やかな装飾が施された大層立派なものだそうだ。子族の者たちも物見遊山で出かけたことがあると言っていた。

 皇宮には皇帝が住み、政がそこでは行われているそうだ。

「皇帝を見たことはある?」

 央雅は火のそばで、話しをしていた小柄な子族に尋ねた。

「迎夏祭の折には民衆の慶賀を受けるために姿をお見せになった聞いたことがあるが、僕は見たことがない。お目にかかるのはなかなか難しいだろうな」

「勇貓皇国に住めばいつかお目にかかれるかしら」

「来年の迎夏祭に行ってみればいいよ。祭ではたくさんの花が空から降ってきて、夜には大きな花火が何発も上がって大層華やかだそうだ」

「素敵ね。楽しみが一つ増えたわ」

「街の規模も美灰なんかよりもずっとずっと大きい。市場には周りきれぬほどの数の店が軒を連ねているし、美しい公園が街のあちこちにある。外から見ただけだが大きな図書館もある」

「とても栄えた国なのね。想像もつかない」

「勇貓皇国も戌貴帝国も大きな穀倉地帯をいくつも抱えているからな。農業がうまくって、富がしっかりと蓄積されているのだろう。もう長い間大きな戦争もないし」

「貓の私より、子族のあなたの方が皇国について詳しいなんて、なんだか不思議」

「僕は年に数回行っているから。一度行ったら一月は滞在する」

「私これからそこで暮らすのね」

「団長に聞いたが、えらく辛い目にあったのだろう?皇国へ行けば、気が紛れるよ」

「そう、だったらいいけど」

「毎日楽しいことばかりさ。きっとそうなる」

 央雅は少し微笑んだ。

 両親のことは時を経てほんの少しだけ、受け入れられるようにはなっていたが、いつか遠い過去のことと思える日が来るのだろうか。

 今でも、ふとした時に思い出して、涙が溢れそうになる。

 そんな時は祈るように、胸の前で輝く翡翠色の輝きを握りしめた。そうすると胸がじんわりと温かくなり、悲しみが遠のくような気がしていた。

「央雅、いつまでおしゃべりしているの?そろそろ寝ないと明日に響くわよ」

 おしゃべりに夢中になって、寝る素ぶりを見せない央雅を見かねて姉が迎えにきた。

 すっかり夜も更けており、星が瞬いていた。

「ごめんなさい、長い時間付き合わせてしまって」

「いや、僕も楽しかったよ。また皇国のことを話してあげるから、そろそろ眠った方がいい」

「ありがとう。それじゃおやすみなさい」

「お嬢さん、おやすみなさい」

 挨拶をして別れ、央雅は姉に駆け寄った。

 二匹で連れ添って、寝場所になっている天幕の帳をくぐる。

 布にくるまりながらもさっき聞いた勇貓皇国の話で、頭の中がいっぱいだった。

「お姉様、団長がもうそろそろ砂漠を抜けるって」

「みたいね、少しは涼しくなるかしら」

「皇国領に入れば気持ちのいい暖かさらしいわ」

「早く行ってみたいわね」

「ええ」

 もっと姉と話しをしたいと思っていたのに、返事をした途端まぶたの重さに逆らえなくなった。

 翌朝も全くもって快晴だった。

 砂漠地帯では全く雨が降らずに、暑いだけの毎日が続いていた。

 今日も一日暑い日になるだろう。

 商団は砂漠をただひたすら進んでいたが、昼をいくらか過ぎたところで、遠くに何かが見え出した。

 目を凝らしても何かわからなかったが、近づくにつれそれが樹木であることがわかった。

 木々がどんどんと大きくなって来る。

 ちょうど夕方を迎えたところで、商団は砂漠を抜けたのだった。

 美灰を出てから二十日ほど過ぎていた。

 あとはこの先にある三景山脈を越えればもうそこは勇貓皇国だ。

 見たことのない立派に育った木々を見て、央雅は想像していただけの皇国が、目の前に実体を持って現れたような気分になっていた。

 今日はここで夜を越そうという団長の言葉を聞くと皆、天幕の準備や食事の支度に取り掛かる。

 央雅は姉と一緒に食事の準備する者の輪に加わった。

 何くれと話をしながら手を動かしていたら、やがて料理ができて各々思いおもいの場所で、食事をとる。

 火を囲みながら食事をし、食後のお茶などを飲んでいると急に睡魔が来て、央雅はうつらうつらとしてしまった。

 

 

 浅く舟を漕ぎ出した妹の肩に毛布をかけてやり、央蓮は自分のために、もう一杯お茶を注いだ。

 両親が亡くなった時は、この先の自分たちの全てが閉ざされたかと思った。

 何もかもを失ったと絶望して慟哭したが、自分の手の中にも残ったものがあると、この頃は少し思えるようになった。

 両親は私の手の中に、守るべき存在として妹を残してくれた。

 自分が守っていかなければという想いは、央蓮を少し強くした。

 これから先のことも、少しずつ考え出している。

 本心では碩壮のことは勇壮に入ったら真っ先に探し出したいが、それより前に住むところやお金を稼ぐための仕事を探さねばならない。不要な物を売ったお金と見舞金の残りも少しあるが、なるべく使わない方がいい。

 何と言っても自分たちはほぼ身一つなのだ、不測の事態に備えて貯めておくべきだ。

 勇壮に到着しても、そこが終点ではなく、そこから自分たちの生活が始まる。

 やるべきことは山程あると央蓮は肩をさすった。

 そして妹の顔に目をやり、心の中で思った。

 勇壮には妹の真実があるかもしれない。

 もしかしたら妹の本当の血族が見つかるかもしれない、と。

 央蓮は知っていた。

 央雅は父の本当の子ではない。

 央蓮がようやく物心ついた子どもの頃、突然軍に勤めていた父が幼い雌の貓を連れて帰ってきたのだ。

 父は軀には血が付いており、肩で息をした酷い姿だった。母も央蓮も驚いたが、すぐに何かを悟った母が手早く父を中に入れた。

 家の中に入った父は「すぐに荷物をまとめろ」と母に向けて言うと、血を手近な布で拭いた。怪我はしていなかったようなので、その血は誰かの血のはずだった。央蓮は母から乳飲み子を渡されて、寝台に座らされた。

 忙しく動く両親の姿に不安を感じたが、柔らかい乳の匂いのする乳飲み子を抱いていると不思議と心が落ち着いた。

 ひどく荒い準備が終わり家を出ると、父が二頭の駿しゅんに繋いだ荷車に乳飲み子を抱いた母と央蓮を押し込んだ。

 そのまま振り返ることもなく、もぬけの殻になった家を後にし、父は一路子凛公国を目指した。

 子どもの記憶ゆえ旅路のことはあやふやにしか覚えていなかったが、子凛公国について見知らぬ家に入った時、父が「央蓮これから俺たち家族の家は、ここだ。そしてこの小さな雌の貓はお前の妹だ。名は雅。これからは央雅と呼んでやれ」と言って小さな肩に手を置いたのを強烈に記憶している。

 まっすぐ見据える父の目に、少し動揺したのを覚えている。

「央蓮、なぜと理由を問うのはよしてくれ。そしてこれから育つこの央雅にはこのことを絶対に秘密にして欲しい。俺たちは今日から本当の家族になる。だから、か弱い央雅を守ってやってくれ」

「秘密にするの?」

「そうだ、自分が本当の家族でないと知ったら、央雅が悲しむことになる。それならば知らぬ方が良い」

 父は寝台から小さな央雅を抱き上げて央蓮の前まで来た。

 はらりと包まれた布を取り去る。

 そして尾を見せた。

 そこに尾は、なかった。

 ようやく治りかけている傷が痛々しい。

「央雅は尾がないの?」

「そうだ、央雅の尾は邪悪なる者の手によって、奪われた。」

「痛いの?」

「大層痛いだろう。だが痛みはいつか失われようが、体に刻まれた証はいずれ央雅を苦しめることになるだろ」

「かわいそう」

 そう言って涙を流す央蓮を、父は央雅を抱いたまま抱きしめた。

「優しい俺の娘。その優しさで妹を助けてやってくれ」

 央蓮は頷いて、父の肩に顔を埋めた。

 この日から、央雅は央蓮の妹になった。

 やがて、父はどこからか調達して来た金を元手に商売を始めた。

 父の商売は割とすぐに軌道に乗り、父は「軍あがりは商売下手、を覆したぞ」と上機嫌だった。

 商売に向いていたのか、背水の陣で挑んだからなのかは、今となっては聞くすべはない。

 家族は次第に子凛に馴染み、二匹の子どもも大過なく育っていた。

 物心ついた央雅は短尾であることをしきりに気にしていたが、父のとっさの嘘を信じたのか、事故ということで諦めたようだった。父のついた優しい嘘。

 ちょっと臆病だけど、素直で可愛い妹は誰がなんと言おうと家族だった。

 だが、ふと思う時がある。

 央雅の本当の両親はどうしたのだろうか。

 どうしてあの夜、父は血相を変えて央雅を連れて帰ったのか。

 私たちは飛び出すように勇貓皇国から逃げることになったのか。

 央雅を短尾にしたのは、誰だろう。

 疑問は山のようにあった。

 央蓮は父のことを信用している。絶対に罪を犯していないと信じているが、何かがあの夜起こったのは確かだ。

 大きくなるにつれて調べてみたい気持ちも生まれて来たが、子凛では他国の情報はあまり入ってこなかったし既に時間が経ちすぎていた。

 事情を知っているはずの両親ももうこの世にはいない。

 少しだけでも聞いておけばよかったとも思うが、後の祭りだった。

 しかし皇国に行けばもう少し詳しいことがわかるかもしれない。

 央雅にとって良くない結果にならぬよう、隠れて調べよう。

 それが央蓮の当面の秘めた目標になった。

 

 

 砂漠を抜けてから三日ほど平坦な緑地を進んだ。砂漠とは雲泥の差の過ごしやすい気候で商団の進みも早くなったようだ。

 三景山脈の麓までたどり着いた。

 央雅は峰を見上げたが上の方は雲がかかっていて見えない。

 よく話す小さい子族が「さすがにあの峰は越えられないよ。もう少し北側の低い場所に登山道があるのだ」と笑った。

「よかった。絶対登れないと思った」

「羅駝の通れるくらいの道があるのだ。ちょっと冷やっとする場所もあるけど、普通にしていれば問題ないよ。」

 その日は峰に沿って北側へ移動し、登山口で天幕を張った。

 夜が明け、ついに商団は山に分け入った。

 思っていたほど山道は厳しいものではなかった。たくさんの商団が行き来するからか、割と広くなだらかに道は敷かれている。

 央雅は道端の初めて見る木や花を眺めてみたり、荷台で姉とおしゃべりしたりしながら山を進んだ。

 だいたい一日進んだあたりには天幕が張れるくらいのひらけた場所が必ずあり、物売りたちの整備の跡が感じられた。

 山に入って五日目の朝、団長が「今日はこの山一番の難所を通ることになるから、特に落ち着いてゆっくり進むように」とわざわざ言いに来た。

 心配そうな顔を向けると「ここさえ越えてしまえばすぐに勇壮だ。」と励ましてくれた。

 商団が進み始めるといつもは道草しながら歩いていた央雅も、今日はまっすぐ前を見て歩いた。午前中はいつものようになだらかな道が続いたが、昼を過ぎるくらいから急に坂がきつくなって来た。道もだんだんと狭くなり、息が上がる。半刻ほどそんな時間が続いたあと、突然商団の歩みが遅くなった。

 商団の者たちが前の方へ移動していく。気になった央雅は首を伸ばして覗き込んだ。

 羅駝の荷車を何匹かで後ろから押して、ひどくゆっくりと細い道を進んでいた。ここが皆の言う難所なのだろう。一台ずつゆっくりと進むので、他の者たちはしばらく休憩のようだった。姉と木陰に座り込み、水を飲んだ。

 一時間ほど経つと羅駝たちは無事に通り過ぎることができたようだった。そこからは残りの者たちが歩いてそこを渡る。しっかりした綱が道の上に渡され、それをしっかりと握りながら歩を進めるのだ。

「右側が断崖になっているから、気をつけて渡るように。下は見ずに綱をしっかり握って前を見ながら進むように」と団長が央雅と姉に噛んで含んだように話す。

 少し不安だが、羅駝の荷車が通れる道幅だ。

 姉の背中を見ながらしっかりと綱を握る。見てはいけないと言われたが自然と右側の崖が目の端に映る。そこにはぽっかりと何もない。慌てて視界を外して、ゆっくりと歩を進める。前だけみる、を心の中で何度も繰り返し足を前に出す。

 刹那、山脈をさっと強い風が、吹き抜けた。

 央雅はとっさに少し屈んで、やり過ごそうとしたが、体勢を崩して足がもつれてしまった。ふらふらと右側によろめくと、無意識に手が綱から外れた。

『まずい』と思って手を伸ばした時、また風が央雅の体を揺らす。視界に映る風景がゆっくりと右に歪む。綱をつかもうと必死に両手をもがくと更に央雅の体は揺れる。

『もうだめだ』そう思った時、姉が飛び込んでくるのが見えた。

 ひどく苦しそうな顔をしている。

 姉は綱から手を離し、央雅に向かって必死で手を伸ばす。その手で央雅の片手をしっかりと握ると、驚くほどの力で、引いた。

 すごい力で央雅は元いた場所に投げ出された。額が道にぶつかる。

 前のめりで、央雅を引いた姉の体は、反動で断崖に向かって進んだ。

 ようやく顔を上げた央雅が、姉の背を追いかけようと手を伸ばした時、姉の背が視界から、消えた。

 断崖へ向かおうとする央雅を誰かが抱きとめる。

「やめて!」と言って、めちゃくちゃに手を振り回す。

 姉が、姉が落ちたのだ。助けなくては。今すぐ、助けなくては。

 何かを叫びたいけれど、何を叫んでいいのかわからない。

「危ないからよせ!」と周りから声が聞こえるが、お構いなしに全力で暴れる。

「とにかくだめだ!」という声が聞こえ、央雅はがっしりと抱え込まれて、その場を引きずられた。ずるずると引かれて、断崖の越えた所まで連れて行かれる。

「嫌よ!助けに行くの!離して!」抱え込まれたまま、力の限り叫ぶ。

 困惑した商団の者たちは、途方にくれたように静かになった。

「あの断崖の下に行くことはできない。お嬢さん、あそこから落ちた者はもう」

「違う!違う!違う!」

 そう言ってまた央雅は手足を暴れさせた。

 後ろの誰かが、ふとため息をついて、央雅の首の後ろを軽く手刀で叩いた。

 突然目の前が暗転し、央雅は気を失った。

 再び意識を取り戻した頃には、少し太陽が傾いていた。

 商団は移動したようで、天幕を張る準備をしている。

 央雅の手足は縄で縛られていた。身をよじると食い込んで痛い。

 仲の良い子族が、央雅のそばにいた。

「今すぐ縄をほどいて。お姉様を助けに行く!」

「行っても駄目だよ。あのあと何匹かで断崖を覗きに行ったが、お姉さんはどこにも引っかかっていなかった。おそらく下まで落ちている」

「私が下まで行って助ける!」

「あの断崖を降りることは不可能だ。それくらい切立った深い断崖だ」

「じゃあどうすればいいのよ!」

「無理だよ。あそこから落ちたらもう亡くなっている。亡骸を探すこともできない」

「嫌よ!なら私も死ぬ!あの断崖から飛び降りるわ!」

「何を言っているのだ、君を助けてくれたのはお姉さんだろ」

「そうよ、私が落ちるべきなの!今から追いかけるの、だから今すぐこの縄をほどいて!」

 子族は悲しい顔をして黙り込んだ。

 そして「縄はほどけないよ」とだけ言って、立ち去った。

 央雅はそのあともずっと大きな声で叫び続けていたが、やがて涙が溢れ、深い慟哭に変わった。

 疲れを知らぬように大声で哭き続ける央雅をそっと見守って、商団の者たちは今後のことについて、話し合っていた。父母を亡くしたと言っていた。更に残された姉まで失うとは天はどこまであの娘に苦痛を与えるのか。

 それにしてもあの状態で、どうするものか。手足を縛ったまま荷車に乗せて、勇壮まで連れて行くか?置いて行くことはできない。団長を含め数匹の者で、話し合っていたが、答えは出なかった。

 今は取り乱しているから、とりあえず一晩待ってみて、夜が明けた時にもう一度話をしてみようと団長が言って会合は解散になった。

 すぐに解決策は見つかりそうにない。

 悲痛に満ちた央雅の叫びが響き渡り続け、商団の者は、皆一様に口を閉ざした。

 

 

 子凛公国へ公務で出かけていた嵐昌らんしょうたちは、皇国に戻る途にあった。

 駿で三景山脈を進みそろそろ休息を取ろうかとしていたところだった。

 どこからか絞り出すような悲痛に満ちた慟哭が聞こえてきたのだ。

 同行していた丁林ていりんなどは「なんでしょうか、妖でしょうか」と不安げな顔を見せていた。道を進むにつれて、聞くものの心が痛くなるような叫びが、風に乗ってどんどんと大きくなる。

 気丈な嵐昌は妖など信じていないが、これはどうにも不審だった。

 こんな山の中でこんなにも激しく哭いている者がいるのか?

 疑問符が頭の中で乱舞していた時、目の前に野営しようとしている子族の商団の姿が目に入った。丁度自分たちも休息に使おうと思っていた場所だ。

 商団に近づいた時、目を疑った。

 雌の貓が手足を縄で縛られ、慟哭しているのだ。額が割れて血も出ている。先ほどからの哭き声の源泉を知るとともに、嵐昌はこの貓が犯罪に巻き込まれているのかと思い、急いで商団に近寄った。

 駿から降りた嵐昌を見ると、団長らしき子族の者が慌てて寄ってくる。

 嵐昌は居丈高に詰め寄った。

「この貓はどうした?お前たちまさか誘拐でもしたのか?」

 団長は慌てて体の前で手を振ると「いえいえ、違うのです。この者は美灰からの商団の同行者でして、勇壮まで送り届けるつもりだったのですが、手前の断崖でこの娘の姉が落ちてしまって」

「何、あの断崖から落ちたのか」手を額に当てて、天を仰ぎ見る。

 あの断崖から落ちたとすれば、生きているのは難しい。駿で山を登り慣れた嵐昌たちですら、駿から降りてゆっくりとしか進まない。

「どうもあの娘が崖から落ちそうになったのを助けた姉が代わりに落ちてしまったようなのです。その悲しみで錯乱して暴れてしまうので、仕方なく手足を縛りました」

「そうか、疑ってすまなかった」嵐昌は素直に詫びた。

「縄で縛っていないと、死ぬと言って断崖に向かおうとするので、私たちもどうしようもなくて」団長は深い困惑を浮かべている。

「我々の同族が、手間をかけたようだ」

「いえいえ、私たちもこの娘が可哀想で。おまけに父母を最近亡くしたところでしたので」

「なんと。立て続けに失ったのか」

「悲しみのあまり哭き続けて死んでしまうのではないかと、今も心配しておったところです。荷車があるので、あのまま乗せて勇壮まで運んでもいいのですが、降ろした途端自ら命を絶ってしまいそうで恐ろしいのです」

 央雅は嵐昌たちの存在にすら気づかずに身をよじって、どうにか縄を外そうとしながら、哭き声をあげ続ける。

 傍で丁林が、娘に憐れみの視線を送っている。

 涙と泥で汚れたあまりに悲壮な姿に、嵐昌は目を閉じた。

「お前たちも商売のことを考えると旅程が遅れるわけにもいかぬだろう」

「はい、なのでどうしてもこのまま無理に連れて行くことになってしまうので、それが不憫でして」

「ふむ」

 一つ言って嵐昌は逡巡した。

 子族の者たちにこれ以上迷惑をかけるのも、貓としてどうかと思う。

 まして嵐昌は軍の者だ。任務の帰り道とはいえ勇貓皇国の者が困っていれば、助けるのが道理ではないか。

 目の前の娘は悲しみに支配されて今にも命を手放しそうになっている。

「私たちは勇貓皇国の軍の者だ。今は公国での任務の帰途にある。悲嘆にくれた同族の娘を綱に縛られたままの姿にしておくのも忍びないと思う」

 そう言って嵐昌は団長を見据えた。

「お前たちの商売にも障りがあろう。幸い我々は駿に乗っている。駿の速さであれば明日の夕暮れまでには勇壮に戻れよう。この娘には一刻も早い休息が必要だ。我々が預かっても良いか?」

 団長は心底ほっとしたように「皇国の軍の方でしたか。それでしたら私たちも安心してお任せできます。哀れな娘をどうぞ救ってやってくださいまし」と言って頭を下げた。

「わかった、朝には連れて発とう。この娘の身寄りの者は勇壮にいるのか」

 そう問いかけると団長は曇った顔をした。

「子凛の勇貓街に住んでいたとしか聞いておりません。ただ両親と姉を失っております。身寄りはもうないかもしれません」

「そうか。かえすがえすも不憫な娘だ」

 とにかく勇壮にまで戻れば、娘の今後に力添えできる事もあろう。

 そう心に決めて、嵐昌は娘に目をやる。

 悲しみで気も狂わんばかりの姿の娘は、短尾だった。

 激しい刀傷の残る尾を見て、一体誰がどうしてこの娘ばかりを苦しめるのかと、胸が締め付けられた。

 央雅の慟哭は深夜まで鳴り響いていた。商団の者も嵐昌たちも、騒つくような心持のまま夜を過ごした。その声も、やがて止んだ。

 翌朝、嵐昌が娘を見に行くと、哭き疲れて気絶するように眠っていた。

 起こさないようにゆっくり静かに縄を解いてやり、丁林にその縄で背中にくくりつけてもらった。縄で縛るのは可哀想だが、駿の上で暴れられると厄介だ。

 商団のものに別れを告げると涙をにじませた団長が何度も「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。

 団長の思いやりに対して娘に代わって謝辞を述べると、嵐昌は駿にまたがった。

 腹を一つ蹴ると、駿は滑るように進み出した。

 ここからの道は峻険な下りだが、山脈を抜ければあとはもう草原が続くだけだ。

 なるべく娘を揺らさぬように、嵐昌は速度を上げた。

 長い白銅色の美しい嵐昌の被毛が風になびく。丁林は碧色の瞳をした上司の隣に並ぶ。嵐昌は雌でありながら絶世の剣技を轟かす、美貌の戦士だ。将軍からの信任も篤い。

 その嵐昌の背で娘は起きる気配がない。

「嵐昌様、その娘をどうするのですか?」

「大口を叩いて連れてきたものの、どうしたものか。身寄りもないようだし」

「子凛の勇貓街に生まれ育ったのであれば、皇国につてはないでしょうなあ」

「うむ、かといって孤児施設に預けるような年齢でもないだろう。しばらく我が家にでも置いて療養させるか」

「ご自宅で預かるのですか?」

「雌一匹の気ままな暮らしよ。一匹増えたとて困る事もない。それに」

「それに」

「この不憫な娘が妹の姿とかぶるのよ」

 嵐昌はそう言って、黙った。

 妹はこの娘くらいの歳の頃に、病で亡くなった。

 少し前まで姉の背を追って軍に入ると目を輝かせていたのに、流行り病によってあっけなく死んだ。

 これから楽しい事も嬉しい事もたくさん経験するはずだったのに。

 嵐昌は死にゆく妹の姿を見て、己の無力さに絶望した。

 娘は家族全てを失うという、嵐昌の何倍もの絶望を今まさに味わっているのだ。

 背中に感じる娘の温かさに、身勝手だとは思ったが、それでも生きて欲しいと思った。

 見ず知らずの相手だったが、心から思えた。

 まだ起きそうにない娘の気配に、嵐昌はもう少しだけ駿の速度を、上げた。

 

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