妖精のいた夏

@natsuki

妖精のいた夏

Inspired With The Dandelion Girl(日本題 たんぽぽ娘) By Robert・F・Young






 三年ほど前から夏の休暇はニセコで過ごすことにしている。

アイヌ語で絶壁にある山を意味すると言われるアンヌプリの山麓に広がる別荘地を買い、知り合いの建築家に私が描いていた通りの家を建ててもらい、至極満足し、今直ぐにでもここに棲家を移したいのだが、仕事の関係でそうもいかない。


 何しろこの辺りはアイヌの人たちにとっては「神々の遊ぶ庭」なのだ。

私もできることなら、ここで暖炉の温もりと、豊穣な赤ワインと、愛読書に埋もれた贅沢な生活をしてみたいと思う。


 渋谷に籍を置く社員40名程を抱える広告代理店の一応代表取締役という肩書きにもそろそろおさらばし、セカンド・ライフを考える年齢なのだと最近つくづく思う。


 今年の9月で48だ。紆余曲折はあったが、人生も三分の二を過ぎた。

美しい妻と二人の子供にも恵まれ、広告の世界でも一応名も知られ、仕事も順調だ。

 できるならそろそろ長男に会社を継いでもらって、妻と2人この地で悠悠自適な生活をなどと不遜なこと考える毎日だ。


 その日は、後から合流するはずだった妻も長男もそれぞれの事情で来られず、私は暇を持て余していた。

 ふと五色温泉でも行ってみようかなどと暇にかまけて思い立った。


 空は抜けるように青く、盛夏を向かえたニセコを咽るほどの新緑の匂いが満たし、細いけれど綺麗に舗装された道路の路肩には紫や黄色の花を纏った高山植物が咲き乱れて、短い夏を謳歌していた。


 一瞬私は何が起こったのか分からなかった。車の前を何かが横切り咄嗟に、急ブレーキを踏んだ。

「危ないじゃないか!」

私の声に驚いたようにその子は振向いた。

「ごめんなさい、ほんとにごめんなさい」

振向いたその女性を見て、私ははっとした。これは、デジャブェなのか……眼の前にいるその若い女性と前にも会ったような気がしたからだ。

彼女はこの場に全く似合わない服装をしていた。どういったら良いのか、身体に張り付いたような腕と脚を覆う水着のような質感の洋服なのだ。それも、材質は恐らく現代でも最新の素材でできているであろうことは、その銀色に光る表面の模様から容易に想像ができた。仕事柄、そういったことには詳しいほうなのだ。


 車を降り、路肩に金縛りにあったように佇んでいるその女性に向かった。

「大丈夫だったかい……」

「ええ、ほんとにごめんなさい……ここが、私の世界じゃないってことは分かってるはずなのにね。なんだか、こんなにも素敵な場所にいると頭がぼーっとしてしまって……」

言いながらフラフラと倒れそうになった彼女を私は抱きかかえた。

「ここにお座り、なんなら車で休むといい」

「ごめんなさい、まだあの機械になれていないみたい」

彼女は私に抱かれながら弱々しい笑みを浮かべた。

私は、彼女のこの場と不釣合いな印象が拭えず、思わず訊いていた。

「いったい、君はどこからきたんだい。いや、何できたの、車はどこかにあるの?」

彼女は不思議そうな顔をして私の瞳を覗く。

栗毛色の髪が風になびいた。可憐な笑顔を向けながら彼女はこう言った。

「今は、西暦何年ですか……ええと月日も分かればいいんだけれど……」

沈黙が訪れた。

この20にも満たない女性は私をからかっているのか?その理知的な黒く大きな瞳は真っ赤な偽りを秘めているのか……?


「西暦ってどういうことだい?記憶喪失にでもなったっていうのかい?」

「いえ、そうじゃなくて私がクロノスに乗り込んだ日にちは2306年7月7日だから……」

私は自分の頭が混乱しているのか、この眼の前の女性は自分は2306年から来たと言ったのだ……!?


 こんな可愛い女性が誇大妄想癖でもあるのか、無邪気に眼の前にある草花を一心振らんに見つめているこの女性が哀れに思えた。

「今日は2006年、7月7日だよお嬢さん」

「……ってことは300年前に来ちゃったってこと、あの機械けっこう誤差あったりするんだ。積んでるコンピュータが古いからかなあ」

「ひよっとして君が乗ってきたそのクロノスとかいう機械はその、なんだ、時間旅行とかできたりするのかい?」

私はこんな馬鹿々しい質問で受け応えしている自分に苦笑していた。

「ええ、父が発明したの……私は、こんなにも綺麗な地球の自然の姿を病弱な父に話してあげるの、私たちの世界は変わってしまったわ……何もかもが人工物で、もう森も、そこに生きていた動物たちも消えてしまった。四季さえもコントロールされて……だから時々時間を遡って自然の空気を胸いっぱいに吸い込んで、その気分を父にも分けてあげるのよ」

 どう考えてもおかしな会話だ。私はここに彼女と2人っきりなことを確かめて安堵の溜息を漏らした。

誰かに聞かれでもしたら私まで疑われてしまいそうだ。

 しかし、彼女の言葉や言動に嘘があるようには思えない。それが私を更に混乱させた。

話してみると彼女の論理だった会話は、とても誇大妄想の夢物語には思えなかったし、

私は彼女の博識に驚きさえした。

 そのクロノスとかいう機械の話は、私には何が何だかチンプンカンプンだった。


分かったことは彼女の父親は高名な物理学者で、数人の協力者の元でクロノスを造ったということ。

 その技術はすでに国家の配下にあり、科学技術省、時間管理局が総てを管理していること、しかし、秘密裏に初期の実験機が国家の管理から逃れ、協力者の元にあること。その実験機クロノス初号機に乗って今ここにいること。話の辻褄に破綻がないか、私はとにかく疑ってみたのだが、話せば話すほど彼女に引き込まれていった。

「明日もここで会えるかしら……」

唐突に彼女が言った。

「もちろん、会えるとも」

「これは、違法なことだってことは分かってるの、つまり管理局の承諾も得ずに時間を遡るって行為のことね、国は無闇な過去の改変が未来に及ぼす影響を極度に恐れているけれど、私のしていることはいわば確信犯よね、でも、父の理論では過去と未来の連続する事象は一つの道なのよ。多元体ではなくて連続する一本の道なの。未来からこようと、そこで私が何をしようと過去を変えること、未来に影響を及ぼすことなど絶対にないの、父の理論を私も信じているわ」


 夕暮れの中に彼女は唐突に消えた。名前すら訊いていなかったことを思い出した。



 =まだ、行けそうもないわ、ごめんなさい=

=いや、それなりに楽しんでいるよ。それより、私が早くこっちに来すぎたみたいでね、君にも迷惑かけてしまうし、社員たちにも気が引けるよ=

=真二は来てるの?=

=真二も大学院の準備に忙しいらしい。教授にも狭き門だからとはっぱをかけられてるらしいしねえ=

=麻美のことは心配しないで、一人暮らしを十分謳歌してるらしいから=

=うん、麻美は君に似てしっかりしてるからねえ……= 

=何か変わったことでもあった……?=

一瞬言葉に詰まった。あの女性との出会いをどう話せばいいのだ。

=いや、神々の懐に抱かれて、自然を満喫しているよ。今日はゴルフでもするさ、近所のペンションのオーナーに誘われてるし……=

=そう? 仕事の切りがついたら、なるべく早くそちらに向かうから、よろしくね=

=ああ、待ってるよ……=

受話器の向こうの妻の何か不安げな声色が気になったが、私は電話を切った。


 私は妻を愛している……20年前、大手代理店から独立し、数人で立ち上げた広告代理店の社員募集の面接に最初に現れたのが彼女だった。

 しかし、私は妻と話している時もあの女性のことが頭から離れなかった。

 

 長女と同じような年齢の女性に恋をしてしまったというのか……。

銀婚式が迫っているというのに……まるでゴールズワジーの「林檎の木」のように私は自分の心の戸惑いを隠せないでいる。

 ……男の生活などというものは、どれほど高尚こうしょうで堅実であろうとも、その下には、常に貪欲どんよくと渇望とむなしさがながれているのだ・・・

小説の一節が私の頭に浮かんでは消えた。


 毎日、毎日同じ時間同じ場所で私は彼女と会った。

会うたびに私は彼女にどんどん惹かれてゆく自分を感じていた。

 可憐な花のような彼女。聡明で、汚れのない彼女……父親の看病のために19の今まで恋すらしたこともなく、健気に研究に没頭する父親の傍でつつましく暮らす彼女。


 高原の花々に囲まれて彼女は泣いていた。

「どうしたの……何かあったの?」

「父が、父が今朝、息を引き取ったの……」

「お気のどくに……心からお悔やみを……」

私の言葉を遮り、彼女は私に抱きついた。

「一人ぼっちになってしまったわ……クロノスはとってもデリケートなマシンなのよ。壊れてしまったら私には直せないし、もうここにもこれないかも知れない」

私は、どう言ったらいいのか……言葉はとうとう出てはこなかった。

「アイシテル……サヨウナラ……」

私は抱きしめた。耳元で囁いた彼女の言葉を噛み締めていた。

いったい私に何ができる……彼女は、7月の眩い光の中にとけていった。

 陽炎のように儚く……。


 その後毎年私はここを訪れ彼女と会ったあの場所で日がな1日を過ごす。

私の心は彼女が行ってしまったあの日から満たされぬまま日々を過ごしている。

 妻はそんな私を不安げに見つめるだけだ。


 とうとう私は意を決して妻に言った。

「真二も取りあえず私の会社に入ってくれるというし、麻美も就職が決まったことだしそろそろこのマンションを引き払ってニセコに棲家を移そうと思うのだが、君の意見は」

「……何も問題はないわね、問題が起こってもその都度会社とニセコを結んでネット会議で検討すれば済むし……」

「そうだね、私がいない方が若い人たちも伸び伸びやれると思うし……」

「広告業界のカリスマですものね、あなた」

「へえ、そうとは知らなかったよ」

穏やかに笑いあった。何か言いたそうな妻の顔があった。私の心の変化に気付いているのだが、妻はそのことに触れようとしない。

 私は妻を愛している。今もこれからも……しかし、私の心を占領しているのは紛れもなくニセコで出逢った、あの彼女なのだ。


 ニセコの厳しく長い冬も終わりに近付いていた。春の足音がゆっくりと吐息とともに訪れようとしていた。

 引越ししてから忙しさにかまけて荷物の整理すらままならなかった。

クローゼットの奥にしまい込まれたダンボールに入ったままの荷物を開け、妻に渡す。

相変わらず有能な秘書がそうであるようにテキパキと荷物を片付けてゆく。


 一番奥に仕舞い込まれた洋服……不釣合いなそれ、まるで水着のようなそれ!? 私は驚きに全身が震えるのが分かった。

 妻の視線と絡んだ。

一心に見つめる妻の瞳から一筋の涙が光った。

忘れようがないではないか、あの日から恋焦がれていた彼女が身につけていたもの。間違いようのないもの……。

 妻は知っていたのだ。何もかも……私が汚れのない少女のような妻に出逢い、恋することを……。

 あなた、あなた……私にはどうすることもできなかったのよ。人は老いてゆくものよ、いつまでもあの頃の私ではいられないの。打ち明けることなんてできなかった。


 もう一度妻を見つめた。

 何故だ!? どうして今まで気付かなかったのか……。

紛れもない、あの日面接にきた妻はあのニセコで出逢った彼女そのものだった。


 近付きゆっくりと妻の手をとった。

妻の瞳の奥にあの日の彼女の可憐な微笑が宿っていた。


ベランダから雪解けの神々の遊ぶ庭が見えた。

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