絶望の奏でる音は美しく晴れた空の青さにも似て

僕凸

絶望の奏でる音は美しく晴れた空の青さにも似て

 K博士は絶望を音楽に変える装置を開発した。より正確に言えば、その装置は絶望している被験者の脳波を計測し、ある特殊な変換を施してそれを音楽に変える。そうして出力された音楽は、実に美しく感動的なものだった。それはバッハからドビュッシーまでのいずれかの時代のクラシック音楽に似ていて、時には久石譲の音楽のように美しい中にも現代的な響きが織り交ぜられていた。被験者の絶望が深ければ深いほど音楽の純度は高まり、響きは豊かになった。

 装置は偶然の産物だった。K博士は最初、人間のポジティブな感情を可視化してモニターする装置を作るつもりだったのだが、装置の出力を映像、文字、音と色々変えてみても、またたくさんの被験者に対して実験を試みても、期待した結果は得られなかった。問題はポジティブな感情に対応する脳波だけを抽出できないことだった。出力はいつも雑然としたものになってしまい、被験者の感情をうまくそこから読み取ることができない。ある日博士はふとした思い付きで、装置が抽出するべき脳波の種類を、ポジティブな感情に対応するものからネガティブな感情に対応するものに切り替えてみた。そしてその日集まった被験者のうちで、あまりポジティブな感情を持っていなさそうな人に装置を取り付けて脳波を音に変えてみると、それまでになく綺麗な音楽が流れ出した。どういうわけか、それはネガティブという言葉を連想させることのないような美しい音楽だった。

 その後の詳しい解析により、次のことがわかった。多くの場合、人間の感情は単一のものではなく、色合いの異なる種々の感情が混ざり合ってできている。それゆえそこからポジティブな感情に対応する脳波だけを抽出することは難しい。どんなに希望に満ち溢れているように見える人でも、例えば何かのトラウマのようなひとかたまりのネガティブな感情が心の奥底に巣食っていて、なかなかそれをなくすことができない。一方で絶望している人というのは、文字通り希望をなくしていて、何一つポジティブなことを考えられない。ネガティブな感情にまったく支配されてしまっている。それゆえ装置は脳波を区別したり分類したりする必要もなく、単一の感情を音楽に置き換えるだけでよかった。要するに、人間は希望で満たされるのは難しいが、絶望で満たされるのは簡単なのだ。

 博士のチームは脳波の変換の精度を高め、また出力される音楽のバリエーションを増やすために、人工知能を用いて音楽に自動で音色を付ける機能を装置に追加した。これにより、被験者の絶望の程度や質に応じて、流れる音楽は時に水面を撫でるような優しい響きのピアノ曲になり、また時に大地を揺るがすような壮大な響きの管弦楽曲になった。いずれにせよ、絶望した人々の脳波が奏でる音楽は美しく、これまでに地上に現れたいかなる音楽をも凌駕すると思われる瞬間もあった。博士はこの成果を学会発表だけで終わらせてはもったいないと思い、私財を投じて小さなコンサートホールを作った。

 コンサートホールでは、一回の公演につき一人の被験者の脳波を音楽に変えたものをスピーカーから流した。精神病者についての実験はまだ試行段階であるため、被験者は健全な精神状態にあり、なおかつ絶望している人の中から選ばれた。不測の事態を避けるため、入力と出力はリアルタイムではなく、あらかじめ被験者の脳波を記録しておき、変換と調整を施したあとで、公演の時間になるとその音楽を聴衆たちが聴くという形式をとった。被験者も希望すれば聴衆の一人になることができ、その後の追跡調査は、多くの場合自分の絶望が生み出した音楽を聴くことは被験者の絶望をある程度緩和させる結果を生むことを示した。被験者以外の聴衆は一律千円を支払い、そうして集まった金額のうち一部は被験者に謝礼として支払われ、残りはコンサートホールの運営費または博士の研究費にあてられた。なお、被験者の脳波を音楽以外の形で可視化したもの、例えば映像なども同時に展示されたが、音楽ほどは来客者の興味を惹かなかった。

 コンサートホールは郊外の目立たない場所にあり、最初のうちこそ被験者として志願する人も聴衆も少なかったが、その美しい音楽の噂はあっという間に広まり、定員二百名のホールが連日埋まるようになった。被験者として志願する人の数も増え、博士はマネージャーを雇って公演の日数を週三日から週六日に拡大した。そのうち、博士はホールの運営をほとんどマネージャーと助手に任せるようになった。博士は助手に、すまないね、こんな研究外の仕事を押し付けて、と言ったが、助手は、とんでもありません、この公演自体博士の研究の重要な成果ですし、何よりこんな素晴らしい公演に携わることができるのは私の誇るところです、と応えた。

 博士は研究を次のステップに進めようと思った。それにはいくつかの方向性が考えられた。第一に、どのような種類の絶望がより美しく感動的な音楽を生み出すか。第二に、絶望の奏でる音楽は聴衆の心理にどのような影響を与えるか。第三に、絶望していない人の複雑な感情をうまく仕分けて音楽にすることができるかどうか。先の二点に関しては、現場で聴衆からのフィードバックを直接受けている助手たちに任せるのがいいだろう、と博士は思い、助手にコンサートホールでの調査をさらに詳しくするよう求めた。助手は嬉々として仕事に取り組んだ。

 博士は第三の問題を自身の課題とした。手がかりは、絶望の音楽に含まれるノイズだ。ノイズというか、つぎはぎになっていると言えばいいか、被験者によっては、例えばずっとモーツァルトのような調子で音楽が流れているのに、一小節だけベートーヴェンが交じる、というようなことがあった。これは絶望の中にかすかに存在する希望なのではないか、と博士たちは推測した。そうした断片を選り分けて再構成すれば、別の音楽ができあがるかもしれない。

 博士はそれまでに記録した膨大なサンプルと向き合い、音楽を切り貼りしていった。しかし、そうしたノイズの割合自体が少なく、またあまりに前後との繋がりがない上に、異なる被験者間で比較してもそれらのノイズの間に目立った共通点は見出だせなかった。それゆえ分析は困難を極めた。

 ある日の午後、博士は少し休憩すると言って研究室を出て、研究所の庭を散歩した。研究室から廊下を渡り、建物の裏手に出る。そこには木々がまばらに植えられていて、葉の間で日の光がちらちらと揺れている。博士はいつものように木々の間を通り、前庭に出た。この時間、研究所に人の出入りはない。博士はベンチに座って、しばらく研究のことを考えていたが、頭を休めるために思考をシャットアウトしようと試みた。しかしうまくいかなかった。ため息をついてふと空を見上げると、秋晴れの空がどこまでも高く続いていた。気持ちがそこに吸い込まれて、研究がうまくいかないことなんてどうでもよくなってしまいそうだった。どれだけの人が、今こうして何もしないで空を見上げているのだろう、と博士は思った。青い空、何もかもを吸い込んでしまいそうな、いや、われわれは皆そこから降りてきたのだ、宇宙に生まれたかすかな塵のようなわれわれは、無際限の広がりをもつ宇宙のほんの片隅の、この小さな星にたまたま住み着いている、空の青にわれわれが感じるのは郷愁だ…。そんなとりとめもない思いが博士の頭をよぎり、そして博士はついにひらめいた。

 ブルースだ。これまでの被験者の絶望は、古典的な音階に当てはめることができたが、それはたまたまで、より一般の感情に対してはもっと違う音階が適しているかもしれない。例えばブルースやジャズのようなアメリカの黒人音楽では、ブルーノートスケールと呼ばれる、長調に短調を重ねた独特の響きを持つ音階がしばしば使われる。そこにはピアノの鍵盤では測れない微妙な音程のずれがある。そのような音程のずれを許容して、もう一度サンプルを聴き直してみよう。博士はうなずいて、もう一度空を見上げた。空はどこまでも青々として、果てしなかった。

 これまでノイズゆえの音程のずれだと思って初めから補正してあったものを素の状態に戻して聴くと、そこには確かにブルースのような節回しがあり、自然なメロディーを聴き取ることができた。英語ではブルーが悲しみを表す色であることからもわかるように、ブルースは哀愁の音楽だ。そのような音楽が絶望の中に存在するかすかな希望と対応するのはいささか奇妙だが、それならばそもそも絶望が美しいクラシック音楽になることの方が奇妙だ。おそらく脳波から音に変換する段階で、何らかの相転移のようなことが起きて情報の性質が変わっているのだろう。博士はそう考えた。

 やがて研究が進み、感情をいくつかに分けて脳波を音にすることができるようになってきたとき、博士は頭を抱えた。喜びや幸福感といったポジティブな感情を音にしてみると、それはブーレーズもシュトックハウゼンも真っ青になるような暴力的な音の塊になり、とても聴くにえるものではなかった。考えられる限りのあらゆる変換を施したが、どうしても音楽と呼べるようなものにはならなかった。

 博士はまた前庭のベンチに座って空を見上げた。その日は曇りで、空の青は薄い雲の間からわずかに透けて見えるだけだった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。私の目的は人間のポジティブな感情を可視化してモニターすることだった。しかしやっとポジティブな感情を音にできたと思ったら、それは前衛音楽とも呼べないような何かになってしまった。「幸福は一種類しかないが、不幸は人それぞれに千差万別だ」とどこかの小説に書いてあった。しかし私はこう思う。絶望は一種類しかないが、希望は人それぞれに千差万別だ。絶望とは、希望がないゼロの状態、それだけのことだ。それゆえ、絶望を音楽にすることは易しいが、希望はそう簡単には音楽にできない。博士は雲の向こうにある空の青さを、さらにその向こうにある宇宙の真空を思い浮かべた。希望がないゼロの状態と宇宙の真空とは博士の頭の中でぴったりと重なった。絶望こそが、われわれの帰るべき宇宙なのかもしれない。

 今日もホールでは、絶望の奏でる音楽が響いている。



注)文中に登場した「幸福は一種類しかないが、不幸は人それぞれに千差万別だ」という引用は、村上春樹『海辺のカフカ』による。その後には「トルストイが指摘しているとおりにね」と続く。なお、トルストイ『アンナ・カレーニナ』の冒頭に「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という文がある。

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