黄金の還る刻 −勇貓皇国伝−

あすか@N

第1話 葵、出立す

 はん勇貓皇国ゆうびょうこうこくの貧しい小さな農村だ。

 戌貴帝国じゅっきていこくとの国境が程近いため、小競り合いを恐れてあまり居つくものがおらず、ずっと寂れている。

 それでもそこに生まれたものは生きていかねばならず、痩せた土地を耕しながら、細々と生活を営んでいる。

 住まう者たちはびょうと呼ばれる種族だ。

 貓は全身をふわふわとした被毛に包まれた生き物で、立った耳とぴんとした髭、手足には肉球があり、長い尾でバランスをとって二足歩行する生き物だ。

 勇貓皇国は、貓族が暮らす国なのだ。

 寂れたこの村を、何匹かの貓が器用に鍬を振って耕している姿が見える。

 その中を一匹の貓が駆け抜けて行く。

 輝く黄金地に黒い縞模様のその貓は、黄金色の瞳を輝かせて駆け、やがて小さく見えなくなった。

 まるで、青い空の向こうに何かを見つけに行くかのように。

 

 

どこだ!どこに行ったのだ!」

 誠心せいしんは大きな声で呼びかけたが、葵の姿は一向に見当たらなかった。

 狭い、小さな村のことである。

 村中を回って探したが、どこにも葵の姿は見当たらない。

「また村の外に出てしまったのか」

 ふとため息が漏れ出る。

 葵は最近、村の外の事ばかりに興味が湧いてしまい、野良仕事をほっぽり出しては上の空であちこち出かけているのだ。

 過日、興行の途中で立ち寄った旅の一座に皇国各地にある村や都市の話、とりわけ皇都『勇壮』の華やかで繁栄した様を聞いてからは、村の外の事ばかり話している。

 何度も行ってみたい、行ってみたいと繰り返す。

 葵も、もう十五歳。

 皇国の者であれば、立派に自立したとみなされる歳だ。

 ここのように寂れた村よりも、派手な都に憧れる気持ちもよくわかる。

 本来ならばそのような気持ちに従って、みな都会へと足を向けるものだ。

 それが貓として成熟したということなのかもしれない。

 葵も皇都へ向かい、世界の広さを知ることができる年齢になったのだ。

 それでも誠心には葵をこの村からは出せない理由があった。

 その理由に一体いつまで従い続けるべきなのか、何が最良の答えなのかを延々と繰り返し考え続けている。

 真実をつまびらかにしたことによる、混沌と希望と破滅と誕生。

 それらの予感に翻弄されて立ち止まり、正しい判断を下せないのだ。

 長い、長い間。

 それでも着実に答えを出す刻限が近づいていることだけは誠心も肌で感じていた。

 

 

「葵!お前また仕事さぼっていただろう。お前の叔父さんがさっき探していたぞ」

 村から少し離れた丘の上、寝そべって放心したように空を見ている葵を、京共けいきょうが見つけ、声をかけて来た。

 葵は、その声の方にのんびりと瞳を向け「お前もさぼりに来たのだろう。同罪、同罪」と言って、勢いよく飛び起きた。

 ふわりとそよぐ黄金色の被毛が光を受けて、きらりと輝いた。

 目の前には「お前よりは、ましだよ」と言う、呆れ顔の京共がいた。

 狭く、住んでいる者も少ない村なので、同じ年頃の京共とはずっと一緒に育ってきた。

 葵はこの友が好きだった。

 自分同様、やんちゃで軽口も叩くが、気のいいやつだ。

 赤銅色の被毛を風に揺らすこの友と、何も言わず二匹並んで草の上に腰を下ろした。

「村、出たいよな」そう声をかけると、京共も視線を前に向けたまま「出たい」とだけ答えた。

 狭く閉ざされた村の中で育って来た二匹にとって、外の世界はただただ、きらめきに満ちた憧れの存在だった。

 同じものたちと同じことを繰り返して過ごす日々は、老いたものには平穏に映るが、若者にとっては退屈でしかなかったのだ。

 雲の流れていく様を眺めるだけの日々に飽き飽きしていた。

「でもなあ、母ちゃんがなあ」京共は、ぼそりと呟いた。

 京共の母は昔から体が弱く、床に就くことが多かった。

 父を子供の頃に亡くした片親の京共にとって、育ててくれた恩のある母を置いて村を出て行くことは、難しいことだった。

 葵も、わかっているのだ。

 京共は村を出られない。

 たとえ母が出ても良いと言ったとしても、母を置いていこうとする自分が許せないのだ。

「葵、お前は?お前だったら行けるんじゃないか?」

 京共はそう言って、しょんぼりとした顔を葵に向けた。

「誠心叔父さんがなあ。駄目だって言って許してくれないのだ」

 肩を落として、葵が返した。

「俺だって何度か叔父さんにそれとなく言ってみたのだけれど、頑なに駄目だの一点張りだよ。都会に俺みたいな貧乏な田舎者が行ったって騙されて殺されるのがおちだって」

 誠心の口真似をしてそう言うと、ふうと一息ついてヒゲを揺らした。

「それに俺、短尾たんびだからな。こんな田舎村でも疎まれるのに、都会に行ったら酷い目にあうぞ、だって」

「そんなこと、お前のせいじゃないのに」

「まあでも身内かそいつが犯罪者だってことの証だからな」

 葵が寂しそうな顔を向けると、京共は怒ったような、悔しそうな複雑な顔をしていた。

 その顔を見て、ああ、だから俺はこの友のことが好きなのだと、葵は思った。

 貓という生き物は、ほとんどの者の尾が長い。

 生まれつき短い者もいるようだが、それは極めて稀な例だと言われている。

 もともと、その希少種を嘲るために短尾という言葉が生まれた。

 尾の短いものは、貓として足らぬもの。

 そういう意味を込めて使われていたが、時代が進むと重大な犯罪を犯した者への刑罰として使われるようになった。

 一定以上の悪事を働いた者は、尾を切られる。

 更に凶悪な犯罪を犯したものは死罪に処された上、連座で身内の者の尾を切り犯罪者の一族として見える形で晒しものにする。

 尾を切られたものは、すべからく侮蔑の対象となる。

 それが皇国の刑罰なのだ。

 葵の尾は、短い。

 それも生まれつきではなく、刃物によって作られた、短尾だ。

 

 

 この村で成長していくうち、村の一部に葵をいつも睨むような、蔑むような視線を送る者たちがいることに気づいた。

 まだあどけない頃の葵は、機嫌を取ろうと甘えたり話しかけてみたりしたが、ことごとく無視されて態度を軟化させる者はいなかった。

 京共の家族のように全ての貓がそうではなかったが、一部の者はずっとそうだった。

 そしてそれは、今も続いている。

 その者たちが自分に向ける『短尾』という言葉は葵に深く、深く刺さった。

 短尾は犯罪者か、その身内。

 誠心に自分が短尾の理由を何度か問うたが、葵が幼い頃は一切教えてもらえなかった。

 子供の知ることではない、と。

 十歳になった頃、もうある程度分別もつくだろうという言葉とともに、ようやく葵は自分が短尾である訳を誠心から聞くことができた。

 曰く、誠心の兄である葵の父は皇都勇壮にて重大な罪を犯し、死罪になった。

 その罪の重大さにより葵の母、そして子である葵は尾を切られたのだと。

 母は夫の罪の重大さと、連座して課された罰に耐えきれず自らの命を絶ってしまい、後には短尾となった葵が残された。

 当時皇都を離れており、かろうじて連座の刑を免れた誠心は、不憫な兄夫婦とその息子のことを遠い都市で知り、秘密裏に侵入した皇都から葵を連れて出奔した。

 そして長い旅路の末、縁もゆかりもない辺境の村、潘に辿り着きそこに根をおろしたのだと。

 ここまでくれば短尾への差別もある程度薄いだろうし、何より両親の罪状も聞こえてくるまいと。

 確かにこの村の葵を蔑む者たちは、葵が短尾である理由までは知らないようだった。

 葵がよちよち歩きの子どもの頃に村に居ついたため、葵が犯罪者ではないという事はわかっていて、大方身内に重犯罪者がいるのだろうと、あたりをつけているようだった。

 ある程度の話の流れは当たっているが、父の犯した罪がどういうものなのかまでは、知らないのだ。

 そして葵もそこまでは知らない。

 誠心もあえて話さなかった。

 誠心の深い思いやりを葵は受け止め、以降短尾のことを家で聞くのは、やめた。

 

 

 とっぷり日が暮れるまで昼寝をしてしまった葵と京共は家路を急いだ。

 京共と別れ、家の粗末な木の扉を開くとふんわりとした明かりが灯る室内で、誠心が熱心に何かを読んでいた。

 都合半日ほど仕事をさぼってしまったので、ばつの悪い面持ちで「ただいま」と声をかけたが誠心は手元の紙から目を離さずに「おかえり」とだけ言った。

 大層叱られるのではないかと思って構えていた葵は、拍子抜けしてしまった。

 まあ、叱られずにすむのであれば好都合とばかりに、夕食の支度のため、奥の間に向かった。

 誠心のそばを通り抜ける時にちらりと目を向けると、どうも読んでいるのは文のようだった。

 さほど分厚くもない文だったが、誠心はじっと書面を凝視して、何事か考えている。

 葵の見たこともないような、険しい顔つきだった。

 文の表書きが引き抜かれたまま置かれており、そこに穎悟という名が記されている。

 初めて見る名だなと思った。

 こんな辺境の田舎町に文を寄越すような知り合いが誠心にいただろうか?

 昔の仕事上の部下だという央東という者からは定期的に文が届いていたが、それ以外の貓から文が来たのは葵の覚えている限りでは、全くない。

 誠心は自分の昔のことをほとんど話さない。

 一緒に暮らしている自分はもちろん普段の誠心を知っていたが、かつてどんな道のりを歩んで来たのかまでは、知らない。

 葵が知っているのは犯罪者の兄がいて、その息子を連れて潘に流れ着いて、そのままそこで土地を耕してただ流れ行く日々を過ごしているということだけだ。

 十五年も一緒にいて不思議なことのようにも思うが、それも肉親ゆえのことかもしれない。

 自分たちに必要なのは過去ではなく、今と未来なのかもしれない。

 誠心の薄汚れた生成色の被毛が揺れて見えた。

 

 

 誠心に文が届いたころから、平穏といえば聞こえがいいが、退屈で何もない日々が、十日ほど過ぎた。

 葵は文のことなのすっかり忘れて、京共と都会に出る夢を諦めきれずに、日々を諾々と送っていた。

 その日も丁度仕事が一区切りしたので、村の外の丘で益体もない話をしていた。

「そういえば京共、この間来た旅の一座が言っていた皇都のお祭りってそろそろだよな」

「ああ、そうだな。確か迎夏の祭りだっけ」

「夏を迎える祭りか。確かにそろそろ暑くなってきたし。皇宮から季節の花が大量にばらまかれて、夜には火の花が天にあがるって言っていたよな」

「火の花ってどんなものだろうな?近隣の村からも皇都に大勢見物に詰め掛けるって」

「どんなものなのか、一度でいいから見てみたいな」

「祭りを見に行くくらい許してもらえるかな?」

「でも俺たちの足だと皇都まで片道二月はかかるって言っていたからな。まず今年の祭りに間に合わないし、都合四月も村を離れるのは、さすがに許してもらえないだろうな」

「収穫の季節に村にいないと流石にまずいか」

「まずいだろうなあ」

 二匹は顔を見合わせて同時にため息をついた。

 所詮自分たちは、手に入らないものの話ばかりして、時間を浪費しているのだ。

 ぼんやりとまた空を流れる雲に目をやる。

 そうこうしていると村の方から誰かが走ってくる足音が聞こえた。

 遠くから京共の名前を連呼している。

 見覚えのあるその者は、京共の隣に住んでいる者だ。

 二匹のすぐ近くまで近づいてくると肩で息をつきながら

「京共!お前の母ちゃんが暑気にあたったのか、倒れちまった!すぐ戻ってやれ!」

 と京共に向かって言った。

 京共は視線で葵に合図を送ると、勢いよく村へと走っていった。

 葵は一緒に向かった方がいいかと思ったが、京共の視線に来るな、の意を感じて留まった。

 弱っている身内を見られたくなかったのだろうか。

 帰りにでも顔を出して様子を伺おうかと、差し当たりまた視線を空に向けた。

 

 

 太陽が沈み出していた。

 辺りがオレンジ色に包まれて、今日もまた一日が終わる。

 葵は草の上に寝転んでいた体を起こして、大きく伸びをした。

 京共の家に寄って、そろそろ家に戻ろうと立ち上がった。太陽に背を向けて村の方に向き直ると、村の外れの方から誰かが来るのが見えた。

 京共か?

 そう思って目を凝らしたが、どうにも京共にしては、軀が大きすぎる。

 どんどん近づいて来るその者は、この村の誰よりも巨軀であり、見たことのない黒い艶のある被毛を纏った雄だった。

 堂々とした出で立ちでしっかりとした筋肉に包まれた軀に葵は圧倒された。

 顔のわかる距離まで近づいて来た雄は、意志の強そうな紅い瞳をちらりと葵に向けた。

 一体誰だ?

 村の者ではないのは一目瞭然だった。

 しかしこの雄は明らかに村から出て来たのだ。

 潘のような辺境の村に、用のあるような風貌には見えなかった。

 見入る葵を、小首を傾げたような仕草で見つめ返し雄は言った。

「どうした?私の顔に何かついているか?」

 低い声だったが、恫喝しているようには聞こえなかった。

「いえ、すみません。この辺りで見かけぬお方でしたので、つい」

 葵はぺこりと頭を下げた。

「村の者か?」

「そうです、仕事から戻るところでした」

 嘘だ。

 さぼっていただけだ。

「村には古い知り合いの顔を見に来ただけだ。他意はないので安心してくれ」

 こんな立派な貓が会いに来るような者がこの村にいるとは思えないが、葵は頷く。

「皇都から来られたのですか?」

「どうしてだ?」

「この辺りで見かけぬ立派な身なりをされておりますので」

 雄は首元に巻いてある赤い見たこともない綺麗な柄の布を少し引っ張りながら「そうか」と言った。

「皇都から仕事で近くまで来たので、ここに寄ったのだ」

「皇都はもうすぐ迎夏の祭りですよね」

「ああ、よく知っているな。そうだ迎夏の祭りだ」

 見ず知らずの相手に対して、どうでもいいことを話しかけている。

 葵にもそれくらいは理解できていたが、どうしても皇都の空気に身を包んだ目の前の雄と少しでも長く話して、その空気をかけらでも感じたいのだ。

 そんな葵の都会への憧れめいた気配を感じたのか雄も「この皇国の一年で一番の華やかな祭りだ」と続けた。

「百花繚乱の花々と、たくさんの花火が盛大に夜空を彩る。何度見ても飽きることなく、心が高揚する」

「花火ってなんなのですか?」

「火薬を調合して空で花が咲いているように爆発させるのだ」

「熱くはないのですか?」

「空のずっとずっと高いところで爆発するので、熱くはない」

「皇都にはそんなすごい技術もあるのですね」

「そうだな、皇都には大概の物が揃っているし、技術力も集中している。この国の繁栄を体現した都だ」

「そうですか」

「うむ」

「いつか」

「いつか?」

 意図せず葵の心から、するりと言葉がこぼれた。

「いつか俺も皇都で花火を見たい。知らないものを見たり聞いたりして、世界をこの軀に感じたい」

 雄が、ふっと笑ったような気がした。

「行けばいい」

 その言葉を聞いて葵は軀が弾けるかと思った。

「己の心が行けというなら、行くがいいのだ。全ての貓には自分の意志と運命に従って、身を委ねるよりない時がある。お前がそう思うのなら、そうなのだ。その時が来たと思うのなら、それはお前の意志と運命が誘っているのだ。お前の求める世界へと」

 背筋を何かが奔流のように駆け巡って、まるで自分の軀ではないかのようだった。

 初めて聞く、力強い肯定の言葉。

 知らずと求め続けたそれが、全く見ず知らずの者からもたらされるとは思ってもみなかった。

 放心する葵の姿にちらりと目を送り、雄は自分が一匹の年若い貓に、強い衝撃を与えたことを知らずに、肩を二度叩いた後、離れていった。

 去り際に葵の後ろ姿をもう一度振り返った雄は、ひどく驚いた。

 さっきまで話をしていた貓は、短尾だった。

 こんな寂れた田舎町に短尾がいるのは普通に考えておかしかった。

 葵はどう考えても年若い。

 話した感じも犯罪を犯すような様子は見受けられない。

 どういうことだ?

 ざわつく心を抑えるように胸を押さえながら葵から今度こそ離れる。

 何か腑に落ちなかった、この自分が何かに対して動揺している。

 混乱する頭をなだめつつ、穎悟えいごは部隊が駐屯している場所へ向かって歩を進めた。

 もうすっかり太陽は沈もうとしていた。

 

 

 見知らぬ雄の言葉にひどく心を揺さぶられた葵は、ようやくおぼつかない足取りで村へと戻ろうとした。

 言葉のあまりに強い力を受けたからか、京共の家に寄るのをすっかりと忘れて、自分の家に戻って来てしまっていた。

 明日、朝から様子を見に行こう。

 そう思って扉に手をかけた。

 部屋では誠心が椅子に座って何か考え事をしているようだった。

 すっかり日が暮れたというのに小さな灯が手元についているだけだった。

 葵は大きな灯に手を伸ばし、火を入れた。

 ぼんやりと明るくなった部屋の様子に誠心はようやく葵が戻って来たことに気づいた。

「遅かったな」

「村から見たことのない貓が出て来たから、何事かと思って少し立ち話をしていたのだ」

 何気なく返した返事に誠心は軀を波うたせるようにして立ち上がった。

 ひどく、驚いている。

 瞳が大きく丸く見開かれている。

 何かまずいことを言ってしまったのかと口を開こうとしていると、誠心は慌てた様子で葵のそばまでやって来た。

 あまりのことに口を開いたまま固まっていると、両肩をがっしりと掴まれた。

「黒い雄か?何を話した」

 琥珀色の瞳が覗き込んでくる。

 誠心の剣幕に「世間話をしただけ」とだけ答えた。

 そこには嘘はない。

 葵が見知らぬ雄と世間話を交わしたに過ぎないのは、事実なのだ。

 ただ葵がその言葉に何を感じたのかは別である。

「名を教えたか」

「いや。本当に他愛のない話をしただけ」

「どんなことを話した」

「皇都の迎夏の祭りのことを聞いただけ」

「他には」

「祭りの時にあがる花火のことを教えてもらって」

「それから」

「それだけ」

 本当はそのあとも話したが、そのことは伏せた。

 予想もしなかった誠心の反応に隠した方がいいような気がしたのだ。

「そうか」

 一言そう言って誠心は肩から手を下ろした。

 あからさまに、ほっとしたような様だった。

「食事の支度をするね」

 葵はなるべく平静を装って、いつも通り奥へ向かった。

『行けばいい』と言ったあの雄の言葉と、誠心の取り乱した態度が頭の中をぐるぐる回って葵を揺さぶっていた。

 平穏で退屈だったいつもの日々に、まるで石を投げ込まれたかのような一日だった。

 

 

 いつもより頼りない足取りの葵が寝室に引き上げてからも、誠心は小さな灯の前でじっと考え込んでいた。

 穎悟が葵と言葉を交わしていたことは、完全に失態だった。

 京共が村に戻っているのを見かけていたので、てっきり葵も家に戻ってきているのかと思い込んでいた。

 穎悟を呼んだのは村のはずれの廃屋だった。そこから出せば葵と顔をあわせることもないかと考えていた。

 まさか言葉まで交わしていたとは。

 ふと脳裏に『運命』という言葉が浮かんだが、慌ててかき消す。

 しかしその言葉のかけらは、しぶとく頭に片隅に刺さって、痕跡を残し続ける。

 だいたい今まで一度も連絡を寄越さなかった穎悟から文が届いたのはどうしてだ。生きていることだけは教えていたが、こんな辺境の潘にいることまでは知らなかったはずだ。

 何度か任務で南にある奏の街あたりに駐屯していると言っていたから、街へ出かけた時にでも見られたのか。

 十五年も平穏な日々が続いていたため、自分もそれに慢心していたか。

「私もいよいよ落ち目だな」と誠心はつぶやいた。

 しかし穎悟は自分が生きのびていることは知っているが、葵のことは知らぬはずだ。

 会いにきたのも、久しぶりに誠心の無事を確認しに来ただけだと言っていた。

 十五年前の事件に触れることもなく、ただただ誠心の近況を聞くだけで、皇都の話も特にしなかった。

 含むところのない、昔と同じまっすぐな性格のまま成長していたようだった。

 時折、少し暗い表情をして目を伏せているのが気になったが、誠心を重犯罪者として捕らえにきたとは到底思えなかった。

 そうしたいのであれば、駐屯させている軍隊で村に踏み込めばさっさと事は成る。

 だいたい文などわざわざ出しておれば、逃げられたとておかしくないのだ。

 いや、誠心も文の中に『一度お目通りしたい』という一文を見て、逃げた方がいいのかと逡巡した。

 しかし逃げたとて、どうしようもないのだ。

 自分も葵ももう、際まで逃げ切っている。

 これ以上逃げる場所などこの地上のどこにもない。

 別国へ逃げるにしても、自分たちは、いや誠心は罪が重すぎる。

 即刻引き渡されるのがおちだ。

 ならばと思い会うことを決意したが、話の中身は拍子抜けするものだった。

『少し出世しました』とは言っていたが、特にそれに意味を持たせることもしなかった。

 理解できぬことばかりだが、どうも自分で解決できるような内容でもない。

 まあ、昔のよしみでどうしているのか気になっただけだ。

 そう思い、誠心は考えることを一旦放棄した。

 

 

 葵は言葉がぐるぐる頭を回り続けていて、眠れずにいた。

 何度寝返りを打っても睡魔は全く訪れない。

『行けばいい』

『己の心が行けというなら、行くがいいのだ。全ての貓には自分の意志と運命に従って、身を委ねるよりない時がある。お前がそう思うのなら、そうなのだ。その時が来たと思うのなら、それはお前の意志と運命が誘っているのだ。お前の求める世界へと』

 一度聞いただけの言葉が、自分の軀に染み付いて離れない。

『いつか俺も皇都で花火を見たい。知らないものを見たり聞いたりして、世界をこの軀に感じたい』

 自分の口からこぼれ落ちた言葉にも驚いた。

 葵は潘の村が嫌いなわけではない。

 差別はされるが、全ての者が差別するわけじゃない。

 心優しい者も、ちゃんといる。

 だけど限られた囲いの中で、限られた者とだけ、限られたことをする日々が、嫌だった。

 差別され、嫌がらせされるかもしれないが、もっとたくさんの者と触れ合いたい。

 この村にない全てのものを見たい。

 聞いたことのない歌や詩を聞きたい。

 知らない街を訪れたい。

 濁流かもしれない激しい世界の流れの中で、自分の命と刻を使いたいのだ。

 この衝動の理由なんて知らない。

 どうしようもなく、心がざわめき沸き立つのだ。

 葵は、自分の心の中に小さく、しかし確かな輝きが灯るのを感じた。

「時がきたのかな」

 口に出していうと、それは真実味を帯びて、少し輝きを増した。

 

 

 野良仕事に出る時に、京共の家を覗いた。

 京共はひょっこりと顔を出し、「母ちゃん、もう起き上がれるようになった」と言って笑った。

 今日は一日付き添うからという京共に手を振って、葵は自分の畑に向かった。

 しばらく農作物の世話をしていると、誠心も後からやってきた。

 葵と並んで仕事をはじめた誠心の横顔を見ていると、胸の奥がちくりと痛んだ。

 村を出ることは、誠心と別れるということだ。

 叔父とはいえ、父同様に思って生きていた誠心を置いていく。

 命を救ってくれて、ここまで育ててくれた、誠心を。

 少し考えただけで鼻の奥がつんとした。

「手が止まっているぞ」

 ひっそり感傷に浸っていると誠心が言った。

「覚えているか?お前がまだ小さい頃に京共と川釣りに出かけて、調子に乗って川に落ちたこと」

「う、覚えている。大分流されて、あちこち石にぶつけて痛い思いしたから」

「村の者と助け出したが、危うく死ぬところだった」

「うう。そこは記憶がないよ」

「だいぶん前に死んだ、呆けた占い師の婆がいただろう?あいつが『この子には水難の相がある!』って言い出して大騒ぎになった」

「俺、水難の相があるの?」

「知らんが気をつけるには越したことないな」

 いつも通りの身内らしい他愛のない、話。

 ふと、葵は自分と誠心を動揺させた、あの見ず知らずの雄のことを聞いてみようかと思った。

 少なくとも誠心にとっては顔見知りなのは確かだ。

 教えてもらえないかもしれないが、怒られるようなことはないだろう。

「叔父さん、この間の黒い雄貓は知り合いなの」

 誠心はピクリと肩を揺らしたが、何もなかったように葵に顔を向けた。

「そうだ。昔、気にかけていた部下みたいなものだ」

「皇都から来たのだよね?」

「皇都からこの近くに仕事で訪れていたようだ。私のところには、昔のよしみで顔を出しただけだ」

「穎悟っていう名前の貓?」

 誠心は心底驚いたように目をみはった。

「どうしてそれを」

「ごめんなさい、文の表書きが目に入ってしまって」

 いつまでも子どもだ、子どもだと思っていたが、いつのまにか目端が利くようになったものだ。

 きらきらとした黄金色の瞳には申し訳なさなど微塵も含まれていない。

 その瞳を見ていると懐かしい顔が浮かんだ。遠い記憶が蘇って来そうになり、誠心は慌ててその記憶の箱に蓋をした。

「まあいい。そうだあの雄は穎悟という名だ」

「叔父さんにお客さんが来るなんて思ってもみなかったよ」

「当たり前だ。俺は刑を逃れた逃亡犯だ。訪ねて来る者などいない」

「うーん、それにしてもあの貓、よく叔父さんがここにいるってわかったね」

「奏に物を買いに行った時にでも見られたのかもしれない」

「十五年も音信不通の知り合いを見かけたからって訪ねて来るなんて、どうしたのだろうね」

「さあ、気まぐれに昔の知り合いに会いたくなったのではないか?まあ多少仕事では目をかけてやっていたからな」

「そういうものかな?」

「私にはあいつの目的はわからん」

 うーんと呻きながら、葵は薄紅色の鼻をひくひくと動かし「もしかしたら叔父さんにしか話せないことが本当はあったのかもしれないね」と言った。

 その言葉を聞いた誠心は、また葵をまじまじと見つめた。

 

 

 一月ほど過ぎて、夏もいよいよ盛りへと駆け上がった。

 葵の心に灯った小さな輝きは、時を経るごとにまるで太陽のように強い輝きを放つようになっていた。

 誠心や京共、村での思い出を捨てて行くのは忍びなかったが、外の世界への強い希求をそれらではもう抑えきれなくなっていた。

 軀中の血が沸き立ち、葵をその奔流へと誘うのだ。

 一度でいい、一度でいいから、身を任せたいのだ。

 己の運命と意志に。

「ついに、時が来たのだ」

 そう呟くと、葵は決意を固めた。

 今夜、村を出る。

 

 

 寝静まった夜更け、葵は枕元に誠心と京共にあてた文をそっと置いた。

 村を出る、何があったとしても自分の責任だ、迷惑はかけないという旨の文をしたためた。

 田舎育ちゆえ、大した持ち物もない。

 昔、誠心にねだって奏で買ってもらった首巻きだけを巻きつけた。

 鮮やかな青だった布地は長年の劣化によってくすんでいて、所々がほつれていた。

 あまり格好がよくはないかもしれないが、これだけは持って行こうと思っていた。

 月の明るい夜で、見通しは悪くない。

 誠心の寝顔だけでも覗いて行こうかと思ったが、決意が鈍りそうなのでやめた。

 そっと裏の扉を開けて、家を出る。

 音のない夜の村を、足音を立てないように静かに進む。

 村の端を越えいつも京共と仕事をさぼって、つまらない軽口を叩き合っていた丘まで来た時、最後にもう一度村を目に焼き付けるために、振り返えろうとした。その瞬間に、突如として後ろから肩をぽんと叩かれた。

 全くなんの足音もしなかったので、葵は心底驚いて飛び退いた。

 呆れた顔をしている誠心がそこには立っていた。

 失敗した。

 葵はみるみる軀から力が抜けていくのを感じた。

「どこへ行くつもりだ」

 それでも葵は最後に残った力を振り絞るように答えた。

「村を出たい」

「何度もだめだと言っただろう。貧乏な田舎者が都会に出て行ってどうする。それにお前は短尾だ。都会に行けば行くほど短尾に対する差別意識が強い。徒らに傷つくだけだ」

 これまで何度も聞いた、村を出てはいけない理由を誠心は繰り返した。

「わかっている、叔父さん俺もわかっている」

「わかっていたらもう戻れ」

 誠心の言葉が静かに響く。

 全ての力が抜けていき、膝が折れそうになった。

 それでも葵は心の奥にある輝きが失われないように、ぐっと大地を踏みしめた。

「俺の心が行けと言っている!自分の意志と運命に従って俺の心が求めるままに、俺の見たい、聞きたい、知りたい世界へと行きたい。短尾だって蔑まれるかもしれない。田舎者だから騙されるかもしれない。だけど、行かないと。行かないと何も始まらない。だから行きたい!」

 魂の叫びのような葵の言葉に、誠心は言葉を失った。

「俺に、それを決意させる。時が、来たのだと思う」

 そう言って葵は口をつぐんだ。

 誠心は立ち尽くしていた。

 それは葵の剣幕のせいでもあるが、むしろその口から発せられた言葉に驚いていたのだ。

『自らの意志と運命に従う』そして『その時が来た』と言った。

 それはかつて大事な者にかけてもらった言葉によく似ていた。

 時が、逆流したのかと思った。

「その時が来たと思ったなら、自らの意志と運命に従って、お前の望む道を突き進め。そこに待つものが希望か絶望かはわからなくとも、きっとそれはお前の生を彩る」と、その貓は言った。

 葵のような黄金色の瞳をきらきらと輝かせて、誠心を見つめながら。

 その言葉は誠心の胸にまるで水晶の剣のように突き刺さり、誠心を突き動かした。

 今でも正しかったのか間違っていたのかわからないが、誠心にも確かに訪れたのだ。

 自らの意志と運命に従うべき、時が。

「穎悟か?お前にそう言ったのは」

 言葉が伝播している、そう思った。

 葵は誠心がなぜ知っているのかというような、訝しげな顔をしながらも「うん」と答えた。

 額に手を当てて、誠心は天を仰いだ。

 巨大な月がそこにはあった。

「どうして?」知っているのかという箇所を省いて葵が言う。

「どうしても何も穎悟に同じような言葉を言ったのは私だ」

 年若く、貧しい身なりの痩せた黒い貓が瞼に浮かんだ。

 あいつのその時は、もう訪れたのだろうか?

「わかった」

 誠心はきっぱりと言った。

 葵が自らの意志と運命に従う時が来たと言うのなら、きっとそうなのだろう。

 あの瞬間、自分が自分以外の者に従う可能性があっただろうか?

 否、なかった。

 勝手に軀が動いたのだ。

 葵も同じなのだろう、こんな夜更けに全てを置き去りに村を出ようとした。

 その先にあるものが希望か絶望かはわからない、それでも行くというのであれば、行かせるべきだ。

 自分の子として、自分なりに可愛がって育ててきた。

 この子を取り巻く厄災から必死に遠ざけようとしてきた。

 だが葵自身が誠心に守られた安穏とした日々よりも、自らを高揚させる広く輝きに満ちた世界を求めているのだ。

 これ以上それを止めることは、もう自分自身の利己に過ぎない。

 葵は、目を見開いたまま立ち尽くしている。

「聞こえなかったか?わかったと言っている」

「え。え。本当に?いいの」

 肩に手を置いて「いいと言っている。いいから、せめて家でもうちょっと旅支度してから行け。お前本当に手ぶらじゃないか」と促した。

 まだ信じられないといった表情の葵が従う。

 そういえば。

 肩を置いている手の位置が昔より随分高くなったと思った。

 ああもう、子どもではなくなったのだな。

 切ないような誇らしいような不思議な気持ちだった。

 

 

 葵の出立は結局、二十日ほど遅れた。

 皇都勇壮を目指すつもりだという葵の言葉に頭を抱えた誠心は、とにかく誰か引受けてくれるものを探さねば心配すぎると言って、しばし逡巡した後、穎悟に文を出した。

 事情は話せないままなので、村で預かっていた年若い雄が、一年ほど皇都見物に出るというので滞在中預かってくれないかという内容にした。短尾ではあるがごく幼少の頃に身内の連座のためなので、素性に心配はない。自分が保証する、と付け加えた。

 葵にも口裏を合わせさせるために、含めておいた。

 そして一年後、そのまま皇都に留まりたいと思っても、必ず一度潘に戻りなさいと約束させた。

 また皇都に戻っても良いが、一年後の約束は絶対だ、と。

 葵は、神妙な顔をして、頷いた。

 皇都を出た頃は赤子の葵も、もう立派に大きくなった。

 葵の姿を見ても、葵だとわかるものは今の皇都には居ない。

 それでも心の片隅に不安を感じていた誠心だったが、表に出すことはしなかった。

 自分の手を離れてしまえば、守ってやることはできない。

 何か困難があった時は、葵自身が自分で道を切り開くよりないのだ。

 それでも期限をつけたのは、誠心なりの親心という名の保険だ。

 穎悟より了承の旨が印された文が戻り、出立の日が決まった。

 夏が終わりに向けて、最後のあがきをするかのように暑い日だった。

 誠心と京共でいつもの丘まで見送りに行った。

 黄金色の瞳に決意の色を滲ませた葵を見送る。

「調子乗って財布を落とすなよ」と言って笑う京共の目には涙が滲んでいる。

 誠心は、生まれて初めて心臓を握りつぶされるかのような、胸の痛みを感じていた。

 いつのまにか、本当に親子になっていた。

 引き止めたい気持ちがむくむくと湧き上がるが、ぐっと抑える。

 見送らねば、それが父の役目ではないか。

 誠心も決意して、言った。

「自らの意志と運命に従って、お前の望む道を突き進め。何があっても負けるな。行って来い、今がその時だ」

 その言葉を聞いて、葵は瞳を閉じて、一粒だけ涙を落とした。

 それを腕でぐっと拭って、今度は晴れやかな笑顔を見せた。

「叔父さん、京共、俺、行ってきます。一年後には元気な顔見せるから、楽しみにしてて!」

 くるりと背を向けると、もう振り返らなかった。

 やがて背中が小さくなり、すっかりと見えなくなるまで、誠心はずっと見送り続けた。

 

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