さかさま世界の俺の恋は

楠木遼

第1話

さかさま世界の雨は空に降る。



水滴が地面からぷくり、と顔を出すところから始まって、ドームのような格好をしている粒は成長しながらだんだん球の形状を帯びて、限界まで膨らむと、浮く。 土から水が集まって天に昇っていくというより、水滴が地面という層をすり抜けていくイメージに近い。


無数の水滴が空に降る。元の世界と違って、雨雲があるわけではないので、太陽が出たまま雨は降る。だから、雨が降っていればどこかで虹がかかっている。


「春ぅ。こっちに来ないとぬれるぞ」


爽太はそう言いながら手を振った。俺は頷いて腰を上げる。


「やっぱさ」


「ん?」


「こういう、公園の屋根ある座れるところって、滅茶苦茶安定感あるよな」


わかるなあ、と言いながら爽太は笑った。爽太の笑顔は女子を殺す笑顔。クラスでそうはやされている。元の世界でも、さかさま世界でも。


さかさま世界は俺だけが知っている不思議な世界だ。元の世界の写し絵のようにそっくりだが、さかさま世界は元の世界と比べて全てのものが「何か」さかさまなのだ。


並行世界のようなもので、元の世界とさかさま世界は夜の十二時で切り替わる。元の世界の一日が終わるとさかさま世界の一日が始まる、といった具合だ。


さかさま世界で起きたことを元の世界でも覚えていられるのは俺だけらしい。元の世界の奴らにそれとなく聞いても、さかさま世界なんて想像もつかないようだ。


さかさまになるものは個体差があって、隣の鈴木はいつも靴下を裏返しに履いてくるし、後ろの田中はレンズが後頭部の方に来るようにメガネをかけてくる。爽太の場合、八重歯の位置が右から左になっている。


そういう俺はなにがさかさまかというと、


「春ぅ」


「どした」


「正直さあ」


「うん」


「俺の隣の席の村上さん……でかくね?ふとすると視線が吸いつけられてるんだけど」


元の世界ではAAなんだよ、という言葉を呑み込みつつ、だなあ、と相槌を打つ。


「間違いなくDはあるよな」


「男子が思ってる胸のサイズの二コ上くらいが実際のサイズらしいぜ」


「マジか⁉︎」


「マジだ」


「つーことは」爽太は間抜けな声で言った。「ランデブーだな」


少し沈黙が流れ、プツプツ、という雨が浮く時の音が冴える。


「なんでそんな詳しいんだよ」


爽太が少しこちらをにらみながら言った。


「……姉貴いるからなあ」


「そっかあ」


爽太はこれは納得、といった様子で声を出す。


「春ぅ」


「どした」


「お前、なんか悩んでるな」


プスリ、と限りなく細い針が胸に刺さったようだった。爽太の声の形は今もくっきりと残って、プツプツに流されなくて、ゆっくりゆっくり反響している。


「あー……」


爽太が俺のの目を見ている。俺はその時、自分自身の幹のようなものを見つめられているような気がした。


「俺たち親友じゃんか」


「まあな」


「家は隣でずうっと一緒に過ごしてきたわけじゃんか」


「そうだな」


「俺に、話せないのか?」


お前だから話せないんだよ。俺はその言葉を胸の奥へ奥へと押しやる。

もう一度だけ爽太の目を見る。綺麗な二重だと思う。


「じゃ、聞くけどさ」俺は言った。「爽太は、村上さん、好きなの?」


俺の言葉に爽太は一瞬ポカンとして、そして吹き出した。


「あー春。お前そんなこと気にしてたわけ?ハハハ、春が、なるほどね。なに、村上さんのどこがいいのさ」


「別に村上さんが好きって言ってないだろ」


「いや、俺が村上さんに気があると思って、やばいって感じたんだろ?そんなのめっちゃ好きじゃん」


「だからそんなんじゃないっつの」


「まあ安心しろよ少年。俺、村上さん全然好みじゃないし」


「胸も?」


「いや、胸はタイプだけどな」


「最低かお前は」俺は少し笑いながら言う。「じゃ、なに。お前はどんな人がタイプなわけ」


「あー。だってそもそも村上さんロングじゃん」


「え、長い髪ダメなのか?」


「いやダメなわけじゃないけどさあ。どちらかというとショートカットが好きっていうかさ」


「ショートカットかあ……セミロングはどうなんだ?」


「松竹梅で言ったら」


「うん」


「竹かな」


「だろうな」


「それにさ、村上さん、ちょっとギャグ通じないとこあるじゃん」


「あるな」


「なんかさ、例えば好きになったらさ、付き合うわけじゃん?でさ、デートするわけだろ。その時に結構笑わせようと頑張ってるのにさ、笑ってくれなかったらきつくね?」


たしかにな、俺は頷き、続けた。


「じゃあさ。なに、爽太は人を好きになるのに胸の大きさとかを考慮しないの?」


「普通そうだろ。お前だけだよそんなに胸が大好きなの」


「そういうわけじゃなくてだな……俺はただ知りたいんだよ」


「何を」


「爽太の好きなタイプ」


その言葉が喉から抜けた後、全身に鳥肌がたった。湖の上の薄氷に一歩踏み出したような気分だった。


言葉の余韻だけがじっくり響いて、世界から音が消えてしまったようで。


きらめく雨が妙に目に付いた。


あーあ、やっちゃったかもしれない。


俺はどこか他人事のようにそう思った。


「お、お、お前」


爽太がわなわな震えている。そして、自分の腕で自分の胸を抱きしめて、「もしかして、幼馴染の俺に禁断の恋⁉︎きゃー胸大好き男にもまれちゃーう」と馬鹿に大きな声で叫ぶ。


俺はその様子に少しだけ唇を噛んで、「ふっふっふーそのとおーり」と言いながら爽太に抱きついた。


はなれろぉ、変態。爽太がげらげら笑いながら暴れる。

はなさないよ、一生。俺も笑いながら爽太とじゃれる。


きっと、この世界で俺の想いが伝わることなんてずっとないんだろうな。


俺は爽太の感触を確かめながらそう思う。爽太は俺の幼馴染で、親友で、俺の好きな人。


そして俺は男なんだ。


気づけば雨が止んでいた。水滴に陽があたってきらめいていた世界はもとどおりになって、遠くにかかっていた虹も消えていた。


地面はこれでもないくらいにぬかるんでいて、濃い雨の匂いだけが残っていた。


「雨止んだなあ」


爽太はくしゃくしゃになった髪を手櫛でとかしながら言った。


「そうだな」


「帰るかあ」


「うん」


俺と爽太はくだらない話をしながら帰った。

あいつとそいつが付き合ってる、とか。

化学の岡田ズラらしい、とか。

期末テストで何個赤点をとったか、とか。


俺はそうでもないことでも大げさに笑った。


「春ぅ」


「あー?」


「なんか滅茶苦茶笑うじゃん、どうしたのさ」


「まあ」俺は言う。「そんな日もあんだろ」



家を帰ってすることなんて、さかさま世界も元の世界も変わらない。ゴロゴロして、漫画読んで、飯食って風呂入って、スマホを触るくらいだ。


時計を見る。このデジタル時計は表記が上下さかさまになっているのでずいぶん見にくい。


俺は布団を被った。今は十一時十二分。日をまたぐ前に寝なければ。


さかさま世界から元の世界にスイッチする感覚はいつになっても慣れない。意識が覚醒している間にあれを味わうのは嫌だ。


羊を数えて頭を空っぽにしていく。バイバイ、さかさま世界の俺。


しばらくして俺は寝息を立てていた。


△▼



▲▽



△▼



「春ぅ」


眠気も覚めない七時半の通学路。爽太はいつもと同じ調子でに声をかける。


「ってどうした、その髪。ずっと長かったじゃん」


「昨日切ったの」


「いやそりゃそうだろうけどさ……どうして?」


爽太は怪訝な表情で尋ねる。


「おととい、いい話を聞いてね。長い髪よりショートカットがいいっていうから。まあ長いのうざったかったし、美容室でばっさり切ったのよ」


「いや、でもほら、ロングからショートって……。ふつうセミロングとか挟むだろ」


「だって竹なんでしょ」


「は?」


「なんでもない……って、そんなことはどうでもいいの。どう、爽太。似合う?」


「なにが」


「この髪型に決まってるでしょ」


そう言って、爽太の瞳を覗く。背丈は私の方が十センチほど低いから、上目づかいをするかたちになる。すると爽太ははぐらかすように、「いやー……」と言って、私から目をそらす。


「いや、なんつーか。昨日までロングだったし、春がショートカットなの違和感があるっていうか……」


「男らしくないわね、こういう時はとりあえず褒めとけばいいのよ」


そう言って私は爽太の横腹をつつく。


「あーまー」爽太はそっぽを向きながら、「結構似合ってる」と言った。


爽太の顔はのぼせ上がったように紅潮していて、それを見て私はにっ、と笑う。


さかさま世界の俺の恋はまるで叶いそうになかったけれど。


こっちの私の恋は絶対に。


「もうちょい褒めなさいよ」


控えめな胸を張って、春は笑った。

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